やまもと かんすけ

山本勘助

1493.?〜 1561.10.18

 
山本勘助の面白いイラスト
  

山本勘助(菅介、源助、晴幸、道鬼斎)は、現在の愛知県東部にあたる三河国または静岡県にあたる駿河国の武将です。甲陽軍鑑にしか登場せず、存在が疑問視されていた幻の天才軍師で、武田信玄に仕えました。川中島の戦いで啄木鳥戦法を考案しますが失敗し、責任を感じて敵中に突撃して討死しました。享年69。

山本勘助は何をした人?このページは、山本勘助のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと山本勘助が好きになる「創作上の人物とされていた信玄の天才軍師は実在した」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:山本源助 → 大林源助 → 大林勘助 → 山本勘助 → 山本晴幸 → 山本道安 → 山本道鬼斎
  • 別 名:菅介、勘介
  • 出身地:三河国(愛知県)
  • 子ども:3男 1女
  • 跡継ぎ:山本菅介
  • 父と母:山本貞幸 / 安
  • 大 名:武田信玄

創作上の人物とされていた信玄の天才軍師は実在した

「かの名将・武田信玄には、山本勘助という天才軍師がいた」というイメージは、小説やドラマでも数多く(えが)かれています。

この山本勘助、じつは武田氏の軍記物『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』にしか登場せず、天才軍師どころか存在すら疑わしい戦国フィクションです。

ところが、山本勘助の名が記された『市川家文書』『真下家所蔵文書』『沼津(ぬまづ)山本家文書』などが発見され、2006年ごろからは実在が確実視されるようになりました。

山本勘助の経歴には「こんな(やつ)いるか!」とツッコミたくなる要素が盛りだくさんで、まるで作り話のような人物だったのです。

山本勘助は長年武者修行の旅をし、兵法と築城のスペシャリストを自称(じしょう)して今川家に仕官を希望しますが門前(ばら)いされます。

悶々(もんもん)としていたところを武田信玄にスカウトされ、(よわい)51ではじめて就職したというのです。

流浪(るろう)の生活が長かったので諸国の情勢に(くわ)しく、情報収集能力が信玄から評価され、初任給200(かん)(年収2,400万円)の高待遇(こうたいぐう)で側近に取り立てられたシンデレラボーイです。


川中島の戦いで
天才に敗れる

山本勘助のハイライトは、武田信玄と上杉謙信が激突(げきとつ)した1561年の第4次川中島の戦いです。

戦国史上屈指(くっし)の名勝負といわれるこの戦いで、山本勘助は兵を二手に分けて上杉軍を攻める『啄木鳥(きつつき)戦法』を考案します。妻女山の上杉本陣(ほんじん)奇襲(きしゅう)し、あわてて()げてきた謙信を(はさ)()ちして討ち取っちゃおうという策でした。

【啄木鳥戦法】川中島の戦いで山本勘助が考案した作戦

しかし、軍神と呼ばれる天才・上杉謙信に啄木鳥(きつつき)戦法は見破られてしまい、いち早く妻女山を降りていた謙信に武田本隊が奇襲(きしゅう)されます。

山本勘助の失策で武田軍は大ピンチ。

予想していなかった展開に混乱した武田軍は、信玄の弟・武田信繁が戦死するなど大きな被害(ひがい)が出てしまいます。

責任を感じた山本勘助は上杉軍に突入(とつにゅう)して討ち死にしました。

歴戦の名軍師が天才に敗れたイメージが強い川中島の戦いですが、じつは山本勘助が作戦参謀(さんぼう)を務めたのはこれが最初で最後でした。

というのも、いつも信玄の参謀(さんぼう)を担っていた原虎胤がこのときは負傷していたため、代理としての大抜擢(だいばってき)でした。

はじめて得たアピールのチャンスが川中島の戦いだったわけです。相手が悪すぎました。


諏訪御料人を
信玄にマッチング

山本勘助が武田史に大きく関わったもうひとつの出来事があります。

1542年に()(ほろ)ぼした諏訪氏の娘・諏訪御料人(すわごりょうにん)を、信玄が側室にしたいと言いました。諏訪御料人(すわごりょうにん)にとって信玄は父の(かたき)ですから、家臣たちは(むすめ)を側室にすることに反対します。

ところが山本勘助だけは賛成し「武田家の子を産めば諏訪家の血を断絶から救えるし、諏訪の者たちを従わせやすくなる」と(みな)に説き、家臣たちも納得しました。

こうして諏訪御料人(すわごりょうにん)は1543年に武田家に(むか)えられ、1546年に男子を出産します。
この子がのちに信玄の(あと)()ぐ武田勝頼となるのでした。


嘘だと言われりゃ
そうかもしれない

甲陽軍鑑(こうようぐんかん)の川中島の戦死者リストで山本勘助は旗本足軽頭となっています。軍師という記録はありません。

山本勘助を呪術師(じゅじゅつし)祈祷師(きとうし)とする説もあります。(うらな)いや祈願(きがん)を行う軍配者の役割をしており、総じて軍師という人物像になったと予想されます。

山本勘助のみを対象とした場合、出来事の内容や時期が史実と合わず(うそ)っぽい逸話(いつわ)もあります。

例えば、村上義清との上田原の戦いや砥石崩(といしくず)れは、史実では武田信玄が大敗していますが、山本勘助のおかげで勝ったことなってたりします。

未知の部分が多く想像をめぐらせる楽しさこそ、山本勘助の魅力(みりょく)かもしれません。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1493年頃、山本勘助は三河国(みかわのくに)宝飯郡(ほいぐん)牛窪(うしくぼ)に山本貞幸の三男として生まれます。駿河国(するがのくに)・富士郡の出身という説もあります。20代のころから関東〜西日本を(わた)り歩いて剣術(けんじゅつ)や兵法、築城術を学びました。駿河国(するがのくに)太守(たいしゅ)・今川義元に仕官を断られたのち、武田信玄に仕えます。

いきなり武田信玄の知恵袋

信玄が(ほろ)ぼした諏訪家の(ひめ)である諏訪御料人(すわごりょうにん)を信玄の側室に(むか)えることを賛成するなど、発言の機会を得て、知恵者(ちえしゃ)として重宝されます。生涯(しょうがい)のほとんどを牢人(ろうにん)で過ごし、いきなり信玄に取り立てられて活躍(かつやく)の場を得ました。

最後と死因

上杉謙信との川中島の戦いで参謀(さんぼう)大抜擢(だいばってき)されますが、山本勘助の作戦が失敗した責任をとって戦死しました。1561年10月18日、死因は討死。69歳でした。敵陣(てきじん)突入(とつにゅう)し、10人ほど(たお)したところで囲まれ、四方から(やり)()かれて坂本磯八に討ち取られました。

山本勘助の性格と人物像

山本勘助は「只者(ただもの)ではない雰囲気(ふんいき)がある人」です。

周囲とは(ちが)った意見をすることで非凡(ひぼん)さを演出する術に長けており、つねに逆張りをねらいました。

全国を旅したという経歴や異様な風貌(ふうぼう)から異質な空気をぷんぷん(ただよ)わせています。

諸国の情勢に(くわ)しく、毛利元就や大内義隆といった西国大名まで熟知しており、今川義元に至ってはいつか討死すると予見しています。

ネットがない時代、(はな)れた地域の事情を知っていた勘助は、信玄にとってWikipediaのような存在でした。

兵法を極めたと自負していますが年齢の割に実戦経験がなく、献策(けんさく)をするものの成功率は未知数。(かん)だのみな点は否めません。

築城術は見事なもので、対謙信の城である海津城(かいづじょう)の築城を任されています。

身長150cmと背が低く色黒。大きな(いのしし)(おそ)われたことがあり、全身は傷だらけでした。隻眼(せきがん)(どちらかは不明)、片足が不自由で手の指も(そろ)っておらず醜悪(しゅうあく)容貌(ようぼう)見た目を理由に今川義元から仕官を拒否(きょひ)されています。

相当な(けん)腕前()で、本人いわく真剣(しんけん)を構えた相手を棒っきれで(たお)したことがあるそうです。

勘助が着用したと伝わる『鮑貝形兜(あわびがいなりかぶと)』ほか数点の(かぶと)が現存しています。

能力を表すとこんな感じ

山本勘助の能力チャート

見識の広さをセールスポイントにした弁舌こそ山本勘助の真骨頂です。根拠(こんきょ)がなく奇抜(きばつ)なアイデアでも不思議な説得力がありました。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する山本勘助の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

山本勘助の面白い逸話やエピソード

”ヤマカン” の語源になっている

ヤマカン』とは、(かん)でやまをはること。あてずっぽう。試験で ”ヤマカンが当たった” などと言われることがある ”あてずっぽうの(かん)(たよ)ること” です。

鉱脈などを見つける師の(かん)になぞらえて、(かん)(たよ)って成功をねらうことを意味する言葉ですが、もうひとつの語源とされているのが、助でした。

良くも悪くも勘助の策が(かん)(たよ)ったものであり、一か八かを(ねら)った運任せであったことから、当てずっぽう=ヤマ(山本)カン(勘助)と言われるようになったとされています。

山本勘助の有名な戦い

上田原の戦い うえだはらのたたかい 1548.3.23 ● 武田軍8千 vs 村上軍5千 ○

上田原(長野県上田市)に進軍した武田晴信と守勢・村上義清の合戦。これまで無敗で快進撃を続けていた晴信がはじめて大きな敗北を喫した。武田勢・板垣信方の油断を見逃さなかった村上義清の猛攻撃によって、武田軍は板垣ら重臣を失い、武田晴信も負傷した。

上田原の戦いで山本勘助は敗れています。

村上義清が用いた画期的な戦術に気付いた勘助は、兵種別に隊列を組む村上軍の様子を詳細(しょうさい)にメモして持ち帰り、武田軍に採用しました。以降、合戦に陣形(じんけい)が用いられるようになります。

砥石崩れ といしくずれ 1550.9.? 〜 10.1 ● 武田軍7千 vs 村上軍2千5百 ○

高梨氏と村上義清が争っている隙をねらった武田晴信が砥石城(長野県上田市上野)を攻めた合戦。義清は高梨政頼と和睦して急ぎ兵を向け、城攻めに苦戦して撤退しようとする武田軍を城兵と挟み撃ちにする。晴信は影武者を身代わりにしてなんとか逃げた。

砥石崩(といしくず)れで山本勘助は敗れています。

50()を連れて(おとり)になり『破軍建返(はぐんたてがえ)し』の計で村上軍を陽動。敵兵の注意を引くことで自軍の立て直しを助けました。猛者(もさ)ぞろいの武田家臣たちも摩利支天(まりしてん)のようだと勘助の活躍(かつやく)(おどろ)いたといいます。

川中島の戦い かわなかじまのたたかい #1:1553.10.8 〜 10.27 △ 上杉軍? vs 武田軍? △ #2:1555.8.16 △ 上杉軍? vs 武田軍? △ #3:1557.5.16 〜 9.? △ 上杉軍? vs 武田軍? △ #4:1561.10.18 △ 上杉軍1万3千 vs 武田軍2万 △ #5:1564.? △ 上杉軍? vs 武田軍? △

北信濃を国人衆のもとに取り戻そうとする上杉謙信と、これを支配しようとする武田信玄の合戦。千曲川(長野県長野市小島田町)を挟んで5回対戦したが、決着はつかず。激戦となった第4次・八幡原の戦いでは、謙信が武田本陣に突撃し、信玄を斬りつけたエピソードがある。

川中島の戦いで山本勘助は引き分けています。

山本勘助のターニングポイントになった戦いです。
勘助の啄木鳥(きつつき)作戦が失敗し、武田軍は窮地(きゅうち)に立たされてしまいます。後年まで語られる上杉謙信の天才ぶりを引き立てる結果となりました。

山本勘助の詳しい年表と出来事

山本勘助は西暦(せきれき)1493年〜1561年(明応(めいおう)2年〜永禄(えいろく)4年)まで生存しました。戦国時代初期から中期に活躍(かつやく)した武将です。※生年は諸説あります。出来事は武田信玄の年表に合わせて調整しています。

14931山本貞幸の三男として三河国に生まれる。※駿河国の出身とする説あり
151826武者修行の旅に出る。
10年ほどかけて関東、中国、四国、九州を遍歴。京流兵法、築城術、戦法を極める。
毛利元就や大内義隆に関する情報を得る。
153644今川義元に仕官を希望して朝比奈信置を頼る。今川義元に採用してもらえず駿河国でしばらく過ごす。
板垣信方にスカウトされて武田晴信(信玄)に仕える。
154250”瀬沢の戦い”諏訪氏&小笠原氏との戦に参加。
”桑原城の戦い”諏訪頼重との戦に参加。諏訪家滅亡
”宮川の戦い”高遠頼継との戦に参加。
154351武田晴信が諏訪頼重の娘(諏訪御料人)を側室にする。大いに賛同する。
154755信濃国・高遠城の築城奉行を務める。
武田晴信が訴訟の公平性を制定。アドバイスを加える。【甲州法度之次第】
154856”上田原の戦い”村上義清との戦に参加。村上軍の陣形戦術を盗む。
155058”砥石崩れ”村上義清との戦に参加。50騎を率いて村上軍を陽動して武田軍を救う。
155462信濃国・小諸城の築城奉行を務める。
155967出家 → 山本道鬼斎
156068信濃国・海津城の築城奉行を務める。
156169原虎胤の負傷に伴って武田信玄の参謀に抜擢される。
”第4次川中島の戦い”上杉輝虎(謙信)との戦に参加。挟撃作戦を献策するが見破られる。上杉軍に突入し討死。
戦国時代で山本勘助が生きた期間の表
山本勘助の顔イラスト
お仕事のご依頼はこちら