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たけだ しんげん

武田信玄

1521.12.1 〜 1573.5.13

 
武田信玄のイラスト
  

武田信玄(晴信)は、現在の山梨県にあたる甲斐国の武将・大名です。甲信地方に勢力を拡げて、最大版図は中部、関東におよびました。戦国最強と称された国力を誇り、上杉謙信との川中島の合戦は、戦国史のハイライトのひとつになっています。信長討伐軍を率いて上洛する最中、志なかばで急逝しました。享年53歳。

武田信玄と似ている人物
佐竹義重
伊達政宗
島津義久
北条氏康
今川義元

このページでは、武田信玄が何をしたどんな人なのか、ハイライトやエピソードを紹介しています。きっと武田信玄のことが好きになります。

  • 名 前:武田晴信 → 武田信玄
  • 幼 名:勝千代
  • あだ名:甲斐の虎
  • 官 位:大膳大夫、信濃守
  • 戦 績:63戦 46勝 4敗 13分
  • 出身地:甲斐国(山梨県)
  • 領 地:上野国、甲斐国、信濃国、駿河国、遠江国
  • 居 城:躑躅ヶ崎館
  • 正 室:上杉朝興の娘(上杉の方)、三条公頼の娘(三条の方)
  • 子ども:7男 5女
  • 跡継ぎ:武田勝頼
  • 父と母:武田信虎 / 大井の方

戦国最強の甲斐の虎と呼ばれ風林火山の旗をなびかせた

織田信長や徳川家康が、最も恐れた戦国武将が武田信玄でした。あの信長が直接戦うことを避け続け、家康に至ってはあらがうすべもなく粉砕されています。歴史をつくった信長や家康よりも武田信玄はずっと年上で、親子ほど違いました。それはあらゆる経験や取り組みにも差が現れており、一筋縄ではいかないベテランの怖さがありました。

甲斐の虎と呼ばれた武田信玄の怖さとは、決して戦ってはいけない最強軍団と、狡猾に他国を侵略する巧みさにありました。これらは、武田信玄の3つの理念によって成り立っていました。

武田信玄の理念・領土拡大と富国強兵

ひとつめの理念は、武田信玄の最上位にある「領土拡大」です。

武田信玄は意欲的に侵略しましたが、その根本は本国である甲斐(山梨県)の発展と安定が目的でした。さまざまな工夫で甲斐国を向上させましたが、山に囲われた地域であり、海がないのが難点でした。

そこで、海が近くなる信濃国(長野県)や、海に面した駿河国(静岡県)に進出しました。甲斐国をベースとした事業拡大というイメージです。この過程において、信濃と越後の国境付近で繰り返し争ったのが、宿敵上杉謙信との川中島の戦いでした。


侵略は手際よく
風林火山

ふたつめの理念は、武田信玄の代名詞となっている「風林火山」です。

紺地の軍旗につづられた「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」風林火山とは、”風のように速く攻め、林のように静かに待ち、火のような勢いで侵略し、山のように陣を守る” といった意味を持つ兵法の極意で、戦のバイブル『孫氏の兵法書』にある教えです。武田信玄はこの『風林火山』を侵略のモットーとしていました。

1572年、上洛に向けて徳川領の遠江と三河、織田領の美濃に三方向から侵攻を開始します。『西上作戦』と呼ばれた大規模な軍事作戦で、武田信玄の真骨頂が発揮されました。まさしく風のような速さで徳川領を席巻し、炎のような激しさで徳川軍を蹴散らしたのでした。

徳川領における西上作戦のクライマックスとなった三方ヶ原の戦いでは、巧妙な進軍で徳川家康を誘い出して壊滅的させました。徳川家康はこのときの恐怖を後々まで伝え、生涯の教訓にしています。


人材こそ基礎
人は城

みっつめの理念は、武田信玄のマネジメントの概念「人は城」です。

”人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり” これは「国づくりには人が一番大切だよ」という意味で、武田信玄の領土経営のモットーでした。

武田信玄という経営者は、やる気のある人には身分を問わず重要な役割を与えて、期待以上の成果を引き出す人材マネジメントの名人でもありました。

意思決定には必ず合議制を用いて、アイデアや結論を部下から発言させることでモチベーションを高めました。時には、自身が新調する甲冑のデザインや色まで家臣の意見を尊重するほどでした。

領内のいざこざを裁く『甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)』を制定し、もめごとが起きてもどちらか一方の肩を持つようなことはせず、公平に接しました。訴訟ルール(けんか両成敗)を設けて不平不満を減らし、これらの決まりは ”武田信玄にも適用する” と公言して、公平さを徹底しました。

重臣になれるのは代々仕えている家柄だけという血統ファーストの風潮を見直し、能力のある者を重用しました。代表的な例として、出自不詳で醜悪な外見であったために他家を断られた山本勘助を軍師に起用したり、農民だった高坂昌信を参謀に起用しました。武田軍団では、ユニークな人材が躍動していました。


山梨県に今も残る
信玄の事業

現在の山梨県には、武田信玄が行った内政事業の面影が数多く残っています。

代表的なものに『信玄堤(しんげんづつみ)』があります。釜無川の氾濫区域に設置されたこの独自の治水構造物は、400年以上経った現在も、決壊しない堤防として知られています。信玄堤などの治水技術によって甲府盆地への氾濫を防いだことで、田畑の開発が捗りました。

黒川金山から採掘された金で金貨をつくったり、道路整備によって経済の発展をさせるなど、平地が少ない山国を豊かなアイデアで開発しました。

このような国づくりを基盤とした富国策と、人材と戦略ビジョンによる強兵策が、武田信玄の強さを支えていました。

武田信玄の生涯をふりかえる

1521年、武田信玄は甲斐国・要害山城に守護大名の次男として生まれます。兄が早世したため、嫡男になります。父・武田信虎の評判は悪く、領民を苦しめていたので、1541年に父を追放して21歳で武田家の当主になりました。信濃国にたびたび出陣し、諏訪頼重や村上義清を倒して北方に進出しますが、川中島で激突した越後国の上杉謙信に苦戦します。

今川氏や北条氏とは同盟と破談を繰り返しながら領地を拡大し、1572年に京を目指して徳川領に侵攻しました。三方ヶ原の戦いに勝利したあと持病が悪化して喀血。1573年に信濃国・駒場で亡くなりました。死因は食道がん、または胃がんです。53歳でした。

同時代に生きた人物の脅威であり続けた武田信玄は、その生涯の集大成として京都に上る戦いに挑みました。しかし、当時としてはすでに高齢であったため、序盤のうちに体調を崩してしまい、悲願成就とはなりませんでした。

武田信玄の領地・勢力図(1572年)

甲斐国、信濃国、駿河国の3か国と、上野国、美濃国、三河国、遠江国の一部を合わせた120万石ほどが武田信玄の領地でした。甲斐国を中心に領土の拡大を図っています。北条領の相模国や武蔵国にも触手を伸ばしていました。

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武田信玄の性格と人物像

武田信玄は「組織を成長させるのが上手い人」です。トップダウンで仕事をさせるのではなく、部下から意見を吸い上げて、合議によって方針を決定します。問いを投げかけ、個々に考えさせて成長を促す指導力があります。

洞察力に優れており、個人の能力を把握しています。能力に応じた仕事を与えますが、それと同時に家柄や立場も与えて周囲からの不公平感を抑えるなど、職務をやりやすくする工夫を忘れません。

”戦というものは、五分をもって上とし、七分を中とし、十分をもって下とす。 五分は励みを生じ、七分は怠りが生じ、十分は驕りを生ず” これは、バランスを大事にした信玄らしい名言です。

好物は、ほうとう、アワビの醤油漬け。男の子が好きなことで有名です。考えごとをするときはトイレにこもると落ち着きました。趣味は温泉につかること。山梨県の下部温泉や川浦温泉、長野県の大塩温泉などが、信玄由来の隠し湯として伝わっています。謙信に斬りつけられるなど、怪我をしがちでした。

身長162cm、がっしりとした恰幅(かっぷく)が良い体格。ギョロっとした目の肖像画が有名ですが、これとは異なるスラリとした容姿を描いたものも残っています。

8歳の頃には、むずかしい書物も3日で読んでしまう頭が良い子どもでした。そのため、父からは気味悪がられていました。

フサフサの毛で覆われた兜は『諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)』といい、武田信玄のビジュアルイメージを決定づけています。合戦のたびに諏訪大社から拝借しており、信玄が着用したものが現在も残っています。信玄といえば軍配を持っている印象ですが、こちらも愛用していたものが残っています。

武田信玄の能力を考えてみる

武田信玄の能力チャート

武田信玄は恐ろしいほど安定感があります。有利な形で戦いに持ち込み決して負けない強さや、土地を豊かにするアイデアと実現力は随一です。いずれもトップクラスですが、どっしり構えすぎていたため、行動力には物足りなさも。

組織で働くサラリーマンに響く名言を数多く残しています。

武田信玄のエピソードや逸話

相撲で負けて領地をとられてしまう

長年にわたって上杉謙信と争った川中島の戦いは、決着がつきませんでした。どちらも自分が勝っていたと言い張るので、ふたりは代表の力士に相撲をとらせて決着をつけることにします。これを提案したのは信玄のほうでした。

かくして両軍が注目するなか「はっけよい!」と大一番の取り組みが行われました。ドサッと一方が投げられ、決着がつきます。勝ったのは越後の長谷川与五左衛門でした。

サッカーでいうPK戦のような相撲で川中島は上杉領になりました。やりなおしを訴える武田家臣に、信玄は「負けて騒ぐのはみっともない」と諭し、しょんぼりして帰りました。

専用の水洗トイレを持っていた

用をたすときはもちろん、信玄は考えごとをするとき、手紙を書くとき、作戦を練るときにもトイレを利用していました。トイレといっても6畳ほどの広さがあり、机も設置されていました。

この多目的トイレは優れもので、当時としてはめずらしい水洗式でした。信玄が用を足すとグイッと紐を引く。すると鈴が鳴り、それを聞いた家来が水を流す仕組みでした。

このトイレを信玄は「山」と呼んでいて、家来が理由をたずねると「山には草木(臭き)が絶えぬから( *´艸`)」と答えたそうです。おちゃめですね。

イケメン家臣に恥ずかしいラブレターを送っている

衆道(しゅどう)とは、男性の男色=男同士の恋愛のこと。主君と小姓とか、衆道ではおもに上下関係や主従でカップルが成立していました。武田信玄は、衆道の代表格として知られる男色のカリスマで、男の子が大好物というキャラ設定でもお馴染みです。

数々の名勝負で戦国史に存在感を残した武田信玄は、さまざまな書状とともに恥ずかしいラブレターも残しています。信玄の浮気を疑っていた高坂昌信に宛てた手紙『春日源助宛武田晴信誓詞(かすがげんすけあてたけだはるのぶせいし)』では、ありったけの情熱と必死すぎる言い訳を赤裸々に(つづ)っています。

武田信玄の有名な戦い

桑原城の戦い くわばらじょうのたたかい 1542.7.3 ○ 武田&高遠軍? vs 諏訪軍1千 ●

関係が悪化した諏訪氏の桑原城(長野県諏訪市四賀桑原)を武田晴信が攻めた合戦。諏訪惣領家に不満をもつ高遠頼継らを調略によって味方につけた武田氏は、上諏訪に侵攻。諏訪頼重も進軍して迎え討つが、敗れて後退した。和睦したのち、晴信の命令で諏訪頼重は切腹。

桑原城の戦いで武田信玄は勝っています。
武田軍に敗れて、桑原城に退いた諏訪頼重に「命を保障する」という条件で降伏をもちかけて、和睦が成立したのちに切腹を命じて諏訪惣領家を滅亡させました。諏訪家から側室にした諏訪御料人は、信玄の子・勝頼を産みます。

宮川の戦い みやがわのたたかい 1542.11.2 ● 高遠軍? vs 武田軍? ○

武田氏の上諏訪侵攻に協力した高遠頼継が、諏訪郡の分配を不服として武田領を攻めた。宮川橋付近(長野県茅野市宮川区)で衝突し、頼継の弟・高遠頼宗を討ち取るなど、2時間ほどの戦闘で武田軍が圧勝した。諏訪頼重の遺児を連れて、武田晴信は正当性をアピールした。

宮川の戦いで武田信玄は勝っています。
ともに諏訪氏を攻め滅ぼした高遠頼継と争い、これを撃退して諏訪郡を完全に手に入れました。

砥石崩れ といしくずれ 1550.9.? 〜 10.1 ● 武田軍7千 vs 村上軍2千5百 ○

北信濃の制圧に乗り出した武田晴信が砥石城(長野県上田市上野)を攻めた合戦。わずか500で守る村上義清に強攻をしかけるが苦戦する。1か月にわたる城攻めを断念した武田軍が撤退を開始すると、村上軍2,000の後詰めと城兵が追撃し、晴信を撃退した。

砥石崩れで武田信玄は敗れています。
武田信玄のターニングポイントになった戦いです。
ここでのボロ負けを機に、勝つためにあらゆる手段を講じる智将へと武田信玄は変わります。戦力を削ぐ調略や戦意を萎えさせる冷酷な計略などを駆使するようになり、これ以降の信玄に決定的な敗けはありません。

川中島の戦い かわなかじまのたたかい 1561.10.18 △ 上杉軍1万3千 vs 武田軍2万 △

北信濃を国人衆のもとに取り戻そうとする上杉謙信と、これを支配しようとする武田信玄の合戦。千曲川(長野県長野市小島田町)を挟んで5回対戦したが、決着はつかず。激戦となった第4次・八幡原の戦いでは、謙信が武田本陣に突撃し、信玄を斬りつけたエピソードがある。

川中島の戦いで武田信玄は引き分けています。
戦国合戦史のハイライトの一つですが、11年間も同じ問題に足を引っ張られたのも事実でした。領土拡大を狙う信玄が、ペースアップできなかった要因になっています。第4次・八幡原の戦いが川中島の戦いとして知られる名勝負になりました。

三増峠の戦い みませとうげのたたかい 1569.10.8 ○ 武田軍2万 vs 北条軍2万 ●

北条氏の本拠地を攻めて、甲斐に引き揚げる武田信玄を、三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町)で北条軍が迎撃した合戦。北条綱成の鉄砲隊の攻撃で、浅利信種が討ち死にするなど、序盤は北条有利。しかし、山県昌景の奇襲が成功すると、武田軍が勢いづき、北条軍を押し退けた。

三増峠の戦いで武田信玄は勝っています。
山岳地の地形をつかった北条軍の挟みうちを予想していた信玄は、さらに高所に山県昌景を配置して形勢を逆転しました。

三方ヶ原の戦い みかたがはらのたたかい 1573.1.21 ○ 武田軍3万 vs 織田&徳川軍1万5千 ●

西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。

三方ヶ原の戦いで武田信玄は勝っています。
徳川家康が信玄を相手に策を講じてきますが、これを逆手にとった行軍術で徳川軍を翻弄し、コテンパンにしました。最強武田軍の絶頂期でした。

武田信玄の詳しい年表

武田信玄は西暦1521年〜1573年(大永元年〜元亀4年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。

15211武田信虎の嫡男として甲斐国に生まれる。幼名:勝千代
153313上杉朝興の娘と結婚。(翌年、難産で母子ともに死去)
153616元服 → 武田(太郎)晴信
三条公頼の娘(三条の方)と結婚。
154121父・武田信虎を追放して家督を相続。
154222”瀬沢の戦い”諏訪氏&小笠原氏の連合軍を退ける。
”桑原城の戦い”信濃国・諏訪領に侵攻。諏訪頼重を自害させる。諏訪家滅亡
”宮川の戦い”高遠頼継を撃破し、信濃国・諏訪を制圧する。
154424父・信虎と争っていた北条氏と和睦。
154525”高遠合戦”高遠頼継を攻撃。高遠城を奪取する。高遠家滅亡
154727”小田井原の戦い”上杉氏&笠原氏の連合軍を圧倒する。
訴訟の公平性を制定。【甲州法度之次第】
154828”上田原の戦い”信濃国に侵攻し、村上義清と争って敗れる。
”塩尻峠の戦い”小笠原長時が諏訪に侵攻してくるが、急襲により撃破する。
155030信濃国に侵攻する。仁科盛能を調略し、小笠原氏を労せず排除。
”砥石崩れ”村上義清と砥石城をめぐって戦い、大敗する。
155131真田幸隆の工作により砥石城を攻略、奪取する。
155333村上義清と争い、光城、上ノ山城、刈谷原城を奪取する。義清は葛尾城を放棄して越後に亡命。
信濃国を平定。
”第1次川中島の戦い”信濃国に侵攻してきた長尾景虎に応戦する。
155434今川義元の娘を嫡男・義信の嫁にもらう。【甲駿同盟の強化】
北条氏康の嫡男・氏政に娘を嫁がせて同盟を結ぶ。【甲相同盟】
武田氏、北条氏、今川氏が互いに婚姻関係を結ぶ同盟を結成。【甲相駿三国同盟】
155535”第2次川中島の戦い”信濃国に侵攻してきた長尾景虎と200日あまり対陣するが決着はつかず。
155737”第3次川中島の戦い”信濃国に侵攻してきた長尾景虎と対陣するが、交戦を避ける。
155939入道 → 武田(徳栄軒)信玄
156141”第4次川中島の戦い”信濃国に侵攻してきた上杉政虎(長尾景虎=上杉謙信)と八幡原で激突、壮絶な痛み分け。
156444”第5次川中島の戦い”信濃国に侵攻してきた上杉輝虎(政虎=謙信)と対峙。にらみあいに終わる。
156545織田信長の養女(龍勝寺殿)を四男・勝頼の嫁にもらう。
156646箕輪城を攻略、上野国の西部を領土にする。
156747今川氏真が武田氏との交易を停止。三国同盟が破綻。
嫡男・武田義信を廃嫡する。
織田信長の嫡男・信忠と五女(松姫)を婚約させる。
156848徳川家康と今川領を分割する盟約を結ぶ。駿河国を武田領、遠江国を徳川領にすることで合意。
今川領・駿河国に侵攻する。【第1次駿河侵攻】
”第1次薩埵峠の戦い”瀬名信輝、朝比奈政貞、三浦義鏡、葛山氏元ら21人の今川家臣を調略して寝返らせる。薩埵峠の防衛網を難なく突破する。
愛宕山城、八幡城を攻略。賤機山城を占拠。今川氏真を遠江国まで退かせる。
今川氏の本拠地・駿府を制圧。今川館と城下を焼き払う。
北条氏との同盟が破談。
大宮城を攻める。
156949”第2次薩埵峠の戦い”北条氏政が報復にやってくる。薩埵峠に布陣してにらみあう。
織田信長を介して将軍・足利義昭から上杉輝虎に和睦を呼びかけてもらう。【甲越同盟】
久能山城を築城。
秋山信友が遠江国を攻めたため徳川家康から密約違反を抗議される。
兵を引いた隙をねらわれて徳川家康に駿河国・駿府を奪われる。
大宮城を2度にわたって攻め、激しい抵抗にあうが富士信忠を降して開城させる。【第2次駿河侵攻】
”三増峠の戦い”北条領・小田原城を攻める。6日間包囲したのち撤兵。三増峠で北条綱成と交戦するが、退ける。
駿河国に侵攻する。【第3次駿河侵攻】
横山城、蒲原城を攻め落として駿府を奪還する。
157050花沢城、徳之一色城を攻略。
駿河国を平定。
157151北条氏康の死去により、北条氏との関係を修復。【甲相同盟の再締結】
徳川領・遠江国、三河国に侵攻を開始する。
157252*織田領・岩村城の遠山景任が死去。景任の妻と秋山信友を結婚させて岩村城を占拠させる。
織田氏との同盟が破談。
織田信長との対陣を想定した西上作戦を開始。足利義昭の呼びかけに応じて包囲網に加わる。【第2次信長包囲網】
”一言坂の戦い”*山県昌景を徳川領・遠江国に侵攻させる。
”二俣城の戦い”徳川領・遠江国に侵攻。山県昌景と合流して二俣城を攻める。水の手を断ち、降伏させる。
157353”三方ヶ原の戦い”徳川氏&織田氏の連合軍に完勝する。
”野田城の戦い”徳川領・三河国に侵攻する。金山堀を使って地下から野田城の水の手を断ち、菅沼定盈を降伏させる。
持病が悪化し甲斐国に撤退する途中、信濃国・駒場で病死。
戦国時代で武田信玄が生きた期間の表

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