北条氏照
1542.?〜 1590.8.10

北条氏照(大石氏照)は、現在の神奈川県にあたる相模国の武将です。北条氏康の三男。父と兄を補佐して後北条氏の最盛期を築いた実力者です。切り込み部隊として版図拡大に貢献しました。武蔵国や北関東の支配を任され、他勢力との外交も担当。豊臣秀吉の小田原征伐に敗れて兄・氏政と切腹しました。享年49歳。
- 北条氏照の武将タイプ
- 参謀
北条氏照は何をした人?このページは、北条氏照のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと北条氏照が好きになる「兄・氏政を分身のように補佐して盛衰の運命を共にした」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:大石氏照 → 北条氏照
- 幼 名:藤菊丸
- 出身地:相模国(神奈川県)
- 居 城:由井城 → 滝山城 → 八王子城
- 正 室:比左(大石定久または大石綱周の娘)
- 子ども:1女 2養
- 父と母:北条氏康 / 瑞渓院
兄・氏政を分身のように補佐して盛衰の運命を共にした
後北条氏5代を記録した『北条記』によれば、北条氏照とは「氏政の舎弟の中にても武勇勝れて殊に大名なり」とあります。6人いる北条氏政の弟のなかで別格の存在です。
北条氏照は、兄であり4代目当主である北条氏政をよく支え、北条氏の最盛期を共に築き上げました。そして、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐に敗れて滅亡、没落するその日まで兄と運命を共にしました。
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生かしておく
わけにはいかぬ
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天下統一を目前にしていた豊臣氏に対して従う意思なし。そうみなされた北条氏は本拠地である小田原城をおびただしい大軍に包囲され、秀吉に降伏します。このときの北条氏は氏政の息子・北条氏直が5代目当主を継いでいました。氏直は、秀吉から高野山へ流罪を言い渡され、命は取られずに済みました。
ところが、北条氏政と北条氏照には切腹が命じられます。北条氏の実質的なボスとブレーンであると考えられたためです。
他の弟たちはいずれも流罪や出家など助命されましたが、秀吉は北条氏照だけは生かしておくことを許しませんでした。
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どうして
切腹させられた
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この頃までに北条氏照が担っていた役割は、下総国や下野国などの他国に侵攻する際の尖兵でした。進撃部隊を率いて36勝をあげています。それに加えて、上杉謙信や織田信長との交渉も行う敏腕の外交官でした。
つまり、北条氏の領土拡大と対外政策のカギを握っていたのが北条氏照です。
北条氏は1580年に織田氏に従属を願い出ていましたが、信長が死亡すると情勢は一変。信長の家来だった豊臣秀吉が勢力を伸ばします。1588年頃からはじまった豊臣氏との交渉では、秀吉に低頭することはなく、織田信長にヘコヘコしていた低姿勢とは異なるものでした。信長の威光は恐れましたが、秀吉の台頭は軽視していたのです。
秀吉との外交を担当した北条氏照は、北条を小さく見られないように強気でした。少なからず、それが秀吉の気分を害してしまいます。
北条氏照がキーマンであっただけでなく、こういったことが当主よりも重い切腹の沙汰が下った背景にありました。
生涯を簡単に振り返る
1542年、北条氏照は相模国に北条氏康の三男として生まれます。武蔵守護代の大石家に婿入りし、西武蔵の支配を固めました。父の跡を継いだ兄・氏政の補佐官として、北条氏の外交の一切を担いました。下総国の要所・関宿城を陥落させるなど、軍事面においても多大に貢献します。
上杉氏の家督争いでは、実弟・景虎の救援に向かうなど、次弟・氏邦と双璧を成してあらゆる軍事活動を牽引します。織田信長に従属する交渉役に尽力し、信長の死後は豊臣秀吉との外交に腐心しました。
最後と死因
北条氏の討伐を決めた秀吉に相模国・小田原城を包囲され、兄・氏政と甥・氏直が開城降伏を選択しました。北条氏照は兄・氏政と共に切腹を命じられました。1590年8月10日、死因は自害。49歳でした。
北条氏照の性格と人物像
北条氏照は「勝気でイケイケな人」です。
感覚が鋭い天才肌。気性が激しく、粗暴で頑固です。勇猛果敢で、小田原征伐では籠城派を中心に皆が慎重論を唱えるなか、終始一貫して徹底抗戦を主張していました。
家族思いなところがあり、兄弟仲は良好。上杉家に養子にいった12歳下の弟・三郎(上杉景虎)の面倒をよくみたといい、上杉家の家督争いに巻き込まれた三郎の死を深く悲しんでいます。
名僧と呼ばれる卜山舜悦に禅道を学び、無我の境地に達しています。文武両道で風流にも明るく、横笛の名人でした。趣味は中国の陶磁器コレクションと鷹狩り。八王子市にある「月夜峰」は氏照が月見をした場所に由来します。
氏照が発給した文書が254点も残っているほか、実際に着用していた大きな角の前立てがある兜が現存しています。家臣の笛彦兵衛に預けた秘蔵の横笛は、八王子城の戦いで焼失してしまいました。
能力を表すとこんな感じ

頭の良さとひるまない度胸が北条氏照の強みです。長所を生かした外交活動は適任でしたが、秀吉に対して強気すぎた感は否めません。
信長の野望シリーズに登場する北条氏照の能力値も参考にしています。
北条氏照の有名な戦い
北条氏の本拠地を攻めて、甲斐に引き揚げる武田信玄を、三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町)で北条軍が迎撃した合戦。北条綱成の鉄砲隊の攻撃で、浅利信種が討ち死にするなど、序盤は北条有利。しかし、山県昌景の奇襲が成功すると、武田軍が勢いづき、北条軍を押し退けた。
三増峠の戦いで北条氏照は敗れています。
三増峠を通る武田軍に対して、氏照は次弟・氏邦と奇襲をかけています。敗れましたが、氏照は上杉謙信に ”三増峠で武田に勝った” と書状で報告しています。
古河公方・足利氏の関宿城(千葉県野田市)をめぐって北条氏との間で3回争われた合戦。北条氏照を主将とした北条軍は、たびたび介入してくる上杉謙信に手を焼いたが、北条氏邦らを加えた総力戦で古河公方を圧倒。佐竹義重の仲介をうけて関宿城主・簗田晴助は降伏した。
関宿合戦で北条氏照は勝っています。
父・北条氏康の代から行われたきた下総・古河公方攻めで、氏照は主将をつとめています。簗田晴助を退けたことで、関宿城を支配します。以降、北条氏の下総における軍事拠点としました。
天下統一に迫る豊臣秀吉が小田原城(神奈川県小田原市)を大軍で包囲した合戦。籠城する北条氏直と、隠居の北条氏政、重臣たちは「小田原評定」と揶揄された結論がでない会議を繰り返した。北条父子を黒田官兵衛が説得し、降伏開城した。小田原攻め、小田原の役とも。
小田原征伐で北条氏照は敗れています。
北条氏照のターニングポイントになった戦いです。
氏照は野戦を主張しますが、籠城策が採用されました。居城である八王子城の落城を小田原城で知り、氏照は落胆しました。降伏し、兄・氏政と切腹。北条氏は滅びます。
北条氏照の詳しい年表と出来事
北条氏照は西暦1542年〜1590年(天文11年〜天正18年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1542 | 1 | 北条氏康の三男として相模国に生まれる。幼名:藤菊丸 |
1555 | 14 | 古河公方・足利義氏の元服式に父・氏康と参列。 |
1556 | 15 | 元服 → 北条(源三)氏照 |
1559 | 18 | 大石定久の娘(比左)と結婚。大石家を継ぐ。※大石綱周の娘とする説あり 武蔵国・由井城に入る。 改名 → 大石氏照 |
? | ? | 横山城 → 滝山城に改称。 滝山城に移る。 |
1563 | 22 | 三田綱秀を攻めて辛垣城を陥落させる。 |
1564 | 23 | ”第2次国府台合戦”里見義堯・義弘父子との戦に参加。 |
1567 | 26 | 北関東および南関東の取次役を務めて北条氏の外交を担う。 |
1568 | 27 | 下総国・栗橋城を接収。野田景範を北条氏に従わせる。 ”第2次関宿合戦”山王山砦と不動山砦を築き関宿城の簗田晴助を攻める。 |
1569 | 28 | 上杉輝虎(謙信)との同盟交渉を担う。【越相同盟】 武田信玄が武蔵国に侵攻してくる。 ”廿里の戦い”武田軍の別働隊を率いる小山田信茂を迎撃に向かい、敗れる。 武田信玄に滝山城を攻められる。これを退ける。 ”三増峠の戦い”北条氏邦、北条綱成と三増峠を通る武田信玄と交戦し、敗れる。 復姓 → 北条氏照 |
1571 | 30 | 父・北条氏康が死去。 八王子城の築城を開始。 |
1574 | 33 | ”第3次関宿合戦”関宿城の簗田晴助を攻める。長弟・氏規と次弟・氏邦の加勢を得る。 |
1575 | 34 | 兄・氏政から下野国へ侵攻を命じられる。 榎本城を攻め落とす。 小山秀綱の祇園城を攻める。 |
1576 | 35 | 祇園城を攻め落とす。 小田原城の総奉行を兼任する。 |
1578 | 37 | 上杉謙信が死去。上杉景勝と上杉景虎による家督争いが勃発。景虎(=四弟・三郎)を支援する。【御館の乱】 次弟・氏邦と上杉景虎の援軍に向かう。坂戸城で上杉軍に抵抗されて撤退する。 |
1579 | 38 | 徳川家康との同盟交渉を担う。 織田信長に鷹など大量の贈り物をする。 |
1580 | 39 | 織田信長に従属する交渉を担う。 武田領・甲斐国を攻める。西原を掌握。 |
1582 | 41 | ”甲州征伐”武田勝頼との戦に参加。武田家滅亡 武田信玄の娘(松姫)を武蔵国・八王子で庇護する。 織田信長が死亡。【本能寺の変】 ”神流川の戦い”滝川一益との戦に参加。 ”若御子対陣”空白地となった旧・武田領への侵攻に参加。【天正壬午の乱】 |
1583 | 42 | 伊達政宗との交渉を担う。 |
1587 | 47 | 八王子城が完成、居城にする。 |
1590 | 49 | ”小田原征伐”豊臣秀吉との戦に参加。兄・氏政と小田原城に籠城、降伏する。 北条氏政、北条氏照、松田憲秀、大道寺政繁は切腹。北条氏直、北条氏規、北条氏忠らは高野山に流罪。北条家滅亡 |

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