たちばな むねしげ

立花宗茂

1567.9.20 〜 1643.1.15

 
立花宗茂の面白いイラスト
  

立花宗茂(俊正、親成、高橋統虎)は、現在の大分県にあたる豊後国の武将です。高橋紹運の長男に生まれますが、名将・立花道雪の娘・誾千代の婿養子となって立花家を継ぎます。クレバーな戦略と武勇で数々の激戦を戦って生涯無敗。豊臣秀吉から九州の逸物と称され、朝鮮出兵でも日本無双と激賞されました。享年77。

立花宗茂は何をした人?このページは、立花宗茂のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと立花宗茂が好きになる「西国無双、日本無双と絶賛されて生涯無敗で強かった」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:高橋統虎 → 戸次統虎 → 立花統虎 → 立花鎮虎 → 立花宗虎 → 立花正成 → 立花親成 → 立花政高 → 立花尚政 → 立花俊正 → 立花経正 → 立花信正 → 立花宗茂 → 立花立斎
  • 幼 名:千熊丸
  • あだ名:西国無双、西国一の弓取り、九州の逸物、九州の鶚鷹、鬼将軍、武神、飛将軍、常勝将軍
  • 官 位:従五位下侍従、従四位下、飛騨守、贈従三位
  •  藩 :棚倉藩主、柳河藩主
  • 出身地:豊後国(大分県)
  • 居 城:立花山城 → 柳川城 → 棚倉城 → 柳川城
  • 正 室:誾千代(立花道雪の娘)、八千子(矢島秀行の娘)、菊子(葉室頼宣の娘)
  • 子ども:6養
  • 跡継ぎ:立花忠茂
  • 父と母:高橋紹運 / 宋雲院
  • 養 父:立花道雪
  • 大 名:大友宗麟豊臣秀吉徳川家康徳川秀忠 → 徳川家光

西国無双、日本無双と絶賛されて生涯無敗で強かった

立花宗茂は、豊臣秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と称賛(しょうさん)された豪傑(ごうけつ)です。

東の本多忠勝とは徳川家康の家臣で、57回の戦いで一度も怪我(けが)をしなかったという猛将(もうしょう)。この怪物(かいぶつ)比較(ひかく)されて並び立つ傑物(けつぶつ)が立花宗茂でした。

立花宗茂は、落ちぶれつつあった大友氏を支えたふたりの名将、風神こと高橋紹運と雷神(らいじん)畏怖(いふ)された立花道雪に育てられます。

実父・高橋紹運から受け()いだ素質と、養父・立花道雪のスパルタ教育が生んだ傑作(けっさく)で、それはそれは強かったのです。


九州の逸物、
日本無双と呼ばれる

島津義久を中心とした島津氏が九州を席巻した1586年、大友氏の領土もその脅威(きょうい)にさらされ、諸城が陥落(かんらく)していまいます。立花宗茂の実父・高橋紹運も、島津氏との戦いのなかで玉砕(ぎょくさい)しました。

もちこたえられそうもない状況(じょうきょう)に、大友氏の当主・大友宗麟は豊臣秀吉に救援(きゅうえん)を求め、島津討伐軍(とうばつぐん)が来てくれることになりましたが、到着(とうちゃく)までしばらくかかる。

このふんばりどころで、立花宗茂が奮闘(ふんとう)します。

博多港をおさえる要所である立花山城を守る立花宗茂は、島津忠長が率いる5万の軍勢に囲まれますが、城に(こも)るどころかむしろ()って出ます。

父・紹運との戦いで島津兵が疲弊(ひへい)していることを予想し、奇襲(きしゅう)()り返して、敵本陣(てきほんじん)から数百の首級をあげ、兵糧(ひょうろう)部隊2千のうち7百、秋月隊2千のうち4百を討ち取り、島津軍を撤退(てったい)させました。ついでに島津氏に(うば)われた城まで取り返します。

ほどなくして九州に到着(とうちゃく)した豊臣秀吉は、島津兵が追い(はら)われている様子に(おどろ)き、立花宗茂を「九州の逸物(いつぶつ)」と最大の賛辞を送りました。

1598年の慶長(けいちょう)(えき)では、(みん)朝鮮(ちょうせん)の連合軍3万に蔚山城(うるさんじょう)を包囲された加藤清正のピンチを救うため、1千の兵で敵陣(てきじん)夜襲(やしゅう)。見事、局面を打開するきっかけをつくります。

(とら)退治で知られる加藤清正も「日本軍第一の勇将」と感激し、秀吉も「日本無双(むそう)」と立花宗茂の働きを激賞しました。


怖いくらい当たる
戦況予想

いわゆる武勇一辺倒(いっぺんとう)の脳筋武士ではなく、戦況(せんきょう)予想をズバズバ的中させます。

立花宗茂は数々の戦いで戦況予想を的中させた

1615年の大坂夏の(じん)では、敵将・大野治房や毛利勝永が徳川秀忠の(じん)()めること、豊臣秀頼は出馬しないなど、豊臣方の動向を完璧(かんぺき)に言い当てました。

キリシタンたちが一揆(いっき)を起こした1638年の島原の乱では、71歳にして戦場に立ち、一揆勢(いっきぜい)の様子から黒田隊への夜襲(やしゅう)を予知して大当たり。

立花宗茂の戦術眼の(するど)さに周囲はいつも(おどろ)かされ、彼が出陣(しゅつじん)した戦いで負けたことは一度もありませんでした。

豊臣秀吉は立花宗茂を「西国一」と評し、徳川家康は「上杉謙信や武田信玄と同等の器」と絶賛したといいます。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1567年、立花宗茂は豊後国(ぶんごのくに)・国東郡(かけい)に高橋紹運の長男として生まれます。少年期にはすでに優れた武勇で知られ、男子がいなかった立花道雪に見込(みこ)まれて道雪の(むすめ)誾千代(ぎんちよ)結婚(けっこん)し、婿(むこ)養子になります。九州で勢力を拡大する島津氏と争う大友氏を支えて、父や養父らと協力して戦いました。

豊臣第一の勇将として

豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)から豊臣氏に加わり、大名に取り立てられ、朝鮮(ちょうせん)出兵では無双(むそう)(しょう)される活躍(かつやく)をします。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは反徳川の西軍に属したことから改易され、たくさんのスカウトがあったものの、牢人(ろうにん)となりました。

最後と死因

その後、徳川家康に仕えて復帰。棚倉藩主(たなくらはんしゅ)を経て柳河藩主(やながわはんしゅ)になります。島原の乱など、晩年まで戦場に立った立花宗茂は、武蔵国(むさしのくに)・江戸の柳原(やなぎはら)にある柳河藩邸(やながわはんてい)で亡くなりました。1643年1月15日、死因は老衰(ろうすい)または病気。77歳でした。

領地と居城

立花宗茂の領地・勢力図(1620年)

筑後国(ちくごのくに)柳河(やながわ)13万2千石が立花宗茂の領地でした。関ヶ原の戦いで改易、没収(ぼっしゅう)されましたが、のちに旧領復帰を果たしています。

立花宗茂の性格と人物像

立花宗茂は「育ちがよくて多才な人」です。

戦場では(かしこ)さと豪快(ごうかい)さをあわせ持つ(こわ)い人ですが、いつもは大人しく素直で(かざ)り気がなく、領民からも(した)われていました。温厚で誠実。手柄(てがら)自慢(じまん)することもしません。

裕福(ゆうふく)な家に育ったからか、庶民(しょみん)の感覚が理解できない一面も。米が足りず食事に雑炊(ぞうすい)を用意した家来に「汁かけで食べたかったら自分でやるから変に気をつかうな」と注意し、事情がわかりません。

武芸は(ちょう)一流です。丸目蔵人に学んだ剣術(けんじゅつ)はタイ捨流の免許皆伝(めんきょかいでん)、自らも刀を抜き放つ剣法(けんぽう)抜刀術随変流(ばっとうじゅつずいへんりゅう)』を編み出します。弓術は3人の師匠(ししょう)に学び、日置流の皆伝(かいでん)です。

笛をふくのが()やしの趣味(しゅみ)蹴鞠(けまり)皆伝(かいでん)腕前(うでまえ)。連歌、書道、香道、狂言(きょうげん)、能楽、舞曲(ぶきょく)、料理、手作りの仏像や花器など多彩(たさい)な技能を持ち、文化人としてもトップクラスです。

茶道にも精通しており、千利休七哲(しちてつ)の細川忠興からも一目置かれ、茶器を貸し借りする仲でした。

身長180cmで体格が良く、相撲(すもう)が得意。大きな馬に乗っていました。大酒飲みの酒豪(しゅごう)で、戦いの前でも大盃(おおさかずき)を軽々と飲み干します。戦術を考えるときは煙草(たばこ)を吸っていました。

大きな円形の(かざり)りと(にわとり)の羽が特徴的(とくちょうてき)甲冑(かっちゅう)伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足(いよざねぬいのべくりいろかわつつみほとけまるどうぐそく)』は、実際に着用していた物が現存しています。

能力を表すとこんな感じ

立花宗茂の能力チャート

立花宗茂は戦闘(せんとう)能力が突出(とっしゅつ)しています。戦況(せんきょう)を読む感覚にも長けており、優位に進める調略術も見事で、行動を起こすタイミングも外しません。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する立花宗茂の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

立花宗茂の面白い逸話やエピソード

強すぎる父たちに育てられる

立花宗茂を育てたふたりの名将、実父・高橋紹運と養父・立花道雪は、ともに大友氏になくてはならない重臣で親友同士でした。

道雪には男子がおらず、(むすめ)誾千代(ぎんちよ)を武将として育てていましたが、紹運の長男に豪傑(ごうけつ)の可能性を見出し、娘婿(むすめむこ)として養子に切望します。

ふたりはよく話し合い、立花宗茂は誾千代(ぎんちよ)婿養子(むこようし)となるのでした。

立花宗茂には強くて怖い父がふたりいた

婿(むこ)に行くおり、実父・高橋紹運から「高橋と立花に争いが起こったら俺を討て」「道雪殿から立花の家を追い出されるようなことがあったら自害せよ」と刀を手渡されました。

ひとり(むすめ)にも容赦(ようしゃ)のない武将教育をしていた養父・立花道雪は、娘婿(むすめむこ)にはさらに厳しい教育を(ほどこ)します。

いささかお()っちゃん気質だった宗茂は、実父から()き放され、養父によって性根から(きた)え直されるのでした。

お坊っちゃん育ちで空気が読めない

宗茂の養父・立花道雪はとてもおっかない人。13歳のころ、養父・道雪にともなって山を散歩していると、イガのついた(くり)(ふ)んづけてしまいました。

側にいた者に「この(くり)を取ってくれ」と命じると、道雪の家臣が走ってきて、宗茂の足の裏に刺さった(くり)押しこみました。

ぎゃーと声を上げそうになったとき、養父が(おそ)ろしい顔でにらみつけていることに気づき、(さけ)ぶのをこらえました。

自分が()んだ(くり)くらい自分で取れという養父・道雪の教育的メッセージだったようで、()っちゃん育ちの宗茂は意味がわからずに苦労したといいます。


節約生活の習慣が
身につかない

関ヶ原の戦いのあと、宗茂はわずかな家来をつれて牢人(ろうにん)となります。貧しい暮らしでは主従が支え合うようにして生きていました。

少しでも節約するため、家来が残飯を日干しにして出かけると、雨が降ってきました。家来たちは「殿(との)は飯を取りこんでくれただろうか……」と、干した飯が気にかかります。

庭先に飯が置いてある意味が宗茂にはわからなかったので、家来たちが屋敷(やしき)に帰ると、飯は雨でびしゃびしゃになっていました。

豪胆すぎて行動がおかしい


見世物見物は
やめません

まだ8歳のころ、見世物を見ていると近くでケンカがあり、死人まで出る(さわ)ぎになりました。見物に集まっていた人々はパニックになって()(まど)いますが、宗茂少年は平然としています。

家来たちが宗茂にも早く()げるように言うと「見世物はもう終わりか?それにあのケンカの相手は我々ではないのだから、お前たちが(あわ)てるとは面白い」と笑い、最後まで見物して帰りました。


敵の眼の前で
いただきます

碧蹄館(へきていかん)の戦いで、宗茂は敵の大軍勢を前にしてランチセットを広げ、おにぎりをもぐもぐ食べはじめました。

心配した家臣が、なぜそんな危ないことをするのか理由を聞くと「むかし、上杉謙信も小田原城を()めたときに城兵の前で悠然(ゆうぜん)と飯を食べた」と答えたそうです。

立花宗茂の有名な戦い

立花山城の戦い たちばなやまじょうのたたかい 1586.10.? ● 島津軍3万 vs 大友軍3千 ○

弱体化した大友氏を打倒するため、島津忠長が立花山城(福岡県福岡市東区)を攻めた合戦。籠城する立花統虎は豊臣氏の九州征伐軍の到着を待ち、内田鎮家を通じて開城降伏するという偽計で時間を稼ぐ。立花勢から本陣への奇襲を受けて島津軍は撤退した。立花城の戦いとも。

立花山城の戦いで立花宗茂は勝っています。

立花宗茂のターニングポイントになった戦いです。
敵本陣(てきほんじん)への奇襲(きしゅう)で数百を討ち取り、撤退(てったい)を開始した島津軍に猛烈(もうれつ)追撃(ついげき)を加えました。その後、高鳥居城を攻略(こうりゃく)し、高屋城も奪還(だっかん)します。この働きが豊臣秀吉から「鎮西一(ちんぜいいち)、九州の逸物(いつぶつ)」と評価されています。

九州征伐 きゅうしゅうせいばつ 1586.10.? ○ 豊臣軍? vs 島津軍? ●

惣無事令に違反して大友領を攻めた島津氏の討伐軍を豊臣秀吉が派兵した。毛利輝元を先導役とした豊臣軍は門司城(福岡県北九州市門司区)に着陣。島津義久が抗戦の姿勢を見せ、秋月種実に迎撃させたことで戦いが始まり、大友領をめぐって雌雄を決することとなる。九州の役とも。

九州征伐(せいばつ)で立花宗茂は勝っています。

肥後国(ひごのくに)から攻め入る豊臣軍の先鋒(せんぽう)を務めて無類の働きをしています。

肥後国人一揆 ひごこくじんいっき 1587.8.13〜 1588.1.24 ○ 豊臣軍6万 vs 国人一揆軍3万5千 ●

九州征伐後、秀吉から肥後国の統治を命じられた佐々成政が性急に領国化を進めた。これに反発した隈部親永ら国人が挙兵。成政は鎮圧に向かうが苦戦し、隈本城(熊本県熊本市中央区)を攻められる。苦境を救うため、立花統虎らが援軍に加わると佐々勢が一揆を鎮圧した。

肥後国人一揆(いっき)で立花宗茂は勝っています。

実弟・高橋直次と佐々軍の第2次援軍(えんぐん)に加わり、1日に13回の戦闘(せんとう)をし、一揆勢(いっきぜい)の城7つを落とし、敵将を(ふく)む650の首級をあげています。降伏した一揆(いっき)のリーダー格・隈部親永を預かったのち、放し討ちによって処刑(しょけい)しています。

碧蹄館の戦い へきていかんのたたかい 1593.2.27 ● 明&朝鮮軍2万 vs 日本軍2万 ○

漢城に向けて侵攻する明&朝鮮の連合軍と日本軍が、碧蹄館(大韓民国京畿道高陽市)周辺で衝突した合戦。立花宗茂がこれを迎撃し、奮戦。先鋒隊を率いた小早川隆景は、部隊を3つに分けて埋伏させ、機をみて連合軍を囲い討ちにし、明軍前衛を撃破した。

碧蹄館(へきていかん)の戦いで立花宗茂は勝っています。

先陣(せんじん)をつとめ、8百()奇襲(きしゅう)をしかけて追い散らし、猛追撃(もうついげき)大打撃(だいだげき)を加えました。翌日の戦闘(せんとう)では金備えの兵を率いて長槍(ながやり)や長刀を手に一騎駆(いっきが)けし、15人を討ち取っています。宗茂の馬は返り血を浴び、(くら)の両側に(かぶと)首が2つずつ、激戦で曲がった刀は(さや)に収まりませんでした。

蔚山城の戦い うるさんじょうのたたかい #1:1598.1.29 〜 2.9 ● 明&朝鮮軍5万7千 vs 日本軍2万3千 ○ #2:1598.10.? 〜 11.? ● 明&朝鮮軍3万 vs 日本軍1万 ○

日本軍が築いた蔚山倭城(大韓民国蔚山広域市)で二度行われた攻防戦。築城中に襲撃を受けた第1次で日本軍は兵糧攻めに苦しみ、馬の肉を食すほどであった。加藤清正が窮地に陥るが、黒田長政らの援軍を受けて形勢逆転。明&朝鮮軍を撃退し、追撃して大ダメージを与えた。

蔚山城(うるさんじょう)の戦いで立花宗茂は勝っています。

2次合戦で蔚山城(うるさんじょう)救援(きゅうえん)を名乗り出た際、総大将の小早川秀秋から「3千ぽっちの兵なら失敗しても味方に損害はない」と心無い言葉をかけられます。宗茂は1千の兵で救援(きゅうえん)に向かうと、夜襲(やしゅう)(みん)軍5千を蹴散(けち)らし、蔚山城(うるさんじょう)を救いました。

大津城の戦い おおつじょうのたたかい 1600.10.13 〜 10.21 ○ 西軍1万5千 vs 東軍3千 ●

関ヶ原の戦いの前哨戦。東軍・京極高次が篭る大津城(滋賀県大津市)を西軍・毛利元康が攻めた合戦。9日間も猛攻に耐えた大津城は、高次の降伏により開城する。しかし、大津城が降伏した日、関ヶ原で東軍が勝利したため、毛利勢1万5千を足止めさせた結果となった。

大津城の戦いで立花宗茂は勝っています。

千鳥掛(ちどりが)けのような塹壕(ざんごう)を築いて敵の矢弾(やだん)を防ぎ、3倍速のスピードで鉄砲射撃(てっぽうしゃげき)で大津城の鉄砲狭間(てっぽうさま)を閉じさせました。城主・京極高次の助命を約束する矢文を放ち、高次の馬印に命中させています。

大坂夏の陣 おおさかなつのじん 1615.5.23 〜 6.4 ○ 徳川幕府軍16万5千 vs 豊臣軍5万5千 ●

大坂冬の陣から半年後、徳川家康による豊臣氏の殲滅戦。大坂城付近(大阪府藤井寺市、阿倍野区など)で激しい局地戦が行われた。毛利勝永が奮闘し、徳川本陣に真田幸村が決死の突撃をしたが、数で勝る徳川軍が押し切った。大坂城は落城。豊臣秀頼は出陣の機会なく自害した。

大坂夏の(じん)で立花宗茂は勝っています。

豊臣秀頼が出陣(しゅつじん)しないであろうことを予見しています。豊臣方の主戦力である毛利勝永と交戦して退けました。

立花宗茂の詳しい年表

立花宗茂は西暦(せいれき)1567年〜1643年(永禄(えいろく)10年〜寛永(かんえい)19年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15671吉弘鎮理(高橋紹運)の嫡男として豊後国に生まれる。幼名:千熊丸
15693父・吉弘鎮理が高橋氏を継ぐ。
改名 → 高橋(弥七郎)統虎
158115”第2次太宰府観世音寺の戦い”初陣。反大友派との戦に参加。堀江備前を討ち取る。
立花道雪の娘(誾千代)と結婚。戸次氏の婿養子になり家督を相続。
筑前国・立花山城に入る。
改名 → 戸次統虎
158216”岩戸の戦い”反大友派との戦に参加。伏兵500で立花道雪の危機を救う。原田親秀の早良城を攻略。
改名 → 立花(左近将監)統虎
158317”吉原口防戦”反大友派との戦に参加。吉原貞安を討ち取る。
宗像氏との戦に参加。許斐山城を攻略、龍徳城を降伏させる。
158418立花山城の留守を預かり反大友派を撃退。夜襲、火計で敵本陣を混乱させ同士討ちを誘う。
龍造寺領・飯盛城を攻める。
158519養父・立花道雪が死去。
158620島津氏に岩屋城を攻め落とされ実父・高橋紹運が自害。
”立花山城の戦い”島津義久との戦に参加。豊臣秀吉の九州征伐軍の到着を待つ。鍋島直茂と共闘して島津軍を退ける。
”九州征伐”豊臣秀吉の指揮下で島津氏の討伐戦に参加。肥後国から島津領を攻める先鋒を任される。
158721島津領・竹迫城、宇土城を攻略。
島津領・薩摩国に侵攻する。島津忠辰が篭る出水城を攻め落とす。進撃し島津忠長を撃破。島津家臣の伊集院氏、祁答院氏、入来院氏を降伏させて人質をとる。新納忠元が篭る大口城を包囲する。
”肥後国人一揆”佐々成政の援軍として一揆の鎮圧戦に参加。火車懸の戦術で有働志摩守ら敵将を討ち取る。
豊臣秀吉から筑後国・柳川を拝領する。
筑後国・柳川城を居城にする。
矢部川を分流、花宗川をつくる。
158822侍従に就任。
159024”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。北条家滅亡
159226改名 → 立花鎮虎 → 立花宗虎
宇喜多秀家を総大将とした日本軍の6番隊として朝鮮国に侵攻。【文禄の役】
”東萊城の戦い”東萊城攻めに参加。
漢城北方の朝鮮軍を駆逐する。
”第1次平壌城の戦い”小西行長の指揮下で明軍副総裁・祖承訓との戦に参加。
159327”第3次平壌城の戦い”明&朝鮮の連合軍に平壌城が落とされる。龍泉山城まで逃げてきた小西行長を黒田長政と救う。
”碧蹄館の戦い”明軍との戦に参加。実弟・高橋統増(立花直次)と先陣を務める。一騎駆けで15の首級をあげる。
”第2次晋州城攻防戦”晋州城攻めに参加。小早川秀包を助けて劉綎と戦い退ける。
朝鮮国から帰国。
159529改名 → 立花正成 → 立花親成
159731朝鮮国・釜山の守備を命じられる。固城郡に移り安骨浦城の守備をする。【慶長の役】
159832”第1次蔚山城の戦い”明&朝鮮の連合軍との戦に参加。吉川広家と側面攻撃で明軍を敗走させる。
”第2次蔚山城の戦い”明&朝鮮の連合軍との戦に参加。蔚山城の援軍に向かい1千の兵で明軍5千を蹴散らす。
主君・豊臣秀吉が死去。次代・豊臣秀頼に仕える。
”露梁海戦”明&朝鮮の連合軍に包囲さらた小西行長を救出する。島津義弘らと水軍を率いる。朝鮮船60隻を捕獲し日本軍の撤退に使う。
朝鮮国から帰国。
160034石田三成、大谷吉継が反徳川の挙兵。
徳川家康から味方するよう勧誘されるが拒否する。
”大津城の戦い”毛利元康の指揮下で大津城攻めに参加。京極高次の助命を約束し開城降伏させる。
徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利する。
筑後国・柳川に退く。道中、関ヶ原から撤退する島津義弘に加勢する。
”江上・八院の戦い”鍋島直茂が筑後国に侵攻してくる。柳川城に籠城するが黒田官兵衛に説得されて開城する。
九州勢力をまとめる黒田官兵衛に加勢する。
徳川家康の命令で黒田官兵衛の軍が解散。
改易され牢人となる。加藤清正の食客になるが、ほどなくして去る。
改名 → 立花政高 → 立花尚政
160236誾千代が死去。
160337本多忠勝の世話を受けて江戸で蟄居する。
徳川家康に仕える。
徳川秀忠の御伽衆になる。
陸奥国・棚倉藩の藩主になる。【江戸幕府の成立】
陸奥国・棚倉城を居城にする。
改名 → 立花俊正
1604381万石 → 2.5万石
1610442.5万石 → 3.5万石
改名 → 立花宗茂
161448”大坂冬の陣”豊臣氏の討伐戦に参加。
161549”大坂夏の陣”豊臣氏の討伐戦に参加。徳川秀忠の参謀につく。毛利勝永と戦い退ける。豊臣家滅亡
161650主君・徳川家康が死去。次代・徳川秀忠に仕える。
162054筑後国・柳河藩の藩主になる。3.5万石 → 11万石
筑後国・柳川城を居城にする。
163266主君・徳川秀忠が死去。次代・徳川家光に仕える。
163871”島原の乱”一揆の鎮圧戦に参加。総大将・松平信綱を補佐する。
養嗣子・立花忠茂に家督を譲り隠居。
出家 → 立花立斎
164377武蔵国・江戸柳河藩邸で死去。
戦国時代で立花宗茂が生きた期間の表
立花宗茂の顔イラスト
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