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あけち みつひで

明智光秀

1528.?〜 1582.7.2

 
明智光秀のイラスト
  

明智光秀(惟任光秀)は、現在の岐阜県にあたる美濃国の武将です。織田四天王のひとり。足利義昭を将軍にするために、織田信長との接点になって尽力します。次第に信長の参謀として働くようになり、天下統一に向けて貢献しますが、本能寺の変で信長を殺害します。豊臣秀吉との戦いに敗れて死亡しました。享年55歳。

明智光秀は何をした人?このページは、明智光秀のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと明智光秀が好きになる「敵は本能寺にあり。信長の有能な参謀が謀反を起こした」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:明智光秀 → 惟任光秀
  • 幼 名:彦太郎
  • あだ名:キンカ頭
  • 官 位:従五位下、日向守
  • 戦 績:22戦 16勝 2敗 4分
  • 出身地:美濃国(岐阜県)
  • 領 地:近江国、丹波国、山城国
  • 居 城:坂本城、亀山城
  • 正 室:煕子(妻木範煕の娘)
  • 子ども:3男 4女
  • 父と母:明智光綱 / お牧の方

敵は本能寺にあり。信長の有能な参謀が謀反を起こした

1582年に起こった本能寺の変は、天下統一を目前にしていた織田信長を明智光秀が殺害した日本史最大の謎とされる事件です。本能寺の変の当時、ふたりは主従関係にありました。明智光秀は、主君である織田信長にとつぜん謀反(むほん)を起こしました。

天下に野心を抱いたのか?
追い込まれて殺意を抱いたのか?

明智光秀が本能寺を起こした理由はよくわかっていません。それもそのはず、本能寺の変の直前まで、ふたりは天下統一に向けて二人三脚で歩んでいたのです。


そもそも
明智光秀とは何者か?

明智光秀と織田信長が運命を重ね始めたのは1568年ごろ。足利義昭を将軍にして室町幕府を再興させるという共通の目的で、行動を共にするようになります。そして、これに機に織田信長の天下統一事業が発足します。この事業を先導したのが明智光秀でした。

幕府の後見になることで、信長は正義と大義名分を得られ、これに逆らう者を堂々と討伐できるといったプランでした。そのためには足利義昭を将軍にして恩を売るのが効果的です。

明智光秀が示した室町幕府復興と織田信長の天下統一の指標

明智光秀は、もう一方の義昭にも将軍になるために信長を利用するプランを提案してました。

信長と義昭は、室町幕府の再興を共通の問題とし、これを解決できる人物として明智光秀を頼りました。明智光秀とは、双方をつなぐ代理店のような役割をしていたのです。

頭もきれる、やり手の明智光秀を信長は気に入り、家臣としてスカウトします。明智光秀も信長の期待と要求に100%応え、(またた)く間に織田家ナンバー2まで出世。1580年には、信長から京都を含む畿内(きない)の司令官に任命されました。

信長は細川藤孝らを明智光秀のサポートにつけ、これを加えた明智グループの総石高は240万石ほどになりました。武田信玄のピーク時でも120万石ですので、明智光秀はこれを上回る国力を持ったことになります。

そして、天正10年6月2日に『本能寺の変』を起こします。動機には、つぎのような説があります。


天下をねらった
『野望説』

シンプルに「ワンチャンいける」と、明智光秀が天下取りを狙ったとする説です。
本能寺の変を起こす直前の5月28日、愛宕山(あたごやま)連歌会で明智光秀が()んだ歌がこちら。

ときは今 あめが下知(したし)る 五月(さつき)かな

これは「とき=土岐、あめ=天、下知=命令」と解釈することができ、土岐氏の出身である明智光秀が今こそ天下に号令を下すことをにおわせたのではないか?この歌が明智光秀の謀反(むほん)の意思を示したものであると『惟任退治記(これとうたいじき)』に記録されています。

明智光秀が謀反をにおわせた歌

しかし、頭脳派の明智光秀にしては、信長を討ったあとの行動があまりにも無計画で、天下をねらったというのは多くの疑問が残ります。

さらに、惟任退治記(これとうたいじき)の ”惟任”(これとう)” とは、明智光秀が朝廷からもらった姓のこと。つまり、これは明智光秀を退治した記録で、豊臣秀吉が書かせたものでした。明智光秀の印象を悪くするために歪曲(わいきょく)された可能性があります。

野望とは違いますが、信長が描く構想が明智光秀の方針と大きく隔絶(かくぜつ)していたため、織田政権に希望が持てなくなったという見方もあります。


信長のパワハラ
『怨恨説』

みんなの前で信長に「テメーゴルァ」とフルボッコにされたり、大量の酒をイッキ飲みさせられて急性アルコール中毒になった。これらのパワハラの恨みが限界に達した説です。

長年、ドラマなどで定説とされてきた演出もしやすい動機です。信長のいじめに耐えられない、疲れた、もう限界。ぶっ殺すしかなかったのかもしれません。

八上城(やかみじょう)の戦いで、捕らわれて(はりつけ)にされた母親を信長に見殺しにされた逸話がありますが、これはフィクションのようです。


苦労が水の泡
『四国征伐回避説』

信長の四国征伐を、力ずくで止めようとしたという説です。

四国を統一した長宗我部元親を織田傘下に入れるため、明智光秀が調整役を担いました。その際、長宗我部家との姻戚を頼って交渉をまとめ、長宗我部元親は織田氏に従う意思を示します。ところが信長は気が変わって長宗我部氏を討伐すると言い出しました。

必死の訴えも信長には届かず、長宗我部討伐軍の出発は6月3日に決定します。明智光秀が本能寺の変を起こしたのは、その前日でした。わりと可能性高めな動機です。


この流れ、
やるっきゃない

このころの信長は、確実にヤバい人になっていたという背景は無視できません。織田家・筆頭家老の佐久間信盛(勤続30年)を突然追放したり、さんざん協力してくれていた徳川家康を恫喝(どうかつ)したり、あげく自分のことを神だと言いはじめたり。みんなウンザリでした。

このようなことから、織田信長に対して疑念(ぎねん)や迷いが生じていたのは十分にあり得ることでした。本能寺の変を起こす直前まで、明智光秀は何度も(えき)占いをしますが結果はすべて凶。しかし、もはや信長を止めることはできず、明智光秀も止まることができなかったのでしょう。ついに凶行におよびます。

大炎上した本能寺の焼け跡から、織田信長の遺体はおろか、死亡の痕跡(こんせき)すら発見されておらず、明智光秀も複数の遺体が出てくるなど、真相がわかりません。こういった後味の悪さも、本能寺の変のミステリーたる所以(ゆえん)です。

* * * * *

短い間しか権力の座が続かないことを『三日天下』といいますが、本能寺の変から山崎の戦いまでの明智光秀の様子に由来しています。実際には、明智光秀が討たれたのは織田信長を討ってから11日後でした。このあと、明智光秀を倒した豊臣秀吉が天下統一します。

生涯を簡単に振り返る

1528年、明智光秀は美濃国(みののくに)・明智城に明智光綱の長男として生まれます。幼いころ父が亡くなり、叔父・明智光安に育てられます。斎藤道三に仕えましたが、道三が斎藤義龍と争って敗死したため、他国に逃れます。放浪のすえ、越前国(えちぜんのくに)の朝倉義景の世話になり、同じく居候(いそうろう)としてやってきた足利義昭と出会いました。

織田信長の協力を得て義昭を将軍に擁立し、幕臣になります。しばらくは義昭と信長の両方に仕えますが、信長と義昭が対立すると織田家臣に転身。比叡山(ひえいざん)焼き討ちでの活躍が認められ、信長と出会ってからたった4年で城持ち大名になります。丹波国(たんばのくに)を平定する働きでも信頼を得ますが、本能寺の変を起こして信長とその嫡男(ちゃくなん)・信忠を殺害しました。

最後と死因

味方だと思っていた細川藤孝や筒井順慶の取り込みがうまくいかず、信長の(かたき)討ちにあらわれた豊臣秀吉に山崎の戦いで敗れてしまいます。山城国(やましろのくに)・京の小栗栖(おぐるす)を逃走中に、落武者狩りが竹藪(たけやぶ)から突き出した竹槍に刺されて明智光秀は絶命しました。1582年7月2日、死因は討死。55歳でした。

焼け落ちた本能寺から信長の遺骸(いがい)を発見できなかった明智光秀は、信長が脱出したと思って取り乱したといいます。あせっている様子をみかねた家臣の斎藤利三が「信長公が合掌して燃えさかる奥の間に行くのを見た」と伝えると、正気を取り戻したそうです。

領地と居城

明智光秀の領地・勢力図(1582年)

近江国(おうみのくに)・坂本と丹波国(たんばのくに)を合わせた34万石が明智光秀の領地でした。坂本城と織田信長の居城・安土城はどちらも琵琶湖(びわこ)の南岸にあり、目と鼻の先でした。信長は最も近い場所に、明智光秀を置いていました。

明智光秀の性格と人物像

明智光秀は「ふつふつとした野心を秘めた人」です。

知識や技能の習得に労を惜しまず、自分磨きに熱心です。スキルを活かしたセルフプロモーションが得意で、鉄砲の技術が高く、45m先の的に6割の確率で当てられる腕前をみせて朝倉家に就職しました。

(うそ)つきで密会を好み、冷酷で策を(ろう)すると評される策謀家であり、比叡山(ひえいざん)焼き討ちの凄惨(せいさん)さを前にしても平然としていたなど、サイコパスを思わせる一面も。占領した土地の国人衆にそのまま統治を任せたり、合理主義で、能力を重んじるところや、規則正しい生活を好むなど、信長とよく似ているところがあります。

連歌や茶の湯など、教養深い文化人であり、薬学の知識も豊富です。織田家臣団に不足していた教養のすべてを持っていて、公家の接待役もこなせます。

戦略に秀でており、同時に複数部隊を統率した作戦行動もお手のもの。頭脳派ですが、剣術に秀でているうえ、合戦で組み合いになった相手の鞍橋(くらぼね)を引きちぎるほどの怪力の持ち主でもあります。

好きな食べ物は(ちまき)。お酒はまったく飲めません。愛妻家で側室はいませんでした。

身長170cmくらいで威厳があり、家族もふくめてルックス(品格)が良かったようで、光秀ファミリーを見たルイス=フロイスは「王侯貴族のようだ」と驚いた様子を伝えています。

鬼の顔に炎のような瓢箪(ひょうたん)を模した『鬼喰形瓢箪脇立兜(おにばみなりひょうたんわきだてかぶと)』をはじめ、明智光秀の甲冑は数点が現存しています。

能力を表すとこんな感じ

明智光秀の能力チャート

頭脳明晰(めいせき)な明智光秀は、難しいことも当然のようにさらっとやってのけます。それは、インテリジェンスさに欠いていた織田家臣団にあって異色の存在でした。不意を突いたとはいえ、信長を討ったのも実力でした。

信長の野望シリーズに登場する明智光秀の能力値も参考にしています。

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明智光秀の面白い逸話やエピソード

秀吉に敗れたあとも生きていた?天海=生存説

京都宇治の専修院と神明神社、大阪の本徳寺には、秀吉に敗れた山崎の戦いのあとで明智光秀を保護したという言い伝えがあります。

山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れた明智光秀は、落武者狩りの竹槍に突かれて絶命したとされていますが、じつは逃げ延びて、南光坊天海(なんこうぼうてんかい)というお坊さんになったというのが『光秀生存説』です。

南光坊天海と明智光秀は同一人物かもしれない光秀生存説

1609年頃から、徳川家康の政治参謀のような役割をしていますが、天海の生涯のほとんどが不明です。家康が豊臣氏を攻める口実(こうじつ)をつくった『方広寺鐘銘(じしょうめい)事件』にも、天海が関与しています。

天海が現れたときの家康は驚いた様子で、旧知の友人にあったように上機嫌になり、長い時間ふたりきりで話していたといいます。

天海が修行していたとされる比叡山(ひえいざん)の叡山文庫には、俗名(ぞくみょう)を光秀と名乗った僧侶の記録があり、光秀が亡くなった1582年以降に、光秀の名前で寄進された石碑比叡山(ひえいざん)にあります。かつて光秀の居城があった近江の坂本には、南光坊天海(なんこうぼうてんかい)のお墓があります。

徳川家康を(まつ)っている日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)に明智家の桔梗紋(ききょうもん)が使用されていて、日光には『明智平(あけちだいら)』という地名があり、いずれも天海が関わってると考えられています。

偶然でしょうか?

比叡山の焼き討ちでヒャッハーしてしまう

戦国史に残る残虐(ざんぎゃく)な事件『比叡山(ひえいざん)焼き討ち』は、敵対していた比叡山(ひえいざん)の僧侶を殲滅(せんめつ)するために、僧侶はもとより、女性も子どもも、国宝も、すべて山ごと燃やした、織田信長の過激な行動として知られますが、これを主導したのは明智光秀でした。

焼き討ちの10日前、光秀は信長にサラリと告げます。

光秀「比叡山(ひえいざん)の件ですが、みなごろしにしましょう」
信長「ぉ、おう!みなごろしじゃ!」

と、信長もGOサインを出しました。

光秀は、用意周到に配置した発火ポイントに火をつけて、逃げてくる人々を斬りまくりました。悲鳴が聞こえなくなったころ、信長もドン引きするほどの惨状がひろがっていました。

比叡山(ひえいざん)の掃討戦でMVPとなった明智光秀には、近江(おうみ)坂本と築城OKのボーナスが出ます。織田家臣団で、はじめての城持ち大名になりました。

本能寺の変の1年前まで信長とリスペクトしあっていた

本能寺の変が起こる1年前「がらくたみたいだった自分を立派にしてくれた織田さまには子々孫々(ししそんそん)、末代まで感謝の気持ちを忘れちゃならね」と、光秀は信長に感謝する気持ちを書き残しています。一方で織田信長も「光秀はスゲェ。日本一の武将だ。みんなも見習え」と、光秀を激賛していました。

光秀の寝室には信長直筆の掛け軸が飾ってあったといい、ふたりの関係は良好でした。しかし、最後の1年でもつれた運命によって、本能寺は炎に包まれました。

信頼し、支え合っていた主従関係は奇妙な終わりを遂げました。

明智光秀の有名な戦い

本圀寺の変 ほんこくじのへん 1569.1.31 ● 三好軍1万 vs 足利幕府軍2千 ○

三好三人衆が、本圀寺(京都府京都市山科区)の15代将軍・足利義昭を襲撃した事件。13代将軍を殺害した永禄の変と同様に、三好長逸らが攻め入るが、織田氏の助勢もあって、幕府軍が義昭の防衛に成功した。明智光秀が活躍した合戦。本圀寺合戦、六条合戦とも。

本圀寺の変で明智光秀は勝っています。
幕臣として足利義昭の側に仕えていた光秀は、最初から最後まで戦い抜いて、三好三人衆の襲撃を退けました。明智光秀が歴史に登場する最初の出来事です。

金ヶ崎の戦い かねがさきのたたかい 1570.4.28 ● 織田&徳川軍3万 vs 浅井&朝倉軍2万5千 ○

越前の朝倉義景を攻めていた織田信長を朝倉軍と浅井軍が金ヶ崎(福井県敦賀市金ヶ崎町)で挟み撃ちにした戦い。浅井長政の裏切りによって、織田軍は撤退を余儀なくされる。木下秀吉が、客将として参戦していた明智光秀ととも撤退戦の殿を担い、信長を無事に逃げさせた。

金ヶ崎の戦いで明智光秀は敗れています。
織田軍にゲスト参加していた光秀は、信長をピンチから逃がす活躍をします。金ヶ崎の撤退戦によって、信長から大きな信頼を得ました。

比叡山焼き討ち ひえいざんやきうち 1571.9.30 ○ 織田軍7万8千 vs 延暦寺4千 ●

志賀の陣で浅井氏&朝倉氏を匿った延暦寺(滋賀県大津市)に業を煮やした織田信長が比叡山を攻めた事件。軍事力を持っていた比叡山の存在を抹殺することにした信長は、総指揮を明智光秀に一任して山に火を放ち、逃げる者をみな殺しにした。死者の数は3〜4千人とも。

比叡山焼き討ちで明智光秀は勝っています。
凄惨(せいさん)殲滅(せんめつ)戦となったこの戦いの総指揮を任されています。焼け跡がひろがる比叡山(ひえいざん)で戦後処理も行いました。

天王寺砦の戦い てんのうじとりでのたたかい 1576.6.3 ● 本願寺&雑賀軍1万5千 vs 織田軍?○

対石山本願寺のために織田軍が築いた天王寺砦(大阪府大阪市天王寺区)で行われた攻防戦。雑賀衆の加勢を受けて勢いづく本願寺軍が砦を攻め、明智光秀ら守勢が窮地に陥る。急遽援軍の動員令を出すが間に合わず、織田信長が3千の兵で砦に駆けつけ、敵を追い散らした。

天王寺砦の戦いで明智光秀は勝っています。
光秀が守る天王寺砦(てんのうじとりで)は本願寺の大軍に囲まれてしまいます。絶体絶命の状況を救ったのは、わずかな兵で駆けつけた信長でした。

黒井城の戦い くろいじょうのたたかい 1578.3 〜 1579.6 ○ 織田軍1万 vs 赤井軍1千8百 ●

丹波平定を目指す明智光秀が黒井城(兵庫県丹波市春日町)を攻めた合戦。2回にわたり赤井氏と争った。第2次の戦いでは、黒井城と波多野氏の八上城の支城を陥落させ、丹波勢の連携を分断。赤井氏と波多野氏を同時に攻略した一連の勝利によって、丹波を平定した。

黒井城の戦いで明智光秀は勝っています。
2つの部隊を同時に使い分けたハイレベルな軍略で丹波国(たんばのくに)平定を成し遂げます。光秀は司令官として極めて有能であることを示しました。この功績に信長も惜しみない賛辞を送り、織田家の実力者として認められました。

本能寺の変 ほんのうじのへん 1582.6.21 ○ 明智軍1万3千 vs 織田軍2百 ●

本能寺(京都府中京区小川通蛸薬師元本能寺町)に織田信長が宿泊していたところを家臣の明智光秀が襲撃した事件。早朝、喧騒で目を覚ました信長は、明智軍に包囲・攻撃されている事実を知ると「余は自ら死を招いたな」と覚悟し、弓と槍で鬼神のごとく応戦したのち、本能寺に火を放って自害した。

本能寺の変で明智光秀は勝っています。
明智光秀のターニングポイントになった戦いです。
少数の護衛、しかも就寝中だった信長を襲ったため、一気に現場を制圧しました。合戦というより、襲撃事件である本能寺の変は、当時の情勢と日本史を大きく揺るがした出来事です。

山崎の戦い やまざきのたたかい 1582.7.2 ○ 羽柴軍4万 vs 明智軍1万6千 ●

本能寺で織田信長を討った明智光秀と駆けつけた羽柴秀吉が山崎(京都府長岡京市)で激突した合戦。天王山の戦いとも呼ばれる。秀吉は中国地方で毛利氏と交戦中だったが、これを停戦し、急行した。予想外の速さで現れた羽柴軍に明智軍は劣勢となり、敗走した。

山崎の戦いで明智光秀は敗れています。
本能寺の変から数日後、畿内(きない)掌握(しょうあく)に失敗した光秀は、京都に駆けつけた羽柴秀吉に敗れて戦死しました。謀反(むほん)の真相がわからないまま、豊臣秀吉の時代へと分岐していきます。

明智光秀の詳しい年表と出来事

明智光秀は西暦1528年〜1582年(享禄元年〜天正10年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。

15281明智光綱の嫡男として美濃国に生まれる。幼名:彦太郎
15358父・明智光綱の死去により家督を相続。
155629”長良川の戦い”斎藤義龍との戦に参加。主君・斎藤道三の討死により敗れる。明智城を襲われて敗走。浪人となる。
越前国・朝倉義景を頼って客将になる。
156639足利義昭が朝倉義景に保護される。
三渕藤英、細川藤孝に加わり足利義昭をサポートする。
156841足利義昭の上洛を助けて将軍就任に協力するよう織田信長に交渉する。
越前国・朝倉義景のもとを離れて、足利義昭と美濃国・織田信長のもとに移る。
織田信長の上洛に加わり、足利義昭を奉じて京に入る。
足利義昭が15代将軍に就任。幕府の家臣になる。【室町幕府の再興】
佐久間信盛、丹羽長秀、木下(豊臣)秀吉、中川重政とともに京都で政務を行う。
156942三好三人衆が足利義昭を襲撃するが、撃退する。【本圀寺の変】
157043”金ヶ崎の戦い”織田信長の指揮下で朝倉義景との戦に参加。木下秀吉と最後尾を担って信長本隊を退却させる。
足利義昭から山城国・久世を拝領する。
”姉川の戦い”織田信長の指揮下で浅井氏&朝倉氏との戦に参加。
”野田城・福島城の戦い”織田信長の指揮下で三好三人衆との戦に参加。【第1次信長包囲網】
”志賀の陣”織田信長の指揮下で比叡山延暦寺に篭る浅井氏&朝倉氏との戦に参加。
157144荒木村重、松永久秀らが高槻城を接収しようする。1千の兵を率いて向かい撤兵させる。
”比叡山焼き討ち”織田信長が行った比叡山延暦寺の殲滅戦に参加。焼き討ち部隊の指揮を執る。
織田信長に仕える。
織田信長から近江国・志賀を拝領する。
坂本城の築城を開始する。
大和国で争う筒井順慶と松永久秀を佐久間信盛と仲介し和睦させる。
157346”槙島城の戦い”足利義昭との戦に参加。石山砦を降し、今堅田砦を攻略する。【室町幕府の滅亡
坂本城が完成、居城にする。
”一乗谷城の戦い”朝倉義景との戦に参加。朝倉家滅亡
”小谷城の戦い”浅井長政との戦に参加。浅井家滅亡
157447”第1次高屋城の戦い”三好康長&石山本願寺の討伐に向かう。佐久間信盛、細川藤孝らと若江城に移り、飯盛城、萱振城を陥落させる。
157548”第2次高屋城の戦い”三好康長&石山本願寺との戦に参加。
”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。
”越前一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。羽柴(豊臣)秀吉と大良越、杉津城、新城を落として焼き払う。
織田信長から丹波国の平定を任じられる。
”第1次黒井城の戦い”丹波国に侵攻し、赤井直正が篭る黒井城を包囲する。
157649波多野秀治が織田氏に叛く。不意を突かれたため、包囲していた黒井城から撤退。
”天王寺砦の戦い”天王寺砦を守るが石山本願寺の攻撃を受けて窮地に陥る。駆けつけた織田信長に救われる。
過労で倒れ、しばらく療養する。
妻・煕子が亡くなる。
157750”第1次紀州征伐”雑賀衆との戦に参加。浜手から攻める。
”信貴山城の戦い”松永久秀が織田氏に叛く。討伐に向かう。
亀山城の築城を開始。
157851荒木城を包囲。水を断って荒木氏綱を降伏させる。
”第2次上月城の戦い”毛利軍に包囲される尼子再興派の援軍に向かう。
”三木合戦”羽柴秀吉の指揮下で三木城の包囲作戦に加わる。
丹波国で国人たちが大規模な反乱を起こす。駆けつけて鎮圧する。
”有岡城の戦い”荒木村重が織田氏に叛く。討伐に向かう。
”八上城の戦い”波多野秀治が篭る八上城を包囲。
亀山城が完成、丹波攻めの拠点にする。
157952*羽柴長秀が但馬国から丹波国攻めに加勢する。
八上城が開城降伏。波多野秀治を捕縛、処刑する。波多野家滅亡
”第2次黒井城の戦い”赤井直正の死去により弱まっていた黒井城を攻略。
丹波国を平定。
丹後国を攻める細川藤孝に加勢して、一色義道を撃破。
丹後国を平定。
158053織田信長から丹波国と山城国・南部を拝領する。
丹後国・細川藤孝、大和国・筒井順慶を加えて、畿内方面軍240万石を統括する。
周山城の築城を開始。
横山城を改築して福知山城に改める。
黒井城を増築する。
158154京で行われた大規模な軍事パレードの幹事を務める。【京都御馬揃え】
四国地方を統一していた長宗我部元親と交渉し、恭順を約束させる。
周山城が完成。
158255”甲州征伐”武田勝頼の討伐に向かう織田信長の本隊に同行。武田家滅亡
甲州征伐の宴席で織田信長に殴り倒される。
長宗我部元親の討伐が決まる。反対して織田信長に激怒される。
徳川家康を安土城に招く接待役を任される。用意した食事について織田信長に激怒される。
徳川家康の接待役を解かれて備中国を攻める羽柴秀吉の援軍を命じられる。
主君・織田信長が滞在する本能寺を襲撃、焼き討ちにする。織田信忠を二条城で討つ。【本能寺の変】
織田信長の居城・安土城および近江国を制圧。宝物庫から金銀財宝を家臣や味方に分配する。
誠仁親王から京都の治安維持を任される。
朝廷、寺院に銀を献上・献納する。
細川藤孝・忠興父子を配下に組み込もうとするが拒絶される。
筒井順慶が離反する。
”山崎の戦い”駆けつけた羽柴秀吉に敗れる。山城国を敗走中、落武者狩りに襲われ落命。
戦国時代で明智光秀が生きた期間の表

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