武田信玄
1521.12.1 〜 1573.5.13

武田信玄(晴信)は、現在の山梨県にあたる甲斐国の武将・大名です。甲信地方に勢力を拡げて、最大版図は中部、関東におよびました。戦国最強と称された国力を誇り、上杉謙信との川中島の合戦は、戦国史のハイライトのひとつになっています。信長討伐軍を率いて上洛する最中、志なかばで急逝しました。享年53。
- 武田信玄の武将タイプ
- 侵略
武田信玄は何をした人?このページは、武田信玄のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと武田信玄が好きになる「戦国最強の甲斐の虎と呼ばれ風林火山の旗をなびかせた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:武田晴信 → 武田信玄
- 幼 名:勝千代
- あだ名:甲斐の虎
- 官 位:従四位下、大膳大夫、信濃守、贈従三位
- 幕 府:甲斐守護、信濃守護
- 戦 績:63戦 46勝 4敗 13分
- 出身地:甲斐国(山梨県)
- 領 地:上野国、甲斐国、信濃国、駿河国、遠江国
- 居 城:躑躅ヶ崎館
- 正 室:上杉の方(上杉朝興の娘)、三条の方(三条公頼の娘)
- 子ども:7男 5女
- 跡継ぎ:武田勝頼
- 父と母:武田信虎 / 大井の方
- 大 名:武田氏16代当主
戦国最強の甲斐の虎と呼ばれ風林火山の旗をなびかせた
武田信玄といえば、だるまのような肖像画を思い浮かべるのではないでしょうか?
迫力がある肖像画からも伝わるように、武田信玄とは『甲斐の虎』と恐れられた戦国大名で、織田信長や徳川家康もかないませんでした。
歴史をつくった信長や家康よりもずっと年上で、親子ほど違いました。それはあらゆる経験や取り組みにも差が現れており、武田信玄には一筋縄ではいかないベテランの怖さがありました。
虎の異名を持つ武田信玄は、狡猾かつ貪欲に領土拡大をねらい、隙あらば同盟国であっても侵略しました。赤い軍装の騎馬隊は、決して戦ってはいけない集団として畏怖されました。
これらは、武田信玄の3つの理念によって成り立っていました。

ひとつめの理念は、武田信玄の思想の最上位にある「領土拡大」です。
武田信玄は意欲的に侵略しましたが、その根本は本国である甲斐(山梨県)の発展と安定が目的でした。
さまざまな工夫で甲斐国を向上させましたが、山に囲われた地域であり、海がないのが難点でした。
そこで、海が近くなる信濃国(長野県)や、海に面した駿河国(静岡県)を攻め取りました。甲斐国をベースとした事業拡大というイメージです。
この過程で、信濃と越後の国境付近でくり返し争ったのが、宿敵上杉謙信との川中島の戦いでした。
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信玄が戦争を
繰り返した理由
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国を豊かにするために戦争をし、戦いに勝つために国を富ませる。
じつは、武田信玄が侵略戦争をし続けた真意は、もうひとつあります。
武田信玄の父・信虎は、内乱に勝って甲斐国を統一しました。21歳のときに武田信玄は、その父を国外に追放して武田家当主になりました。
武田家の歴史は内部での争いと共にあり、武田信玄はそのことを危惧していました。家中にほころびがでないよう、家臣たちの注意を外に向けておく必要があったのです。
そのため、武田信玄は他国への侵攻をくり返しました。そして、武田家の旗がなびくたびに強大になっていくことを家臣たちに実感させました。
これが、武田信玄が戦い続けなければならなかった理由です。
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侵略は手際よく
風林火山
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ふたつめの理念は、武田信玄の代名詞となっている「風林火山」です。
紺地の軍旗に
武田信玄はこの『風林火山』を侵略のモットーとしていました。
1572年、上洛に向けて徳川領の遠江と三河、織田領の美濃に三方向から侵攻を開始します。
武田信玄が京に上るために行なった『西上作戦』と呼ばれる大規模な軍事作戦で、その真骨頂が発揮されました。

まさしく風のような速さで徳川領を席巻し、炎のような激しさで徳川家康を蹴散らしたのでした。
西上作戦のクライマックスとなった1573年の三方ヶ原の戦いでは、巧妙な進軍で徳川家康を惑わせ、城から撃って出るよう誘い出し、三方ヶ原で瞬殺しました。
徳川家康はこのときの恐怖を後々まで伝え、生涯の教訓にしています。
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人材こそ基礎
人は城
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みっつめの理念は、武田信玄のマネジメントの概念「人は城」です。
「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」これは ”国づくりには人が一番大切だよ” という意味で、武田信玄の領土経営のモットーでした。
武田信玄という経営者は、やる気のある人には身分を問わず重要な役割を与えて、期待以上の成果を引き出す人材マネジメントの名人でもありました。
意思決定には必ず合議制を用いて、アイデアや結論を部下から発言させることでモチベーションを高めました。
自身が身につける甲冑のデザインや色にまで家臣の意見を取り入れ、自分がシンボルであることを意識させました。
『甲州法度之次第』を制定し、領内のいざこざを裁き、もめごとが起きてもどちらか一方の肩を持つようなことはせず、公平に接しました。訴訟ルール(けんか両成敗)を設けて不平不満を減らし、これらの決まりは ”武田信玄にも適用する” と公言して、公平さを徹底しました。
重臣になれるのは代々仕えている家柄だけという血統ファーストの風潮を見直し、能力のある者を重用しました。
代表的な例として、出自不詳で醜い外見であったために勤め先が見つからなかった山本勘助を軍師に起用したり、農民だった高坂昌信を参謀に起用しました。
武田軍団では、武田信玄に抜擢されたユニークな人材が躍動していました。
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山梨県に今も残る
信玄の事業
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現在の山梨県には、武田信玄が行った内政事業の面影が数多く残っています。
代表的なものに『信玄堤』があります。釜無川の氾濫区域に設置されたこの独自の治水構造物は、400年以上経った現在も、決壊しない堤防として知られています。

信玄堤などの治水技術によって甲府盆地への氾濫を防いだことで、田畑の開発が進みました。
この治水技術は、武田信玄の勢力拡大にともなって、天竜川、大井川、安倍川、富士川にも伝わりました。
黒川金山から採掘した金で金貨をつくったり、道路整備によって経済の発展をさせるなど、平地が少ない山国を豊かなアイデアで開発しました。
このような国づくりを基盤とした富国策と、人材と戦略ビジョンによる強兵策が、武田信玄の強さを支えていました。
だるまさんのような肖像画からは想像できませんが、きわめて頭脳的な経営手腕によって、武田信玄は最強の戦国武将と呼ばれたのでした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1521年、武田信玄は甲斐国・要害山城に守護大名である武田信虎の次男として生まれます。兄が早世して嫡男になります。父・信虎の評判は悪く、領民を苦しめていたので、父を追放して武田家の当主になりました。信濃国にたびたび出陣し、諏訪頼重や村上義清を倒して北方に進出しますが、川中島で激突した越後国の上杉謙信に苦戦します。
西上作戦、京を目指す
今川義元が織田信長に討たれたことを機に、同盟相手であった今川領へ侵攻。同じく同盟相手である北条氏とも抗争に発展します。今川領であった駿河国を攻めたのち、東海道で徳川家康と対立。晩年になって、生涯の集大成となる西上作戦で京に上る戦いに挑み、徳川領を瞬く間に制圧していきました。
最後と死因
三方ヶ原の戦いで家康を圧倒したあと、持病が悪化して喀血してしまいます。甲斐国に撤退する途中、武田信玄は信濃国・駒場で亡くなりました。1573年5月13日、死因は食道がん、または胃がん。53歳でした。遺言で「死後3年は死んだことを隠すように」と言い残しました。
領地と居城の移り変わり


甲斐国、信濃国、駿河国の3か国と、上野国、美濃国、三河国、遠江国の一部を合わせた120万石ほどが武田信玄の領地でした。隣国に隙あらば、領土の拡大をねらっています。北条領の相模国や武蔵国にも触手をのばしていました。
上杉謙信とはどんな関係だった?
- 信濃国・川中島をめぐって10年間で5回も戦った。
- 今川氏と北条氏からの経済制裁を受けたときに謙信から塩を送ってもらった。
- 自分の死後は謙信を頼れと次代・武田勝頼に遺言した。
信濃を北へ攻め進んだ武田信玄が越後の国境近くまで迫ったことで、越後の龍・上杉謙信との抗争が勃発します。
その際、武田信玄に信濃を追われた村上義清が越後に逃れ、謙信が村上領を取り返すというシナリオで川中島の戦いが起こりました。
簡単にいうと、信濃国(長野県)を自分の領地にしようとした武田信玄と、それを邪魔したのが上杉謙信でした。
武田信玄は謙信の戦力を削ぐためにさまざまな嫌がらせを仕掛け、一方で謙信もこれに対して過剰な反応を示しました。
しかし、武田信玄が今川領を攻めたことで、今川氏と北条氏から塩の流通を止められると、謙信から塩を売ってもらって助かっています。
武田信玄は息子・勝頼に「わしの死後は謙信を頼れ。あやつは頼られれば断らん。決して戦ってはいけない」と遺言しました。
北信濃をめぐって、じつに10年ものあいだ上杉謙信と争った武田信玄でしたが、互いに最強と呼ばれる者同士、実力を評価しあったライバルでした。
信玄の死を聞いて、謙信は「惜しい人を亡くしたものよ」と悼んだといいます。
とはいえ、川中島で謙信と戦って消耗した10年は、信玄にとって大きなタイムロスでした。
武田信玄の性格と人物像
武田信玄は「組織を成長させるのが上手い人」です。
トップダウンで仕事をさせるのではなく、部下から意見を取り入れる合議を通じて方針を決定します。問いを投げかけ、個々に考えさせて成長を促す指導力があります。
洞察力に優れており、個人の能力を把握しています。能力に応じた任務を与えますが、それと同時に家柄や立場も用意して、周囲からの不公平感を抑えるなど、仕事をやりやすくする工夫を忘れません。
部下には、少し頑張らないと達成できない仕事を任せて能力を引き上げています。
”戦というものは、五分をもって上とし、七分を中とし、十分をもって下とす。 五分は励みを生じ、七分は怠りが生じ、十分は驕りを生ず” これは、バランスを大事にした信玄らしい名言です。
好物は、ほうとう、アワビの醤油漬け。男の子が好きなことで知られています。考えごとをするときはトイレにこもる癖がありました。
趣味は温泉につかること。山梨県の下部温泉や川浦温泉、長野県の大塩温泉などが、信玄由来の隠し湯として伝わっています。謙信に斬りつけらたこともあり、ケガをしがちでした。
身長162cm、がっしりとした恰幅が良い体格。ギョロっとした目の肖像画が有名ですが、それとは異なるスラリとした容姿も描かれています。
8歳の頃には、むずかしい書物も3日で読んでしまう頭が良い子どもでした。そのため、父からは気味悪がられていました。
フサフサの毛で覆われた『諏訪法性兜』は、武田信玄のビジュアルイメージを決定づけています。これは合戦のたびに諏訪大社から拝借しており、信玄が着用したものが現在も残っています。
信玄といえば軍配を持っている印象ですが、こちらも愛用していたものが残っています。
能力を表すとこんな感じ

武田信玄は恐ろしいほど安定感があります。有利な形で戦いに持ちこみ、決して負けない強さや、土地を豊かにするアイデアと実現力は際立っています。いずれもトップクラスで隙がなく、戦国最強の呼び声が高いのも納得です。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する武田信玄の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
武田信玄の面白い逸話やエピソード
イケメン家臣に恥ずかしいラブレターを送っている
武田信玄は衆道の代表格として知られる男色のカリスマで、男の子が大好物というキャラ設定でもお馴染みです。
衆道とは、男性の男色=男同士の恋愛のこと。主君と小姓とか、衆道ではおもに上下関係や主従でカップルが成立していました。

数々の名勝負で戦国史に存在感を残した武田信玄は、さまざまな書状とともに恥ずかしいラブレターも残しています。
なかでも春日源助(高坂昌信)という青年に夢中で、ふたりは相思相愛でした。しかし、気が多い信玄は、弥七郎という男子と密会してしまいます。
これが源助にバレてしまい、必死で弁明する内容の手紙『春日源助宛武田晴信誓詞』が東京大学史料編纂所に保管されており、信玄の赤裸々なラブレターとして知られています。
相撲で負けて領地をとられてしまう
長年にわたって上杉謙信と争った川中島の戦いは、決着がつきませんでした。
どちらも自分が勝っていたと言い張るので、ふたりは代表の力士に相撲をとらせて決着をつけることにします。この提案は信玄のほうから出されました。
両軍が注目するなか「はっけよい、のこった!」と、大一番の取り組みが行われました。ドサッと一方が投げられて決着がつくと、勝ったのは越後の長谷川与五左衛門でした。
サッカーでいうPK戦のような相撲で、川中島は上杉領になってしまいます。
やりなおしを訴える武田家臣に対し、信玄は「負けて騒ぐのはみっともない」と愉し、しょんぼりして帰りました。
なんと、10年も争った川中島の戦いのオチが相撲。しかも川中島を領地できず。
実際には相撲ではなく、1564年の第5次川中島の戦いでは『組討ち』が行われ、上杉代表・長谷川与五左衛門が武田代表・安馬彦六の首を取り、決着したとする古文書が存在しています。
これ以降、互いに弓矢で争うことはしない約束により、川中島の戦いは終結しました。
専用の水洗トイレを持っていた
用をたすときはもちろん、信玄は考えごとをするとき、手紙を書くとき、作戦を練るときにもトイレを利用していました。トイレといっても6畳ほどの広さがあり、机もありました。
この多目的トイレは優れもので、当時としてはめずらしい水洗式でした。信玄が用を足すとグイッと紐を引く。すると、鈴が鳴り、それを聞いた家来が水を流す仕組みでした。
このトイレを信玄は「山」と呼んでいました。
なぜ山なのか?家来が理由をたずねると、信玄は「山には草木(臭き)が絶えぬから( *´艸`)ププッ」と答えたそうです。
まさかのダジャレでした。
武田信玄の有名な戦い
関係が悪化した諏訪氏の桑原城(長野県諏訪市四賀桑原)を武田晴信が攻めた合戦。諏訪惣領家に不満をもつ高遠頼継らを調略によって味方につけた武田氏は、上諏訪に侵攻。諏訪頼重も進軍して迎え討つが、敗れて後退した。和睦したのち、晴信の命令で諏訪頼重は切腹。
桑原城の戦いで武田信玄は勝っています。
武田軍に敗れて桑原城に退いた諏訪頼重に「命を保障する」という条件で降伏をもちかけ、和睦が成立したのちに切腹を命じて諏訪惣領家を滅ぼしました。諏訪家から側室にした諏訪御料人は、信玄の子・勝頼を産みます。
武田氏の上諏訪侵攻に協力した高遠頼継が、諏訪郡の分配を不服として武田領を攻めた。宮川橋付近(長野県茅野市宮川区)で衝突し、頼継の弟・高遠頼宗を討ち取るなど、2時間ほどの戦闘で武田軍が圧勝した。諏訪頼重の遺児を連れて、武田晴信は正当性をアピールした。
宮川の戦いで武田信玄は勝っています。
ともに諏訪氏を攻め滅ぼした高遠頼継と争い、これを撃退して諏訪郡を完全に手に入れました。
上田原(長野県上田市)に進軍した武田晴信と守勢・村上義清の合戦。これまで無敗で快進撃を続けていた晴信がはじめて大きな敗北を喫した。武田勢・板垣信方の油断を見逃さなかった村上義清の猛攻撃によって、武田軍は板垣ら重臣を失い、武田晴信も負傷した。
上田原の戦いで武田信玄は敗れています。
初陣から無敗だった信玄ですが、はじめての敗戦で板垣信方と甘利虎泰ら側近を失いました。自身も負傷し、痛恨の敗北となりました。
高梨氏と村上義清が争っている隙をねらった武田晴信が砥石城(長野県上田市上野)を攻めた合戦。義清は高梨政頼と和睦して急ぎ兵を向け、城攻めに苦戦して撤退しようとする武田軍を城兵と挟み撃ちにする。晴信は影武者を身代わりにしてなんとか逃げた。
砥石崩れで武田信玄は敗れています。
武田信玄のターニングポイントになった戦いです。
ここでのボロ負けを機に、信玄は勝つためにあらゆる手段を講じるようになります。戦力を削ぐ調略や、戦意を萎えさせるために冷酷な計略を駆使するようになり、これ以降の信玄に敗北はありません。
北信濃を国人衆のもとに取り戻そうとする上杉謙信と、これを支配しようとする武田信玄の合戦。千曲川(長野県長野市小島田町)を挟んで5回対戦したが、決着はつかず。激戦となった第4次・八幡原の戦いでは、謙信が武田本陣に突撃し、信玄を斬りつけたエピソードがある。
川中島の戦いで武田信玄は引き分けています。
戦国合戦史のハイライトの一つですが、10年間も同じ問題に足を引っ張られました。領土拡大をねらう信玄が、ペースアップできなかった決定的な要因になっています。4回めの戦いとなった八幡原の戦いが、川中島の戦いとして知られる名勝負になりました。
北条氏の本拠地を攻めて、甲斐に引き揚げる武田信玄を、三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町)で北条軍が迎撃した合戦。北条綱成の鉄砲隊の攻撃で、浅利信種が討ち死にするなど、序盤は北条有利。しかし、山県昌景の奇襲が成功すると、武田軍が勢いづき、北条軍を押し退けた。
三増峠の戦いで武田信玄は勝っています。
山岳地の地形をつかった北条軍の挟み撃ちを予想していた信玄は、さらに高所に配置した山県昌景に奇襲をさせて形勢を逆転しました。
西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。
三方ヶ原の戦いで武田信玄は勝っています。
信玄の真骨頂となった一戦です。徳川氏の居城である浜松城に迫りながら攻撃をせず、あえて隙をみせながら三方ヶ原に誘い出しました。誘いに乗った徳川軍を迎撃しました。
この直後、信玄は陣中で没していまいます。
武田信玄の詳しい年表と出来事
武田信玄は西暦1521年〜1573年(大永元年〜元亀4年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1521 | 1 | 武田信虎の嫡男として甲斐国に生まれる。幼名:勝千代 |
1533 | 13 | 上杉朝興の娘と結婚。(翌年、難産で母子ともに死去) |
1536 | 16 | 元服 → 武田(太郎)晴信 三条公頼の娘(三条の方)と結婚。 ”海ノ口城の戦い”初陣。父・信虎は海ノ口城を落せず撤退。退く武田軍の最後尾を申し出て手勢3百で海ノ口城を奇襲で陥落させる。 |
1541 | 21 | 父・武田信虎を追放し家督を相続。 |
1542 | 22 | ”瀬沢の戦い”諏訪氏&小笠原氏が甲斐国に侵攻してくる。信濃国との国境で迎撃し退ける。 ”桑原城の戦い”諏訪領・桑原城を攻める。降伏した諏訪頼重を甲府に連行して自害させる。諏訪家滅亡 ”宮川の戦い”高遠領・宮川に侵攻。高遠頼継を敗走させる。信濃国・諏訪を掌握。 |
1543 | 23 | 信濃国・上原城を修築。板垣信方を諏訪郡代にする。 諏訪頼重の娘(諏訪御料人)を側室にする。 |
1544 | 24 | 父・信虎と争っていた北条氏と和睦。 高遠頼継、小笠原長時に反武田連合を組織される。藤沢頼親が武田氏に叛く。 |
1545 | 25 | 北条氏康と今川義元の争いを仲介する。 ”高遠合戦”高遠領・高遠城を攻めて雨中の奇襲で高遠頼継を降す。藤沢領・福与城を攻める。今川義元の援軍を得て竜ヶ崎砦を陥落させ藤沢頼親を降して福与城を焼却する。 |
1546 | 26 | 大井領・内山城を攻める。大井貞清を降伏させる。 |
1547 | 27 | 笠原領・志賀城を攻める。金堀衆を使って水の手を断つ。 ”小田井原の戦い”*板垣信方、甘利虎泰に志賀城の救援に来た上杉憲政を迎撃させ圧勝する。 小田井原で討ち取った3千の首を志賀城の目前に晒して士気を喪失させる。志賀城を陥落させ、笠原清繁を討ち取る。乱妨取りを行い捕虜を売り払う。 訴訟の公平性を制定。【甲州法度之次第】 |
1548 | 28 | ”上田原の戦い”村上領・小県に侵攻。上田原で村上義清の迎撃に遭い惨敗する。板垣信方、甘利虎泰、才間信綱が討死。武田本陣を攻められて負傷する。 甲府で30日間の湯治をする。 村上氏との同盟が破談。 *飯富虎昌が内山城に攻めてきた村上義清を撃退する。 ”塩尻峠の戦い”小笠原長時が諏訪に侵攻、呼応して藤沢頼親が再び武田氏に叛く。遅延行動で油断させ早朝の奇襲で小笠原軍を総崩れさせる。 藤沢頼親が降伏、配下になる。 小笠原領・前山城を攻める。前山城ほか13城を攻め落とす。 信濃国・村井城を築城。 |
1550 | 30 | 小笠原領・林城を攻めて一夜で陥落させる。小笠原長時は逃亡。小笠原家滅亡 森城主・仁科盛能を調略する。 ”砥石崩れ”村上領・砥石城を攻める。村上義清の後詰めと城兵の挟撃に遭い、惨敗する。影武者を立てて逃げ延びる。 |
1551 | 31 | *真田幸隆に砥石城を調略させる。矢沢頼綱を内通させて砥石城を攻略する。 |
1553 | 33 | 信濃国・小諸城に高坂昌信を入れる。 村上派の信濃国衆を調略で降す。 村上領に侵攻する。光城、上ノ山城、刈谷原城を攻め落とす。村上義清が放棄した葛尾城を奪うが奪還される。 村上義清が篭る塩田城を攻め落として敗走させる。 ”第1次川中島の戦い”長尾景虎(上杉謙信)が信濃国に侵攻してくる。荒砥城、青柳城で交戦したのち塩田城に篭って決戦を避ける。小県、埴科を掌握。 大井信広が武田氏に叛く。これを鎮圧する。 |
1554 | 34 | 今川義元の娘(嶺松院)を嫡男・義信の嫁にもらう。【甲駿同盟の強化】 北条氏康の嫡男・氏政に娘(黄梅院)を嫁がせる。【甲相同盟】 武田氏、北条氏、今川氏が互いに婚姻関係を結ぶ同盟を結成。【甲相駿三国同盟】 長尾家臣・北条高広に謀反を起こさせる。 信濃国・佐久、伊那、木曽の反武田派を鎮圧する。 遠山景前が配下になる。 |
1555 | 35 | ”第2次川中島の戦い”長尾景虎が信濃国に侵攻してくる。200日あまり対陣する。今川義元の仲介で和睦、条件として旭山城を破却する。 木曽義康・義昌父子を降伏させる。 信濃国南部を制圧。 |
1556 | 36 | *真田幸隆、小山田虎満に東条領・尼飾城を攻め落とさせる。 長尾家臣・大熊朝秀に謀反を起こさせる。長尾景虎に敗れた大熊朝秀が配下になる。 |
1557 | 37 | 長尾領・葛山城を調略する。 ”第3次川中島の戦い”長尾景虎が信濃国に侵攻してくる。山田城、福島城、長沼城と善光寺を奪われ領内深くまで侵入されるが決戦を避ける。北条氏から北条綱成の援軍を得る。足利義輝の仲介で和睦、条件として信濃守護に就任する。 |
1558 | 38 | 越中国の内紛に介入して神保長職を支援する。長尾景虎が支援する椎名康胤に対抗する。 |
1559 | 39 | *高坂昌信に高梨領・中野城を攻め落とさせる。 甲斐国が大規模な水害に見舞われる。【永禄の飢饉】 入道 → 武田(徳栄軒)信玄 |
1560 | 40 | 信濃国・海津城を築城。高坂昌信を入れる。 |
1561 | 41 | 北条氏康の要請に応じて信濃国に侵攻する。 割ヶ嶽城を攻め落とす。原虎胤が負傷したため山本勘助を参謀にする。 上杉政虎(長尾景虎 = 上杉謙信)の調略で今井信良が武田氏に叛く。これを鎮圧する。 ”第4次川中島の戦い”上杉政虎が信濃国に侵攻してくる。茶臼山に布陣したのち海津城に入り決戦に備える。上杉軍の挟撃を狙うが失敗。奇襲を受けて上杉政虎に本陣を襲撃されて負傷。両軍が激突し壮絶な痛み分け。 |
1563 | 43 | 上野国に侵攻する。 長野領・箕輪城を攻める。城下や寺を焼き払うが長野業盛に守り切られる。 長野領・鷹留城を攻め落とす。長野業通を討ち取る。 |
1564 | 44 | 飛騨国の内紛に介入して江馬時盛を支援する。上杉輝虎(政虎=謙信)が支援する江馬輝盛に対抗する。 *山県昌景、甘利昌忠を飛騨国に派遣。江馬時盛を優勢にする。 ”第5次川中島の戦い”飛騨国の情勢を受けて上杉輝虎が信濃国に侵攻してくる。60日ほど対陣する。組討ちで決着を提案し上杉方に敗れる。信濃国・川中島の領有権を失う。 |
1565 | 45 | 武田信玄の暗殺を武田義信、飯富虎昌、長坂昌国、曽根虎盛が共謀する。発覚し罰する。【義信事件】 *真田幸隆に斎藤領・嶽山城を調略させる。 織田信長の養女・遠山直廉の娘(龍勝殿)を四男・勝頼の嫁にもらう。 *山県昌景に姉小路領・飛騨国を攻めさせる。 |
1566 | 46 | 上野国に侵攻する。 長野領・箕輪城を攻め落とす。 武田氏に従う信濃国、上野国の国人に中世を誓う起請文を書かせる。 |
1567 | 47 | *真田幸隆に長尾領・白井城を調略させる。 嫡男・義信の嫁(嶺松院)を今川氏に返す。 今川氏との同盟が破談。 武田氏、北条氏、今川氏の甲相駿三国同盟が破綻。 今川氏真、北条氏康が武田氏との交易を停止。塩止めをされる。 今川氏との交易が途絶えたため上杉輝虎から塩を流通してもらう。 嫡男・武田義信を廃嫡する。 長男・武田義信が自害。 織田信長の長男・信忠と五女(松姫)を婚約させる。 |
1568 | 48 | 越中国・椎名康胤を上杉輝虎から離反させる。 上杉家臣・本庄繁長に謀反を起こさせる。 徳川家康と今川領を分割する盟約を結ぶ。駿河国を武田領、遠江国を徳川領にすることで合意。 今川領・駿河国に侵攻する。【第1次駿河侵攻】 ”第1次薩埵峠の戦い”瀬名信輝、朝比奈政貞、三浦義鏡、葛山氏元ら21人の今川家臣を調略して寝返らせる。薩埵峠の防衛網を難なく突破する。 愛宕山城、八幡城を攻略。賤機山城を占拠。今川氏真は遠江国・掛川城まで逃げる。 今川氏の本拠地・駿府を制圧。今川館と城下を焼き払う。 駿河国・江尻城を築城。 大宮城を攻める。 |
1569 | 49 | ”第2次薩埵峠の戦い”北条氏政が今川氏真の援軍にやってくる。薩埵峠に布陣してにらみ合う。 今川氏真が徳川家康に降伏する。今川家滅亡 織田信長を介して将軍・足利義昭から上杉輝虎に和睦を呼びかけてもらう。【甲越和与】 駿河国・江尻城に山県昌景を入れる。 駿河国・久能山城を築城。 秋山信友が遠江国を攻めたため徳川家康から密約違反を抗議される。 兵を退いた隙をねらわれて徳川家康に駿河国・駿府を奪われる。 北条領・駿河国に侵攻する。【第2次駿河侵攻】 深沢城を攻めるが北条綱成に退けられる。 大宮城を2回にわたって攻め、激しい抵抗にあうが富士信忠を降して開城させる。 北条領・武蔵国に侵攻する。 高尾山で北条軍を撃破。大石(北条)氏照が篭る滝山城を攻める。 北条領・相模国に侵攻する。 北条氏康・氏政父子が篭る小田原城を攻める。城下に火を放つなど6日間包囲したのち撤退。 ”三増峠の戦い”三増峠で大石氏照、北条氏邦、北条綱成と交戦し退けて甲斐国に戻る。 北条領・駿河国に侵攻する。【第3次駿河侵攻】 横山城、蒲原城、深沢城を攻め落とす。 駿府を奪還する。 |
1570 | 50 | 花沢城、徳之一色城、足柄城、河村城、大仏城山、湯ノ沢城、中川城を攻略。 駿河国を平定。 北条領・伊豆国に侵攻。北条氏規の韮山城を攻めるが落とせず。 北条氏政に深沢城、足柄城、河村城、大仏城山、湯ノ沢城、中川城を奪い返される。 |
1571 | 51 | 北条領・深沢城を攻める。深沢城に矢文を放ち、北条綱成を降して開城させる。 北条氏康が死去。北条氏政との関係を修復。【甲相同盟の再締結】 徳川領・遠江国、三河国に侵攻を開始する。 |
1572 | 52 | *織田領・岩村城の遠山景任が死去。景任の妻と秋山信友を結婚させて岩村城を占拠させる。 織田氏との同盟が破談。 織田信長との対陣を想定した西上作戦を開始。足利義昭の呼びかけに応じて包囲網に加わる。【第2次信長包囲網】 ”一言坂の戦い”*山県昌景を徳川領・遠江国に侵攻させる。 ”二俣城の戦い”徳川領・遠江国に侵攻する。山県昌景と合流して二俣城を攻める。金堀衆を使って水の手を断つ。中根正照を降伏させる。 |
1573 | 53 | ”三方ヶ原の戦い”徳川氏の居城・浜松城に迫るが通過する。攻撃に出た徳川氏&織田氏を迎撃して完勝する。 ”野田城の戦い”徳川領・三河国に侵攻する。金堀衆を使って水の手を断つ。菅沼定盈を降伏させる。 持病が悪化し甲斐国に撤退を開始。 信濃国・駒場で病死。 |

- 武田信玄 – Wikipedia
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- 本郷和人監修『戦国武将の解剖図鑑』エクスナレッジ
- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
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