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あなやま ばいせつ

穴山梅雪

1541.? 〜 1582.6.21

 
穴山梅雪のイラスト
  

穴山梅雪(信君)は、現在の山梨県にあたる甲斐国の武将です。武田一門衆でしたが、信玄の没後、勝頼の器量に疑念を抱くようになり、不和が生じます。織田氏の甲州征伐がはじまると勝頼を見限って徳川家康と内通。信長の配下に加わりますが、本能寺の変の騒動に巻き込まれ、非業の死を遂げました。享年42歳。

穴山梅雪は何をした人?このページは、穴山梅雪のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと穴山梅雪が好きになる「裏切り者と呼ばれ武田家を残すも伊賀越えできなかった」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:穴山信君 → 穴山梅雪斎不白
  • 幼 名:勝千代
  • 官 位:陸奥守、伊豆守、玄蕃頭
  • 出身地:甲斐国(山梨県)
  • 居 城:下山城 → 江尻城
  • 正 室:見性院(武田信玄の娘)
  • 子ども:1男 1女 1養
  • 跡継ぎ:武田信治
  • 父と母:穴山信友 / 南松院

裏切り者と呼ばれ武田家を残すも伊賀越えできなかった

穴山梅雪こと穴山信君(のぶただ)は、ネットでは「アナ雪」の愛称で親しまれている隠れた人気者です。

甲斐武田氏の庶流にあたる穴山家に生まれた穴山梅雪は、母は信玄の姉、妻は信玄の娘というサラブレッドでした。そのため、庶流ではあるが武田宗家に最も近い血統であると自負していました。

1573年に武田信玄が病没すると、信玄の四男・勝頼が武田家の当主になります。傲慢な性格の勝頼は、穴山梅雪ら重臣の意見を聞かず、1575年の長篠の戦いで惨敗を喫します。この戦いで信玄以来の重臣たちを亡くしました。

信玄は生前に「勝頼の娘と穴山梅雪の長男を結婚させろ」と遺言しました。その約束をやぶって勝頼は従弟の武田信豊と娘を結婚させてしまいます。先代の遺言すら守らない勝頼に、穴山梅雪はついにキレます。


勝頼じゃ無理
ここは俺でしょ

武田家に先行き暗い雰囲気が漂うなか、穴山梅雪は長篠で戦った織田陣営の徳川家康と会うことにします。勝頼を見限ることにしたのです。

家康から「信長陣営に入ることは裏切りではない。名門・武田家を守る最善の道です」と説かれ、これに穴山梅雪は「武田家の名跡を継ぎたい」と伝えると、織田信長からOKをもらいました。

裏切り者、不忠義者、卑怯者と、穴山梅雪は武田家中で(ののし)られましたが、信長に黄金2千枚、家康に2人の美女を献上して信長陣営に仲間入り。武田勝頼を滅ぼす道案内をしました。


痛恨の極み
伊賀を越えられない

勝頼を倒した信長と家康は、安土城でおつかれさま会をひらきます。この席に穴山梅雪もお邪魔しました。宴のあと、家康一行と堺の見物を楽しみました。

ここで本能寺の変が起こります。

観光ムードから一転、信長を討った明智の兵が家康一行を狙ってきます。同行する穴山梅雪も危ない。家康一行は、あえて危険な山道がつづく伊賀を越えて伊勢湾を目指すことにしました。

穴山梅雪は家康と別行動を選択します。裏切り者と言われてまで武田家を継ぐと決めたのだから、こんなところで死ねない。レット・イット・ゴー。

なんということでしょう。家康と別れた直後、木津川から宇治田原にさしかかる草内(くさじ)の渡しで土一揆に遭遇し、穴山梅雪は命を落とします。一方の徳川家康は、なんとか伊賀を越えて三河まで帰りました。

生涯をざっくり振り返る

1541年、穴山梅雪は甲斐国・河内郡に甲斐武田氏一門・穴山家の長男として生まれます。武田信玄の娘を正室に迎え、武田宗家との繋がりも深く重要な存在でした。とくに今川氏との外政や内通者の引き抜きに能力を発揮しました。

信玄の没後、折り合いが悪かった武田勝頼を離れて織田氏に寝返ります。勝頼が滅んだ1582年、織田信長に謁見するために徳川家康と上洛。本能寺の変に巻き込まれて畿内から脱出する途中、山城国・宇治田原で土一揆に討たれました。42歳でした。

穴山梅雪が横死したのち、念願かなって長男・信治が武田宗家を継ぎます。しかし、信治が16歳で他界し穴山家は断絶、家康の五男・信吉が武田家を継ぎますが21歳で亡くなり、こちらも断絶しました。

穴山梅雪の領地・勢力図(1570年)

甲斐国と駿河国の国境ちかくにある河内郡が穴山梅雪の領地でした。この土地は穴山家が独自統治することを信玄から認められていました。

穴山梅雪の性格と人物像

穴山梅雪は「土壇場(どたんば)で損切りを間違えてしまう人」です。

その実、歴史や伝統がある銘柄を重んじる気持ちがあり、多少の損をかぶってでも手放しません。しかしながら、先を見る目がやや鈍く、名門・武田家の没落という大きな損を引いてしまいました。

本能寺の変のあと、畿内から脱出を図った際にも、家康に同行をすることをリスクと考えてしまったために判断を誤りました。ぎりぎりのところで惜しい感じは否めません。

文武両道、イカツイかんじのコワモテです。詩歌や書画など風流を好み、文化的素養に明るく教養がありました。

能力を表すとこんな感じ

穴山梅雪の能力チャート

人の懐に入り込む不思議な特技があり、話術も巧みな穴山梅雪は交渉や引き抜きが得意です。最終的に自分が引き抜かれることになったのも因果です。

穴山梅雪の有名な戦い

三方ヶ原の戦い みかたがはらのたたかい 1573.1.21 ○ 武田軍3万 vs 織田&徳川軍1万5千 ●

西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。

三方ヶ原の戦いで穴山梅雪は敗れています。
天野康景が率いる徳川方の奇襲部隊を、3百の鉄砲隊で壊滅させる働きをしました。

長篠の戦い ながしののたたかい 1575.6.29 ● 武田軍1万5千 vs 織田&徳川軍3万8千 ○

長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。

長篠の戦いで穴山梅雪は敗れています。
穴山梅雪のターニングポイントになった戦いです。
自軍の不利を武田勝頼に説きますが無視されます。そのため、積極的な交戦をしないまま帰国しました。梅雪のこの行為が敗因であると指摘され、武田家臣との不和が生じます。

穴山梅雪の詳しい年表と出来事

穴山梅雪は西暦1541年〜1582年(天文10年〜天正10年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。

15411穴山信友の嫡男として甲斐国に生まれる。幼名:勝千代
155313人質として武田晴信(信玄)に預けられる。
155818父・穴山信友の出家により家督を相続。
156121”第4次川中島の戦い”上杉政虎(謙信)との戦に参加。武田本陣を守備する。
156727弟・信嘉が自害する。
156828武田氏に内通を試みる今川家臣、徳川家臣の取次を務める。【第1次駿河侵攻】
156929今川領・大宮城攻めに参加。【第2次駿河侵攻】
157030武田軍が甲斐国に撤退したあとも駿河国・横山城に居残る。
157333”三方ヶ原の戦い”徳川氏&織田氏との戦に参加。天野康景を壊滅させる。
157535”長篠の戦い”織田氏&徳川氏との戦に参加。決戦に反対し交戦を避ける。
長篠で戦死した山県昌景に代わって駿河国・江尻城に入る。
158040出家 → 穴山梅雪斎
158242嫡男と武田勝頼の娘の縁組みが反故にされる。
武田勝頼から離反して徳川家康を介して織田信長の配下に加わる。
織田氏、徳川氏の甲州征伐に協力する。武田家滅亡
織田信長に謁見するため徳川家康に同行して上洛。摂津国・堺の見物を楽しむ。
織田信長が死亡。【本能寺の変】
徳川家康に同行して畿内から脱出する途中、山城国・宇治田原で一揆に襲われ落命。【伊賀越え】
戦国時代で穴山梅雪が生きた期間の表

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穴山梅雪の顔イラスト