とうどう たかとら

藤堂高虎

1556.2.16 〜 1630.11.9

 
藤堂高虎の面白いイラスト
  

藤堂高虎は、現在の滋賀県にあたる近江国の武将です。生涯で7回も主君を変え、風見鶏と揶揄されました。豊臣秀長との出会いによって非凡な才能が開花し、足軽から大名、江戸時代には藩主まで出世します。秀長の死後は徳川家康に仕えて、絶大な信頼を得ました。築城名人として知られ、江戸城を築きました。享年75。

藤堂高虎は何をした人?このページは、藤堂高虎のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと藤堂高虎が好きになる「築城名人はキャリアも積み重ねて転職するたび出世した」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:藤堂高虎
  • 幼 名:与吉
  • あだ名:槍の高虎、戦場の高虎
  • 官 位:従四位下、左近衛権少将、佐渡守、和泉守
  •  藩 :今治藩主、津藩主
  • 出身地:近江国(滋賀県)
  • 領 地:伊賀国、伊勢国、伊予国
  • 居 城:宇和島城 → 今治城 → 津城
  • 正 室:久芳院(一色義直の娘)、松寿院(長続久の娘)
  • 子ども:3男 7女
  • 跡継ぎ:藤堂高次
  • 父と母:藤堂虎高 / 於虎
  • 大 名:浅井長政豊臣秀吉豊臣秀頼徳川家康

築城名人はキャリアも積み重ねて転職するたび出世した

藤堂高虎は、和歌山城、今治城、津城(つじょう)伊賀(いが)上野城、江戸城など、20以上の城の建築に関わり、加藤清正や黒田官兵衛と並んで築城名人で知られています。

若いうちから理想の働き口を求めた藤堂高虎は、主君を7回も変えたリクルート大名としても有名で、コロコロと主君を変えては転職するたびに自分の価値を高めていったのでした。

藤堂高虎が仕えたのは、浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、津田信澄、豊臣秀長、豊臣秀吉、徳川家康の7名です。

藤堂高虎のキャリアは決して順風満帆(じゅんぷうまんぱん)だったわけではなく、血の気の多い(かれ)は暴力で問題を起こすことも多く、居づらくなっては退職をくり返しました。


ついに
運命の上司と出会う

問題ばかり起こす藤堂高虎でしたが、規格外の体格(でかい)と威圧感(いあつかん)(いかつい)は武士として魅力的(みりょくてき)で、元上司たちもなんとか活躍(かつやく)する場を見つけてほしいという思いでした。

3人めの主君・磯野員昌の紹介(しょうかい)で、藤堂高虎は1576年から豊臣秀長に支えることになります。秀長は、大柄(おおがら)粗暴(そぼう)な藤堂高虎を仕事を通じて教育しました。

このことが、藤堂高虎をブレイクさせていきます。

秀長は、まずはじめに写経をさせて短気を(おさ)えることを学ばせます。合戦では、前線に立ちたがる藤堂高虎に後方の補給部隊である兵站(へいたん)を担当させ、支援(しえん)する大切さを実感させます。

鉄砲隊(てっぽうたい)や水軍の指揮といった具合に業務レベルは上がっていき、藤堂高虎も豊臣秀長の期待に応えたい一心で夢中で取り組みました。

秀長は、荒削(あらけず)りだけど一本気な藤堂高虎の性格をよく理解してくれたのでした。

(やり)をふるうだけが取り()だった(あら)くれものは、気がつけばあらゆる部隊を動かせる視野が広い指揮官になっていました。藤堂高虎は次々と武功を挙げて、その名を(とどろ)かせます。

しかし、運命の上司である豊臣秀長は次第に病がちになり、1591年に病没(びょうぼつ)してしまいます。その後は秀長の養子・豊臣秀保を補佐しますが、秀保も1595年に亡くなってしまいます。

がっくりした藤堂高虎は、高野山に出家して武士をやめてしまいました。

数ヶ月ほどして、秀長の兄・豊臣秀吉から熱心に(たの)まれて豊臣家に復帰。1598年に秀吉が(ぼっ)すると、藤堂高虎は徳川家康に仕えます。

1600年の関ヶ原の戦いで活躍(かつやく)たことで徳川家康からの評価も爆上(ばくあ)がり。藤堂高虎は津藩(つはん)32万石の大名にまで出世するのでした。

藤堂高虎のキャリア積み上げグラフ

豊臣秀長との出会いが藤堂高虎の才能を開花させ、豊臣秀吉、徳川家康ら2人の天下人のもとで真価を発揮しました。

その出世ぶりは、さながら無名選手が最高峰(さいこうほう)のビッグクラブで活躍(かつやく)するようなステップアップでした。


築城は趣味
シンプル・イズ・ベスト

豊臣秀長に命じられて、藤堂高虎は1576年に築城が開始された安土城の普請(ふしん)現場に行きました。これをキッカケに築城にハマります。

安土城の現場では、石垣づくりのトップ集団『穴太衆(あのうしゅう)』や、中井正清などの建築家と仲良くなりました。

藤堂高虎が築く城の特徴(とくちょう)は、弓矢の射程ぎりぎりの50m(はば)(ほり)と、10階建てに匹敵(ひってき)する30mの高石垣(たかいしがき)です。

藤堂高虎の奥行きがある堀と高石垣の図

城を前にした敵を(ほり)(はば)石垣(いしがき)の大きさで圧倒(あっとう)し、そもそも()めようと思わせないのがねらいでした。強度が高い算木積みの高石垣(たかいしがき)は、穴太衆(あのうしゅう)の技術で実現させました。

藤堂高虎の築城では、サイズが異なる四角い箱を積み上げるシンプルな構造層塔型(そうとうがた)天守を採用しました。

造りが簡単なので工期の短縮が可能なうえ、主人が変わっても使いやすい親切設計でした。層塔型(そうとうがた)天守の工法によって、通常3年かかるところを1年で和歌山城を完成させています。

1605年からはじまった『天下普請(てんかぶしん)』では、本丸、二の丸、三の丸に至る江戸城のすべての設計を徳川家康から任されました。

城下にたくさん人が住めるように工夫して、城下町もふくめて城郭(じょうかく)と考えた藤堂高虎の築城論は徳川時代の城の基準になりました。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1556年、藤堂高虎は近江国(おうみのくに)・犬上郡藤堂村に藤堂虎高の次男として生まれます。はじめ浅井長政の足軽になり、磯野員昌や津田信澄に仕えました。出奔(しゅっぽん)放浪(ほうろう)を経て豊臣秀長に見出されると指揮官や築城の才能が開花。秀長が亡くなった際は落胆(らくたん)し、一度武士をやめます。その後、豊臣秀吉のもとで復帰しました。

徳川家中で大出世する

秀吉が(ぼっ)すると徳川家康に仕え、今治(はん)津藩(つはん)藩主(はんしゅ)を歴任します。関ヶ原以後に家臣になった外様(とざま)大名でありながら、譜代(ふだい)大名と同格で重用されました。江戸城の縄張りを任され、家康から「天下を()るがす兵乱あれば藤堂高虎を先陣(せんじん)させよ」と言われたほど信任を得ました。

最後と死因

徳川秀忠の娘・和子(まさこ)内裏(だいり)に入れるために後水尾(ごみずのお)天皇を恫喝(どうかつ)するなど、年老いても無茶をした藤堂高虎は武蔵国(むさしのくに)・江戸の藤堂藩邸(はんてい)で亡くなりました。1630年11月9日、死因は病気。75歳でした。晩年、眼病を(わずら)った藤堂高虎のために、将軍・秀忠が江戸城の廊下(ろうか)を歩きやすく改修したといいます。

領地と居城

藤堂高虎の領地・勢力図(1615年)

伊勢国(いせのくに)の一部と伊賀国(いがのくに)を合わせた32万石が藤堂高虎の領地でした。もとは伊予国(いよのくに)の一部を所領としましたが、1608年に移封(いほう)+加増されました。

藤堂高虎の性格と人物像

藤堂高虎は「チャレンジすることに意欲的でポジティブな人」です。

朝目覚めたら ”その日が人生最後の日” と思って生きていました。

未経験の仕事でもどんどん自分から行動し、良くも悪くもがむしゃらに取り組みます。結果として効率が良い作業ルーチンを発見したりします。

短気で乱暴で負けず(きら)い。怪我(けが)をしても痛いとは言いません。むきになる性格は晩年になっても変わりません。

口論でカッとなって同僚(どうりょう)()り殺す事件を二度も起こしています。正論でも刃傷沙汰(にんじょうざた)になるのを知っていた高虎は「どんな場合でも理詰(りづ)めで相手を責めてはいけない」と部下に(さと)しています。

去る部下は気持ちよく送り出し、出戻(でもど)りを希望すれば快く(むか)えました。自身の経験から、人が働くうえで大事なのは給料ではなく環境(かんきょう)であると気づき、情をかけることが肝要(かんよう)だと遺訓に残しています。

戦場では一番先に()けていき、最後まで戦っていたため、全身は傷だらけ。右手の薬指と小指がちぎれ、左手の中指と左足の指の(つめ)はなくなっていました。

からだは(やり)鉄砲(てっぽう)のキズが無数にあり、傷がない部分を探すのが難しいほどでした。晩年は眼病で失明していました。

身長は6尺2寸=190cmもありました。母も ”お虎上臈(とらじょうろう)” と呼ばれた長身の美人でした。生まれつき体が大きく、3歳のときには(もち)を5つ6つ食べることもあたりまえでした。

大きなうさ耳が左右に()き出した『黒漆塗唐冠形兜(くろうるしぬりとうかんなりかぶと)』のほか、藤堂高虎の甲冑(かっちゅう)は数点が現存しています。子孫のために200か条を()える家訓を残しています。

能力を表すとこんな感じ

藤堂高虎の能力チャート

体格に(めぐ)まれた藤堂高虎は個の強さが売りです。ひたむきな姿勢で人の心をつかむ様子が、おべっか使いの世渡(よわた)り上手と見られてしまうことも。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する藤堂高虎の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

藤堂高虎の面白い逸話やエピソード

大御所・徳川家康とのイイ話

藤堂高虎のことを徳川家康は深く信頼(しんらい)していました。家康に対する高虎の心づかいを象徴(しょうちょう)する2つのエピソードがあります。


家康邸を
勝手に変更

京都・聚楽第(じゅらくてい)に家康の屋敷(やしき)を建てるよう豊臣秀吉から命じられた高虎は、勝手に図面を変更(へんこう)してしまいました。

出来上がった屋敷(やしき)をみた家康が、図面とちがうことに気づいて理由を(たず)ねます。

すると高虎は「図面どおりの建物では家康さまの警護に難点がございました。不慮(ふりょ)があっては主人の面目に関わります。私の一存で変更(へんこう)しました」と答えます。

家康の身を案じたばかりか、変更(へんこう)にかかった費用は高虎が出しました。これを知って家康は感心しました。


来世でも
一緒ですよ

晩年をむかえた家康が気弱に過ごす日が増えたころ、さびしそうに「わしが死んだら、高虎とは宗派がちがうから来世は会えないね」と言いました。

日蓮宗(にちれんしゅう)だった藤堂高虎は、家康とおなじ天台宗に改宗します。

家康のもとに訪れると「これで生まれ変わっても家康さまにお仕えできます」と伝えました。家康はうれしくて(なみだ)を流しました。

貧乏すぎて店先にあったお餅を無銭飲食してしまう

働く先が決まらず高虎が放浪(ほうろう)していたころ、生活に困窮(こんきゅう)し、餅屋(もちや)の店先にあった20個ほどの(もち)を食べてしまいました。

代金を(はら)えず、お金がないことを店主に告げます。

店主はおどろいた様子で「こんな見事に(もち)をたいらげた人はいない!銭がないなら仕方ない」と許してくれました。そればかりかお金を手渡(てわた)して「家に(もど)って親孝行しなさい」と(はげ)ましてくれました。

それから30年ほど経って、藩主(はんしゅ)になった高虎は参勤で江戸に向かう途中(とちゅう)、あのときの餅屋(もちや)に立ち寄ります。

そして「あのとき情けをかけていただいた者です。これは(もち)のお代です」と、すっかり白髪になった主人に大金を支払(しはら)いました。

藤堂家の旗印には3つの丸が(えが)かれています。

これは白い(もち)であり、餅屋(にちや)への恩を印していました。”白餅(しろもち)=城持ち” をかけた願掛(がんか)けでもありました。

藤堂高虎の有名な戦い

姉川の戦い あねがわのたたかい 1570.7.30 ○ 織田&徳川軍3万 vs 浅井&朝倉軍2万 ●

浅井&朝倉軍と、織田信長の援軍で参陣した徳川家康が姉川(滋賀県長浜市野村町)で激突した合戦。本多忠勝が一騎討ちで真柄直隆と渡り合うなど、徳川軍の活躍が目覚ましく、榊原康政の突撃で朝倉軍は敗走。激戦で姉川は血に染まり、血原や血川橋という地名を残した。

姉川の戦いで藤堂高虎は敗れています。

浅井方の足軽として参戦し、徳川方の酒井忠高を討ち取りました。

三木合戦 みきかっせん 1578.5.5 〜 1580.2.2 ○ 織田軍?万 vs 別所軍7千5百 ●

織田氏に叛いた別所長治が篭る三木城(兵庫県三木市上の丸町)を羽柴秀吉が2年ちかく包囲した合戦。竹中半兵衛が考案した補給ルートを断つ作戦で、三木城を孤立させた。餓死者であふれた城内は凄惨をきわめ、開城降伏となった。三木の干し殺しとも。

三木合戦で藤堂高虎は勝っています。

三木城の支城として最後に残っていた鷹尾山城攻(たかおやまじょうぜ)めに参戦しています。加古六郎右衛門と1時間も戦ったすえに討ち取り、六郎右衛門の馬・加古黒を得ました。見事な戦いぶりで「(やり)の高虎」の異名をとりました。

賤ヶ岳の戦い しずがたけのたたかい 1583.6.6 〜 6.13 ○ 羽柴軍5万 vs 柴田軍3万 ●

信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの福島正則ら若手武将が活躍した。

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで藤堂高虎は勝っています。

1万5千の敵兵に(おそ)われた味方を5百の手勢で救出する働きをしました。鬼玄蕃(おにげんば)の異名で知られる佐久間盛政を銃撃(じゅうげき)して追い散らすなど、豊臣秀吉から絶賛されます。

根白坂の戦い ねじろざかのたたかい 1587.5.24 ○ 豊臣軍15万 vs 島津軍3万5千 ●

九州東部から薩摩国に迫る豊臣秀長に対し、局面を打破したい島津義弘が決戦を挑む。島津勢は根白坂(宮崎県児湯郡木城町)を急襲するが、すでに砦を構築していた豊臣軍が迎撃。苦戦した島津軍は夜襲を仕掛けるが、これを予見していた黒田官兵衛が返り討ちにし、壊滅させた。

根白坂の戦いで藤堂高虎は勝っています。

島津軍の猛攻(もうこう)を受ける根白坂の(とりで)で、宮部継潤らが危機に(ひん)しました。軍監(ぐんかん)・尾藤知宣は(とりで)を見捨てるよう決定しますが、命令を無視した高虎は5百の兵で島津義弘に奇襲(きしゅう)をかけて翻弄(ほんろう)味方の窮地(きゅうち)を救い、戦況(せんきょう)を一変させました。

関ヶ原の戦い せきがはらのたたかい 1600.10.21 ● 西軍8万2千 vs 東軍8万9千 ○

秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。

関ヶ原の戦いで藤堂高虎は勝っています。

藤堂高虎のターニングポイントになった戦いです。
大谷吉継、石田三成の陣営(じんえい)と続けざまに戦い、調略でも活躍(かつやく)徳川家康から絶大な信頼(しんらい)を得て大名に出世しました。約束した寝返(ねがえ)りをしない小早川秀秋の(じん)に『問い鉄砲(でっぽう)』を()って催促(さいそく)したといいます。

藤堂高虎の詳しい年表と出来事

藤堂高虎は西暦(せいれき)1556年〜1630年(弘治(こうじ)2年〜寛永(かんえい)7年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15561藤堂虎高の次男として近江国に生まれる。幼名:与吉
156914浅井長政に仕える。
北近江の一揆鎮圧に勝手に加わり敵首を取る。
”大河内城の戦い”北畠領に侵攻した織田氏に加勢する浅井軍に勝手に加わる。兄・藤堂高則が討死。
157015”姉川の戦い”初陣。織田氏&徳川氏との戦に参加。磯野員昌隊で戦い、酒井忠高を討ち取る。
”宇佐山城の戦い”織田領・宇佐山城攻めに参加。
157217勲功をめぐって争論になった同僚を切り捨てる。父が謹慎になる。
157318”小谷城の戦い”主君・浅井長政が織田信長に敗れる。浅井家滅亡
織田氏に内応した浅井旧臣・阿閉貞征に仕えるが、指示に従わない同僚を切り捨てて去る。
織田氏に降った浅井旧臣・磯野員昌に仕える。
157621磯野員昌に代わって津田信澄に仕えるが、給料に不満を抱いて出奔する。
羽柴(豊臣)秀長に仕える。
羽柴秀長の代理で安土城の普請に参加し、中井正清、甲良宗広、穴太衆などの建築家と交流する。
157722”竹田城の戦い”山名領・竹田城攻めに参加。奇襲に成功する。
157823”三木合戦”別所長治との戦に参加。
158025別所領・鷹尾山城を攻める。加古六郎右衛門を討ち取る。
158126小代一揆の討伐に向かう。股を負傷するなど苦戦したが、これを鎮圧する。
一色義直の娘(久芳院)と結婚。
158227”備中高松城の戦い”毛利輝元との戦に参加。
”山崎の戦い”明智光秀との戦に参加。
158328”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家との戦に参加。佐久間盛政を敗走させる。
158429”小牧・長久手の戦い”織田信雄&徳川家康との戦に参加。峰城、松ヶ島城を攻める。
158530”第2次紀州征伐”雑賀衆、根来衆の討伐戦に参加。湯川直晴を降伏させる。雑賀衆頭領・鈴木重意を謀略により切腹させる。龍松山城に篭る山本康忠を謀殺する。
羽柴秀長から紀伊国・粉河を拝領する。
紀伊国・猿岡城の築城奉行を務める。
紀伊国・和歌山城の築城奉行を務める。
”四国征伐”長宗我部氏の討伐戦に参加。
158631聚楽第に徳川家康の邸宅を作るよう任じられる。
158732”根白坂の戦い”島津義弘との戦に参加。根白坂砦の宮部継潤を救援する。
丹羽長秀の三男(藤堂高吉)を養子にする。
158934紀伊国・赤木城の築城奉行を務める。
北山一揆に与した農民たちを田平子峠で処刑する。
159136主君・豊臣秀長が死去。次代・豊臣秀保に仕えて後見役になる。
159237宇喜多秀家を総大将とした日本軍の水軍を率いて九鬼嘉隆、加藤嘉明らと朝鮮国に侵攻。【文禄の役】
”玉浦海戦”李舜臣を堀内氏善とともに迎撃するが、敗れる。
159338朝鮮国から帰国。
159540主君・豊臣秀保が死去。
失意のあまり高野山に出家。
生駒親正の説得で豊臣秀吉に仕える。
豊臣秀吉から伊予国・板島を拝領する。
伊予国・板島丸串城を改修し宇和島城を築城を開始、居城にする。
159742小早川秀秋を総大将とした日本軍の6番隊で朝鮮国に侵攻。【慶長の役】
”漆川梁海戦”朝鮮軍との戦に参加。加藤嘉明らと水軍を指揮して朝鮮水軍に圧勝する。敵将・元均を討ち取る。
”南原城の戦い”明&朝鮮の連合軍が篭る南原城を総攻撃で陥落させる。南面から攻め入る。
順天倭城を宇喜多秀家と築城する。
”鳴梁海戦”李舜臣が率いる朝鮮水軍と戦う。左軍より出撃するが苦戦し、負傷する。
全羅道西岸を制圧。姜沆、鄭希得などを捕虜にする。
朝鮮国から帰国。
159843主君・豊臣秀吉が死去。
徳川家康に仕える。
159944徳川家康のもとに次弟・正高を人質として預ける。
160045”会津征伐”上杉氏の討伐戦に参加。
”木曽川・合渡川の戦い”織田秀信との戦に参加。合渡川に布陣して織田方への援軍を迎撃する。
”関ヶ原の戦い”石田三成との戦に東軍として参加。大谷吉継と交戦し、石田三成を攻める。脇坂安治、朽木元綱など西軍の武将を東軍に寝返らせる。毛利輝元が伊予国で扇動した一揆を鎮圧する。
徳川家康から伊予国・今治を拝領する。
伊予国・今治城を改築、居城にする。
160146伊予国・宇和島城が完成。従弟・良勝を入れる。
近江国・膳所城を築城する。
160348伊予国・今治藩の藩主になる。【江戸幕府の成立】
160449山城国・伏見城を修築する。
160550徳川家康のもとに継室(松寿院)と長男・高次を人質として預ける。
武蔵国・江戸城の築城を開始する。【天下普請】
江戸城の縄張りをする。二の丸、三の丸、天守閣の設計をする。
160752江戸城の天守が完成。
160853伊賀国ならびに伊勢国に移封。
伊勢国・津藩の藩主になる。
伊勢国・津城を居城にする。
160954丹波国・篠山城を改築する。
丹波国・亀山城を改築する。
161156伊賀国・伊賀上野城を改築する。
伊勢国・津城を改築する。
徳川家康と豊臣秀頼の会見を接待する。【二条城会見】
肥後国・熊本藩の視察に行く。
161257禁裏仙洞御所を改築する。
161459”大坂冬の陣”豊臣氏の討伐戦に参加。片桐且元と先陣を命じられる。
161560”大坂夏の陣”豊臣氏の討伐戦に参加。河内路から攻める先陣を務める。長宗我部盛親に撃退される。豊臣家滅亡
161661主君・徳川家康が死去。次代・徳川秀忠に仕える。
161964後水尾天皇を恫喝して徳川秀忠の娘(和子)を内裏に入れる。【およつ御寮人事件】
163075武蔵国・藤堂藩邸で病死。
戦国時代で藤堂高虎が生きた期間の表
藤堂高虎の顔イラスト
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