とよとみ ひでよし

豊臣秀吉

1537.3.17 〜 1598.9.18

 
豊臣秀吉の面白いイラスト
  

豊臣秀吉(羽柴秀吉、木下藤吉郎)は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将・大名です。貧しい身分の出ですが、織田信長のもとで頭角を現し、出世していきました。信長の死後、巧みな手腕で全国の大名を従えていき、天下統一を果たします。天皇に次いで身分が高い、関白・太政大臣まで上りつめました。享年62。

豊臣秀吉は何をした人?このページは、豊臣秀吉のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと豊臣秀吉が好きになる「猿と呼ばれた小者が農民から関白になって天下統一した」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:木下秀吉 → 羽柴秀吉 → 豊臣秀吉
  • あだ名:サル、ハゲねずみ
  • 官 位:筑前守、従五位下、左近衛権少将、従四位下、参議、従三位、権大納言、正二位、内大臣、従一位、関白、太政大臣、贈正一位
  • 戦 績:143戦 106勝 22敗 15分
  • 出身地:尾張国(愛知県)
  • 領 地:日本全国
  • 居 城:横山城 → 長浜城 → 姫路城 → 大坂城
  • 正 室:ねね(浅野長勝の養女)
  • 子ども:3男 1女 18養 4猶
  • 跡継ぎ:豊臣秀頼
  • 父と母:木下弥右衛門 / なか
  • 大 名:織田信長 → 豊臣氏初代当主=独立

猿と呼ばれた小者が農民から関白になって天下統一した

織田信長の草履(ぞうり)をあたためた奉公人(ほうこうにん)として知られる豊臣秀吉は、その後、大出世して日本全国を支配下に置く天下統一を果たします。

信長から(さる)と呼ばれるほどの小者だった豊臣秀吉は、どうして天下を取るような躍進(やくしん)をすることができたのでしょうか?

それは、豊臣秀吉には人並み外れた嗅覚(きゅうかく)があり、出世のチャンスを(のが)さなかったからでした。

やみくもに仕事をこなすのではなく、達成すれば出世につながる大きな仕事を積極的に引き受けました。なによりも、機会を得るための努力を()しみませんでした。

チャンスをつかみにいく豊臣秀吉のようす

たった3日で清洲城(きよすじょう)の改修工事を完了(かんりょう)させた『三日普請(みっかぶしん)』、一夜にして敵地に(とりで)を築いた『墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)』など、豊臣秀吉の出世エピソードは多々あります。速く、確実に、インパクトがある結果を出し続けて次々とチャンスをつかみました。

なかでも豊臣秀吉にとってビッグチャンスになったのは、主君・織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変でした。


超高速
中国大返し

1582年の本能寺の変で明智光秀が織田信長を襲撃(しゅうげき)し、クーデターを起こしたとき、豊臣秀吉は毛利氏の高松城をプールにする水攻(みずぜ)めをしている最中でした。

しかし、明智謀反(むほん)の情報をキャッチすると、すぐに毛利方に交渉(こうしょう)をもちかけました。(おどろ)くべきことに、信長の横死(おうし)を知った5時間後には、毛利氏との停戦を成立させたのです。

そこから豊臣秀吉は主君・信長の(かたき)を討つために備中国(びっちゅうのくに)(岡山県西部)から京都・山崎まで200kmの距離(きょり)を、たった7日で高速移動する『中国大返し』をやってのけます。

【中国大返し】7日間で200kmの距離を移動した

毛利の旗を持ち出して先頭部隊に持たせ、毛利氏を味方につけたかのような演出を加えて毛利方からの追撃(ついげき)抑止(よくし)しつつ、中国街道をひた走りました。

兵たちに具足を()がせ、武器も置かせて非武装で()()けます。武具は海路を使って運ぶように手配しました。

沼城から姫路城(ひめじじょう)のあいだには先行して荷駄隊(にだたい)を走らせ、食料などの必要物資を配置させて、マラソンの給水地点のようなものを用意させました。

途中(とちゅう)暴風雨で増水した川に出くわすと、近隣(きんりん)の領民たちに金銭をばらまいて協力を(たの)、領民たちに鎖状(くさりじょう)に手をつながせて、秀吉軍はそれにつかまって川を(わた)りました。

姫路城(ひめじじょう)に着いたころには兵士たちもクタクタ。まだまだ、ここからが本番です。

明智討伐(とうばつ)にもうひと頑張(がんば)りしてもらうために、姫路城(ひめじじょう)にあったすべての金銀兵糧(ひょうろう)(60億円相当)を兵士に分配して、やる気を出させました。

移動中も情報収集を徹底的(てっていてき)に行い、交渉術(こうしょうじゅつ)と情報の拡散を駆使(くし)して「(とむら)い合戦やりまっせー」と(たく)みに味方を増やしました。

さらに「信長公は生きている、信忠様は無事」といった内容の書状を、関係各所に配布します。

これは、本能寺の変が不発に終わったと思わせる(うそ)の情報で、明智光秀と親しい畿内(きない)勢力の動きをおさえるためのプロパガンダでした。

山陽道をぶっ飛ばしてきた秀吉軍は、山崎の戦場に到着(とうちゃく)して明智光秀を驚愕(きょうがく)させます。あまりにも早い秀吉軍の着陣(ちゃくじん)と、道中で行った妨害(ぼうがい)工作により、明智軍は思うように兵を集めることもできませんでした。

明智光秀を撃破(げきは)した豊臣秀吉は、織田信長の意志を()ぐ者として台頭します。

豊臣秀吉が明智光秀を討ったのは、本能寺の変からわずか11日後でした。


皆を従わせれば
いいじゃない

豊臣秀吉が天下統一をスピード達成できた理由は、”なるべく戦わないこと” にありました。

そのために関白(かんぱく)という立場を利用します。

1585年に豊臣秀吉が就任した『関白(かんぱく)』』』とは、朝廷(ちょうてい)の最高位のこと。もうひとつ、1586年に就任した『太政大臣(だいじょうだいじん)』とは、律令管制(りつりょうかんせい)の最高位です。

関白太政大臣になった豊臣秀吉

この2つの職に就いた豊臣秀吉は関白(かんぱく)太政大臣(だいじょうだいじん)になりました。
豊臣秀吉の意向は朝廷(ちょうてい)の意向と同じ意味を持ったのです。

こうして大義名分を得た豊臣秀吉は、大名同士の争いを禁止する『惣無事令そうぶじれい』を出します。

従わなければ朝廷(ちょうてい)(そむ)く逆臣として討伐(とうばつ)の対象にしました。となると、ほとんどの大名はこれに従いますので、豊臣秀吉の天下統一事業は一気に(はかど)りました。

ところで、いくら戦いに勝っても、そんな高位にはそうそうなれるものではありません。

そこで豊臣秀吉は、摂関家(せっかんけ)近衛前久(このえさきひさ)の養子になります。五摂家(ごせっけ)の者しか就くことができない関白(かんぱく)の地位に、家柄(いえがら)を変えて無理やり割り()んだのでした。

このようにして大名たちを従わせ、1590年に豊臣秀吉は天下統一を果たしました。

織田信長が本能寺で亡くなってからわずか8年後でした。


田畑を見える化
太閤検地

豊臣秀吉が行った代表的な政策として、地域ごとに異なっていた土地の価値を米の収穫量(しゅうかくりょう)で統一し、土地と農民を台帳で管理する『太閤(たいこう)検地』システムがあります。

検地帳には収穫量(しゅうかくりょう)や広さをもとにランク付けして記載(きさい)されており、全国すべての田畑がデータ化されました。

【太閤検地】豊臣秀吉が田畑の広さと収穫量を明確にした

また、土地によってバラバラだった測量基準を、統一した(ます)検地尺(けんちじゃく)を使うことで、全国の石高を正確に把握(はあく)しました。

これにより、農民たちが年貢(ねんぐ)をごまかしても気付けるようになりました。

この検地は、豊臣秀吉が太閤(たいこう)関白(かんぱく)を引退した人)になる以前の1582年から行われており、太閤(たいこう)検地と呼ばれるようになったのは、後年になってからです。


農民を抑える
刀狩令

農業に専念させるために農民から武器を取りあげる条例『刀狩令(かたながりれい)』を1588年に出します。

没収(ぼっしゅう)した武器は大仏の材料にすることを理由にしたので、仏のご恩があるといって、みんな武器を差し出しました。

まんまと上手くいきましたが、刀狩令(かたながりれい)のねらいは、農民の一揆(いっき)(おさ)えることにありました。

【刀狩令】豊臣秀吉は農民から武器を取り上げた

これと同時に武士と農民をハッキリと分ける『兵農分離(ぶんり)』をすすめました。

織田信長は、いつでも戦闘(せんとう)を可能にする専業兵士を構成するための兵農分離(ぶんり)を実施しましたが、豊臣秀吉の兵農分離(ぶんり)は、農民を畑しごとに専念させるためでした。

これにより、安定した年貢(ねんぐ)徴収(ちょうしゅう)を可能にしました。


俺が決める
独裁政治

さまざまな政策で豊臣政権の支配を強めた豊臣秀吉は、コントロールが難しくなっていた南蛮人(なんばんじん)の宣教師を対象に1587年に『バテレン追放令』を出してキリスト教の布教を禁止しました。

キリスト教の弾圧(だんあつ)はやがてエスカレートし、宣教師や信徒を処刑(しょけい)するに至ります。

頭が良いため、豊臣秀吉はすべて自分の裁量で決定し、自分が干渉(かんしょう)することで統治しました。

それは(おさ)えつける独裁的なもので、諸大名たちは豊臣秀吉というカリスマに従っていただけで、根本的な国家の構築には至りませんでした。


馬鹿げていた
朝鮮出兵

天下統一した豊臣秀吉は「俺なら明国(みんこく)征服(せいふく)できる、後世の(だれ)()えられないレガシーを残したい」という(ゆが)んだ承認欲求(しょうにんよっきゅう)(いだ)きます。

また、所領を残したまま大名たちを従わせていたため、日本にはもう家来に(あた)える土地がなかったことも明国(みんこく)征服(せいふく)の感情を後押(あとお)ししました。

明国(みんこく)を従わせることができると思っていた豊臣秀吉は、上から目線で「明国(みんこく)を子分にしてやる」と話しますが、明国(みんこく)皇帝(こうてい)に笑われてしまいます。

これに腹を立て、朝鮮国(ちょうせんこく)から明国(みんこく)()めようとしました。

(だれ)も乗り気ではなかったという朝鮮(ちょうせん)出兵は、横暴な権力者のわがままな侵略(しんりゃく)戦争でした。

1592年の文禄(ぶんろく)(えき)にはじまり、1597年に2回目の朝鮮(ちょうせん)出兵をした慶長(けいちょう)(えき)は、1598年に豊臣秀吉が病死したことで終戦となりました。


残念すぎる
晩年の酷さ

なかなか世継(よつ)ぎが生まれなかった豊臣秀吉に、晩年の1593年ようやく秀頼が生まれます。

豊臣秀吉は秀頼に()がせたいあまり、これまで後継者(こうけいしゃ)として育てていた(おい)・豊臣秀次に因縁(いんねん)をつけて切腹させてしまいました。

1597年の『日本二十六聖人』事件でキリスト教徒を処刑(しょけい)した豊臣秀吉を、イエズス会は ”暴君” と呼んで(さげす)みました。

痛快な英雄譚(えいゆうたん)魅力(みりょく)の豊臣秀吉ですが、晩年の(やみ)の深さもよく知られるところで、かつての(かがや)きは失われていました。

織田信長の小者だった豊臣秀吉は、足軽の子、農民、賤民(せんみん)など、出自には諸説がありますが、身分が低い点で共通しています。

豊臣秀吉とは、ど底辺からてっぺんまで出世した日本史上で類を見ないサクセスヒーローでした。

* * * * *

本能寺の変に(たお)れた織田信長覇業(はぎょう)()いで天下を統一した豊臣秀吉が没してから5年後、急速に弱体化した豊臣家に代わって、徳川家康が江戸幕府をひらきます。
そして、1615年に豊臣氏は滅亡(めつぼう)します。

教科書に()っているような【豊臣秀吉がしたこと】ついて、下記のページでまとめています。あわせてご覧ください。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1537年、豊臣秀吉は尾張国(おわりのくに)・愛知郡中村郷の貧しい家に生まれます。母の再婚(さいこん)相手と仲が悪く、8歳で家を追い出されます。針売りや今川氏での奉公(ほうこう)を経て、織田信長の家来になります。下働きで成果を出し続けて次第に出世し、中国地方を()める軍団長になりました。本能寺の変で織田信長が亡くなると、(かたき)である明智光秀を討ちました。

大名を従わせて天下人になる

柴田勝家を(たお)し、織田信孝を自害させて織田家を乗っ取り、信長の盟友だった徳川家康を従えます。朝廷(ちょうてい)にはたらきかけて関白(かんぱく)に任じられると、全国の大名を降伏(こうふく)させ、小田原征伐(せいばつ)で北条氏を(ほろ)ぼして天下統一を果たします。その後、嫡男(ちゃくなん)・秀頼の誕生をさかいに暴挙が増え、明国(みんこく)征服(せいふく)しようと朝鮮(ちょうせん)出兵を試みました。

最後と死因

2回目の朝鮮(ちょうせん)出兵、慶長(けいちょう)(えき)の最中に豊臣秀吉は山城国(やましろのくに)伏見城(ふしみじょう)で亡くなりました。1598年9月18日、死因は脳梅毒、腎虚(じんきょ)、大腸がん、赤痢(せきり)など。62歳でした。遺体はしばらく伏見城(ふしみじょう)に置かれたあと、阿弥陀ヶ峰の(あみだがみね)の山頂に神として(まつ)られたため、葬儀(そうぎ)は行われていません。朝鮮(ちょうせん)出兵の終戦交渉のため、豊臣秀吉の死は(かく)されました。

亡くなる直前に、幼い秀頼の将来を案じて、五大老・五奉行(ぶぎょう)によるサポート統治システムを制定します。最期の病床(びょうしょう)で、筆頭家老を任せた徳川家康の手を(にぎ)って「くれぐれも秀頼を(たの)みます」と、くり返し何度も何度もお願いしたといいます。

領地と居城の移り変わり

豊臣秀吉の領地・勢力図(1582年)
豊臣秀吉の領地・勢力図(1585年)
豊臣秀吉の領地・勢力図(1590年)

1585年に四国の長宗我部氏、1587年に九州の島津氏、1590年に小田原城の北条氏を降して、豊臣秀吉は全国統一を果たしました。(ただ)し、降伏(こうふく)した大名に所領を残したため、豊臣家の直轄領(ちょっかつりょう)摂津国(せっつのくに)はじめ222万石ほどでした。

ざっくりした略年表と出世の歩み

豊臣秀吉の主な出来事をまとめた略年表です。

豊臣秀吉の略年表

1582年「本能寺の変」「山崎の戦い」1585年「関白(かんぱく)就任」1590年「天下統一」1592年「文禄(ぶんろく)(えき)」1597「慶長(けいちょう)(えき)」が、特に重要な出来事です。

豊臣秀吉の出世の歩みをまとめたものがこちらです。

豊臣秀吉の出世の歩みの図

貧しい農村から身を立てて、針売り → 馬番 → 草履(ぞうり)取り → 台所奉行(ぶぎょう) → 小隊長 → 城主 → 軍団長 → 大名 → 天下人まで出世しました。

身分の向上や出世に合わせて名前を変えている点に注目です。これは自身のキャリアと低い出自を補うための手段でした。

織田信長や徳川家康との関係は?

豊臣秀吉と織田信長・徳川家康の出来事まとめ
  • はじめは織田信長に仕える小者だった。
  • 織田信長に評価されて重臣まで出世した。
  • 織田信長が死んだので天下統一を引き継いだ。
  • すると信長の盟友だった徳川家康がライバルになった。
  • 徳川家康と一度だけ戦ったけど勝てなかった。
  • 妹を徳川家康に嫁がせて家来になってもらった。

豊臣秀吉のキャリアは、織田信長に仕える小者・足軽としてスタートしました。

機転が利く豊臣秀吉を信長は面白がり、次第に重要な任務を(あた)えます。結果を出し続けた豊臣秀吉は、毛利討伐(とうばつ)の方面軍司令官に出世しました。

信長の死後、豊臣秀吉は信長が目指した天下統一を自らの目標とし、そのために織田家を乗っ取ります。ここで、信長の盟友だった徳川家康が立ちはだかりました。

小牧・長久手の戦いで家康と対決しますが苦戦し、家康と争うのをやめて家来にする方法を考えます。

妹を旦那(だんな)離婚(りこん)させて強引に家康のところに(とつ)がせ、母を人質に差し出すなど、手段を選ばず無理やり家康と対面を果たし「形だけでいいから」とお願いして家来にしました。

その後は晩年に至るまで、徳川家康を家臣の筆頭としました。

豊臣秀吉の性格と人物像

豊臣秀吉は「計算高くて知恵(ちえ)がまわる人」です。

相手に合わせるコミュニケーションが得意で、どうすれば喜ばれるかよくわかっています。このへんが ”人たらし” といわれる所以(ゆえん)です。

先見性は群を()いており、なにが重要かいち早く()ぎ分け、ライバルを圧倒(あっとう)するスピードで行動できます。

行動の根底にあるのは期待できるリターンの大きさですので、弱者に対して高圧的に金品で人心を支配しようとする性根の悪さも見え(かく)れしています。キリスト教を迫害(はくがい)したことで、南蛮(なんばん)の宣教師から()(きら)われていました。

主君である織田信長を馬鹿(ばか)にしており、自身が天下を取ったあと「信長公は勇将だけど良将ではない。器量が小さいから(だれ)からも好かれない」とコメントしています。
信長の肖像画(しょうぞうが)を地味な着物に書き()えさせるなど、後年への印象操作も行っています。

身分が高い女性であるほど欲情したという話や、(かべ)に書かれた悪口に激昂(げきこう)して門番の耳鼻を()ぐなど、身分や外見に対するコンプレックスが異常です。

低い身分の生まれだったため、読み書きはできません。それを補うように、元将軍の足利義昭や名門出身の六角義賢など、御伽衆(おとぎしゅう)と呼ばれる教養人を側において知識を得ていました。

趣味(しゅみ)は茶器集め。金ピカを好み、黄金づくしの茶室もつくってしまいました。

贅沢(ぜいたく)のかぎりを()くした秀吉の好物は(とら)の肉。滋養強壮(じようきょうそう)長寿(ちょうじゅ)に効くと聞いて、朝鮮(ちょうせん)出兵に(おもむ)いた諸将に(とら)捕獲(ほかく)を命じています。

背が低く、身長は140〜150cmほど。体重45kgくらいの華奢(きゃしゃ)な体格です。眼が飛び出ていて(ひげ)は少なく、醜悪(しゅうあく)とまで言われる容貌(ようぼう)でした。右手の指が6本あったので、手袋(てぶくろ)(かく)していました。

じつは、信長から(さる)とは呼ばれておらず「六つめ」「ハゲねずみ」と呼ばれていました。

豊臣秀吉の甲冑(かっちゅう)は複数が現存しており、派手なものが多いのが特徴(とくちょう)です。日の出を連想させる『一ノ谷馬藺兜(いちのたにばりんかぶと)』や、ふっさふさの毛で(おお)われた頭部の前後に軍配が2つ付いた(かぶと)など、変わり(かぶと)を好みました。派手な(かぶと)を伊達政宗や毛利輝元にプレゼントしています。

能力を表すとこんな感じ

豊臣秀吉の能力チャート

尋常(じんじょう)ではない行動力と、(おそ)ろしいほどの知能が豊臣秀吉の偉業(いぎょう)を可能にしています。140戦以上を戦って8割以上の勝率を(ほこ)る統率力も驚異的(きょういてき)です。おそらく同時代のどの人物にも勝るポリバレント性があり、あらゆる能力で他を圧倒(あっとう)しています。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する豊臣秀吉の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

豊臣秀吉の面白い逸話やエピソード

信長の草履を温めた話のいろいろ

寒い冬の日のこと。秀吉が、織田信長の小者だったころのお話です。

信長「(さる)!出かける!」
さる「へい!草履(ぞうり)はここに」

信長「む!あったかい?お前ここに座っていたな!このやろ!」
さる「それは(ちが)います。寒いので、ふところで温めておきました」

信長「気がきくな!かわいいやつめ!」

豊臣秀吉は織田信長の草履をふところで温めた

これは、機転が利く秀吉の人柄(ひとがら)を伝える有名な逸話(いつわ)です。この話ひとつとっても、いくつかの言い伝えがあります。

いずれも信長の「(さる)(おれ)草履(ぞうり)(しり)()いて座ってた」という疑念から派生したもので、なかなか面白いです。


草履を温めたのは
お腹ではなく背中

信長「(しり)()いていなかった証拠(しょうこ)をみせろ!」

すると秀吉は服を()いでみせ、背中には草履(ぞうり)鼻緒(はなお)のあとがついていました。

信長「……むむ、感心なやつ」


じつは信長の草履を
敷物にして座っていた

秀吉が草履(ぞうり)敷物(しきもの)にしていると思っていた信長は、わざと馬糞(ばふん)()んだ草履(ぞうり)を預けます。こうすれば、ふところに入れたなどと言い訳できないと考えたのです。

信長が(もど)ってくると、秀吉はいつものように草履(ぞうり)を差し出しました。信長が秀吉の胸元に目をやると、衣服が(よご)れていました。

信長「むむ、疑ってすまなかった」

秀吉は信長に試されていることを承知で、あらかじめ土で服を(よご)してから草履(ぞうり)のうえに座っていました。

今日も信長の草履(ぞうり)は、秀吉の(しり)の下で温まってホカホカでした。

墨俣一夜城にみる仰天トリック

秀吉のサクセスストーリーに必ず登場する『墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)』のエピソード。

美濃国(みののくに)()める織田信長が、墨俣(すのまた)美濃攻略(みのこうりゃく)拠点(きょてん)を築こうとしますが、斎藤氏の妨害(ぼうがい)を受けて上手くいきません。

墨俣(すのまた)築城プロジェクトは柴田勝家がやってもダメ。佐久間信盛も失敗。
そこで、小者ながら存在感を示しはじめていた秀吉が立候補します。

柴田、佐久間らは自国から木材を運んで長良川のほとりに築城を試みましたが、すぐに斎藤軍が来てしまうので工事が進みませんでした。

考えた秀吉は、ずっと上流のほうで長良川を(わた)り、敵の領地で木を伐採(ばっさい)して木材にし、切り()みを入れる加工をします。加工済みの木材を束ねていかだにし、川を下りました。

【墨俣一夜城】豊臣秀吉がつかったトリックの図

夜のうちに移動して、木材を組み上げるプレハブ工法で、あっというまに墨俣(すのまた)(とりで)を築きました。

秀吉が築いた墨俣(すのまた)一夜城で拠点(きょてん)を得た信長は、こうして美濃(みの)()め取りました。


まだあるぞ
一夜城伝説

天下統一を目前にしていた関白(かんぱく)・豊臣秀吉が、北条氏を()めた小田原征伐(せいばつ)でのこと。

北条氏が籠城(ろうじょう)する小田原城の向かいにある標高262mの笠懸山(かさかけやま)に、秀吉は突如(とつじょ)として巨大(きょだい)な城を出現させます。

とつぜん現れたこの城は、北条兵たちに動揺(どうよう)(あた)えました。

じつは、秀吉は笠懸山(かさかけやま)に着くやいなや築城を開始していました。のべ4万人を投入して80日間で総石垣(いしがき)構えの城を完成させます。

森をブラインドにして建築を進め、完成すると同時に木を伐採(ばっさい)して ”まるで城が突然(とつぜん)現れたように見せた” のでした。

【石垣山一夜城】豊臣秀吉は木をブラインドにした

一夜で築城したわけではなかったのです。

石垣山一夜城(いしがきやまいちやじょう)』を見た北条氏政は信じられない思いで戦意を失い、秀吉に降伏(こうふく)しました。

なんと側室が300人もいた

戦国の大名には、側室((おく)さんではないが親密にしている女性)がいることは(めず)しくありませんが、秀吉には側室が多すぎます。

秀吉には300人もの側室がいた記録が残っており、ルイス=フロイスは ”極悪な欲情は止まるところを知らず” と伝えています。(超訳:変態すぎて引く)

豊臣秀吉には側室がたくさんいた

側室たちの多くは、秀吉が(うば)い取った領主の夫人でした。

ふつうに考えれば屈辱的(くつじょくてき)状況(じょうきょう)ですが、なんと夫人たちは秀吉との暮らしに満足していたといいます。

たくさんの側室がいた秀吉ですが、子を産んだのは淀殿(よどどの)だけでした。
そのため、淀殿(よどどの)が産んだ豊臣秀頼は、秀吉の子ではないという(うわさ)が広まりました。

本当の名前がよくわからない

”余は太閤(たいこう)・豊臣秀吉である”
拙者(せっしゃ)、羽柴秀吉と申す”
”へい、木下藤吉郎と申します”

豊臣秀吉を名乗るまで出世魚のようにコロコロと名前を変えています。

豊臣』とは、天皇から下賜(かし)された氏で、秀吉をオリジナルとした氏族のブランドです。

ちょっとややこしいのですが、関白(かんぱく)になった秀吉は豊臣氏と羽柴姓を並行して名乗っていました。

羽柴』とは、信長の重臣である丹長秀と田勝家から一字ずつもらってくっつけたもの。
あなた方をお手本に(はげ)みますよ〜」というゴマスリから、これを名乗りました。

これには、急速に出世する秀吉を(ねた)む重臣たちの感情を(おさ)えるねらいがありました。秀吉の軍師・竹中半兵衛のアイデアです。

木下』とは、秀吉の実父とされる木下弥右衛門(やえもん)苗字(みょうじ)を名乗ったといいますが、そもそも父の存在が不明確だったりします。

農民または最下級の武士、あるいは木こりなど、さまざまな説があります。

出自コンプレックスだった秀吉は、じつは天皇の(かく)し子だったという作り話を流したり、母が妊娠中(にんしんちゅう)に「日輪が懐中(かいちゅう)に重なる夢を見た」として、幼名を日吉丸(ひよしまる)にしたという神サマ創作メルヘンまで飛び出しています。

無学で文字も読み書きできない

あるとき、秀吉が()んだ「奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く(ほたる)」という歌が人々に物笑いにされてしまいます。だって、(ほたる)は鳴きませんもの。

このネタは『曽呂利狂歌咄(そろりきょうかばなし)』にあるもので、講談や落語で広まって ”豊臣秀吉は学がない” というイメージが定着しました。

安土桃山時代の医師で儒学者()の江村専斎が書いた『老人雑話』には、秀吉のものとされる和歌は右筆をつとめていた大村由己が代作したものとあり、字が読み書きできない秀吉に和歌はつくれないとバカにしています。

とはいえ、秀吉の自筆とされる手紙も残っています。

秀吉が書いた手紙は、ひらがなが多く ”秀吉は字を知らない” イメージを加速させたようです。ちょっとは漢字も使っています。

豊臣秀吉の有名な戦い

観音寺城の戦い かんのんじじょうのたたかい 1568.10.2 ○ 織田&浅井軍6万 vs 六角軍1万1千 ●

京に上洛する織田信長が、途上にある観音寺城(滋賀県近江八幡市)を攻めた合戦。18からなる支城で構成された難攻不落の山城だったが、丹羽長秀らの活躍により、わずか1日で要所であった箕作城と和田山城が陥落。六角義賢は観音寺城を放棄して甲賀郡に逃亡した。

観音寺城の戦いで豊臣秀吉は勝っています。

1隊を率いて箕作城(みつくりじょう)()めました。朝方に()めあぐねて引き上げますが、同日中に夜襲(やしゅう)をしかけて()め落としました。箕作城(みつくりじょう)陥落(かんらく)が信長の上洛戦(じょうらくせん)を有利にしました。

金ヶ崎の戦い かねがさきのたたかい 1570.6.3 ● 織田&徳川軍3万 vs 浅井&朝倉軍2万5千 ○

越前の朝倉義景を攻めていた織田信長を朝倉軍と浅井軍が金ヶ崎(福井県敦賀市金ヶ崎町)で挟み撃ちにした戦い。浅井長政の裏切りによって、織田軍は撤退を余儀なくされる。木下秀吉が、客将として参戦していた明智光秀ととも撤退戦の殿を担い、信長を無事に逃げさせた。

金ヶ崎の戦いで豊臣秀吉は敗れています。

このとき秀吉は、絶体絶命の信長を(にが)すため、殿(しんがり)を志願します。命がけの撤退戦(てったいせん)で織田軍の最後尾(さいこうび)を務める大役を果たしました。ここでの活躍(かつやく)が認められて、このあとの浅井()めでの功績につながります。

小谷城の戦い おだにじょうのたたかい 1573.9.4 〜 9.26 ○ 織田軍3万 vs 浅井軍5千 ●

信長に叛いた浅井長政を殲滅するべく、織田信長が小谷城(滋賀県長浜市湖北町)を攻めた合戦。小谷山を要害とした堅城を攻略するため、織田軍の木下秀吉は、城内を分断する作戦を実行する。崖を登って奇襲に成功し、小谷城を陥落させた。これにより、浅井氏は滅亡した。

小谷城の戦いで豊臣秀吉は勝っています。

軍師・竹中半兵衛の提案をうけて、秀吉はここでも高難易度のミッションを成功させます。この功績により、北近江(おうみ)に長浜城を与えられ、城持ち大名に出世しました。

三木合戦 みきかっせん 1578.5.5 〜 1580.2.2 ○ 織田軍?万 vs 別所軍7千5百 ●

織田氏に叛いた別所長治が篭る三木城(兵庫県三木市上の丸町)を羽柴秀吉が2年ちかく包囲した合戦。竹中半兵衛が考案した補給ルートを断つ作戦で、三木城を孤立させた。餓死者であふれた城内は凄惨をきわめ、開城降伏となった。三木の干し殺しとも。

三木合戦で豊臣秀吉は勝っています。

織田氏に(そむ)いた別所長治が徹底抗戦(てっていこうせん)の姿勢を見せるなか、秀吉は三木城を攻撃(こうげき)する付城(つけじろ)を40ほど構築しました。途中(とちゅう)有岡城(ありおかじょう)でも謀反(むほん)が起こるアクシデントもあり、1年10か月もの期間をかけて、ようやく三木城を降伏(こうふく)させました。

鳥取城攻め とっとりじょうぜめ 1581.6.?〜 10.? ○ 織田軍2万 vs 毛利軍1千4百 ●

鳥取城(鳥取県鳥取市東町)を羽柴秀吉が攻めた合戦。秀吉は山名豊国を降したが、その後、毛利氏の調略で城を奪われ、吉川経家を攻める。住民を城内に追い込み、城兵と合わせて3千人を兵糧攻めにした。鳥取の飢え殺しと呼ばれ、城内は人肉も食す悲惨な状態だった。

鳥取城()めで豊臣秀吉は勝っています。

鳥取城の食料を枯渇(こかつ)させるために、周辺の米を2倍の値段で買い()めました。住民を追いこんだのも、城内で兵糧(ひょうろう)の消費を早めるためでした。餓死者(がししゃ)があふれ、地獄(じごく)絵図となった鳥取城は、4か月で降伏(こうふく)しました。

備中高松城の戦い びっちゅうたかまつじょうのたたかい 1582.5.28 〜 7.12 △ 織田軍3万 vs 毛利軍5千 △

織田氏の羽柴秀吉が、備中高松城(岡山県岡山市北区高松)を攻めた合戦。秀吉は蜂須賀正勝に命じて、足守川の水をせきとめる高8m、幅12mの堤防を構築し、清水宗治が篭る高松城を水没させた。しかし、本能寺の変が起こったため、毛利氏と和睦することとなった。

備中高松城の戦いで豊臣秀吉は引き分けています。

城のまわりを水で()めてしまう前代未聞のスペクタクルな方法で、秀吉の得意技 ”財力で戦意を喪失(そうしつ)させる” が炸裂(さくれつ)した戦いです。本能寺で信長が討たれたため、毛利氏と和睦(わぼく)し、中国大返しへとつながります。

山崎の戦い やまざきのたたかい 1582.7.2 ○ 羽柴軍4万 vs 明智軍1万6千 ●

本能寺で織田信長を討った明智光秀と駆けつけた羽柴秀吉が山崎(京都府長岡京市)で激突した合戦。天王山の戦いとも呼ばれる。秀吉は中国地方で毛利氏と交戦中だったが、これを停戦し、急行した。予想外の速さで現れた羽柴軍に明智軍は劣勢となり、敗走した。

山崎の戦いで豊臣秀吉は勝っています。

豊臣秀吉のターニングポイントになった戦いです。
高松城での戦いを切り上げて明智討伐(とうばつ)に向かいます。主君・信長の(かたき)討ちという絶好の機会を得ました。勝利したことで、このあとの清洲(きよす)会議で主導権を(にぎ)り、織田氏の乗っ取りに動き出します。

賤ヶ岳の戦い しずがたけのたたかい 1583.6.6 〜 6.13 ○ 羽柴軍5万 vs 柴田軍3万 ●

信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの福島正則ら若手武将が活躍した。

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで豊臣秀吉は勝っています。

もうひとつの分岐点(ぶんきてん)となった戦いで、天下取りへの野望を明らかにしました。信長の家臣団でも最も強いライバルだった勝家を打ち破ったことで、織田家での最高権力を得ました。

小牧・長久手の戦い こまき・ながくてのたたかい 1584.4.23 〜 12.13 △ 羽柴軍10万 vs 織田&徳川軍3万 △

信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と信長の盟友・徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。

小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉は引き分けています。

局地戦で劣勢(れっせい)に立たされた秀吉は、織田信雄と和睦(わぼく)し、徳川家康に戦う理由をなくさせることに成功します。織田氏との立場は逆転して、信雄を支配する側になりました。

小田原征伐 おだわらせいばつ 1590.5.6 〜 8.4 ○ 豊臣軍21万 vs 北条軍5万6千 ●

天下統一に迫る豊臣秀吉が小田原城(神奈川県小田原市)を大軍で包囲した合戦。籠城する北条氏直と、隠居の北条氏政、重臣たちは「小田原評定」と揶揄された結論がでない会議を繰り返した。北条父子を黒田官兵衛が説得し、降伏開城した。小田原攻め、小田原の役とも。

小田原征伐(せいばつ)で豊臣秀吉は勝っています。

各方面から北条領を制圧して小田原城を孤立(こりつ)させ、小田原城の向かいに巨大(きょだい)石垣山城(いしがきやまじょう)を築く、連日どんちゃん(さわ)ぎをしてみせるなど、北条方の戦意を完全に()えさせました。
この勝利によって豊臣秀吉の天下統一が成りました。

豊臣秀吉の詳しい年表と出来事

豊臣秀吉は西暦(せいれき)1537年〜1598年(天文(てんぶん)6年〜慶長(けいちょう)3年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍(かつやく)した武将です。

15371尾張国に生まれる。
155115今川家臣・松下之綱に仕えるが、ほどなくして去る。
155418織田信長に仕える。
清洲城の普請奉行や台所奉行などで成果をあげる。
156125浅野長勝の養女・杉原定利の娘(ねね)と結婚。
156327”新加納の戦い”斎藤龍興との戦に参加。織田軍が大敗、退却する。大量の松明を灯して援軍が来たように見せる奇策で、敵の追撃を牽制する。
156529斎藤領・美濃国攻めに参加。
斎藤家臣、松倉城主・坪内利定と鵜沼城主・大沢正秀を調略する。
156630尾張国衆・蜂須賀正勝、前野長康を従える。
美濃国・墨俣に砦を築く。【墨俣一夜城】
156731元・斎藤家臣で浪人の竹中半兵衛を熱心に勧誘して織田家臣にする。【三顧の礼】
156832”観音寺城の戦い”六角義賢・義治父子との戦に参加。夜襲で箕作城を陥落させる。200の首級をあげる。
佐久間信盛、丹羽長秀、明智光秀、中川重政とともに京都で政務を行う。
156933織田信長から但馬国へ侵攻を命じられる。
山名領・但馬国を攻める。10日間で18城を攻略、生野銀山を制圧。此隅山城を陥落させて京に引き上げる。
”大河内城の戦い”北畠具教・具房父子との戦に参加。阿坂城を攻略する。
157034”金ヶ崎の戦い”朝倉義景との戦に参加。明智光秀と最後尾を担って信長本隊を退却させる。
”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。佐和山城の磯野員昌と浅井長政を離間させる。
近江国・横山城に入る。
”志賀の陣”比叡山延暦寺に篭る浅井氏&朝倉氏との戦に参加。横山城を守備、六角義賢を撃破して近江国と美濃国の交通を回復する。
157135”第1次長島一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。緒戦で浅井井規を撃破。
堀秀村が浅井氏&一向一揆に攻撃されるが、救援し撃退する。
”比叡山焼き討ち”比叡山延暦寺の殲滅戦に参加。越前国の海路と陸路を封鎖して、浅井氏&朝倉氏の動きを封じる。
157236浅井家臣、宮部城主・宮部継潤を調略する。
浅井長政が虎御前山砦に攻めてくるが、撃退する。
157337”一乗谷城の戦い”朝倉義景との戦に参加。朝倉家滅亡
”小谷城の戦い”浅井久政・長政父子との戦に参加。長政が篭る本丸と父・久政が篭る京極丸を分断して陥落させる。浅井家滅亡
織田信長から近江国・長浜を拝領する。
近江国・長浜城を居城にする。
改名 → 羽柴秀吉
”第2次長島一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。佐久間信盛、丹羽長秀と西別所城を攻略、トンネルを掘って白山城に攻め込み陥落させる。
157539”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。
”越前一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。明智光秀と大良越、杉津城、新城を落として焼き払う。
157741”第1次紀州征伐”雑賀衆との戦に参加。山手から攻める。
加賀国に進軍していた柴田勝家陣営から離脱。織田信長に激怒される。
”信貴山城の戦い”松永久秀が織田氏に叛く。討伐に向かう。
織田信長から中国地方の平定を任じられる。
播磨国・姫路城を小寺(黒田)官兵衛から提供され、播磨国攻略の拠点にする。
播磨国人衆から人質をとって従わせる。
尼子再興派の尼子勝久が与力に加わる。
”第1次上月城の戦い”赤松政範が篭る上月城を攻略。
上月城に尼子再興派を配備する。
”竹田城の戦い”*弟・秀長が但馬国・竹田城を攻略。
157842”三木合戦”別所長治が織田氏に叛く。三木城を包囲する大規模作戦を展開する。
指揮下の荒木村重が三木城の包囲から離脱する。
”第2次上月城の戦い”毛利軍に包囲される尼子再興派の援軍に向かう。能見川で毛利軍に大敗する。
157943*弟・秀長が三木城の補給路の分断に成功する。
*弟・秀長を援軍として明智光秀の丹波国攻めに派遣。
”有岡城の戦い”荒木村重が織田氏に叛く。討伐に向かう。
158044三木城が開城降伏。別所長治に切腹させる。
播磨国を平定。
山名堯熙の有子山城を攻めて降伏開城させる。
八木豊信、垣屋続成ら但馬国人衆を従える。所領を没収し因幡国攻めの先陣にする。
但馬国を平定。
”第1次鳥取城攻め”因幡国に侵攻し、鳥取城に篭る山名豊国を降伏させる。
158145”第2次鳥取城攻め”毛利氏に調略された鳥取城を包囲。凄惨な兵糧攻めの末に鳥取城を開城させる。
”馬ノ山の対陣”鳥取城の救援にきた毛利氏の吉川元春と対陣するが、撤退。
淡路国に侵攻する。1日で岩屋城を陥落させて国衆を掃討する。
淡路国を平定。
158246”備中高松城の戦い”備中国に侵攻し、清水宗治が篭る高松城を水攻めにする。
主君・織田信長が死亡。【本能寺の変】
清水宗治の切腹を条件に高松城で交戦中の毛利輝元と講和。京に急行する。【中国大返し】
”山崎の戦い”明智光秀を京都山崎で撃破。織田信長の仇を討つ。明智勢をことごとく征伐して京を制圧する。
清洲城で柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で会議を行い、三法師(信長の孫)を後継者とする。会議において主導権を握る。【清洲会議】
山城国・大徳寺で織田信長の葬儀を取り仕切り盛大に行う。
石高の基準を均一化する検地を開始。【太閤検地】
羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の3人で談合を行い、清洲会議の決定を反故する。三法師ではなく織田信雄を当主に擁立する。
三法師を安土城に戻さない織田信孝の討伐を決める。
近江国・長浜城を包囲、柴田勝豊を降伏させる。
美濃国に侵攻する。
加治木城を攻めて斎藤利堯を降伏させる。
織田信孝から三法師を引き取る。信孝の母と娘を人質にとって和睦する。
158347伊勢国で挙兵した滝川一益を攻める。亀山城、峯城を攻略。長島城を包囲。
美濃国で織田信孝が挙兵。これを制圧に向かう。
柴田勝家に大岩山砦を落とされる。美濃国・大垣城から近江国へ急行する。【美濃大返し】
”賤ヶ岳の戦い”柴田軍の主力である佐久間盛政を撃破。柴田勝家を越前国に撤退させる。
前田利家が降伏、配下になる。
”北ノ庄城の戦い”柴田勝家の北ノ庄城を攻め落として自害させる。
*織田信雄が岐阜城を包囲、織田信孝を降伏させ、自害させる。
越前国を平定。
加賀国を平定。
能登国を平定。
越中国の佐々成政から娘を人質にとって降伏させる。
長島城が開城降伏。滝川一益から所領を没収する。
三法師の後見を申し出た織田信雄を安土城から追い出す。
摂津国・大坂城の築城を開始する。
158448織田信雄が秀吉派の重臣を謀殺して宣戦布告してくる。
”小牧・長久手の戦い”織田信雄&徳川家康と尾張国北部を中心に周辺地域で争う。雑賀衆、長宗我部元親、佐々成政、北条氏政らが敵対を表明し、大規模な包囲網を形成される。
左近衞権少将に就任。
織田信雄と和睦する。
織田信雄の長女・小姫を養女にする。
徳川家康の次男・於義丸(秀康)を養子にして和睦する。
権大納言に就任。公卿となる。征夷大将軍との兼任を打診されるが断る。
158549内大臣に就任。
”千石堀城の戦い”*甥・信吉(秀次)に根来衆の殲滅に向かわせる。
”第2次紀州征伐”紀伊国の雑賀衆、根来衆の討伐に向かう。沢城を降伏させ、根来・雑賀を制圧する。
”太田城の戦い”*小西行長に太田城を水攻めさせる。太田宗正を降伏させる。
紀伊国を平定。
”四国征伐”*弟・秀長を総大将、黒田官兵衛を軍監として長宗我部氏の討伐に向かわせる。宇喜多秀家、小早川隆景を加えた10万の兵で四国地方を制圧する。
長宗我部元親が降伏、従属する。
四国地方を平定。
近衛前久の猶子になる。
関白に就任。
摂津国・大坂城の天守が完成、居城にする。
”飛騨征伐”*金森長近に姉小路領を攻め落とさせる。姉小路家滅亡
飛騨国を平定。
”越中征伐”佐々領・越中国に侵攻する。富山城を包囲。佐々成政が降伏、配下になる。
越中国を平定。
徳川家康と真田昌幸の抗争を仲裁する。
九州地方の大名に領土紛争を禁止する。【惣無事令】
甥・辰之助(小早川秀秋)を猶子にする。
158650上杉景勝が従属する。
徳川家康に妹(朝日姫)を嫁がせる。
徳川家康のもとに実母(大政所)を人質に出す。
徳川家康が従属する。
正親町天皇から豊臣姓を賜る。
改名 → 豊臣秀吉
”九州征伐”*毛利輝元、小早川隆景、吉川元春、黒田官兵衛を軍監として島津氏の討伐に向かわせる。
158751”戸次川の戦い”*仙石秀久、長宗我部元親・信親父子、十河存保らが島津家久に敗れる。
20万の兵を率いて島津領に侵攻する。九州の国人衆が続々と従い、島津軍を薩摩国、大隅国、日向国まで後退させる。
”根白坂の戦い”*弟・秀長が島津領・高城を包囲。根白坂砦で島津軍を迎撃し、壊滅させる。
”平佐城の戦い”*小西行長、九鬼嘉隆らが平佐城を攻撃。桂忠詮を降す。
島津義久が降伏、従属する。
九州地方を平定。
キリスト教宣教を禁止する。【バテレン追放令】
北野天満宮に1,000人を招いて千利休、津田宗及、今井宗久を茶頭に10日間にわたる大規模な茶会を催す。【北野大茶湯】
関東と奥羽地方の大名に領土紛争を禁止する。【惣無事令】
聚楽第が完成。
太政大臣を兼任。
158852宇喜多秀家に養女・前田利家の娘(豪姫)を嫁がせる。
聚楽第に後陽成天皇を迎える。
農民および海民の武装を禁止する。【刀狩令・海賊停止令】
毛利輝元が従属する。
158953側室・淀殿とのあいだに庶子・棄が生まれる。
上野国・沼田をめぐる北条氏政と真田昌幸の訴訟を裁く。
北条家臣・猪俣邦憲が真田領・名胡桃城を計略で奪う。これを惣無事令違反として追及する。【名胡桃城事件】
北条氏政に名胡桃城と関係者の引き渡しを求めるが断られる。
豊臣氏への従属拒否とみなし北条討伐令を出す。
159054”小田原征伐”徳川家康を先陣に、甥・秀次、前田利家、織田信雄らに方面軍を率いさせて北条氏の討伐に向かう。戸沢盛安、津軽為信、最上義光など、東北地方の大名も続々と加わる。北条領に進撃して小田原城を包囲する。
小田原城の向かいに石垣山城を築城。連日、大茶会を開いて北条軍の士気を下げる。
伊達政宗が参陣して従属する。
北条氏政・氏直父子が降伏、小田原城を開城させる。北条家滅亡
東北地方の領土再編を行う。【第1次奥州仕置】
徳川領を関東に移させる。
天下統一を果たす。
徳川秀忠に養女・織田信雄の娘(小姫)を嫁がせる。
159155弟・豊臣秀長が死去。
茶頭・千利休を切腹させる。
武士、町人、百姓の身分を固定する。【身分統制令】
庶子・棄が死去。全国から名医を集め、家臣や領民まで祈祷させたが報われず。
”九戸政実の乱”*南部信直、蒲生氏郷らに九戸政実を討伐させる。【第2次奥州仕置】
織田信雄を改易。下野国に流罪とする。
関白を辞任。太閤となる。
甥・豊臣秀次を養嗣子にする。豊臣秀次が関白になる。引き続き政治・軍事を主導する。
肥前国・名護屋城の築城を開始。
159256名護屋城が完成。朝鮮出兵の拠点とする。
*宇喜多秀家を総大将として16万の日本軍を朝鮮国に出兵。【文禄の役】
山城国・伏見城の築城を開始する。
159357明・朝鮮軍との戦況がこう着する。講和交渉を始める。
側室・淀殿とのあいだに庶子・拾(秀頼)が生まれる。
山城国・伏見城が完成、居城にする。
159458吉野山に5,000人を招いて大規模な花見を開催。【豊公吉野花見】
猶子・豊臣秀俊(小早川秀秋)を小早川隆景の養子に入れる。
159559関白・豊臣秀次に謀反の疑いがかかる。高野山に流罪としたうえで切腹させる。首を三条河原に晒し、秀次の遺児や側室、侍女ら29名を処刑する。【秀次切腹事件】
徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景を五大老に任命する。
徳川秀忠に養女・浅井長政の娘(江)を嫁がせる。
方広寺を創建。
159660明国との講和交渉が決裂。
9/1に慶長伊予地震が発生。薬師寺本堂、仁王門、鶴岡八幡宮が倒壊。
9/4に慶長豊後地震が発生。瓜生島、久光島が津波で沈む。
9/5に慶長伏見地震が発生。伏見城、方広寺の大仏が倒壊。
文禄から慶長に改元する。
159761京と大坂でキリシタン24名を捕縛、2人を加え長崎に移送して処刑する。【日本二十六聖人】
*小早川秀秋を総大将として14万の日本軍を朝鮮国に出兵。【慶長の役】
159862大坂城が外郭部まですべて完成。
醍醐寺三宝院の山麓に1,300人を招いて大規模な花見を開催。【醍醐の花見】
徳川家康を筆頭とした五大老・五奉行を制度化して嫡男・秀頼を託す。
山城国・伏見城で病死。
戦国時代で豊臣秀吉が生きた期間の表
豊臣秀吉の顔イラスト
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