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あけち みつひで

明智光秀

1528? 〜 1582.7.2

 
明智光秀のイラスト
  

明智光秀は、現在の岐阜県にあたる美濃の武将・大名です。足利義昭を将軍に擁立するために尽力し、織田信長と義昭の間をつなぎます。接点を持つうち、次第に信長の参謀として働くようになり、近畿地方の制圧に大きく貢献しますが、本能寺の変で信長を襲撃、直後に豊臣秀吉との戦いに敗れて死亡しました。享年55歳。

明智光秀の人物タイプ
参謀

このページでは、明智光秀が何をしたどんな人なのか、ハイライトやエピソードを紹介しています。戦国武将・明智光秀のことがきっと好きになります。

  • 出身地:美濃(岐阜県)
  • 特 徴:なんでも上手にできる
  • あだ名:キンカ頭
  • 戦 績:22戦 16勝 2敗 4分
  • 領 地:近江、丹波、山城
  • 居 城:坂本城、亀山城

敵は本能寺にあり。信長の参謀は天下統一を目前に待ったをかけた

天下に野心を抱いたのか、追い込まれて殺意を抱いたのか、明智光秀が本能寺の変で織田信長を討った理由はよくわかっていません。本能寺を襲撃する数時間前になって、部下たちに信長を討つ指示をしたようですので、直前まで迷ったのかもしれません。

織田信長にとって「明智光秀は、なくてはならない存在」でした。美濃を攻略したのち、足利義昭を奉じて上洛するあたりから、信長の躍進がはじまります。将軍職を足利義昭に継がせた信長は、幕府の実権を握ったため、意思に従わないものを討伐する権利を得たのです。

明智光秀は、幕府再興から信長が天下の実権を得る流れをつくりました。明智光秀がいなければ織田信長の天下も見えてこなかったといわれています。

明智光秀が示した室町幕府復興と織田信長の天下統一の指標

信長は重要な拠点が集中する近畿の司令官の役割を明智光秀に任せます。明智領に加えて、細川藤孝、筒井順慶ら近畿の大名を光秀の与力(サポート)として配属しました。近畿・明智グループの総石高は240万石ほどになった(武田信玄がピーク時でも120万石)といわれています。織田家中の有力大名である柴田勝家や羽柴秀吉が50万石ほどですので、破格の厚遇です。

大きな期待をかけてくれる信長に対して「がらくたみたいだった自分をこんなに立派にしてくれた織田さまには子々孫々、末代まで感謝の気持ちを忘れちゃならね」と、明智光秀は書き残しています。本能寺の変が起こる1年前「光秀はスゲェ。日本一の武将だ。みんなも見習え」と信長も激賛しており、互いに尊敬しあう良好な関係でした。

では、なぜ本能寺の変を起こした?

【野望説】シンプルに「ワンチャンあるかも?」と、明智光秀が天下取りを狙った可能性あり。

【怨恨説】みんなの前で信長に「テメーゴルァ」とフルボッコにされた。大量の酒をイッキ飲みさせられて急性アルコール中毒になった。などを理由とした、パワハラを恨んでいた可能性あり。

【黒幕説】豊臣秀吉の野望のために利用された、信長に妻子を殺された徳川家康の復讐に利用された。ほかにも足利義昭、朝廷が明智光秀を担いだ可能性あり。

【四国問題説】明智光秀は、四国を統一した長宗我部氏を織田氏に従属させる交渉役をしていたが、信長がとつぜん長宗我部氏をあざむき、討伐軍を挙げようとした。必死でとめたが、信長は聞く耳をもたなかった。面目をつぶされた可能性あり。

こういったことが本能寺の変の動機として有力とされています。このほかにも、織田家・筆頭家老の佐久間信盛(勤続30年)が突然追放されたり、さんざん協力してくれていた徳川家康を恫喝するようになったり、あげく自分のことを神だと言いはじめたり、信長は確実にヤバい人になっていきました。

大河ドラマ『麒麟がくる』では、信長というモンスターをつくってしまった明智光秀が、責任を感じて暴走を止めたという印象でした。

[生涯] わかりやすい解説

① 放浪

明智光綱の長男として生まれます。
8歳のときに父が亡くなり、叔父・明智光安のもとで過ごします。
美濃の斎藤道三の家来でしたが、道三が息子・斎藤義龍との戦いで敗死してしまい、光秀も美濃を追い出されます。
さまよったすえ、朝倉義景に助けられて越前で暮らします。

② 室町幕府の再興

京で将軍が暗殺される事件があって、将軍の弟・足利義昭が越前に逃げてきます。
光秀は、室町幕府をたてなおすために、織田信長を協力者にして足利義昭を将軍にする計画をたてます。

信長の強力なサポートを受けて京都に攻めのぼり、足利義昭は15代将軍になりました。義昭と信長の両方の家来になった光秀は、室町幕府と織田氏のあいだをとりつぎました。

③ 本能寺の変

足利義昭と織田信長は仲が悪くなっていきました。
光秀は織田信長をえらび、完全に信長の家来になります。
信長の天下統一のために活躍した光秀は、大きな軍を率いる指揮官になって、丹波と丹後を領地にしました。

織田家で信長の次にえらくなった光秀ですが、本能寺の変で織田信長を殺してしまいます。
光秀が信長を倒したと聞いて京都にかけつけた豊臣秀吉に山崎の戦いで敗れて、最後は逃げる途中で落武者狩りにあい、絶命しました。

明智光秀の簡単な年表
明智光秀の領地・勢力図(1582年)

[能力] マルチな秀才でも信頼できる友達が必要だった

明智光秀は何をやらせても上手くやる万能タイプです。勤勉で、努力を重ねることができ、礼儀や規律に正しいため、優等生や秀才のイメージが持たれます。
やることにぬかりがなく、光秀を理解していればこそ、信長も本能寺で逃げ場がないと悟ったのでしょう。

教養があって心遣いもできる光秀は、さまざま交渉役として活躍したばかりか、丹波侵攻では多方面を同時に攻略する完璧な指揮をしています。しかし、本能寺の変では、親しくしていた細川藤孝にも同意を得られないなど、孤立してしまった感が否めません。

明智光秀の逸話・面白いエピソード

秀吉に敗れたあとも生きていた?天海=生存説

京都宇治の専修院と神明神社、大阪の本徳寺には、山崎の戦いのあとで明智光秀を保護した言い伝えがあります。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れた明智光秀は、落武者狩りの竹槍に突かれて絶命したとされていますが、じつは逃げ延びて、南光坊天海というお坊さんになった「生存説」があります。

【南光坊天海】明智光秀は天海として生存していたかもしれない

天海は実在した人物で、徳川家康の政治参謀のような役割をしていました。家康が豊臣氏を攻める口実をつくった「方広寺鐘銘事件」にも天海が関与しています。
天海の前半生は不明ですが、出身地とされる比叡山の叡山文庫には、俗名を光秀と名乗った僧侶の記録があるそうです。また、光秀が亡くなった1582年以降に光秀の名前で寄進された石碑が比叡山にあります。かつて明智光秀の居城があった近江の坂本に南光坊天海のお墓があります。

徳川家康を祀っている日光東照宮に、明智家の桔梗紋が使用されていて、日光には明智平という地名があり、いずれも天海が関わってると考えられています。

比叡山の焼き討ちでヒャッハーしてしまう

戦国史に残る凄惨な事件「比叡山焼き討ち」は、やっかいな対抗勢力だった比叡山の僧侶を殲滅するために、僧侶はもとより、女性も子供も殺害し、国宝にいたるまですべてを山ごと燃やしてしまった織田信長の過激な行動として知られています。じつは、この焼き討ちを主導したのは明智光秀でした。

事件の10日前、信長に光秀はサラリと伝えます。「比叡山の件ですが、みなごろしにしましょう」信長も「ぉ、おう!みなごろしじゃ!」とGOサインを出しました。
光秀は用意周到に配置した発火ポイントに火をつけると、炎から逃げてくる人々を無差別でバッサバッサと斬りまくりました。燃えさかる山寺から悲鳴が聞こえなくなったころ、現場は信長もドン引きするほどの惨状だったそうです。

比叡山の掃討戦でMVPとなった明智光秀には近江坂本が与えられ、築城OKというボーナスまでつき、織田家臣団ではじめての城持ち大名になりました。

明智光秀の戦い・有名な合戦

金ヶ崎の戦い かねがさきのたたかい 1570.4.28 織田&徳川軍3万 vs 浅井&朝倉軍2万5千

越前の朝倉義景を攻めていた織田信長を朝倉軍と浅井軍が金ヶ崎(福井県敦賀市金ヶ崎町)で挟み撃ちにした戦い。浅井長政の裏切りによって、織田軍は撤退を余儀なくされる。木下藤吉郎が、客将として参戦していた明智光秀ととも撤退戦の殿を担い、信長を無事に逃げさせた。

金ヶ崎の戦いで明智光秀は敗れています。織田軍にゲストとして参加していた光秀は、信長をピンチから逃がす活躍をします。金ヶ崎からの撤退戦によって、信長から大きな信頼を得ました。

黒井城の戦い くろいじょうのたたかい 1578.3 〜 1579.6 織田軍1万 vs 赤井軍1千8百

丹波平定を目指す明智光秀が黒井城(兵庫県丹波市春日町)を攻めた合戦。2回にわたり赤井氏と争った。第2次の戦いでは、黒井城と波多野氏の八上城の支城を陥落させ、丹波勢の連携を分断。赤井氏と波多野氏を同時に攻略した一連の勝利によって、丹波を平定した。

黒井城の戦いで明智光秀は勝っています。2つの部隊を同時に使い分けたハイレベルな軍略で成し遂げた丹波平定は、司令官として極めて有能であることを示しました。この功績には信長も惜しみない賛辞を送っていて、明智光秀が織田家の実力者として認められるに十分な戦果をあげました。

本能寺の変 ほんのうじのへん 1582.6.21 明智軍1万3千 vs 織田軍2百

本能寺(京都府中京区小川通蛸薬師元本能寺町)に織田信長が宿泊していたところを家臣の明智光秀が襲撃した事件。早朝、喧騒で目を覚ました信長は、明智軍に包囲・攻撃されている事実を知ると「余は自ら死を招いたな」と覚悟し、弓と槍で鬼神のごとく応戦したのち、本能寺に火を放って自害した。

本能寺の変で明智光秀は勝っています。就寝中の信長を襲撃して殺害した事件、本能寺の変は日本史上最大の謎とされています。この出来事は、戦国時代を動かしたターニングポイントです。このあと、光秀は孤立してしまい、畿内(京都周辺)を掌握することに失敗します。

山崎の戦い やまざきのたたかい 1582.7.2 羽柴軍4万 vs 明智軍1万6千

本能寺で織田信長を討った明智光秀と駆けつけた羽柴秀吉が山崎(京都府長岡京市)で激突した合戦。天王山の戦いとも呼ばれる。秀吉は中国地方で毛利氏と交戦中だったが、これを停戦し、急行した。予想外の速さで現れた羽柴軍に明智軍は劣勢となり、敗走した。

山崎の戦いで明智光秀は敗れています。本能寺の変から数日後、京都に駆けつけた羽柴秀吉との戦いに敗れると、謀反の真相がわからないまま、歴史は豊臣氏の時代へと分岐していきました。

明智光秀の年表を詳しく

明智光秀は西暦1528年〜1582年(享禄元年〜天正10年)まで生存しました。戦国時代中期に活躍した武将です。
豊臣秀吉の9歳上、足利義昭の9歳上です。
織田信長より6年さきに生まれています。

15281明智光綱の嫡男として美濃に生まれる。幼名:彦太郎
15358父・明智光綱の死去により家督を相続。
155629”長良川の戦い”主君・斎藤道三が子・斎藤義龍に敗れる。義龍軍に明智城を追われ、浪人となる。
越前・朝倉義景を頼り、客将になる。
156639足利義昭をサポートする細川藤孝らに加わる。
156841足利義昭を将軍にするため、織田信長に協力をあおぐ。
信長の上洛に尽力し、信長、足利義昭とともに京に入る。
足利義昭が第15代将軍に就任し、幕府の家臣になる。【室町幕府の再興】
156942足利義昭が三好三人衆に襲撃され、警護する。【本圀寺の変】
157043”金ヶ崎の戦い”浅井氏&朝倉氏の挟撃に遭い撤退する織田軍の殿(しんがり)を担い、信長本隊を無事に退却させた。
”志賀の陣”織田氏と浅井氏&朝倉氏&比叡山延暦寺との戦に織田軍として参加。
157144”比叡山焼き討ち”比叡山延暦寺と織田氏の戦に織田軍として参加、実行部隊の指揮をとる。
157346足利義昭が挙兵。織田軍に加わり、これを破る。【室町幕府の滅亡】足利家滅亡
幕府と織田氏をつなぐ役割をしていたが、織田の家臣になる。
坂本城が完成、居城とする。
”一乗谷城の戦い”朝倉氏との戦に参加。朝倉家滅亡
”小谷城の戦い”浅井氏との戦に参加。浅井家滅亡
157548石山本願寺、越前一向一揆との戦いに参加。
”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。
織田信長から丹波攻略を命ぜられる。
”第1次・黒井城の戦い”丹波に侵攻し、赤井直正が篭る黒井城を包囲する。
157649波多野秀治の裏切りに遭い、包囲していた黒井城から撤退。
”天王寺砦の戦い”石山本願寺との戦に参加。
157750”紀州征伐”雑賀衆との戦に参加。
”信貴山城の戦い”信長に対して謀反を起こした松永久秀との戦に参加。
157851羽柴秀吉の援軍として播磨での戦に参加。
”有岡城の戦い”信長に対して謀反を起こした荒木村重との戦に参加。
157952”八上城の戦い”包囲戦の末、波多野秀治を捕縛。波多野家滅亡
”第2次・黒井城の戦い”赤井直正の死去により弱まっていた黒井城を攻略。
丹波を平定。
細川藤孝の協力を得て丹後も平定。
158053織田信長から丹波一国を拝領する。
信長の命令により、丹後・細川藤孝、大和・筒井順慶が配下に加わり、近畿方面軍を統括する。
158255”甲州征伐”信濃・武田領の攻略に従軍。武田家滅亡
主君・織田信長ならびに織田信忠を襲撃、殺害する。【本能寺の変】
”山崎の戦い”羽柴秀吉との戦に敗れて敗走、落武者狩りに遭い、絶命した。
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