神君伊賀越えとは?徳川家康はどのルートで危機を逃げ切ったのか

神君伊賀越えとは?徳川家康はどのルートで危機を逃げ切ったのか

『神君伊賀越え』とは、徳川家康にとって最大のピンチといわれる出来事です。1582年に起こった本能寺の変に巻き込まれるかっこうとなった家康一行が、織田信長を討った明智光秀の残党狩りから、命からがら逃げました。なぜそんなことになったのか、どこを通って、どうやって乗り越えたのか、まとめてみましょう。

伊賀越えが起こった背景と理由

徳川家康の最大の危機とされる『伊賀越(いがご)』は、天正(てんしょう)10年6月2日から6月4日(1582年6月21日〜6月23日)の3日間の出来事を指します。

これより3か月前の1582年3月、徳川家康は織田信長と共に宿敵・武田勝頼を()(ほろ)ぼしました。勝頼の父・信玄のころより幾度(いくど)となく交戦した武田氏に勝ち、家康は東海道3か国の太守となり、信長はいよいよ天下をつかむ段階に入りました。

信長は、武田氏との戦いにおける家康の活躍(かつやく)に報いるため、駿河国(するがのくに)(あた)えました。

この恩賞に感謝した家康は、信長を招いて豪勢(ごうせい)な接待をします。信長はことのほか上機嫌(じょうきげん)だったとか。


祝勝パーティーから
転じて絶叫ツアー

信長の恩賞に対する家康のお礼に対する労いとして、今度は信長が家康を安土城に招きます。

信長はよほど(うれ)しかったのでしょう、改めて祝勝会に(さそ)われた家康は、わずかな家臣を連れて信長の居城である安土城に出向きました。

5月15日から17日までの3日間、祝勝パーティーが行われました。その後、信長に京都、奈良、(さかい)の観光をすすめられ、戦いつづきだった家康一行は、ささやかな慰安(いあん)ツアーに出かけます。

ここで地元に帰っていれば、伊賀越(いがご)えは起こりませんでした。しかし、この慰安(いあん)ツアーが家康の人生最悪の絶叫(ぜっきょう)ツアーになってしまうのです。

本能寺の変が騒動のはじまり

1582年6月21日(天正(てんしょう)10年6月2日)未明、明智光秀の軍勢が京都本能寺の織田信長を襲撃(しゅうげき)した『本能寺の変』が起こります。

本能寺の変で炎につつまれる織田信長(1582年)

そんなこととはつゆ知らず、信長の上洛(じょうらく)にあわせて家康一行は(さかい)見物から京に(もど)るために出立しました。

そのころ、家康が仲良くしていた商人・茶屋四郎次郎が、本能寺の変を知らせるために早馬を飛ばしていました。

河内国(かわちのくに)・飯盛山(大阪府大東市)あたりにさしかかったころ、家康一行は茶屋四郎次郎から信長の死を聞かされます。

京を制圧した明智光秀の次なるターゲットは、少数のお供しか連れていない徳川家康でした。

明智軍1万3千が追ってくる。手勢は30名ほど。どうする家康?

そして、神君は伊賀を越える

東海道や中山道(なかせんどう)などの街道を()さえて東への経路を断ち、家康一行を()がさないよう包囲網(ほういもう)()かれたら絶体絶命です。

本能寺の変の凶報(きょうほう)を聞いた徳川家康について、2つの記録が残っています。


明智光秀と
一戦覚悟した?

武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』によると家康は(あわ)てず(さわ)がず、大坂に居る織田重臣・丹羽長秀に連絡(れんらく)をとり、飯盛山に(じん)をかまえて明智軍を迎撃(げいげき)しようとします。

しかし、手勢が十分ではないことから、ひとまず三河(みかわ)に帰り、信長の(とむら)い合戦をと考えたようです。


悲観して
切腹と騒いだ?

一方で『武功雑記』には、信長の死を知った家康は落胆(らくたん)し「もう無理!京の知恩院で腹を切る!」と言って(さわ)いだとあります。本多忠勝ら家臣に説得されて、三河(みかわ)まで()げることにしたようです。

さて、いずれにしても「生きて三河(みかわ)に帰る」という強い意志を持ち、家康一行は地元である三河国(みかわのくに)(愛知県東部)を目指して一致団結(いっちだんけつ)します。

明智兵がそこかしこに居るであろう京には入れません。
そこで、京を()けて伊賀(いが)の山中に向かいました。

とはいえ、伊賀国(いがのくに)はいまだ土豪(どごう)の支配が強い無法地帯。
しかし、神君・家康公は、この絶望的な状況(じょうきょう)から、まさに神がかり的な奇跡(きせき)生還(せいかん)を果たすのでした。

どこを通った?伊賀越えのルート

徳川家康が生涯(しょうがい)最悪の3日間を過ごし、窮地(きゅうち)から奇跡(きせき)脱出(だっしゅつ)を果たしたとされる伊賀越(いがご)えですが、どこを通ったという正確なルートは不明です。

有力とされている説は『石川忠総留意』に書かれている三重県伊賀市(いがし)と滋賀県甲賀市(こうがし)のあいだにある桜(とうげ)()けたとするルートです。

桜峠ルート=伊賀越え有力説の通過ポイント

この ”(とうげ)ルート説” に沿って3日間の動向を追っていきます。


伊賀越え
1日目

(さかい)から京に向かう途中(とちゅう)、大阪府大東市付近の飯盛山で本能寺の変を知ります。

そこから、津田尊延寺(ともに大阪府枚方市)→ 草内(くさじ)(わた)(京都府京田辺市)で木津川(きづがわ)(わた)り、宇治田原城(京都府綴喜(つづき)郡)に入って一泊(いっぱく)しました。


伊賀越え
2日目

宇治田原城を出た家康一行は、遍照院(へんじょういん)(京都府綴喜(つづき)郡)→ 小川城(滋賀県甲賀市(こうがし))に入り、ここで一泊(いっぱく)しました。


伊賀越え
3日目

小川城を後にし、ここからいよいよ伊賀(いが)(三重県伊賀市(いがし))に入ります。

(とうげ)石川柘植(つげ)()し通り、加太峠(かぶととうげ)瑞光寺(ずいこうじ)(ともに三重県亀山市(かめやまし))→ 白子(三重県鈴鹿市(すずかし))から船に乗って、大浜(おおはま)(愛知県碧南市(へきなんし))から地元である岡崎城(愛知県岡崎市)に帰りつきました。

最も困難であったのは、3日目にあたる6月4日。
命をねらう者たちと交戦しつつ、伊賀(いが)のけもの道を強引に押()し通ったと伝わっています。

なぜ伊賀は危険なの?

伊賀国(いがのくに)土豪(どごう)が自治を行なっており、特定の主を持たない特殊(とくしゅ)な地域でした。

織田信長は、意に従わない伊賀(いが)土豪(どごう)たちを1581年『第2次天正伊賀(てんしょういが)の乱』で徹底的(てっていてき)に武力で制圧しました。そのため、伊賀(いが)土豪(どごう)たちは織田勢力を(にく)んでおり、信長の盟友である徳川家康のことも敵視していたのです。

じつは伊賀を通ったのはちょっとだけだった?

これまでは、御斎峠(おとぎとうげ)ルートから伊賀(いが)に入ったのが定説とされていました。

上野佐那具(さなぐ)柘植(つげ)という、伊賀(いが)ど真ん中の危険地帯を走り()いたとして小説やドラマで(えが)かれているのが御斎峠(おとぎとうげ)ルートです。

しかし最近の研究では、御斎峠(おとぎとうげ)ルートは遠回りなうえに危険すぎるため、無理があると指摘(してき)されています。

【伊賀越え】桜峠の有力説と御斎峠の従来説のルート図

一方、(とうげ)ルートだと伊賀(いが)北部の山道を一直線に()けていく最短コースですので、こっちを通るほうがいくらかリスクが低いことから、現在は桜(とうげ)ルートが有力とされています。

この場合、家康一行が通ったのは伊賀(いが)のほんの一部ということになります。

大和から伊賀に入ったという新説

家康の孫が書いたとされる『当代記』には「大和路(やまとじ)へかかり」と書かれていることから、(さかい)を出たあと、大阪府南河内郡と奈良県葛城市(かつらぎし)のあいだにある竹内(とうげ)から、大和国(やまとのくに)(奈良県)に入ったとも言われています。この大和(やまと)から伊賀(いが)入りしたルートが新説とされています。

大和ルート=伊賀越え新説の通過ポイント

竹内(とうげ)八木(奈良県高市郡)→ 芋ヶ峠(いもがとうげ)高見山(ともに奈良県吉野郡)→ 琴引(ことひき)(奈良県宇陀市(うだし))を()けて伊賀(いが)に入り、鳳凰寺(ぼおじ)(三重県伊賀市(いがし))→ 加太峠(かぶととうげ)瑞光寺(ずいこうじ)白子大浜(おおはま)に向かったと推測されます。

しかしながら、このとき大和国(やまとのくに)を治めていた筒井順慶は明智光秀の与力(よりき)であり、安全にここを通過できる保証がないことから、大和(やまと)ルートを選択(せんたく)した可能性は低いと考えられます。

伊賀越えのメンバーと登場人物

主演・徳川家康。
以下、伊賀越(いがご)えに登場するメンバーは以下のとおり。


徳川家臣
御一行

酒井忠次、石川数正、本多忠勝、井伊直政、榊原康政、本多正盛、石川康通、服部半蔵、高木広正、大久保忠隣、菅沼定政、久野宗朝、本多信俊、阿部正勝、牧野康成、三宅正次、高力清長、大久保忠佐、渡辺守綱、森川氏俊、酒井重勝、多田三吉、花井吉高、鳥居忠政、内藤正成、都築亀蔵、松平玄成、菅沼定利、永井直勝、永田瀬兵衛、松下光綱、都築長三郎、三浦おかめ、青木長三郎(総勢34名)


穴山梅雪ら
同行者

穴山梅雪(元・武田家臣)と10数名の供、長谷川秀一と西尾吉次((さかい)見物のツアーガイド・織田家臣)


スペシャル
サンクス

茶屋四郎次郎(京の商人)、角屋七郎次郎(伊勢(いせ)の商人)、多羅尾光俊(甲賀(こうが)土豪(どごう)

茶屋四郎次郎などの協力者たちが家康の命を救う

祝勝パーティーに参加するために上洛(じょうらく)していた家康一行は、兵も連れていなければ武具も持っていません。逃亡(とうぼう)を助ける協力者の存在がなければ、家康は道中で命を落としていた可能性が極めて高かったと考えられています。

家康は、このときの協力者たちに感謝し、のちに厚遇(こうぐう)しています。

伊賀越(いがご)えで家康の逃走劇(とうそうげき)を助けた功労者たちは、こちらの4名です。

茶屋四郎次郎が本能寺の変を知らせた

いち早く本能寺の変を知った京の商人・茶屋四郎次郎は、(さかい)から京に向かって移動中の家康に急いで知らせました。この機転がなければ、家康一行は明智兵が制圧したばかりの京に足を()み入れてしまうところでした。

茶屋四郎次郎はその後も私財を投げうって家康の逃亡(とうぼう)を助け、三河(みかわ)への生還(せいかん)に多大な貢献(こうけん)をしました。その(えん)で徳川御用達(ごようたし)の商人となり、呉服御用(ごふくごよう)を一手に担います。

子どもは江戸幕府で代官を務めるなど重用され、朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)で大きな財を得ました。

多羅尾光俊が小川城で一行を支援した

甲賀(こうが)土豪(どごう)・多羅尾光俊は、伊賀越(いがご)え2日目の家康一行を居城である小川城に招き入れて助けました。

三男と五男に甲賀衆(こうがしゅう)をつけて伊勢国(いせのくに)・白子の(はま)まで家康を護衛させました。

後年、光俊は豊臣秀次事件に巻きこまれて多羅尾家は改易されますが、光俊の嫡男(ちゃくなん)・光太は江戸幕府で代官に抜擢(ばってき)されました。

角屋七郎次郎が伊勢から三河に船を出した

伊勢(いせ)廻船問屋(かいせんどんや)・角屋七郎次郎は、伊賀(いが)()けて三河(みかわ)(わた)る家康に(ふね)を用意しました。
このときの(えん)で、家康から朱印(しゅいん)を預かり、徳川領内のいずれにおいても廻船(かいせん)自由の特権を(あた)えられました。

服部半蔵が伊賀甲賀の者たちを味方につけた

多羅尾光俊ほか、伊賀衆(いがしゅう)甲賀衆(こうがしゅう)との交渉役(こうしょうやく)を担った服部半蔵は、利益次第で動くこの者たちを必死で説得します。そこには茶屋四郎次郎の財力も手伝って、半蔵は見事に伊賀衆(いがしゅう)甲賀衆(こうがしゅう)を味方につけることに成功し、そればかりか無事に危険地域を()けるための護衛に転じさせました。

この後、この者たちは徳川家に大量雇用(こよう)され、服部半蔵は忍者(にんじゃ)で構成された特殊(とくしゅ)部隊『伊賀同心(いがどうしん)200人組』の頭領に就任しました。

服部半蔵のイラスト
服部半蔵のハナシを読む

服部半蔵(正成)は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。槍の扱いに長け、一番槍の手柄を挙げることも多く『鬼半蔵』と呼ばれた豪傑です。父の出自が伊賀忍者だったこともあり、徳川家に仕える伊賀衆を統括し、鉄砲隊や諜報部隊を率いました。徳川家康のピンチを警護した伊賀越えが有名です。享年56。

本多忠勝ら武力自慢が力で押し通った

同行していた徳川家臣はいずれも重臣ばかり。ここで(そろ)ってやられるようなことがあっては、徳川家の存亡に関わります。しかし、さすがは歴戦の強者たち。家康から(はな)れず護衛し、武力で窮地(きゅうち)()し通りました。

猛将(もうしょう)・本多忠勝は、土地勘(とちかん)がない伊賀(いが)の道案内をさせるため、地元の男をさらってきたり、川を渡るために向こう岸にいる(ふね)威嚇射撃(いかくしゃげき)をしてこっち岸につけさせるなど、無茶をしています。

本多忠勝のイラスト
本多忠勝のハナシを読む

本多忠勝は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。徳川四天王のひとり。幼い頃から徳川家康に仕えて行動を共にし、主君のピンチを何度も救います。天下無双の槍使い、単騎での突撃が知られ、戦で傷ひとつ負わなかったという伝説があります。東国一と称され、戦国史上でも最強とされる豪傑です。享年63。

伊賀(いが)の山中で家康がお供物の赤飯を拝借しました。家康が仕方ない事情であると、ほかの者たちにも食べるようすすめましたが、井伊直政だけは食べません。

直政は「敵が(せま)ってきたら自分はここで討死します。そのとき、腹から赤飯が出たとあっては空腹に負けて供え物に手を出したと笑われる」と言ってのけたそうです。

井伊直政のイラスト
井伊直政のハナシを読む

井伊直政は、現在の静岡県にあたる遠江国の武将です。徳川四天王のひとり。武田軍から引き継いだ赤備えで、赤鬼と恐れられた猛将です。徳川家康の腹心として、さまざまな交渉役をこなす秘書官でもありました。東軍を勝利に導いた関ヶ原の戦いでは、槍働きに加えて、敵将の調略と戦後交渉も行いました。享年42。

穴山梅雪は運命の分かれ道を誤った

穴山梅雪は武田氏の一門でしたが、武田勝頼を裏切って織田&徳川に味方しました。そして、勝頼を追い()める道案内をした功績で、信長から甲斐(かい)武田氏の名跡(みょうせき)()ぐことを許可され、そのお礼を伝えるために、家康と一緒(いっしょ)に安土城に行ったのでした。

ところが、信長は本能寺の変で討たれ、明智勢は家康の首もねらっています。
家康一行と(さかい)見物をしていた穴山梅雪は、このまま家康といたらやばいと考えて別行動を取ります。

これが裏目に出てしまい、宇治田原の草内(くさじ)(わた)しで土一揆(どいっき)遭遇(そうぐう)し、落命しました。

穴山梅雪のイラスト
穴山梅雪のハナシを読む

穴山梅雪(信君)は、現在の山梨県にあたる甲斐国の武将です。武田一門衆でしたが、信玄の没後、勝頼の器量に疑念を抱くようになり、不和が生じます。織田氏の甲州征伐がはじまると勝頼を見限って徳川家康と内通。信長の配下に加わりますが、本能寺の変の騒動に巻き込まれ、非業の死を遂げました。享年42。

穴山梅雪の別行動については、家康の(おとり)に使われ、明智兵に発見されて殺害された説もあります。

* * * * *

ともあれ、このようなすったもんだがあったすえ、徳川家康は三河(みかわ)に帰ります。すぐに明智討伐(とうばつ)出陣(しゅつじん)しましたが、光秀が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に討たれたと聞いて引き返しました。

「無事に三河(みかわ)(もど)れたら自分が天下を取る!そしたら報酬(ほうしゅう)をたっぷりやるから味方して!」と伊賀衆(いがしゅう)らに喧伝(けんでん)したとも伝わる家康公は、伊賀越(いがご)えからおよそ20年後、本当に天下を取ってしまいます。

家康は江戸幕府をひらき、天下に泰平(たいへい)をもたらしました。もしもこの事件で命を落としていたら、歴史はまったく(ちが)っていたかもしれません。

泰平(たいへい)の君、神の君、徳川家康公の後年の功績を(たた)え『神君(しんくん)伊賀越(いがご)』として伝わる出来事でした。

徳川家康のイラスト
徳川家康のハナシを読む

徳川家康(松平元康)は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将・大名です。今川氏の人質から独立すると織田信長とともに天下統一を目指し、信長の死後は豊臣秀吉のもとで国家運営に携わります。秀吉の死後、征夷大将軍に就任して江戸幕府を開き、泰平の世が260年つづく江戸時代の開祖となりました。享年74。

お仕事のご依頼はこちら