まつだいら のぶやす

松平信康

1559.4.13 〜 1579.10.5

 
松平信康の面白いイラスト
  

松平信康(徳川信康)は、現在の静岡県にあたる駿河国の武将です。徳川家康の長男。織田信長の娘・徳姫を正室とし、織田・徳川の清洲同盟を深めました。母・築山殿と妻の仲が悪く、嫁姑問題から武田勝頼との内通疑惑が生じ、同盟に暗雲が立ち込めます。事態を重く見た父によって母と処断されました。享年21。

松平信康は何をした人?このページは、松平信康のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと松平信康が好きになる「嫁姑問題が泥沼化したあげく謀反を疑われて切腹した」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:松平信康
  • 別 名:徳川信康
  • 幼 名:竹千代
  • 出身地:駿河国(静岡県)
  • 居 城:岡崎城
  • 正 室:徳姫(織田信長の娘)
  • 子ども:1男 2女
  • 父と母:徳川家康 / 築山殿
  • 大 名:徳川家康

嫁姑問題が泥沼化したあげく謀反を疑われて切腹した

徳川家康の長男・松平信康は、織田&徳川の同盟の()け橋となりましたが、信長への謀反(むほん)を疑われ、父・家康によって切腹させられた人物です。

1560年の桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元が討たれたことをきっかけに、松平元康(後の徳川家康)は今川氏から独立して大名になります。松平信康は、この前年に生まれました。

家康は、義元を討った織田信長と1562年に『清洲同盟(きよすどうめい)』を結びます。この同盟のオプションとして、家康の嫡男(ちゃくなん)・松平信康と信長の長女・徳姫(とくひめ)婚約(こんやく)したのでした。

信長の希望で1567年に徳姫(とくひめ)輿(こし)入れが行われ、松平信康はわずか9歳で妻を(めと)ります。

このときの可愛らしい姫様(ひめさま)が、大事件を起こすとは想像もしませんでした。


嫁姑問題から
謀反疑惑に発展

松平信康と徳姫(とくひめ)は女の子を2人授かりました。

しかし、世継(よつ)ぎとなる男子はなかなか生まれてきませんでした。松平信康の母・築山殿(つきやまどの)は、この状況にじっとしていられなくなります。加えてこの(しゅうとめ)は、かねてより(よめ)のことが気に入らなかったのです。

というのも、築山殿(つきやまどの)は今川義元の(めい)徳姫(とくひめ)の父は義元を討った織田信長。信長という男は今川の(ひめ)として不自由なく暮らしていた築山殿(つきやまどの)の日常を(こわ)した(にく)(かたき)なのです。

(よめ)の背後に信長の顔がチラつき、この(よめ)に男子が生まれたら家ごと乗っ取られるのではないか……。築山殿(つきやまどの)我慢(がまん)できません。

このころ、織田氏・徳川氏は武田氏との抗争(こうそう)をくり返していおり、徳川氏のもとには武田を離反(りはん)した者たちが降ってきていました。築山殿(つきやまどの)は、その者たちの(むすめ)2人を松平信康の側室に(むか)えてしまいます。これには徳姫(とくひめ)我慢(がまん)できません。

徳姫(とくひめ)鬱憤(うっぷん)を12か条に書き起こし、父・信長に(うった)えます。そこには ”(しゅうとめ)が夫と結託(けったく)して武田と通じてる。裏切ろうとしてる” と書かれていました。

はじめは対等だった織田・徳川同盟でしたが、徳姫(とくひめ)が父に告げ口した1579年ごろには明確に織田氏が優位になっており、両家の関係は主従に等しくなっていました。信長から詰問(きつもん)された父・家康は、松平信康ならびに築山殿(つきやまどの)を処断する決定をします。

こうして松平信康は切腹を命じられ、織田氏への忠誠を示したことで徳川氏は最悪の事態を(まぬが)れました。

松平信康の切腹から21年後の1600年。関ヶ原の戦いに向かう途中(とちゅう)、徳川家康が「年をとって骨の折れることだ。(せがれ)さえいれば」とつぶやきました。側にいた者が「秀忠様(三男)もすぐに来ますよ」と(はげ)ますと、家康は「あの(せがれ)ではないわっ」と(なげ)いたといいます。

死なせてしまった長男・松平信康に思いを()せたのでしょう。

それは()しくも、松平信康が切腹をしたのと同じ秋の日のことでした。(関ヶ原の戦い:慶長(けいちょう)5年9月15日 / 松平信康の切腹:天正(てんしょう)7年9月15日)

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1559年、松平信康は駿河国(するがのくに)駿府館(すんぷやかた)に徳川家康の長男として生まれます。桶狭間(おけはざま)の戦いのおり、父が岡崎城を(うば)って今川氏から独立。今川氏の駿府館(すんぷやかた)から、母と一緒(いっしょ)に岡崎城に移ります。その後、父・家康と同盟を結んだ織田信長の(むすめ)徳姫(とくひめ)を妻にもらいました。

期待の後継者から一転

父から岡崎城を任され、織田氏とのお(となり)の土地を管理します。武田勝頼との合戦で活躍(かつやく)しますが、妻・徳姫(とくひめ)が母・築山殿(つきやまどの)との不仲を信長に告げ口して、武田氏との内通疑惑(ぎわく)を持たれます。信長を(おそ)れる父から切腹を命じられました。

最後と死因

大浜城(おおはまじょう)から堀江城(ほりえじょう)をめぐったあと、松平信康は遠江国(とおとうみのくに)二俣城(ふたまたじょう)に移されて切腹しました。1579年10月5日、死因は自害。21歳でした。介錯(かいしゃく)役の服部半蔵は泣き(くず)れてしまい、代わって天方通綱が介錯(かいしゃく)しました。なお、母である築山殿(つきやまどの)はこの半月ほど前に首をはねられています。徳姫(とくひめ)は信長のところに(もど)りました。

松平信康の性格と人物像

松平信康は「やんちゃな()っちゃま」です。

乗馬と鷹狩(たかが)りが大好きで、話すのは戦いのことばかり。お供1人だけ連れて敵本陣(ほんじん)の様子を見に行ってしまう無鉄砲(むてっぽう)さ。わんぱくまっしぐらの若大将です。

父・家康も「まことの勇将なり。信康がいれば勝頼なんて(こわ)くない」と自慢(じまん)嫡男(ちゃくなん)(たた)え、武田勝頼も信康の存在を敵として(なや)ましいと側近にこぼしていました。

(おそ)れ知らずの武辺者(ぶへんもの)であるがゆえ、父の命令もないがしろにして聞かず、意見が合わない家臣には厳しく当たるなど手がつけられません。

魔王(まおう)(おそ)れられた(しゅうと)・織田信長のことすら軽く見ていました。

猛々(たけだけ)しいのはけっこうですが、気性が(あら)いのが難点です。妻・徳姫(とくひめ)侍女(じじょ)()し殺したうえに手で口を()いた、盆踊(ぼんおど)りが下手という理由で領民を弓で射殺(いころ)した、鷹狩(たかが)りで獲物(えもの)がなかったのは道中で出会った僧侶(そうりょ)のせいだとして縄で()め殺した、などの信じがたい乱暴行為(こうい)も。

一方で、父に冷たくされる弟(結城秀康)を可哀想(かわいそう)に思い、父との対面をセッティングしてあげる優しさも持ち合わせていました。

能力を表すとこんな感じ

松平信康の能力チャート

松平信康は強さだけが際立っています。武田軍を相手にしても渡河(とか)戦や殿(しんがり)の任務を成功させるなど、荒武者(あらむしゃ)ですが素質はピカイチです。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する松平信康の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

松平信康の有名な戦い

長篠の戦い ながしののたたかい 1575.6.29 ● 武田軍1万5千 vs 織田&徳川軍3万8千 ○

長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。

長篠(ながしの)の戦いで松平信康は勝っています。

一隊の大将として出陣(しゅつじん)しています。信康は勇猛果敢(ゆうもうかかん)に戦ったとされ、この後の武田氏との戦いにも自信を深めました。

松平信康の詳しい年表と出来事

松平信康は西暦(せいれき)1559年〜1579年(永禄(えいろく)2年〜天正(てんしょう)7年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15591松平元康(徳川家康)の長男として駿河国に生まれる。幼名:竹千代
15602桶狭間の戦いのおり駿府館に残される。人質交換によって母・築山殿と一緒に三河国・岡崎城に移る。
15624松平(徳川)氏が織田氏と同盟を結ぶ。織田信長の娘(徳姫)と婚約。【清洲同盟】
15679織田信長の娘(徳姫)と結婚。
元服 → 松平信康
157315初陣。武田領・武節城を攻める。武節城、真弓山城を攻略。
157517奉公人・大賀弥四郎が武田勝頼に通じて謀反を企てる。父・家康に発覚し大賀弥四郎が鋸引きの刑に処される。【大賀弥四郎事件】
”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。
157618遠江国・横須賀で武田勝頼と交戦。撤退時に最後尾を務める。
157820武田領・小山城攻めに参加。撤退時に最後尾を務める。
157921織田信長から母・築山殿と共に武田氏との内通疑惑がかかる。
大浜城、堀江城を経て二俣城に移される。父・徳川家康の命令により自害。【信康切腹事件】
戦国時代で松平信康が生きた期間の表
松平信康の顔イラスト
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