もり ながよし

森長可

1558.?〜 1584.5.18

 
森長可の面白いイラスト
  

森長可は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将です。若い頃から織田信長に仕え、初陣から常識はずれの無茶苦茶さで猛将ぶりを発揮します。武蔵坊弁慶にあやかって『鬼武蔵』と恐れられ、破天荒な逸話も有名です。小牧・長久手の戦いで顔面に銃弾を受けて戦死しました。信長の寵童・森蘭丸の兄。享年27。

森長可は何をした人?このページは、森長可のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと森長可が好きになる「森蘭丸のお兄ちゃんは鬼武蔵と呼ばれるやばい人だった」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:森長可
  • あだ名:鬼武蔵、夜叉武蔵
  • 出身地:尾張国(愛知県)
  • 居 城:金山城 → 海津城 → 金山城
  • 正 室:せん(池田恒興の娘)
  • 子ども:1男 1女
  • 跡継ぎ:森忠政
  • 父と母:森可成 / えい
  • 大 名:織田信長

森蘭丸のお兄ちゃんは鬼武蔵と呼ばれるやばい人だった

とっても危険な無法者・森長可は『(おに)武蔵』と(おそ)れられた豪傑ごうけつで、敵も味方もおかまいなしに大暴れする困った男でした。

この暴れん(ぼう)には容姿端麗(ようしたんれい)聡明(そうめい)な森蘭丸という弟がおり、蘭丸は織田信長に愛された小姓(こしょう)として有名です。

森蘭丸は細やかな気づかいができる少年でしたが、兄の森長可ときたら気づかいどころかなんでも暴力で片付けてしまう傍若無人(ぼうじゃくぶじん)のはみだしものでした。


織田信忠を
ドン引きさせる

本能寺の変が起こる少し前。織田軍が武田勝頼を()めた甲州征伐(こうしゅうせいばつ)で、森長可は武名を高めます。

甲州征伐(こうしゅうせいばつ)で総大将をつとめたのは信長の嫡男ちゃくなん・織田信忠で、森長可はその指揮下で武田()めの先陣(せんじん)を任されました。

信濃しなの()め入った森長可は、つぎつぎと武田領を進撃(しんげき)しますが、あまりのハイペースだったため、総大将・信忠の隊を置いてけぼりにしてしまいます。

この様子を知った信長から「スピードを落とせ」の命令を受けますが、これを無視。

ガンガン()め進み、ついに武田氏の本拠地(ほんきょち)である甲斐かいとの国境付近にある高遠城に到達(とうたつ)します。

すると、仰天(ぎょうてん)()め方で高遠城に(おそ)いかかりました。

高遠城の三の丸に乗り()むと、屋根の板をひっぺがし、城兵の頭上から鉄砲(てっぽう)銃弾(じゅうだん)を浴びせかけたのです。

三の丸の城兵を殲滅せんめつした森長可は、やり()り回して片っ(ぱし)から敵兵を()(たお)しました。

ようやく追いついた織田信忠が城内の惨状(さんじょう)に目を丸くしたのもつかのま。(こし)から下が血まみれの森長可を見てギョッとします。

この異常な様子に信忠が「…いったい、どうしたのだ……?」と(たず)ねると、森長可は何事もなかったように「あー、返り血ですよw」と笑顔で無事をアピール。

これには信忠もドン引き。

信長の命令を無視した森長可でしたが、なぜか(ばっ)せられることはなく、軽く注意されただけで済みました。


ムカつく奴を
シバいてまわる

武田()めの功績で、森長可は北信濃しなのをもらいますが、本能寺で信長が死亡してしまい、赴任(ふにん)して早々に情勢が一変します。

森長可も信濃(しなの)国人たちに命をねらわれ、なんとか旧領の美濃(みの)・金山城に戻りました。やっとの思いで帰ってきたというのに、元家臣たちが挨拶(あいさつ)に現れない。

これに腹を立てた森長可は、元家臣たちをシバいてまわります。

ひと月のうちに今城、下麻生城、野原城、御嵩城みたけじょうを落とすと、元家臣たちは森長可にびてきました。

わだかまりが残る久々利頼興を正月のパーティに呼び出してぶっ殺すと、森長可のもとには顔をボコボコに()らした家臣たちが勢揃せいぞろい。

気がつけば、わずか11か月で東美濃みのを制圧していました。

信長の死後に勃発ぼっぱつした織田家の争乱に、森長可は東美濃みの()さえるキーパーソンとして参戦しますが、徳川家康に敗れて戦死。激しすぎる生涯(しょうがい)を終えています。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1558年、森長可は尾張国おわりのくにに森可成の次男として生まれます。父と兄が続けて戦死したため、13歳で森家を()ぎます。織田信長の長男・信忠の指揮下で戦線にデビューすると、初陣ういじんから規格外の強さで長島一向一揆(いっき)や武田勝頼との戦いで活躍(かつやく)しました。

本能寺の変で状況が一変

甲州征伐(こうしゅうせいばつ)で武田氏を(ほろ)ぼす働きをした功績で信濃国しなののくに・川中島を(あた)えられ、越後国えちごのくにの上杉景勝を()めますが、本能寺の変で信長が死亡し、状況(じょうきょう)が一変します。信濃国しなののくにで起こった反乱をかいくぐって美濃国みののくに(もど)ると、反抗(はんこう)勢力を()り従えて東美濃みのを制圧しました。

最後と死因

信長の死後、織田家中で台頭した豊臣秀吉に味方して、織田信雄と徳川家康の連合軍との戦いに義父・池田恒興と共に参戦します。白装束を着て決死の覚悟(かくご)で向かった長久手での戦闘(せんとう)で、森長可は眉間みけん銃弾(じゅうだん)をうけて即死(そくし)しました。1584年5月18日、死因は討死。27歳でした。森家の小姓(こしょう)によって、首は金山城に持ち帰られました。

領地と居城

森長可の領地・勢力図(1580年)

美濃国みののくに・金山10万石が森長可の領地でした。一時期は、甲州征伐(こうしゅうせいばつ)の恩賞として信濃国しなののくに・川中島4郡と海津城20万石も領有していました。

森長可の性格と人物像

森長可は「できれば関わりたくない人」です。

非常識、無茶苦茶、無頼漢ぶらいかん、どの表現をもってしても言い表せないアウトローです。気性が(あら)く、気に入らなければ相手が(だれ)であれやり()()してしまいます。

負傷した家臣を毎日見舞(みま)ったり、一番下の弟を思いやる優しい一面ものぞかせていますが、だまされてはいけません。

魔王(まおう)(おそ)れられた織田信長も長可のこととなると寛大(かんだい)になる不思議。度重なる刃傷沙汰にんじょうざたや軍規違反(いはん)(ばっ)せずスルーしています。

乱暴者ですが書を好み、字も上手でした。戦場にも筆と墨壺すみつぼをあわせた矢立やたてを用意し、自筆で報告書を書いています。

討死する直前に遺書を書き残しています。末弟・忠政は武士にしたくない、(むすめ)を商人など武家以外に(とつ)がせてほしいなど、長生きしてもらいたい願いがつづられていますが、これらがかなわなかった場合は火をかけて死んでほしいと()くくっています。

さかいの商人・津田宗及の茶会に招かれるなど、茶道の心得もありました。豊臣秀吉にお金を借りてまで茶壺ちゃつぼを買うなど、名物茶器をコレクションしていました。

小兵で身長は低く小柄(こがら)です。短気なのは子どものころから。

金山城にある百段の石段も()け上がれる『百段』と名付けた馬に乗っていました。

父と同じくやりの名手で、愛用のやりは『人間無骨にんげんむこつ』と(めい)打たれた逸品(いっぴん)。意味は ”ひとの骨など無いも同然でスパスパ切れる” というもの。

頭立にドラゴンをあしらった『龍頭かぶと』を着用しており、人間無骨にんげんむこつやりとともに現存しています。

能力を表すとこんな感じ

森長可の能力チャート

個の強さが()きん出ている森長可ですが、領内の統治にも長けています。考えるよりも先に行動して敵を(つぶ)攻撃性(こうげきせい)が、結果的に政情を安定させています。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する森長可の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

森長可の面白い逸話やエピソード

武蔵坊弁慶にあやかって鬼武蔵と呼ばれる

上洛じょうらくを果たし、幕府の再生に取り組む織田信長が京に諸大名を招集しました。このとき、幕府を関所を設けて入京する者を厳しく検問します。

そこに森長可がやってきます。

長可が馬上から名乗ると、そそくさ通ろうとしたので関守せきもりがこれを通せんぼしました。

(おこ)った長可は関守せきもり()り捨て「(おれ)邪魔(じゃま)をすると町に火をつけて()し通るぞ!」と(おど)します。

やむをえず木戸はひらかれ、長可は通り過ぎていきました。

関所での騒動(そうどう)を知った信長は、むかし五条大橋で人を()った武蔵坊弁慶になぞらえて「長可は武蔵坊弁慶か。面白い、今日から ”武蔵守むさしのかみ” を名乗れ」と笑ったそうです。

このような森長可の無法者っぷりは、たびたび(うった)えられましたが、信長は「最近は(みな)あやつが(こわ)くて『(おに)武蔵』と呼んで道をあけるらしい」と愉快(ゆかい)そうに話すだけでした。

御神体の蛇を食べてしまう

小牧・長久手の戦いのおり、(よめ)さんの父である池田恒興が先に手柄(てがら)をあげたことが(くや)しかった長可。次こそ一番手柄(てがら)をと意気()み、羽黒の八幡林はちまんばやしちかくにこっそり陣取(じんど)ります。

林の内拝殿ないはいでんのよこから大きな(へび)が出てきたので、そばに居た神主が「八幡宮はちまんぐう御神体(ごしんたい)。ご勝利まちがいなし」と長可に祝いの声をかけます。

すると長可は、(へび)をつかまえて2つに引き()いて食べてしまいます。

(おれ)に神の加護など必要ない!と()き捨てると、神主の顔に(へび)を投げつけ「今日の門出、よし!」と、ハツラツと言いました。

この逸話(いつわ)には何パターンかあるようですが、いずれも(へび)は食べられてしまうオチです。

弟の救出方法が雑…でも大成功!

3人の弟(蘭丸、坊丸、力丸)を本能寺の変で亡くしていたからか、長可は末弟・仙千代(森忠政)のことを大事に思っていました。

本能寺の変のあと、仙千代は信長の三男・織田信孝岐阜城(ぎふじょう)に人質として預けられていました。

これをなんとか取り(もど)したい長可は、数名の家来をつれて岐阜城(ぎふじょう)に忍びこみ、仙千代を発見。いきなり、ビルの7〜8階の高さに相当する30メートル崖下(がけした)に仙千代を()き落としてしまいます。

崖下(がけした)にはあらかじめ用意しておいた布団があり、見事、仙千代をキャッチ。

無事?仙千代の救出に成功しました。

森長可の有名な戦い

長島一向一揆 ながしまいっこういっき #1:1571.6.4 〜 6.8 ● 織田軍5万 vs 本願寺軍10万 ○ #2:1573.10.21 〜 11.19 ○ 織田軍8万 vs 本願寺軍2万 ● #3:1574.7.31 〜 10.13 ○ 織田軍12万 vs 本願寺軍10万 ●

伊勢・長島(三重県桑名市)の一向宗門徒と織田信長による合戦。石山合戦に伴って3回行われた。織田軍は柴田勝家らを投入するが、熾烈な争いは一進一退が続く。九鬼嘉隆の水軍を率いた滝川一益が海上攻撃で打破。信長は、屋長島、中江を柵で囲い、焼き討ちで全滅させた。

長島一向一揆(いっき)で森長可は勝っています。

第2次合戦で初陣ういじんしています。第3次合戦では、川向こうの敵に向かって飛びこんでいき、27の首を取って帰ってきました。

甲州征伐 こうしゅうせいばつ 1582.2.25 〜 4.3 ○ 織田&徳川&北条軍3万 vs 武田軍3千 ●

信玄亡きあと衰退する武田氏を連合軍が多方面から同時に攻めた合戦。滝川一益に追い詰められた武田勝頼は、40名ほどを伴って天目山(山梨県甲州市大和町)に逃れる途中で討死。武田家は滅亡した。浅間山の噴火で動揺した家臣団の崩壊など、武田方には不運もあった。

甲州征伐(こうしゅうせいばつ)で森長可は勝っています。

高遠城()めでは手に傷を負いますが、最前線でやりをふるい大車輪の活躍(かつやく)をします。二度の軍規違反(いはん)を注意されますが、高遠城での功績を認められ、北信濃(しなの)(たまわ)りました。

小牧・長久手の戦い こまき・ながくてのたたかい 1584.4.23 〜 12.13 △ 羽柴軍10万 vs 織田&徳川軍3万 △

信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と信長の盟友・徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。

小牧・長久手の戦いで森長可は引き分けています。

森長可のターニングポイントになった戦いです。
羽黒の戦いで酒井忠次に敗れています。汚名(おめい)挽回ばんかいするため、徳川領を()める中入り作戦に志願しますが、徳川軍本隊に奇襲(きしゅう)され、鉄砲(てっぽう)足軽・杉山孫六に狙撃(そげき)されて即死(そくし)しゅうとの池田恒興も討死しています。

森長可の詳しい年表と出来事

森長可は西暦(せいれき)1558年〜1584年(永禄(えいろく)元年〜天正(てんしょう)12年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15581森可成の次男として尾張国に生まれる。
157013父・森可成、兄・森可隆の討死により家督を相続。
元服 → 森(勝蔵)長可
157316”第2次長島一向一揆”初陣。一向宗門徒の鎮圧戦に参加。関成政と突撃して一揆勢を崩す。
”槙島城の戦い”足利義昭との戦に参加。
157417”第3次長島一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。市江口から攻める。一揆勢に斬り込み27の首級をあげる。
織田信忠の与力になる。
157518”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。
”岩村城の戦い”武田勝頼との戦に参加。
157720”三木合戦”別所長治との戦に参加。
金山城の発展のため城下の区画整理と木曽川流域の整備を行う。
領内の商人に塩の専売特権を与え税収を得る制度をつくる。
158225”甲州征伐”武田勝頼との戦に参加。団忠正と先鋒部隊を率いる。木曽口から信濃国に侵攻し松尾城、飯田城を攻略。高遠城の制圧で活躍するが二度の軍規違反を咎められる。武田家滅亡
小諸城を接収。国人衆の人質を徴収する。
織田信長から信濃国・川中島4郡と海津城を拝領する。
芋川親正、島津忠直ら信濃国人衆が蜂起する。一揆勢を長沼口で奇襲し1千2百人打ち捨てる。大倉城を攻めて2千5百人を撫で斬り(みなごろし)にする。
上杉領・越後国に侵攻する。田切城を攻め落とし春日山城に迫る。
主君・織田信長が死亡。【本能寺の変】
信濃国人衆が蜂起する。海津城の人質を連れて南進し一揆勢を撃破。松本で人質を処刑し木曽に向かう。
木曾義昌に暗殺を画策され木曽福島城を奇襲。岩松丸(木曾義利)を人質にとって信濃国を脱出。
与力・肥田忠政と久々利頼興が離反する。米田城を攻めて敗走させる。
羽柴(豊臣)秀吉、丹羽長秀、池田恒興から美濃国内の反抗勢力を討伐する許可を得る。
”加治田・兼山合戦”肥田忠政が斎藤利堯の加治田城に逃げ込む。これを攻める。
大森城、今城、下麻生城、野原城、御嵩城を攻め落とす。
久々木頼興と和睦。
158326正月の宴に久々利頼興を招き加木屋正則に殺害させる。同日、久々利城を攻め落とす。
”立花山の戦い”羽柴秀吉から命じられ、遠藤慶隆、遠藤胤基が篭る立花山城を攻めて降伏させる。
遠山友忠の苗木城を攻め落とす。
岩村城を接収する。加治田城を破却する。
美濃国東部を制圧。
158427”小牧・長久手の戦い”羽柴秀吉の指揮下で徳川家康との戦に参加。小牧山をめぐり羽黒で敗れる。徳川領・三河国の奇襲を狙うが徳川本隊に察知され長久手で激突。義父・池田恒興、池田元助と討死。
戦国時代で森長可が生きた期間の表
森長可の顔イラスト
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