北条氏政
1538.?〜 1590.8.10

北条氏政は、現在の神奈川県にあたる相模国の武将・大名です。北条氏康の次男。早逝した長男に代わって後北条氏4代目当主になります。弟たちと協力して関東を支配し、東国一の地位を築きますが、天下統一を目前にした豊臣秀吉の前に屈しました。結論が出ない会議を指す『小田原評定』が有名です。享年53。
- 北条氏政の武将タイプ
- 侵略
北条氏政は何をした人?このページは、北条氏政のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと北条氏政が好きになる「秀吉をナメすぎて追い込まれ小田原評定のすえ降参した」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:北条氏政
- 幼 名:松千代丸
- 官 位:相模守、左京大夫
- 出身地:相模国(神奈川県)
- 領 地:関東地方
- 居 城:小田原城
- 正 室:黄梅院(武田信玄の娘)、鳳翔院
- 子ども:8男 4女 4養 1猶
- 跡継ぎ:北条氏直
- 父と母:北条氏康 / 瑞渓院
- 大 名:後北条氏4代当主
秀吉をナメすぎて追い込まれ小田原評定のすえ降参した
いつまでも結論が出ない会議のことを『小田原評定』というのをご存知でしょうか?
この語源は、天下統一に向けた豊臣秀吉に小田原城を包囲された北条家の人々が、抗戦か?降伏か?決められず毎日のように会議を繰り返したことにあります。
北条氏政とは、小田原評定の中心にいた人物で、息子に世代交代をしてはいましたが、このときの北条氏のボスでした。
1589年に北条氏が真田氏の名胡桃城を奪ったことに端を発して、北条氏政・氏直父子の討伐が豊臣秀吉によって決定されます。
北条氏政は言い訳をしましたが、いまいち誠意が伝わりません。
それもそのはず。これまでにも秀吉は上洛(会いにくること)を求めますが、北条氏政はうやむやにして応じなかったのです。
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秀吉をナメすぎて
キレられる
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開祖・北条早雲から続く北条氏は、2代目・氏綱、3代目・氏康と代替わりするごとに勢力を伸ばし、4代目となる北条氏政の代では240万石を有する関東の覇者でした。
5代目・氏直になっても磐石です。信長の小者あがりの秀吉なんぞ怖くない。
とはいえ、その秀吉ごときが今や関白。
一応は従う意思を見せますが、挨拶しに来いと言われるとイラッときてしまいます。

こっちにも関東のボスとしての意地がある。北条氏政は低頭する気がありません。
このような態度が秀吉を怒らせてしまい、小田原征伐に発展します。
ホームなら勝てると思っていた北条氏政は、居城の小田原城を中心に9kmにおよぶ総構えを構築。城下まですべて要塞化しました。近隣には数十からなる自慢の支城ネットワークもあります。
自信の根拠は、小田原城にたどり着く頃には秀吉の軍勢は疲弊するはず。大軍はそんなに長く遠征もできない。かつて小田原城を攻めた上杉謙信や武田信玄も、長期戦を諦めて帰ったことがありました。
1590年2月に豊臣軍の侵攻が始まりました。
すると、なんということでしょう。支城のほとんどは瞬く間に制圧され、4月には小田原城が包囲されてしまいました。
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どうすんだよ
小田原評定
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豊臣の大軍に小田原城をまるっと包囲されますが、総攻撃は行われません。なぜなら、秀吉は小田原征伐で、いまだ従属しない伊達政宗などの東国の大名を従わせる意図がありました。
そのため、東日本で最強の北条氏にわざわざ余裕を見せたのです。
案の定、諸勢力は次々と豊臣方に降り、6月には伊達氏や最上氏も小田原に参陣し、従う意向を明らかにしました。
伊達政宗からの援軍をちょっと期待していましたが、北条氏は完全に孤立します。
ここで『小田原評定』です。
外を見れば20万という動員数の豊臣軍。夏フェスかっ!と盛り上がるはずもなく、領民を抱えてどうするか?北条家では、抗戦派と降伏派にわかれて議論を繰り返しました。
来る日も来る日も。
結局、抵抗らしい抵抗もせずに小田原城を開けて降参します。
1590年7月のことでした。ここに豊臣秀吉の天下統一が成りました。
5代目当主の北条氏直は高野山に追放。北条氏の実権者である北条氏政と長弟・氏照は切腹とされました。
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どうして
抵抗しなかった?
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かなり早い段階で小田原城を陸と海から完全に包囲されたことで、支城との連絡が途絶え、それぞれが分断された状態で豊臣軍に飲みこまれていきました。秀吉は、北条氏政の想像を遥かに上回っていました。
そのうえ、戦死した北条兵の首が各地から運びこまれて小田原城外に晒されるなど、ネットワークが遮断されている状況のなか、見えない敗戦の恐怖で士気はガタ落ちします。
北条方のやる気を削ぐ秀吉の嫌がらせは、まだまだ続きます。
どんよりした気持ちで小田原城に篭る北条兵の目の前で豊臣勢の宴会さわぎが始まり、まさに夏フェスが開催されてしまいます。秀吉は、大名たちの妻や側室を呼んでパーティーをしたのです。
さらに、秀吉が得意とした一夜城トリックで向かいの山に石垣山城がとつぜん現れると、北条方の戦意は完全に失われました。
「何年でも居座るぞ」という秀吉のメッセージだったからです。
……こんなのいくさじゃない。
北条氏政が思っていたのと全然ちがう戦いになってしまったのでした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1538年、北条氏政は相模国に北条氏康の次男として生まれます。1歳上の兄が早逝し、嫡男に繰り上がります。武田氏、今川氏との『甲相駿三国同盟』で、武田信玄の娘と結婚。領内で飢饉が起こったタイミングで父と世代交代し、復興の象徴として当主に就任します。父が後見した共同統治は『御両殿』と呼ばれ、民心をつかみました。
関東の統治に腐心する
今川氏の領地を攻めた信玄と父が対立しますが、父の死後、関係を修復。しかし、今度は上杉氏の家督あらそいで武田勝頼との関係が悪化し、再び抗争状態になってしまいます。嫡男・氏直を後見し、織田氏・徳川氏と友好を深めて関東支配の安定化を図りました。
最後と死因
織田信長の死後に台頭した豊臣秀吉との修好がうまくいかず、討伐令が出されて相模国・小田原城を包囲されます。抵抗もできないまま、3か月後に開城降伏。北条氏政は長弟・氏照や宿老と共に切腹を命じられました。1590年8月10日、死因は自害。53歳でした。首は京に送られ、聚楽第の一条戻橋に晒されました。
領地と居城

相模国、伊豆国、武蔵国に北関東の一部を合わせた240万石が北条氏政の領地でした。父・氏康が拡大した勢力をさらに拡げて、嫡男・氏直とともに後北条氏で最大となる版図を築きました。
北条氏政の性格と人物像
北条氏政は「意地っ張りな人」です。
武士の頭領が簡単に頭を下げるわけにはいかない。ましてや関東は「名こそ惜しけれ」の精神が根づく坂東武者たちの土地。名を汚すようなことがあってはいけません。北条氏政も、坂東の豪族たちにナメられたら終わりでした。
気性は穏やかで家族思いの愛妻家。政略結婚ですが、正室・黄梅院とは仲睦まじい夫婦でした。
妻の実家である武田家と抗争になり、離縁を余儀なくされ、翌年に黄梅院は死去。数年後に武田家との和睦が成立すると、黄梅院の遺骨をもらいうけて手厚く葬っています。
汁かけご飯が好き。ご飯にかけた汁が足りず二度かけして父から叱られた逸話があります。
ひと通りの武道や教養を身につけており、後水尾天皇が勅撰した歌集『集外三十六歌仙』に父・氏康と同じく一首えらばれています。
小田原駅の近くに、ひっそりとした氏政と氏照の墓所があります。
そこには願いを叶えるという『幸せの鈴』が設けられ、地元の人たちには今も北条氏に対する感謝と供養の気持ちが受け継がれています。
能力を表すとこんな感じ

領民に寄り添った北条氏政は、政治力と人望に優れています。自ら軍勢を率いて里見軍を蹴散らしたことがあり、北条一門らしく統率力にも秀でていました。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する北条氏政の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
北条氏政の面白い逸話やエピソード
汁かけご飯と麦飯で無能な愚か者と印象づけられてしまう
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汁かけご飯で
叱られる
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ご飯に汁物をかけて食べるのが大好きだった氏政。ご飯にかけた汁が足りなかったので、かけ足すと、それを見ていた父・北条氏康が呆れたように言いました。
氏康パパ「飯にかける汁の量くらい見極めろ。そんなことでは北条家は滅びるぞ」
息子の要領の悪さを見た氏康が、氏政が北条家を滅ぼすと予見したとされる出来事です。
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麦飯の作り方を
知らない
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武田軍と北条軍が共闘したときのこと。農民が麦を収穫しているのをみて、氏政は「麦飯が食べたいから後でその麦を持ってきて」と命じます。
すると武田信玄から麦飯にするには様々な工程があり、すぐには麦飯にできないことを説明されます。
信玄「さすがに大身の御曹司なのでご存知ない」
氏政の贅沢バカっぷりが物知りな信玄の引き立て役として、武田氏の軍記物『甲陽軍鑑』に書かれています。
これらは時勢がわからず北条氏を滅ぼした愚か者、北条氏政=無能を印象づけるための作り話です。
少なくとも、暗愚な人物ではありませんでした。
領民ファーストな優しい殿様だった
北条氏政は、週2回お百姓さんと畑しごとをしていました。
小田原征伐で積極的な戦闘を避けたのも領民に危害が及ばないようにするためだったといいます。
北条が滅びても民の暮らしは残るとして、代わって関東を治めることになる徳川家康に「この土地の民をお願いします」と手紙にしたため、治世に役立つ水路図やハザードマップも渡しました。
家康は、北条の民が一揆を起こさないように3公7民という低めの税率からはじめますが、やはり一揆を起こされてしまいました。
北条氏の税率は2公8民だったのです。
北条氏政の有名な戦い
北条氏を討伐するため北条氏政が篭る小田原城(神奈川県小田原市城内)を長尾景虎が包囲した合戦。関東の諸将を募って10万を越える兵で迫った。関東勢の太田資正が蓮池門に突入したが、隠居した北条氏康らの粘り強い守りもあって、1か月攻めても落城する気配はなかった。
小田原城の戦いで北条氏政は勝っています。
のちの上杉謙信である長尾景虎に小田原城を攻められますが、父といっしょにこれを耐えしのぎました。小田原城=難攻不落を強く印象づけた戦いです。
国府台(千葉県市川市)周辺に侵攻した北条氏と、安房の里見氏のあいだで2回行われた合戦。第2次合戦では、正月早々だったこともあり、優勢に戦った里見義弘が兵士に酒を振る舞う。退却すると見せかけた北条綱成が奇襲をかけて、里見軍を大混乱に陥れた。
国府台合戦で北条氏政は勝っています。
氏政の旗本隊が里見軍を襲撃し、緒戦に敗れて危機に瀕していた北条勢を救いました。この活躍を将兵たちから「前代未聞の総大将」と称賛されています。
今川領・駿河に侵攻する武田信玄と、今川氏・北条氏が薩埵峠(静岡県静岡市清水区)で対陣した攻防戦。先の対戦で今川氏真がなす術なく敗れ、これを救うべく北条氏政は援軍に向かう。互いに牽制し、激しい衝突はなかったが後の全面抗争に発展するきっかけになった。
薩埵峠の戦いで北条氏政は引き分けています。
妹婿・今川氏真を救うため、自ら兵を率いて武田軍と対陣しました。しかし、武田家と敵対したため、正室である黄梅院(信玄の娘)と離縁さぜるを得ませんでした。
本能寺の変を知った滝川一益が兵を率いて京に向かう途中、武蔵国境の神流川(埼玉県児玉郡上里町)を超えたところで北条軍と遭遇。滝川軍は北条氏邦を敗るなど緒戦に勝ったが、味方である北条高広ら与力の足並みが揃わず苦戦。北条氏直が押し返して滝川勢を敗走させた。
神流川の戦いで北条氏政は勝っています。
織田信長の死後、風雲急を告げる関東で滝川一益に備え、迎撃に成功しました。
天下統一に迫る豊臣秀吉が小田原城(神奈川県小田原市)を大軍で包囲した合戦。籠城する北条氏直と、隠居の北条氏政、重臣たちは「小田原評定」と揶揄された結論がでない会議を繰り返した。北条父子を黒田官兵衛が説得し、降伏開城した。小田原攻め、小田原の役とも。
小田原征伐で北条氏政は敗れています。
北条氏政のターニングポイントになった戦いです。
思惑どおりに行かなかったこと、秀吉が遥かに上回っており、ノーチャンスでした。豊臣秀吉の天下統一の決め手となる歴史が動いた一戦です。家祖・北条早雲から5代、小田原北条氏100年に幕が下されました。
北条氏政の詳しい年表と出来事
北条氏政は西暦1538年〜1590年(天文7年〜天正18年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1538 | 1 | 北条氏康の次男として相模国に生まれる。幼名:松千代丸 |
1552 | 15 | 兄・北条氏親が死去。代わって嫡男になる。 |
? | ? | 元服 → 北条(新九郎)氏政 |
1554 | 17 | 武田晴信(信玄)の娘(黄梅院)と結婚。【甲相同盟】 武田氏、北条氏、今川氏が互いに婚姻関係を結ぶ同盟が成立する。【甲相駿三国同盟】 |
1558 | 21 | 北条領内で飢饉が起こり疫病が流行る。 |
1559 | 22 | 父・北条氏康の隠居により家督を相続。父・氏康が後見する。 |
1560 | 23 | 北条領内の飢饉と疫病に対処するため徳政令を実施する。 |
1561 | 24 | ”小田原城の戦い”長尾景虎に小田原城を攻められて1か月耐える。 |
1563 | 26 | 上杉領・上野国に侵攻する。 上杉輝虎(謙信)が北条領に侵攻してくる。上野国、下野国、武蔵国、常陸国、下総国など、関東各地で争う。 |
1564 | 27 | ”第2次国府台合戦”上総国に侵攻し、里見義堯・義弘父子を撃破。前代未聞と称される活躍。上総国北部と西部の里見領を占領。 |
1565 | 28 | 里見領・上総国と下総国に侵攻する。 里見家臣・正木時忠と土岐為頼が北条氏に従う。 上杉輝虎(謙信)が里見氏の救援のために北条領に侵攻してくる。上野国・箕輪城が武田信玄によって攻略されたため輝虎は撤退。 成田氏長が配下になる。 |
1566 | 29 | 父・北条氏康から全権を託される。 由良成繁、佐野昌綱、北条高広が配下になる。 |
1567 | 30 | ”三船山合戦”三船台に砦を築く。里見義弘に迎撃され敗れる。水陸で激戦となり太田氏資が討死。 今川氏と武田氏の同盟が破談。 武田氏、北条氏、今川氏の甲相駿三国同盟が破綻。 武田氏との交易を停止。塩止めを行う。 |
1568 | 31 | ”第2次関宿合戦”*長弟・氏照が関宿城の簗田晴助を攻める。 武田氏との関係悪化で正室・黄梅院(武田信玄の娘)と離縁。 |
1569 | 32 | ”第2次薩埵峠の戦い”武田信玄に攻められる妹婿・今川氏真の援軍に向かう。薩埵峠でにらみ合う。 今川領・掛川城を攻める徳川家康と和睦。掛川城から今川氏真を保護する。今川家滅亡 次男・国王丸(北条氏直)を今川氏の猶子にする。 駿河国・深沢城を修築。北条綱成を配備する。 父・氏康が上杉輝虎(謙信)と和睦し同盟を結ぶ。【越相同盟】 下総国・関宿城の簗田晴助を攻める。上杉輝虎に追い払われる。 *武田信玄に駿河国・深沢城を攻められる。北条綱成が退ける。 *武田信玄に武蔵国・滝山城を攻められる。長弟・氏照が退ける。 武田信玄に相模国・小田原城を包囲される。父・氏康と籠城し撃退する。撤退する武田信玄の挟撃を弟たちと試みるが出遅れる。 ”三増峠の戦い”*北条本隊の到着を待たずに長弟・氏照、三弟・氏邦、北条綱成らが三増峠を通る武田信玄と交戦し、敗れる。 父・氏康の持病が悪化。 武田信玄に駿河国・蒲原城、深沢城が落とされる。 黄梅院が死去。 |
1570 | 33 | 武田信玄に駿河国・足柄城、河村城、大仏城山、湯ノ沢城、中川城が落とされる。 駿河国・深沢城、足柄城、河村城、大仏城山、湯ノ沢城、中川城を武田氏から奪還する。 五弟・三郎(上杉景虎)を上杉謙信の養子にする。 |
1571 | 34 | *武田信玄に深沢城を攻められる。北条綱成が抗戦したのち退去する。 父・北条氏康が死去。 武田信玄との関係を修復。【甲相同盟の再締結】 上杉氏との同盟が破談。 |
1573 | 36 | ”三方ヶ原の戦い”*大藤秀信を援軍として武田信玄のもとに派遣。 |
1574 | 37 | ”第3次関宿合戦”*長弟・氏照が関宿城の簗田晴助を攻める。次弟・氏規と三弟・氏邦を派遣。佐竹義重の仲介で簗田晴助を降伏させる。 |
1575 | 38 | 長弟・氏照に下野国への侵攻を命じる。 *長弟・氏照が下野国・榎本城を攻略。次いで小山秀綱の祇園城を攻める。 将軍・足利義昭から上杉氏との和睦を呼びかけられる。上杉謙信に拒否される。【甲相越三和】 |
1576 | 39 | *長弟・氏照が下野国・祇園城を攻め落とす。 |
1577 | 40 | 武田勝頼に妹(北条夫人)を嫁がせる。 里見領・上総国に侵攻する。 東金城・酒井敏房ならびに士気城・酒井胤治を降す。 里見義弘と和睦する。里見領・金谷城および北条領・浦賀城など最前線の城を破却。里見義弘の庶子・義頼に娘(龍寿院)を嫁がせる。【房相一和】 小山秀綱の調略で結城晴朝が北条氏と敵対する。 *長弟・氏照と三弟・氏邦が常陸国・結城城を攻める。佐竹氏が下野国に侵攻したため中断する。 佐竹義重に下野国・小山城を攻められる。 |
1578 | 41 | ”小川台合戦”佐竹義重が率いる反北条連合に壬生城を攻められる。救援に向かう。 上杉謙信が死去。上杉景勝と上杉景虎による家督争いが勃発。景虎(=五弟・三郎)を支援する。【御館の乱】 *長弟・氏照と三弟・氏邦を援軍として上杉景虎のもとに派遣。 武田勝頼に上杉景虎への援軍を要請する。 |
1579 | 42 | 上杉景勝に敗れて上杉景虎が自害。 武田勝頼と上杉景勝が同盟。 武田氏との同盟が破談。 ”広木大仏合戦”*三弟・氏邦が武田勝頼を退ける。 徳川家康と同盟を結ぶ。 武田領・駿河国に侵攻する。 武田勝頼と黄瀬川で対陣。呼応した徳川家康が武田水軍の拠点を攻め落とす。 |
1580 | 43 | 伊豆国・長浜に重須の湊を築く。 ”重須の戦い”*次男・氏直が重須沖で武田勝頼の水軍と激突する。 武田勝頼が上野国に侵攻してくる。迎撃に向かうが、国衆が武田氏に転じて劣勢になる。 織田信長に従属する。 次男・北条氏直に家督を譲る。引き続き政治・軍事を主導する。 *長弟・氏照が武田領・甲斐国を攻める。 |
1581 | 44 | *伊豆国・久竜津で武田水軍に敗れる。 *武田勝頼に駿河国・戸倉城を攻められる。笠原政尭が調略される。 伊豆国・三島に出陣し武田勝頼と対陣する。 |
1582 | 45 | ”甲州征伐”織田氏、徳川氏と呼応して武田領に侵攻。織田信長から知らせがなかったため自主的に連動して武田領・駿河国および上野国に侵攻する。武田家滅亡 次男・氏直と織田信長の娘を結婚させてくれるよう頼む。うやむやにされる。 織田信長から関東御取次役に任命された滝川一益に従う。 織田信長が死亡。【本能寺の変】 ”神流川の戦い”武蔵国に侵入した滝川一益を迎撃する。追撃し信濃国に敗走させる。 *次男・氏直と三弟・氏邦が信濃国に侵攻する。真田昌幸、木曾義昌、諏訪頼忠を従える。 ”若御子対陣”徳川家康が空白地となった旧・武田領に侵攻してくる。【天正壬午の乱】 真田昌幸が北条氏に叛く。 ”黒駒合戦”*四弟・氏忠と甥・氏勝が徳川軍の背後に迫るが鳥居元忠に撃退される。 徳川氏に碓氷峠を占拠され補給路が断たれる。 徳川家康の娘(督姫)と嫡男・氏直を結婚させて徳川氏と和睦する。 |
1583 | 46 | 古河公方・足利義氏が死去。官途補任し名実ともに関東勢力の頂点に立つ。 利根川水系と常陸川水系を掌握。流通ならびに交通を支配する。 |
1585 | 48 | 下野国に侵攻する。 |
1587 | 50 | 豊臣秀吉から関東と奥羽地方での領土紛争を禁止される。【惣無事令】 徳川家康から豊臣氏に従属するよう促されるが拒否する。 |
1588 | 51 | 豊臣秀吉から聚楽第に呼び出されるが拒否。次弟・氏規を名代として上洛させる。 |
1589 | 52 | 真田領・沼田を北条氏に返還するよう豊臣秀吉に求める。沼田裁定により2/3が返還される。 沼田城代・猪俣邦憲が真田領・名胡桃城を計略で奪う。真田昌幸がこれを豊臣秀吉に訴える。【名胡桃城事件】 豊臣秀吉から名胡桃城と関係者の引き渡しを求められるが弁明し断る。 豊臣氏への従属拒否とみなされ北条討伐令が出される。 |
1590 | 53 | 北条領内の国人衆、家臣に小田原城への参陣を命じる。 ”小田原征伐”豊臣秀吉の北条征伐軍を迎え撃つ。領内の諸城が攻め落とされる。小田原評定と呼ばれる会議を繰り返すが結論が出ず、およそ3か月籠城したのちに開城降伏する。 北条氏政、北条氏照、松田憲秀、大道寺政繁は切腹。北条氏直、北条氏規、北条氏忠らは高野山に流罪。北条家滅亡 |
