本多忠勝
1548.3.17 〜 1610.12.3

本多忠勝は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。徳川四天王のひとり。幼い頃から徳川家康に仕えて行動を共にし、主君のピンチを何度も救います。天下無双の槍使い、単騎での突撃が知られ、戦で傷ひとつ負わなかったという伝説があります。東国一と称され、戦国史上でも最強とされる豪傑です。享年63歳。
- 本多忠勝の人物タイプ
- 猛将
このページでは、本多忠勝が何をしたどんな人なのか、ハイライトやエピソードを紹介しています。きっと本多忠勝のことが好きになります。
- 名 前:本多忠勝
- 幼 名:鍋之助
- あだ名:トンボ切りの平八郎
- 官 位:中務大輔
- 出身地:三河国(愛知県)
- 領 地:伊勢国
- 居 城:大多喜城 → 桑名城
- 正 室:阿知和玄鉄の娘(於久の方
- 子ども:2男 5女
- 跡継ぎ:本多忠政
- 父と母:本多忠高 / 小夜
最強!6.5mもある蜻蛉切の槍をぶん回して無双した
57回の出陣で、ただの一度も怪我をしなかったという無敵の豪傑・本多忠勝。強さの秘訣は、愛用の槍と、槍を扱うスキルの高さでした。
本多忠勝は、穂の長さ43.8cm、笹穂型の穂先に止まったトンボが真っ二つになったという、切れ味バツグンの槍を愛用していました。通常、長槍の柄の長さは4.5mほどでしたが『蜻蛉切』と呼ばれた本多忠勝の槍は、柄の部分が6mもありました。
本多忠勝はこの蜻蛉切を、からだの一部のように扱って正確無比な一撃で相手を仕留めることができました。
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急所を突く
必殺の一撃
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空中を飛ぶトンボを狙えるほど、本多忠勝は槍の扱いが巧みでした。葦の草に向かって、舟をこぐ櫂を一振りすると、鎌で刈ったみたいにスパッと切れたという逸話があります。切れ味が鋭い槍であれば、狙ったものを斬るなど、本多忠勝にとっては造作もないことでした。
馬術にも長けていて、人馬一体となった素早い動きから、首や脇などの急所に正確な一撃を加えることができました。通常よりもはるかに長い槍を振り回して、敵の有効打撃圏の外からの攻撃を得意としました。

飛ぶトンボを切り落とすには、長い槍先まで神経を通わせ、風をも切り裂く速さで突く・振り抜く技術が必要です。
本多忠勝の槍を振るう範囲とスピードは常識を大きく越えており、彼の間合いに一歩踏み込めば、立ちどころに必殺の一撃をうけてしまいます。タテ・ヨコ・後ろにもブンブン振り回せるように鎧は軽装を好みました。
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戦場の華
一騎打ちの記録
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一騎討ちの記録が残っているのも、本多忠勝の特徴です。
1570年に織田信長の援軍として参戦した姉川の戦いで、朝倉軍が誇る2メートルの豪傑・真柄直隆と一騎討ちをしています。真柄直隆は、175cmの大太刀による斬撃と打撃を得意とする典型的なファイターで、互角の戦いは決着がつきませんでしたが、本多忠勝の武名を上げたタイマンでした。
1584年の小牧・長久手の戦いでは、500の兵を連れて出撃し、8万の秀吉軍の前に立ちはだかると、秀吉子飼いの猛将・加藤清正と一騎討ちを演じています。虎退治で知られる加藤清正を討ち取るには至りませんでしたが、本多忠勝を脅威に感じた秀吉陣営は、手出しができなかったといいます。
徳川家康は大事な移動には必ず本多忠勝を帯同し、最強のボディガードとしました。織田信長から「花も実も兼ね備えた勇士」と褒められ、豊臣秀吉から「日本第一、古今独歩の勇士」と称された唯一無二の豪傑でした。
本多忠勝の生涯をふりかえる
本多忠勝は、1548年に三河国・額田郡蔵前に武士の長男として生まれます。戦死した父にかわって叔父に育てられました。代々松平家の家臣だった本多忠勝は、松平元康(徳川家康)に仕えました。常に家康のそばで戦った本多忠勝は、一言坂の戦いなどの負け戦でも別格の働きで、敵兵を退かせました。
1600年の関ヶ原の戦いまで、主な合戦すべてに参加し、江戸幕府では初代・桑名藩主になりました。城下の開発や町割を行なった本多忠勝の『慶長の町割』が、今でも桑名市の中心部に残っています。晩年は体調を崩し、1610年に病気により伊勢国・桑名城で亡くなりました。63歳でした。
東国一と言われる武勇を誇った本多忠勝は、長篠の戦いのあと、武田軍の壊滅を悲しみ、強いライバルを失ったことに寂しを感じて過ごしました。緊迫感のある合戦こそが、本多忠勝の求めた居場所でした。

伊勢国・桑名10万石が本多忠勝の領地でした。もとは上総国・大多喜を領有しましたが、江戸幕府が開かれる直前に移封しました。
本多忠勝の性格と人物像
本多忠勝は「忠義と情に厚い体育会系」です。”武士にとって大切なのは、手柄や首ではない。主君に忠節を尽くすこと” と遺書に記しており、忠臣と呼ぶにふさわしい奉公ぶりです。忠勝が亡くなると、殉死した2人が左右に埋葬されるほど、部下からも信頼されていました。
忠勝とは ”ただ勝つ(のみ)” に由来しています。強い相手との戦いが生き甲斐で、福島正則に武勇を褒められると「俺が強いんじゃなくて敵が弱い」と答える合戦アスリートです。合戦が終わればノーサイドの精神で、敵の助命を嘆願する慈悲深さがありました。
身長160cmほどで平均的です。手先が器用で、木彫りが趣味。回りくどいことが嫌いです。知恵がまわる同族の本多正信とはそりが合わず、”腰抜け” と呼んで仲よくありませんでした。
合戦には大きな数珠をたすき掛けして臨み、葬った敵を弔う意味がありました。大きな鹿の角を模した兜飾りは、和紙を貼り合わせて固めたもので、軽くて取り外せます。実際に着用した『鹿角脇立兜』が残っています。天下三名槍に数えられる忠勝の『蜻蛉切り』も現存しています。
本多忠勝の能力を考えてみる

味方から ”一緒に戦うと背中に盾があるみたい” と言われたように、本多忠勝の強さは尋常ではありません。まさに一騎当千の豪傑です。味方にとってはいるだけで頼もしく、敵にとっては足がすくんでしまう存在でした。
本多忠勝のエピソードや逸話
生涯通算57回の戦でかすり傷ひとつ負ったことがない
忠勝は生涯で57回の合戦に出陣しました。戦で負傷したことは1回もなかったそうです。一騎でもガンガン突っ込んでいく本多忠勝のスタイルで、ケガがなかったというのは脅威的です。
そんな忠勝も、晩年になってはじめてのケガをします。
ぽかぽかとした陽気のある日、縁側に座って小刀で ”ほんだただかつ” と自分の名前を彫っていて、プスッと指先を切ってしまいました。

ケガした指先を見つめて「本多忠勝も怪我するようになっちゃおしまいですわ」とつぶやき、数日後に亡くなったそうです。
伊賀越えの窮地を恫喝と破壊で乗り越えてしまう
本能寺の変の直後、大坂に滞在していた徳川家康の一行は、明智軍の追手から必死で逃げます。この『伊賀越え』で、忠勝の無頼漢ぶりが炸裂します。
急いで逃げたいが土地勘がなく、道がわからない。すると、忠勝は「案内人を連れてきました」と、一人の男を抱えて戻ってきました。男を脅しながら道案内させると、大きな川に出ました。
川を渡りたいが舟がない。すると、忠勝は向こう岸にいた船にズドーンを鉄砲を放ち「船をこっちにつけろ!ぶっ殺すぞ!」と怒鳴りつけます。ガクブルした船乗りたちに向こう岸に渡してもらうと、忠勝は船を破壊して沈めてしまいました。

「これで追っ手も来られませんぜ」とドヤ顔。
かくして、徳川家康は数々のピンチを切り抜けて、三河に帰ることができました。
本多忠勝の有名な戦い
上宮寺や勝鬘寺(ともに愛知県岡崎市)などの寺社を拠点とした本願寺門徒と松平家康の争い。今川氏から独立して三河の支配を強める松平氏が、上宮寺から無理に兵糧を奪ったことを発端とする一向一揆。本多正信らが一揆に加担し、松平家中で家康に反する内紛が起きた。
三河一向一揆で本多忠勝は勝っています。
本多忠勝のターニングポイントになった戦いです。
同族である本多一族のほとんどが反家康として敵対したなか、本多忠勝は一向宗から浄土宗に改宗して、家康に味方しました。この戦いの功績で、徳川家康から絶大な信頼を得て、旗本先手役に抜擢されます。
浅井&朝倉軍と、織田信長の援軍で参陣した徳川家康が姉川(滋賀県長浜市野村町)で激突した合戦。本多忠勝が一騎討ちで真柄直隆と渡り合うなど、徳川軍の活躍が目覚ましく、榊原康政の突撃で朝倉軍は敗走。激戦で姉川は血に染まり、血原や血川橋という地名を残した。
姉川の戦いで本多忠勝は勝っています。
朝倉軍1万に対して、忠勝は単騎で突入し、豪傑・真柄直隆と一騎討ちをしました。これを契機に徳川軍に勢いが生まれて、大勝利につながりました。本多忠勝の武勇が全国に知られることとなった合戦です。
徳川領に侵攻してきた武田軍と徳川軍の偵察隊が三河・一言坂(静岡県磐田市一言)で遭遇した偶発的な合戦。武田軍・馬場信春に猛追撃を受けた徳川軍は、本多忠勝がこれを退けた。忠勝は、坂下という不利な地形ながら奮戦し、徳川家康の本隊を無事に退却させた。
一言坂の戦いで本多忠勝は敗れています。
本多忠勝としては、むしろ大活躍した合戦です。退却する徳川軍の最後尾で、武田軍の馬場信春の追撃を退けました。
西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。
三方ヶ原の戦いで本多忠勝は敗れています。
徳川軍としては敗戦ですが、忠勝は孤軍奮闘しています。武田軍の山県昌景が配備された左翼を撃退し、武田陣営に夜襲をかけて大混乱に陥れました。
長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。
長篠の戦いで本多忠勝は勝っています。
家康の陣に決死の突撃をしてきた内藤昌豊に対し、榊原康政とスクラムを組んで撃退しています。
高天神城(静岡県掛川市)をめぐって、武田氏と徳川氏が2回争った。武田勝頼の大軍によって、少数で守る徳川軍はあっけなく落城。その後、徳川家康が奪還に乗り出し、包囲戦で飢えさせた。岡部元信の突撃も虚しく、本多忠勝らによって武田軍は掃討された。
高天神城の戦いで本多忠勝は勝っています。
忠勝は鳥居元忠らと城内に突入して、高天神城を制圧しました。
秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。
関ヶ原の戦いで本多忠勝は勝っています。
井伊直政とともに、東軍を率いる軍監として参加しました。戦いの終盤に、少数の兵を率いて90もの首級をあげる圧巻の働きをしています。
本多忠勝の詳しい年表
本多忠勝は西暦1548年〜1610年(天文17年〜慶長15年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1548 | 1 | 本多忠高の嫡男として三河国に生まれる。幼名:鍋之助 |
1549 | 2 | 第3次安城合戦で父・忠高が戦死。叔父・本多忠真に引き取られる。 |
1560 | 13 | 元服 → 本多(平八郎)忠勝 ”桶狭間の戦い”初陣。織田信長との戦に参加。朝比奈泰朝の指揮下で鷲津砦の落とし大高城に兵糧を運ぶ。 |
1561 | 14 | 今川領・牛久保城攻めに参加。 主君・松平元康(徳川家康)が今川氏から独立。 |
1563 | 16 | ”三河一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。本多正信、本多正重などの同族と対立する。 |
1564 | 17 | ”馬頭原合戦”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。 |
1565 | 18 | 今川領・吉田城攻めに参加。 |
1566 | 19 | 旗本先手役に抜擢される。 |
1568 | 21 | 今川領・遠江国攻めに参加。 |
1569 | 22 | 今川領・遠江国攻めに参加。今川家滅亡 |
1570 | 23 | ”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。単騎で朝倉軍に突入、真柄直隆と一騎討ちをする。 |
1572 | 25 | ”一言坂の戦い”武田信玄との戦に参加。最後尾で馬場信春に抗戦し、家康本隊を退却させる。 |
1573 | 26 | ”三方ヶ原の戦い”武田信玄との戦に参加。山県昌景を撃退、夜襲で武田軍を混乱させる。 武田領・長篠城攻めに参加。 |
1575 | 28 | ”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。突撃してきた内藤昌豊を榊原康政と撃退する。 ”諏訪原城の戦い”武田勝頼との戦に参加。 |
1581 | 34 | ”第2次高天神城の戦い”武田勝頼との戦に参加。高天神城内に突入、城兵を掃討する。 |
1582 | 35 | ”甲州征伐”武田勝頼との戦に参加。武田家滅亡 堺に滞在中、本能寺の変が起こる。明智光秀の軍勢に追われる徳川家康を護衛して三河国に帰る。【伊賀越え】 ”若御子対陣”空白地となった旧・武田領への侵攻に参加。【天正壬午の乱】 |
1584 | 37 | ”小牧・長久手の戦い”羽柴(豊臣)秀吉との戦に参加。少数で羽柴軍を足止めし、加藤清正と一騎討ちをする。 |
1590 | 43 | ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。岩付城、鉢形城を攻略。北条家滅亡 徳川家康から上総国・大多喜を拝領する。 大多喜城を居城にする。 |
1600 | 53 | ”関ヶ原の戦い”石田三成との戦に東軍の軍監として参加。90の首級をあげる。 |
1601 | 54 | 伊勢国・桑名に移封。城郭の修築や町割りを行う。 桑名城を居城にする。 |
1603 | 56 | 伊勢国・桑名藩の藩主になる。【江戸幕府の創設】 |
1609 | 62 | 長男・本多忠政に家督を譲って隠居。 |
1610 | 63 | 伊勢国・桑名城で病死。 |

- 本多忠勝 – Wikipedia
- 本多忠勝とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】 | 歴史上の人物.com
- 本多忠勝が戦国時代最強の武将といわれるのは何故!? | ひすとりびあ
- 本郷和人監修『戦国武将の解剖図鑑』エクスナレッジ
- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
- 歴史人『戦国最強猛将ランキング!』KKベストセラーズ
- 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社
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