いしかわ かずまさ

石川数正

1533.?〜 1592.?

 
石川数正の面白いイラスト
  

石川数正(康輝、吉輝)は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。酒井忠次と並んで最古参にあたる徳川家康の家老で、西三河の旗頭を務めました。家康の嫡男・松平信康を後見し、信康の死後は岡崎城を引き継ぎます。とつぜん徳川家を出奔してしまい、豊臣秀吉に仕えました。出奔の理由は不明。享年60。

石川数正は何をした人?このページは、石川数正のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと石川数正が好きになる「なぜか家康から出奔して秀吉にキャリアチェンジした」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:石川数正 → 石川康輝 → 石川吉輝
  • 幼 名:助四郎
  • 官 位:従五位下、伯耆守
  • 出身地:三河国(愛知県)
  • 居 城:岡崎城 → 松本城
  • 正 室:内藤義清の娘
  • 子ども:4男
  • 跡継ぎ:石川康長
  • 父と母:石川康正 / 松平重吉の娘
  • 大 名:徳川家康豊臣秀吉

なぜか家康から出奔して秀吉にキャリアチェンジした

石川家は松平氏譜代の家老の家柄。徳川家康とは父母が従兄弟(いとこ)同士という ”従兄弟(いとこ)ちがい” の続柄でした。家康が幼いころから仕え、大名になるとブレーンとして外交任務を担当しました。

1560年の桶狭間の戦いのあと、家康は今川氏を見限って独立します。

このとき駿府(すんぷ)の今川館には家康の正室・築山殿(つきやまどの)嫡男(ちゃくなん)・信康が残されていました。
怒った今川氏真(うじざね)に処刑されるところでしたが、石川数正が交渉にあたって2人を取り戻しました。

1562年に織田信長との『清洲同盟(きよすどうめい)』を締結(ていけつ)させたのも彼でした。

徳川氏が三河(みかわ)遠江(とおとうみ)を領すると、石川数正は西側の岡崎衆の旗頭(はたがしら)として家臣団をまとめます。

そんなキーマンが秀吉との小牧・長久手(ながくて)の戦いのあと、1585年に家康のもとを出奔(しゅっぽん)秀吉のところに転職します。家康は愕然(がくぜん)としました。

なにが問題かって、彼が徳川軍の軍制を熟知していたこと。

つまり、この出奔(しゅっぽん)は徳川軍の機密情報の(ろう)えいを意味しました。しかもライバルの秀吉に。

どうしてそうなったのか?

つぎのようなことが動機と考えられています。


ヘッドハントされた
『秀吉たらしこみ説』

1583年頃から秀吉との交渉窓口を務めるうちに、人柄に()かれるようになった。

秀吉も石川数正の価値を理解しており、徳川の弱体化をねらって引き抜かれたとする説です。

多大な恩賞に釣られたなど、人たらしの策にはまったのかもしれません。転職理由としては一番シンプルな動機です。


徳川家に居たくない
『内部不和説』

立場上、仕方がなかったとはいえ徳川家に居づらくなったとする説です。

家康の嫡男・松平信康が謀反(むほん)の疑いで切腹となった1579年の事件をきっかけに、不協和音が生じます。

信康の後見人だった石川数正は、この一件で立場がなくなってしまいました。

秀吉と戦わない路線を模索した石川数正は人質を差し出しての講和を主張しますが、交戦を主張する武断派から内通を疑われて裏切り者よばわりされてしまいます。

わりと有力な動機と考えられています。


これも忠義のカタチ
『自己犠牲説』

徳川氏のために自らを犠牲にしたとする説です。

じつは秀吉の引き抜きを受けるかわりに ”徳川氏を攻めない” という密約があった、あるいは家康と示し合わせて投降するふりをした。
もしくは、現実的な力量差も知らずに秀吉と戦いたがる武断派の主戦論を諦めさせるためだった。

など、徳川ファーストの忠義心だったのかもしれません。

その後、秀吉のもとで石川数正が目立った活躍をすることはありません。家康の外交官を務めていた彼にしては不自然なほどでした。

いずれにしてもこの離反は徳川家に大きな動揺を生み、軍制の変更を余儀なくします。

そこで、武田氏の遺臣(いしん)を率いた井伊直政が甲州流軍学(こうしゅうりゅうぐんがく)を採用し、武田式のハイブリッドな徳川軍が誕生します。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1533年、石川数正は三河国(みかわのくに)・小川城に石川康正の子として生まれます。今川氏へ人質に送られる徳川家康に供奉(ぐぶ)筆頭として同行しました。今川氏から独立した家康を支えて西三河(みかわ)旗頭(はたがしら)を務め、徳川家の後方を担う岡崎衆を統括します。交渉役に適性を発揮し、外交の多くを担当しました。

謎の出奔、その後

織田信長の没後に台頭した豊臣秀吉と家康のあいだを取り持つ役を任されますが、出奔(しゅっぽん)して秀吉の家臣になります。秀吉が天下統一を果たしたのち、信濃国(しなののくに)・松本を与えられ、天守閣や城下町の整備に精を出しました。

最後と死因

朝鮮出兵に向けて九州に(おもむ)き、石川数正は肥前国(ひぜんのくに)名護屋城(なごやじょう)で亡くなりました。1592年12月、死因は病気。60歳でした。1592年に京・七条河原で葬儀が行われていますが、没年には諸説あります。

領地と居城

石川数正の領地・勢力図(1590年)

豊臣秀吉から与えられた信濃国(しなののくに)・松本10万石が石川数正の領地でした。現在、国宝として残る現在の松本城の基盤を築きました。

石川数正の性格と人物像

石川数正は「ひとりで抱え込んでしまう人」です。

どこに出しても恥ずかしくない社交性を持ったスポークスマンです。しかし、いつも愛想よく信用される顔の裏では、誰にも相談できない(うみ)がたまっていました。

頭脳明晰(めいせき)理路整然(りろせいぜん)。誠実に仕事をこなす姿は誰の目から見ても公明正大(こうめいせいだい)それゆえ周囲から(ねた)(そね)みの感情を抱かれてしまう理不尽さに悩みます。

他勢力と自勢力を冷静に比較することができる分析力も、まわりからは臆病者と(さげす)まれました。

秀吉のもとに転職したあと、茶会で居合わせた徳川家臣・井伊直政から「臆病な裏切り者と一緒では不愉快」と同席を拒否されています。

おとなしい文官のイメージが強いのですが、討ち死にを覚悟して三方ヶ原(みかたがはら)の戦いに向かうなど勇ましい一面がありました。

能力を表すとこんな感じ

石川数正の能力チャート

どんなに難しい相手とも交渉が行える外交力が石川数正の長所です。人望がありますが、本心を他人と共有することは苦手でした。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する石川数正の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

石川数正の有名な戦い

三河一向一揆 みかわいっこういっき 1563.?〜 1564.2.27 ● 一向一揆? vs 松平軍? ○

上宮寺や勝鬘寺(ともに愛知県岡崎市)などの寺社を拠点とした本願寺門徒と松平元康の争い。今川氏から独立して三河の支配を強める松平氏が、上宮寺から無理に兵糧を奪ったことを発端とする一向一揆。本多正信らが一揆に加担し、松平家中で家康に反する内紛が起きた。

三河一向一揆で石川数正は勝っています。

父・康正と(たもと)(わか)ち、一向宗から浄土宗に改宗(かいしゅう)して家康を味方します。この功績で家老に取り立てられました。

姉川の戦い あねがわのたたかい 1570.7.30 ○ 織田&徳川軍3万 vs 浅井&朝倉軍2万 ●

浅井&朝倉軍と、織田信長の援軍で参陣した徳川家康が姉川(滋賀県長浜市野村町)で激突した合戦。本多忠勝が一騎討ちで真柄直隆と渡り合うなど、徳川軍の活躍が目覚ましく、榊原康政の突撃で朝倉軍は敗走。激戦で姉川は血に染まり、血原や血川橋という地名を残した。

姉川の戦いで石川数正は勝っています。

一番隊をつとめた酒井忠次が朝倉軍に押されて後退しますが、数正が奮戦して盛り返します。石川隊に触発されて両軍は激戦になりました。

三方ヶ原の戦い みかたがはらのたたかい 1573.1.25 ○ 武田軍3万 vs 織田&徳川軍1万5千 ●

西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。

三方ヶ原の戦いで石川数正は敗れています。

別働隊を率いて織田勢に加わる予定を変更して三方ヶ原(みかたがはら)に急行します。討ち死にしても恥ずかしくないよう、正式な弓懸(ゆがけ)()の結び方を習って戦いに臨みました。

小牧・長久手の戦い こまき・ながくてのたたかい 1584.4.23 〜 12.13 △ 羽柴軍10万 vs 織田&徳川軍3万 △

信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と信長の盟友・徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。

小牧・長久手の戦いで石川数正は引き分けています。

石川数正のターニングポイントになった戦いです。
以前から秀吉との交渉役をつとめていた数正は、主君である家康に和睦(わぼく)を提案します。しかし受け入れられませんでした。この戦いを最後に石川数正は徳川家を出て行きます。

石川数正の詳しい年表と出来事

石川数正は西暦1533年〜1592年(天文2年〜文禄元年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。※没年は諸説あります。

15331石川康正の子として三河国に生まれる。幼名:助四郎
154917人質として今川氏に向かう竹千代(徳川家康)に同行する。
155826”寺部城の戦い”鈴木重辰との戦に参加。
”石ヶ瀬川の戦い”水野信元との戦に参加。先陣で活躍する。
156028”桶狭間の戦い”織田信長との戦に参加。
主君・松平元康(竹千代=徳川家康)が今川氏から独立。
今川氏真と交渉して元康の嫡男・竹千代(松平信康)と正室・築山殿を取り戻す。
156230織田信長と同盟を結ぶ交渉役を務める。【清洲同盟】
156331”三河一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。父・康正と対立する。
156735徳川家康の嫡男・松平信康の後見人を任じられる。
156937叔父・石川家成に代わって西三河の旗頭になる。
157038”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。朝倉軍を相手に奮戦する。
157341”三方ヶ原の戦い”武田信玄との戦に参加。
157543”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。鳥居元忠と馬防柵の設置を担当する。
157644織田信長の命令を受けた徳川家康の指示で水野信元と水野信政を殺害する。
157947松平信康が謀反の疑いで切腹。代わって岡崎城代を任じられる。
158250織田信長のもとに出向く徳川家康に同行して上洛。摂津国・堺の見物を楽しむ。
織田信長が死亡。【本能寺の変】
明智光秀の軍勢に追われる徳川家康を護衛して畿内を脱出。【伊賀越え】
158351羽柴(豊臣)秀吉が賤ヶ岳の戦いに勝利。祝いの使者として羽柴秀吉に会見する。引き抜きを打診され断る。
158452”小牧・長久手の戦い”羽柴秀吉との戦に参加。和睦を提言する。
158553改名 → 石川康輝
徳川氏を出奔。
羽柴秀吉に仕える。
羽柴秀吉から河内国の一部を拝領する。
改名 → 石川吉輝
159058”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。
豊臣秀吉が小田原城を開城降伏させる。北条家滅亡
豊臣秀吉の天下統一が成る。
豊臣秀吉から信濃国・松本を拝領する。
松本城を改築、居城にする。
街道整備、城下町の建設などを行う。
159260朝鮮出兵のため肥前国・名護屋城に入る。【文禄の役】
肥前国・名護屋城で病死。
戦国時代で石川数正が生きた期間の表
石川数正の顔イラスト
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