ひらいわ ちかよし

平岩親吉

1542.?〜 1612.2.1

 
平岩親吉の面白いイラスト
  

平岩親吉は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。徳川家康と同い年で、織田氏や今川氏の人質だった幼少の頃から運命を共にしています。私欲がなく誠実な人柄で、家康の長男・信康や九男・義直の傅役を務めたほか、武田遺領の統治、江戸幕府の創成期では尾張徳川家の創設に深く携わりました。享年70。

平岩親吉は何をした人?このページは、平岩親吉のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと平岩親吉が好きになる「汚れ役もいとわない忠義心で尾張徳川家の父となった」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:平岩親吉
  • 官 位:従五位下、主計頭
  •  藩 :厩橋藩主、犬山藩主
  • 出身地:三河国(愛知県)
  • 領 地:尾張国
  • 居 城:甲府城 → 厩橋城 → 甲府城 → 犬山城
  • 正 室:石川正信の娘
  • 子ども:1養
  • 父と母:平岩親重 / 天野氏
  • 大 名:徳川家康

汚れ役もいとわない忠義心で尾張徳川家の父となった

平岩親吉は尾張(おわり)徳川家の(いしずえ)を築いた人物で、子どものころから徳川家康の(かたわ)らで過ごし、家康が織田氏と今川氏を転々とした人質時代に、いつも側にいた友だちでした。

今でいえばふたりは同学年。人質という境遇(きょうぐう)もあって、どこに行くのも一緒(いっしょ)でした。

家康が独立して大名になったのち、1567年に平岩親吉は家康の嫡男(ちゃくなん)・松平信康の教育係になります。大好きな家康の子とあって、平岩親吉は信康を可愛がりました。


数々の不条理に
心が折れる

1576年の寒い日、平岩親吉に(こく)な任務が命じられます。

家康の叔父(おじ)で織田氏と徳川氏を取り持っていた水野信元を殺害せよというものでした。織田信長に対する謀反(むほん)の疑いがかかったのです。

平岩親吉は石川数正と計画して水野信元を徳川家の菩提寺(ぼだいじ)である大樹寺に(さそ)い出し、(すき)を見て不意討ちします。平岩親吉は、水野の亡骸(なきがら)(かか)えて「あなたに(うら)みはなかった。仕方なかった」と泣いて()びました。

それから月日は流れ、平岩親吉が我が子とも思う松平信康は立派に成長。将来有望な若武者ぶりに目を細めていた1579年のある日、信じられない話に愕然(がくぜん)としました。

家康が信康を切腹させるというのです。

これもまた信長に対する謀反むほんを疑われてのことでした。

平岩親吉は「自分の首を差し出すから考え直してほしい」と家康に直訴(じきそ)しましたが(くつがえ)ることはなく、信康は21歳の若さで切腹します。平岩親吉は信康の(かみ)の毛をもらい受け、深く悲しみました。

この『信康切腹事件』をきっかけに平岩親吉は自主的に謹慎(きんしん)
ほどなくして復帰した後、1594年に家康の側室が生んだ子を養嗣子(ようしし)(家を()ぐ養子)にもらいます。平岩親吉には実子がおらず、平岩家を心配した家康の気づかいでした。

しかし、この子も5歳で亡くなってしまいます。


新たな生きがい
尾張徳川家を支える

がっかりする平岩親吉に転機が訪れたのは、江戸幕府が開府された1603年のこと。

まだ3歳にも満たない家康の九男・徳川義直が甲府藩主(こうふはんしゅ)になります。家康の(いき)な計らいで、平岩親吉は義直の教育係を任されました。

義直が尾張藩主(おわりはんしゅ)になると、1607年から尾張国(おわりのくに)に移り、藩政(はんせい)を行う(かたわ)ら、よく面倒(めんどう)を見ました。義直は、平岩親吉が晩年に得た新たな生きがいでした。

家康の子を三度も預かった平岩親吉でしたが、後継者(こうけいしゃ)不在のため平岩家は断絶してしまいます。

しかし、平岩親吉が献身的(けんしんてき)藩政(はんせい)を支えた尾張藩(おわりはん)は徳川義直を柱として栄え、やがて『徳川御三家(ごさんけ)』として江戸幕府の重要な屋台骨となるのでした。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1542年、平岩親吉は三河国(みかわのくに)額田(ぬかた)郡坂崎に平岩親重の次男として生まれます。幼いときから徳川家康に仕えて織田氏、今川氏の人質時代を共に過ごします。初陣(ういじん)も同じくし、三河一向一揆(いっき)や武田氏との抗争(こうそう)を家康の側で戦いました。しかし、傅役(もりやく)を務めた松平信康の切腹事件に責任を感じて蟄居(ちっきょ)謹慎(きんしん)してしまいます。

謹慎を経て政務に復帰

家康にお願いされて謹慎(きんしん)から復帰すると、武田氏滅亡後(めつぼうご)甲斐国かいのくにを治める郡代を経て、上野国こうずけのくに厩橋まやばし城主を歴任。家康の九男・義直の傅役もりやくとして甲斐国かいのくに甲府藩(こうふはん)の統治を代わって行いました。

最後と死因

晩年は尾張藩主(おわりはんしゅ)になった徳川義直に(ともな)って犬山藩主(はんしゅ)となり、尾張(おわり)徳川家の創設に尽力(じんりょく)します。義直の近くで藩政(はんせい)を後見し、平岩親吉は尾張国(おわりのくに)・名古屋城で亡くなりました。1612年2月1日、死因は不明。70歳でした。

領地と居城

平岩親吉の領地・勢力図(1607年)

尾張国(おわりのくに)・犬山12万石が平岩親吉の領地でした。死後、犬山(はん)の所領は、尾張藩(おわりはん)の徳川義直に(ゆず)ってほしいと遺言していました。

平岩親吉の性格と人物像

平岩親吉は「どこまでも愚直(ぐちょく)な人」です。

私欲がなく誠実な人柄(ひとがら)は家中の(だれ)もが知るところでした。根っからの良い人であるため、上からの命令に忠実すぎるあまり、良心の呵責(かしゃく)にさいなまれてしまいます。

榊原康政と口論になった弟が()りつけられて傷を負ってもこれを責めず、しきりに()り成して康政を四天王と呼ばれるまでに昇進(しょうしん)させています。

一方で、()られた弟のほうを「その程度」と見切りをつけて武士をやめさせます。親吉の私心のなさに(みな)が感服したといいます。

幼馴染(おさななじみ)として育った家康は親吉を心底信頼(しんらい)しており、嫡男(ちゃくなん)だった信康をはじめ、庶子(しょし)を養子にし、九男の傅役(もりやく)まで任せるほどでした。

能力を表すとこんな感じ

平岩親吉の能力チャート

誠実で実直な仕事ぶりの平岩親吉には(だれ)もが信頼(しんらい)を寄せました。持ち前の内政力で安定した藩政(はんせい)を行っています。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する平岩親吉の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

平岩親吉の面白い逸話やエピソード

加藤清正と毒まんじゅう

1611年に行われた豊臣秀頼との二条城会見で、徳川家康は秀頼の暗殺を図ります。実行役を任されたのは、家康が信頼(しんらい)する平岩親吉でした。

親吉は、遅効性(ちこうせい)の毒がついた(はり)を刺したまんじゅうを用意します。そして、自ら毒味をしたまんじゅうを秀頼にすすめました。

すると、秀頼に同席していた加藤清正がこれに何かを察し、親吉から毒まんじゅうを取り上げて食べてしまいました。

会見は無事に終わり、秀頼暗殺は失敗。その後、加藤清正は熊本に帰る船で発病し、会見から3か月後に死亡。親吉は清正の半年後に(ぼっ)しました。

清正と親吉が同年に亡くなっているためゾッとする話ですが、このように効き目が(おそ)い毒は知られておらず、毒まんじゅうの逸話(いつわ)はフィクションと考えられています。

平岩親吉の有名な戦い

桶狭間の戦い おけはざまのたたかい 1560.6.12 ● 今川軍2万5千 vs 織田軍3千 ○

尾張に侵攻してきた今川義元を桶狭間(愛知県名古屋市緑区桶狭間)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。

桶狭間(おけはざま)の戦いで平岩親吉は敗れています。

本多忠勝らと一緒(いっしょ)に大高城に兵糧(ひょうろう)を運ぶ任務を遂行(すいこう)しました。

三河一向一揆 みかわいっこういっき 1563.?〜 1564.2.27 ● 一向一揆? vs 松平軍? ○

上宮寺や勝鬘寺(ともに愛知県岡崎市)などの寺社を拠点とした本願寺門徒と松平元康の争い。今川氏から独立して三河の支配を強める松平氏が、上宮寺から無理に兵糧を奪ったことを発端とする一向一揆。本多正信らが一揆に加担し、松平家中で家康に反する内紛が起きた。

三河一向一揆(いっき)で平岩親吉は勝っています。

敵方の筧正重に耳を矢で射られて昏倒(こんとう)してしまい、首を取られそうになりますが、馬で()けつけた家康に救われています。「何をするか!」と家康に怒鳴(どな)りつけられた敵兵は追い散らされ、親吉は一命をとりとめました。

上田合戦 うえだかっせん #1:1585.8.2 ● 徳川軍8千 vs 真田軍2千 ○ #2:1600.9.6 ● 徳川軍3万8千 vs 真田軍3千 ○

徳川軍によって2回行われた真田征伐の合戦。真田昌幸が設計・築城した上田城(長野県上田市二の丸)で大打撃を与え、敗走させたところを真田信幸の別働隊が追撃。数で劣る真田軍が、鳥居元忠が率いた徳川軍に圧勝した。関ヶ原の戦いおりには、徳川秀忠を翻弄している。

上田合戦で平岩親吉は敗れています。

徳川氏を(あざむ)いた真田の討伐(とうばつ)に鳥居元忠らと向かいますが、真田昌幸の奇策(きさく)の前に惨敗(ざんぱい)しました。

小田原征伐 おだわらせいばつ 1590.5.6 〜 8.4 ○ 豊臣軍21万 vs 北条軍5万6千 ●

天下統一に迫る豊臣秀吉が小田原城(神奈川県小田原市)を大軍で包囲した合戦。籠城する北条氏直と、隠居の北条氏政、重臣たちは「小田原評定」と揶揄された結論がでない会議を繰り返した。北条父子を黒田官兵衛が説得し、降伏開城した。小田原攻め、小田原の役とも。

小田原征伐(せいばつ)で平岩親吉は勝っています。

平岩親吉のターニングポイントになった戦いです。
岩槻城(いわつきじょう)()めで活躍(かつやく)します。秀吉の命令で関東移封(いほう)となった家康から、親吉は上野国(こうずけのくに)厩橋城(まやばしじょう)(あた)えられ、名実ともに徳川家中で指折りの実力者となりました。

平岩親吉の詳しい年表と出来事

平岩親吉は西暦(せいれき)1542年〜1612年(天文(てんぶん)11年〜慶長(けいちょう)16年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍(かつやく)した武将です。

15421平岩親重の次男として三河国に生まれる。
15476竹千代(徳川家康)に同行して今川氏に送られる途中、共に織田氏に連れていかれる。
15498織田氏から今川氏に引き渡される竹千代に同行する。
155817”寺部城の戦い”初陣。鈴木重辰との戦に参加。
”石ヶ瀬川の戦い”水野信元との戦に参加。
156019”桶狭間の戦い”織田信長との戦に参加。
主君・松平元康(竹千代=徳川家康)が今川氏から独立。
156322”三河一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。矢で射られて倒れるが徳川家康に救われる。
156726徳川家康の嫡男・松平信康の傅役を任じられる。
157029”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。
157332”三方ヶ原の戦い”武田信玄との戦に参加。
157534”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。
157635織田信長の命令を受けた徳川家康の指示で水野信元と水野信政を殺害する。
157938松平信康が謀反の疑いで切腹。責任を感じて謹慎する。
徳川家康に頼まれて謹慎から復帰。
158140”第2次高天神城の戦い”武田勝頼との戦に参加。
158241”甲州征伐”武田勝頼との戦に参加。武田家滅亡
158342甲斐国・甲府城を築城、居城にする。
岡部正綱と甲斐国郡代になる。
158544”第1次上田合戦”鳥居元忠、大久保忠世と真田討伐に向かうが敗れる。
159049”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。岩槻城を攻める。47の首級をあげる。北条家滅亡
徳川家康から上野国・厩橋を拝領する。
上野国・厩橋城を居城にする。
159453徳川家康の庶子・松千代を養嗣子にもらう。※八男・仙千代とする説あり
159958養子・松千代が死去。
160160甲斐国・甲府に移封。
160362徳川家康の九男・徳川義直が甲府藩の藩主になる。傅役を務める。【江戸幕府の成立】
160765徳川義直が尾張藩の藩主になる。これに伴って尾張国に移る。
尾張国・犬山藩主になる。
161170尾張国・名古屋城で死去。
戦国時代で平岩親吉が生きた期間の表
平岩親吉の顔イラスト
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