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とよとみ ひでよし

豊臣秀吉

1537.3.17 〜 1598.9.18

 
豊臣秀吉のイラスト
  

豊臣秀吉(羽柴秀吉、木下藤吉郎)は、現在の愛知県西部にあたる尾張の武将・大名です。貧しい身分の出ですが、織田信長のもとで頭角を現し、出世していきます。信長の死後、巧みな手腕で全国の大名を従えていき、天下統一を果たします。天皇に次いで身分が高い関白・太政大臣まで上りつめました。享年62歳。

豊臣秀吉の人物タイプ
英雄

このページでは、豊臣秀吉が何をしたどんな人なのか、ハイライトやエピソードを紹介しています。戦国武将・豊臣秀吉のことがきっと好きになります。

  • 出身地:尾張(愛知県)
  • 特 徴:愛嬌があり人に好かれる
  • あだ名:サル、ハゲねずみ
  • 戦 績:143戦 106勝 22敗 15分
  • 領 地:日本全国
  • 居 城:長浜城 → 姫路城 → 大坂城

農民から成り上がって先見性と嗅覚と実行力で天下統一を果たした

明智光秀が起こしたクーデター(本能寺の変)によって生じた千載一遇のチャンスを逃さず、いち早く行動を起こした豊臣秀吉は、主君の仇・光秀を破り、織田家中での立場を有利なものにします。瞬く間に織田家の諸将を粛清し、全国の大名を調略・攻撃によって懐柔しました。

織田信長も成しえなかった天下統一を果たし、田畑の生産量基準を制定する太閤検地、治安の向上を目的とした刀狩令、海賊停止令、バテレン追放令などの政策を遂行し、豊臣秀吉は日本国という大きなひとつの国としての国家運用に取り組みました。

豊臣秀吉が出世できたのは、嗅覚・スピード・ビジョンに優れていたからにほかなりません。

豊臣秀吉という人物は、つねに一番大きな手柄を狙い続けています。最たる例が明智討伐であり、主君・信長の敵討ちという特大の成果を得るために備中(岡山県西部)から京都・山崎まで、200kmの距離をたった7日で移動する「中国大返し」をやってのけます。
備中高松城の包囲を解き、交戦していた毛利氏に信長死亡を悟られないように講和すると、京に急行して山崎の戦いで明智軍を撃破します。一連の行動は、信長亡きあとに織田家中でおこる権力争いでイニシアチブを取るためでした。

【中国大返し】7日間で200kmの距離を移動した

中国大返しでは、兵装を軽くして移動しやすくする、機動力がある騎馬隊を先行させるなど、いち早く明智軍まで踏破できるようにして ”ヒデヨシ、迫る” というプレッシャーを光秀に与える策略としても機能したと考えられています。さらに「信長公は生きている、信忠様は無事」といった内容の書状を作成。これは本能寺の変が不発に終わったと思わせる偽の情報で、明智と親しい畿内勢力の動きを牽制する情報操作をしています。

たった3日で清洲の改修工事を完了させた「三日普請」、一夜にして敵地に砦を築く「墨俣一夜城」など、豊臣秀吉の出世エピソードは多々あります。速く、確実に、インパクトがある成果を出すことが重要だったのはもちろんですが、織田信長という身分にこだわらない新しい感覚をもった主君の下で働いたという点も、豊臣秀吉が出世した大きなポイントです。

驚くべきことに、信長のもとに就職をきめた18歳の時点で、豊臣秀吉は出世できる場所として信長を選んだ先見性を持っていました。
豊臣秀吉のサクセスストーリーは、偶然や場当たり的なものではないということです。

[生涯] わかりやすい解説

① 出自

尾張国の愛知郡中村郷の身分が低い家に生まれます。父親は不明。
木下(藤吉郎)秀吉と名乗り、15歳のころに今川家臣・松下之綱に仕えますが、仲間の嫌がらせにあって去りました。

② 織田信長に仕える

18歳のころから織田信長のもとで働くようになると、草履取り、馬の世話係などからはじまって、みるみる出世。斎藤龍興の家臣を味方にする、墨俣一夜城など、美濃攻めでブレイクします。
金ヶ崎の戦いや小谷城の戦いでも活躍して、名前を羽柴秀吉に変えました。

③ 転機

大きな軍団の指揮官になり、播磨、但馬、つづいて備中を攻めていると、本能寺の変で信長が討たれます。
すぐに駆けつけて、山崎の戦いで明智光秀をやぶって信長の仇をうちました。これをきっかけに、秀吉は天下統一を目指すようになります。
信長の後継者をきめる清洲会議で対立した柴田勝家をやっつけて織田家をおさえこむと、徳川家康と戦って家来にしました。

④ 天下統一

日本の半分以上を領地にすると、関白になって豊臣秀吉と名乗ります。
さからえる大名もほとんどいなくなり、四国地方の長宗我部元親、九州地方の島津義久、奥州地方の伊達政宗が秀吉に降参しました。
関東地方の北条氏政・氏直父子がこもる小田原城を20万の大軍で包囲し、降伏させて天下統一を達成しました。

⑤ 朝鮮出兵

日本を統一したので、つぎは朝鮮を攻めます。ジャパンオールスターズで2度チャレンジした朝鮮攻めは失敗に終わりました。
朝鮮出兵で疲れた大名たちは、意味がない戦争をやらされて、秀吉のことが信用できなくなりました。
なかなか子どもに恵まれなかった秀吉に豊臣秀頼が生まれます。
秀頼が生まれたので、後継者としていた甥・豊臣秀次を切腹させてしまいます。

⑥ 最後

まだ幼い秀頼のことを徳川家康にお願いして、大坂城で生涯を終えました。
脳梅毒、腎虚、大腸がん、赤痢などが死因と考えられています。
晩年はキリスト教の弾圧や、感情的な理由で庶民を処罰するなど、老害っぷりも目立つようになっていました。

豊臣秀吉の簡単な年表
豊臣秀吉の領地・勢力図(1590年)

[性格] どんな人?人物像

豊臣秀吉の能力チャート

間違いなく計算高いタイプの人です。なにが重要か、いち早く嗅ぎ分けて、ライバルを圧倒するスピードで行動できます。機転のよさは先見性にも発揮されています。
身分が低い出であるため、読み書きは苦手です。それでいて敵将を説き伏せられたのは、相手によって下手にでたり、押さえつけたり、どう接するべきか計算できたから。

嫉妬深く、外見や身分に対するコンプレックスが異常で、壁に秀吉を中傷する落書きをした犯人を捕らえられなかったとして、門番の耳鼻を削いで処刑するなど、タブーに触れられると過剰な反応をしています。
弱者には高圧的に、金品で人心を支配するといった性根の悪さも見え隠れしています。

身長154cmと背が低く、眼が飛び出ており、髭は少ない。醜悪とまで言われる容貌でした。左手に指が6本あったため、手袋で隠していたのは有名な話です。

豊臣秀吉の逸話・面白いエピソード

そこをなんとか!で丸め込んでしまう人たらし

美濃・斎藤氏を出奔した天才軍師・竹中半兵衛は、職務に心が折れてしまい、引退して山奥で暮らしていました。秀吉はスカウトしようとしますが、半兵衛にキッパリと断られていまいます。しつこく何度も通って「そこをなんとか!」と頼み込むと、半兵衛もついに秀吉の家来になりました。

人たらしといわれた豊臣秀吉

諸将の前で秀吉と徳川家康が会う約束をしたおり、会見の前夜に秀吉は家康の部屋をアポなしで訪問します。家康は秀吉の家来になるつもりはありませんでしたが「そこをなんとか!」かたちだけでも頭を下げてくれるように頼み込みます。会見当日、諸将の前で家康は秀吉に頭を下げ、一同も「徳川家康が従うなら…」と秀吉のもとで団結することを決めました。
そこをなんとか!でなんとかなってしまうコミュニケーションおばけです。

なんと側室が300人もいた

戦国の大名には側室(奥さんではないが親密にしている女性)がいることは珍しくありませんが、秀吉には側室が多すぎます。300人の側室がいたという記録が残っています。ルイス・フロイスは ”極悪な欲情は止まるところを知らず” と秀吉のことを記しています。

豊臣秀吉には側室がたくさんいた

側室たちの多くは秀吉が奪い取った領主の夫人。ふつうに考えれば屈辱的な状況ですが、なんと夫人たちは秀吉との暮らしに満足していたといいます。あまたの側室レースでは、秀吉の子・秀頼を産んだ淀の方がぶっちぎりの1位。淀の父親の浅井長政は戦国一のイケメン、さらに母親は織田信長の妹というSランクキャラでもあります。

本当の名前がよくわからない

”余は太閤・豊臣秀吉である”
その前は ”拙者、羽柴秀吉と申す”
またその前は ”それがし、木下藤吉郎と申します”。
出世魚のごとく、コロコロと名前を変えています。
秀吉が名乗っていた ”羽柴” とは、織田の重臣であった丹羽長秀から「羽」の字、柴田勝家から「柴」の字をもらったもの。まさにとってつけた名前で、ここでも後輩力を発揮しています。

秀吉は、尾張愛知郡中村郷の出身とされていますが、足軽、農民、木こりなど、そもそもの出自が曖昧です。身分の低さを気にしてか、じつは天皇の隠し子だったという作り話を自ら流します。
秀吉の母が妊娠中に「日輪が懐中に重なる夢を見た」として、幼名を日吉丸と名付けたという神サマ創作メルヘンまで飛び出しています。

豊臣秀吉の戦い・有名な合戦

金ヶ崎の戦い かねがさきのたたかい 1570.4.28 ● 織田&徳川軍3万 vs 浅井&朝倉軍2万5千 ○

越前の朝倉義景を攻めていた織田信長を朝倉軍と浅井軍が金ヶ崎(福井県敦賀市金ヶ崎町)で挟み撃ちにした戦い。浅井長政の裏切りによって、織田軍は撤退を余儀なくされる。木下秀吉が、客将として参戦していた明智光秀ととも撤退戦の殿を担い、信長を無事に逃げさせた。

金ヶ崎の戦いで豊臣秀吉は敗れています。とはいえ、秀吉が活躍したのは撤退戦の殿(しんがり)ですので、主君・信長を無事に逃したというのは大きな功績です。金ヶ崎の退き口とも呼ばれるこの退却戦は、非常に難しいミッションでしたが、明智光秀とともに成功させました。

小谷城の戦い おだにじょうのたたかい 1573.8.8 〜 9.1 ○ 織田軍3万 vs 浅井軍5千 ●

信長に叛いた浅井長政を殲滅するべく、織田信長が小谷城(滋賀県長浜市湖北町)を攻めた合戦。小谷山を要害とした堅城を攻略するため、織田軍の木下秀吉は、城内を分断する作戦を実行する。崖を登って奇襲に成功し、小谷城を陥落させた。これにより、浅井氏は滅亡した。

小谷城の戦いで豊臣秀吉は勝っています。秀吉が考案し、実行した作戦によって、織田信長は宿敵であった浅井氏を攻め滅ぼしました。

備中高松城の戦い びっちゅうたかまつじょうのたたかい 1582.4.15 〜 6.4 ○ 織田軍3万 vs 毛利軍5千 ●

毛利氏の攻略を命じられた羽柴秀吉が備中高松城(岡山県岡山市北区高松)を攻めた合戦。秀吉は蜂須賀正勝に命じて、足守川の水をせきとめる高8m、幅12mの堤防を構築する。作業員に高額の報奨金を与えて12日で堤防を完成させ、清水宗治が篭る高松城は水没した。

備中高松城の戦いで豊臣秀吉は勝っています。城のまわりを水で埋めてしまう前代未聞のスペクタクルな方法によって、秀吉の得意技 ”財力で戦意を喪失させる” が炸裂した戦いです。本能寺の変の知らせが届いたため、秀吉は毛利氏と和睦します。

山崎の戦い やまざきのたたかい 1582.7.2 ○ 羽柴軍4万 vs 明智軍1万6千 ●

本能寺で織田信長を討った明智光秀と駆けつけた羽柴秀吉が山崎(京都府長岡京市)で激突した合戦。天王山の戦いとも呼ばれる。秀吉は中国地方で毛利氏と交戦中だったが、これを停戦し、急行した。予想外の速さで現れた羽柴軍に明智軍は劣勢となり、敗走した。

山崎の戦いで豊臣秀吉は勝っています。本能寺の変で信長が討たれた報をきいた秀吉は、すぐさまこれをチャンスとして動きます。信長の仇敵・明智光秀を討って天下取りに名乗りをあげました。まさしく秀吉のターニングポイントになった一戦です。

賤ヶ岳の戦い しずがたけのたたかい 1583.3.12 〜 4.23 ○ 羽柴軍5万 vs 柴田軍3万 ●

信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの加藤清正ら若手武将が活躍した。

賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉は勝っています。秀吉が本格的に天下取りに動き出すはじめの一歩となった合戦です。織田家臣団で唯一の対抗馬だった柴田勝家を討ったことで、いよいよ対外的に勢力を拡げていきます。

小牧・長久手の戦い こまき・ながくてのたたかい 1584.3.13 〜 11.12 △ 羽柴軍10万 vs 織田&徳川軍3万 △

信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。

小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉は引き分けています。野戦上手の徳川家康に有利な局面がつづいて苦戦しますが、織田信雄と和睦して、家康が戦う理由をなくさせます。頭脳プレーで家康との決着を避けて、豊臣政権の中核に抱きこむことに成功しました。

根白坂の戦い ねじろざかのたたかい 1587.4.17 ○ 豊臣軍15万 vs 島津軍3万5千 ●

惣無事令に違反して大友領を攻めた島津氏の討伐軍を豊臣秀吉が派兵した。豊臣秀長を総大将とした15万の大軍を相手に島津義弘が奮戦しますが、敗れて後退、根白坂(宮崎県児湯郡木城町)で決戦となった。黒田官兵衛は島津軍の夜襲を見抜いて返り討ちにした。

根白坂の戦いで豊臣秀吉は勝っています。このときの島津氏は九州統一を目前に迫っており、私戦・領土紛争を禁ずる(惣無事令)という秀吉の命令に違反して、大友氏を攻めたため、討伐しました。島津氏を従えたことで、秀吉が九州を制圧しました。

小田原征伐 おだわらせいばつ 1590.4.3 〜 7.5 ○ 豊臣軍21万 vs 北条軍5万6千 ●

天下統一を目前にした豊臣秀吉が小田原城(神奈川県小田原市)と、関東の諸城に大攻勢をかけた合戦。小田原城を大軍で包囲。籠城する北条氏直と、隠居の北条氏政、北条氏の重臣たちは結論がでない会議を繰り返したのち、開城降伏した。小田原攻め、小田原の役とも。

小田原征伐で豊臣秀吉は勝っています。日本のほぼ全土を従えた秀吉は、小田原城に篭った北条父子を降伏させて、天下統一を達成しました。織田信長が成し遂げられなかった偉業を達成し、豊臣秀吉が日本の歴史に金字塔を立てた出来事です。

豊臣秀吉の年表・出来事

豊臣秀吉は西暦1537年〜1598年(天文6年〜慶長3年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
徳川家康の6歳上、明智光秀の9歳下、柴田勝家の15歳下です。
織田信長より3年あとに生まれています。

15371尾張に生まれる。
155115名前:木下(藤吉郎)秀吉
今川家臣・松下之綱に仕える。
155418織田信長に仕える。
156125浅野長勝の養女で杉原定利の娘(ねね)と結婚。
156428松倉城主・坪内利定、鵜沼城主・大沢正秀ら、斎藤龍興の家臣の調略を成功させる。
156630尾張の国衆・蜂須賀正勝、前野長康を家来にする。
織田氏の美濃攻略、墨俣作戦で砦を建築する。【墨俣一夜城】
156832”観音寺城の戦い”六角氏との戦に参加。
明智光秀、丹波長秀とともに京都で政務を行う。
156933織田信長の命令により2万の兵で但馬を攻める。10日間で18城を攻略し、山名祐豊を追い出す。
157034”金ヶ崎の戦い”浅井氏&朝倉氏の挟撃に遭い撤退する織田軍の殿(しんがり)を担い、信長本隊を無事に退却させた。
”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。
157135”比叡山焼き討ち”比叡山延暦寺との戦に参加。
157337”一乗谷城の戦い”朝倉氏との戦に参加。朝倉家滅亡
”小谷城の戦い”浅井長政が篭る本丸と父・久政が篭る京極丸を陥落させる。浅井家滅亡
北近江・長浜城の城主となる。
改名 → 羽柴秀吉
157539”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。
157741加賀に進軍していた柴田勝家陣営から離脱。織田信長の逆鱗に触れる。
”信貴山城の戦い”松永久秀との戦に参加。
織田信長から中国地方攻略の軍団長を命ぜられる。調略によって播磨の諸将を服属させる。
157842”第1次上月城の戦い”播磨の上月城を毛利氏から奪取。
”三木合戦”謀反を起こした別所長治の三木城を包囲する。
158044別所長治が切腹、三木城を開城させる。別所家滅亡
播磨を平定。
158145”鳥取城の戦い”因幡に侵攻し、兵糧攻めの末に鳥取城を開城させる。
158246”備中高松城の戦い”備中の高松城を水没させる水攻めを敢行。本能寺の変が起こり、交戦中の毛利輝元と講和。京に行軍。【中国大返し】
”山崎の戦い”織田信長を討った明智光秀を京都山崎で撃破。
信長の後継者を決める会議で主導権を握る。三法師(信長の孫)を後継者とし、織田信孝を三法師の後見人とする。【清洲会議】
北近江の長浜城を包囲。調略によって柴田勝豊を降伏させる。
美濃に侵攻し、加治木城を攻撃。斎藤利堯を降伏させる。
織田信孝から三法師を取り上げる。
石高の基準を均一化する検地を開始。【太閤検地】
158347”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家と北近江で争い、勝利する。
”北ノ庄城の戦い”賤ヶ岳で勝利した勢いのまま強襲し、柴田勝家は自害、北ノ庄城を陥落させる。
加賀、能登、越中の織田領を攻略。前田利家、佐々成政、滝川一益らを降伏させ、織田信孝を自害させる。
摂津・石山本願寺の跡地に大坂城の築城を開始する。
158448織田信雄と対立。
”小牧・長久手の戦い”織田信雄を支援した徳川家康と尾張北部を中心に周辺地域で争う。徳川家康の次男・於義丸を養子にすることで和議を結ぶ。
158549”四国征伐”四国統一を果たしていた長宗我部氏に対して10万の軍勢を派遣。
長宗我部元親が降伏。四国地方を平定。
関白に補任。
大坂城の天守が完成、居城を移す。
九州地方の大名に領土紛争を禁止する。【惣無事令】
158650改名 → 豊臣秀吉
太政大臣に就任、豊臣政権を確立する。
上杉景勝が配下になる。
徳川家康が配下になる。
”九州征伐”九州の大部分を支配していた島津氏の討伐軍を派遣。先鋒隊が局地戦で敗れる。
158751”根白坂の戦い”島津氏に対して15万の軍勢を派遣。豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の大名・国人衆を降伏させる。
島津義久が降伏。九州地方を平定。
キリスト教宣教と南蛮貿易を禁止する。【バテレン追放令】
関東と奥羽地方の大名に領土紛争を禁止する。【惣無事令】
158852農民および海民の武装を禁止する。【刀狩令・海賊停止令】
毛利輝元が配下になる。
159054関東地方の諸勢力が配下になる。
最上義光が配下になる。
伊達政宗が配下になる。
”小田原征伐”関東地方で唯一抵抗していた北条氏の小田原城を20万の大軍で包囲。北条氏の降伏により開城、天下統一を果たす。北条家滅亡
東北地方の領土再編を行う。【奥州仕置】
159155武士、町人、百姓の身分を固定する。【身分統制令】
甥・豊臣秀次に関白を譲り、太閤となる。
15925616万の軍勢を朝鮮に出兵。【文禄の役】
159357伏見城が完成、居城を移す。
世継ぎ・秀頼が誕生。
159559謀反の疑いがあるとして、甥・秀次から関白職を剥奪し高野山に追放。秀次に切腹を命じ、その家族を処刑した。【秀次切腹事件】
159761京都と大坂のキリシタンを捕縛・処刑する。
14万の軍勢を朝鮮に出兵。【慶長の役】
159862大坂城が外郭部まですべて完成。
徳川家康を筆頭とした五大老・五奉行を制度化し、子・秀頼を託す。
死去。
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