北条氏康
1515.?〜 1571.10.21

北条氏康は、現在の神奈川県にあたる相模国の武将・大名です。若い頃から、老獪な智略を武器に関東の諸勢力を打ち破ります。河越夜戦で扇谷・山内の上杉氏、古河公方による大連合軍を撃破して、関東地方の大半を制圧し、後北条氏の勢力を急速に拡大。上杉謙信や武田信玄とも互角以上に渡り合いました。享年57歳。
- 北条氏康の武将タイプ
- 侵略
北条氏康は何をした人?このページは、北条氏康のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと北条氏康が好きになる「河越夜戦のビッグマッチに勝利して関東の覇者になった」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:北条氏康
- 幼 名:伊豆千代丸
- あだ名:相模の獅子、相模の虎、相模の亀
- 官 位:従五位上、相模守、左京大夫
- 戦 績:50戦 34勝 8敗 8分
- 出身地:相模国(神奈川県)
- 領 地:関東地方
- 居 城:小田原城
- 正 室:瑞渓院(今川氏親の娘)
- 子ども:6男 6女 1養
- 跡継ぎ:北条氏政
- 父と母:北条氏綱 / 養珠院宗栄
河越夜戦のビッグマッチに勝利して関東の覇者になった
戦国時代のはじめ、関東地方は北部を山内上杉氏、東部を古河公方足利氏、南部を扇谷上杉氏といった、鎌倉時代から続く家柄が統治している地域でした。
北条氏康の北条氏は、鎌倉幕府の執権をしていた北条氏ではありません。もとは伊勢姓を名乗る家柄で、父・伊勢氏綱が改姓して北条を名乗った『後北条氏』と呼ばれる新興勢力でした。そのため、格で劣る後北条氏を関東の名家は嫌い、これを排除しようと敵視していました。
しかし、ピンチはチャンスでもあります。これを機に北条氏康は、寄ってたかって潰そうとしてくる名門たちをまとめて返り討ちにします。
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得意の夜戦で
まとめて撃破
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小沢原の戦いと、河越夜戦という2つの夜戦で、北条氏康は扇谷上杉氏を破ります。自分のターンが来るのを待って、北条氏康は鋭い奇襲をかけました。どちらの合戦も序盤はほどほどにやり過ごし、相手が楽勝ムードになってダレたところの寝込みを襲うパターンで勝利します。
運命の分岐点となったのは、1537年の河越夜戦です。山内+扇谷+古河公方の連合軍8万の大軍が、北条方の河越城を包囲。これに対して、北条氏康は逃げる&ウソの降伏をして油断させるコンボを発動します。そして、連合軍の楽勝ムードを誘いました。
河越城に籠城する北条綱成の救援に駆けつけた北条氏康に、上杉軍が戦いを挑みますが、交戦せずに府中まで逃げます。北条氏康は、府中あたりをウロウロしたのち、降伏(うそ)を申し出ました。これに連合軍は「んだよヘタレ〜」と、兜の緒を緩めてしまいます。
まんまと北条氏康の作戦にのってしまった扇谷当主・上杉朝定は、勝利宣言を出して、兵を休ませました。河越城に引きこもって動かない北条軍の消極的な態度に、もともとダレていた連合軍は、すっかり油断して就寝します。
これで完全に北条氏康の必勝フラグが立ちました。
「今だっ!」北条氏康は、鎧を着けずに待機させていた自軍の兵たちを率いて、音もなく忍び寄り、お休み中の敵陣に襲いかかりました。

この戦いで上杉朝定を討ち取る戦果を挙げ、山内上杉氏と、古河公方にも壊滅的な打撃を与えることに成功した北条氏康は、一夜にして関東の覇者になりました。
河越夜戦は、桶狭間の戦いや、厳島の戦いとともに『日本三大奇襲』に挙げられる、戦国時代を代表するジャイアントキリングとなりました。
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やさしい民政
四公六民
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北条氏康は民にやさしい領国経営をしています。戦国時代では税率は5割がふつうでしたが、民が苦しむ様子をみて、領内の税率を一律で4割に下げる『四公六民』の税制改革を行いました。
このように北条氏康が民政を行っていたため、のちに関東を治めることになった徳川家康も、すぐには税率を上げられず四公六民を踏襲しています。
年貢の収穫量も地域によって差が出ないよう、田畑の測量に使う枡を統一して検地をしました。この検地方法は、豊臣秀吉が全国の測量を行った太閤検地に先駆けたものでした。
1549年に発生した関東大地震の影響で領民の生活が困窮すると『公事赦免令』を出して、借金や税の徴収を免除しています。領民の声を聞くための目安箱を設置して、良政を心がけました。
小田原早川上水をつかった上水道をつくり、城下にはゴミひとつ落ちていない清潔な都市をつくりました。
生涯を簡単に振り返る
1515年、北条氏康は相模国・小田原城に北条氏綱の長男として生まれます。河越夜戦に勝利して扇谷上杉氏を滅ぼし、関東の支配を強めました。関東管領・上杉憲政を追いやって上野国を手に入れますが、これをきっかけに上杉謙信と長らく争います。武田氏、今川氏と『甲相駿三国同盟』を結び、謙信に対抗しました。
領内の大飢饉に際して、次男・氏政に家督を譲って父子で復興と統治を行い、次代にバトンをつなぎました。桶狭間の戦いで今川義元が倒れたのをきっかけに武田信玄が同盟を破棄し、今川領を攻めたため、娘婿・今川氏真を支援して武田氏と交戦状態になりました。
最後と死因
中風を患っており、信玄との抗争の最中に病床に臥します。やがて子どもの見分けもつかないほど衰えて、北条氏康は相模国・小田原城で亡くなりました。1571年10月21日、死因は病気。57歳でした。
領地と居城の移り変わり


相模国、伊豆国、武蔵国の3か国と上野国の大半を合わせた250万石が北条氏康の領地でした。但し、これは最大時の版図であり、1560年以降は上杉謙信の進出を受けて北関東を失っています。
北条氏康の性格と人物像
北条氏康は「いつもマイペースであわてない人」です。
もともと臆病な性格ですので、無茶はしません。派手さよりも機能性を優先し、兜には前立てを付けずに目立たないようにしていました。
『北条傷』あるいは『氏康傷』と呼ばれる向こう傷が、顔面に2つありました。前にキズがあっても、背中にはキズがなかったといい、敵に背後を見せずに勇敢に戦った証でした。意外と血の気が多く、我を失って敵を深追いする氏康を家来が止めたこともあります。
歌道を学び、著名な歌人を感嘆させるほどの腕前です。後水尾天皇勅撰の『集外三十六歌仙』にも一首えらばれています。蹴鞠の作法も学んでいます。
ご飯に味噌汁を二度がけした息子をみて「飯にかける味噌汁の量くらい見極めろ」と説教したり、深酒で失敗した経験から「酒は朝に飲め」という家訓を残すなど、かわいらしいところもあります。
北条氏康が使用していた『阿古陀形』と呼ばれる形式の兜が現存しています。超シンプルで飾りもなく、闇夜に紛れるのに最適な漆黒の逸品です。
能力を表すとこんな感じ

平均的に高水準ですが、北条氏康は政治能力が極めて優秀です。代々、後北条氏は民衆に寄り添う統治を行なっており、氏康も祖父・早雲からの例にならって、領民ファーストの政治をしました。
信長の野望シリーズに登場する北条氏康の能力値も参考にしています。
北条氏康の面白い逸話やエピソード
将来が心配になる臆病な子どもだった
少年期の北条氏康は、一日中部屋に篭ってばかりの内向的な子どもでした。おまけに臆病で、カミナリが光っただけでも、部屋のすみで丸まっていたそうです。
ある日、鉄砲の実演を見学した氏康少年は、ズドォーン!という発砲音に驚き、耳をふさいで座り込んでしまいます。
家臣たちはクスクスと笑い、氏康少年は「恥ずかしい!腹を切る!」と取り乱しますが、家来の一人がそっと近づいて「勇敢な人ってのは音に敏感なもんですぜ」と慰めると、氏康少年は落ち着きました。
元服したのちも、家臣たちからこのエピソードを持ち出されて、他家出身の北条綱成のほうが、当主に相応しいと噂されてしまうほどのヘタレっぷりでした。
北条氏康の有名な戦い
小沢城に進軍する上杉朝興を北条軍が金程(神奈川県川崎市麻生区金程)で迎え討った合戦。兵力が劣る北条氏康は、休息中の扇谷上杉軍に夜襲をしかけて撃退した。これが初陣だった氏康が「勝った!」と歓喜して駆け上がった麻生区千代ヶ丘の坂が、勝坂となった。
小沢原の戦いで北条氏康は勝っています。
夜襲によって兵力差を覆して居城を守っただけでなく、後年の北条氏康の戦略につながる、重要な意味を持った一戦となりました。
駿河東部(静岡県沼津市あたり)をめぐり今川氏と北条氏が2回行った合戦。はじめ、今川義元が家督を継いだばかりの今川領を北条氏が奪った。第2次の戦いでは、武田晴信とともに義元が北条氏康を攻撃、上杉憲政が北条領を脅かす挟み撃ちによって河東を取り返した。
河東の乱で北条氏康は敗れています。
父・北条氏綱のころから続く、今川義元との因縁の対決でしたが、義元の策略によって、多方面から挟撃を受けて、領地の一部を失ってしまいます。
山内、扇谷の上杉氏、古河公方足利氏の大連合軍で北条綱成が守る河越城(埼玉県川越市郭町)を包囲した合戦。北条氏康は鎧兜を装備しない兵士たちを率いて夜襲を決行。半年にわたる包囲戦で油断していた連合軍を大混乱に陥れ、扇谷の当主・上杉朝定を討ち取った。
河越夜戦で北条氏康は勝っています。
北条氏康のターニングポイントになった戦いです。
劣勢にも関わらず、関東の大連合軍を一網打尽にし、扇谷上杉氏を滅亡させるビッグボーナスで、関東地方の勢力図をガラリと塗り替えました。以降、後北条氏は絶対的な関東の覇者になりました。
北条氏を討伐するため北条氏政が篭る小田原城(神奈川県小田原市城内)を長尾景虎が包囲した合戦。関東の諸将を募って10万を越える兵で迫った。関東勢の太田資正が蓮池門に突入したが、隠居した北条氏康らの粘り強い守りもあって、1か月攻めても落城する気配はなかった。
小田原城の戦いで北条氏康は引き分けています。
長尾景虎(上杉謙信)が率いる大軍と戦い、放火や城門破壊といったダメージを受けるものの、いっさいの挑発行為にも乗らず、氏康は決して出撃しませんでした。武田信玄が信濃に侵攻するよう促し、景虎を川中島に向かわせました。
北条氏康の詳しい年表
北条氏康は西暦1515年〜1571年(永正12年〜元亀2年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1515 | 1 | 伊勢(北条)氏綱の嫡男として相模国に生まれる。幼名:伊豆千代丸 |
1529 | 15 | 元服 → 北条(新九郎)氏康 |
1530 | 16 | ”小沢原の戦い”北条領に侵攻してきた上杉朝興を夜襲で撃退。 |
1535 | 21 | 今川氏親の娘(瑞渓院)と結婚。 ”山中の戦い”武田領・甲斐国に侵攻、武田信虎の弟・勝沼信友を撃破。上杉朝興が北条領を脅かしたため撤兵する。 |
1537 | 23 | ”河越城の戦い”上杉朝定との戦に参加。 |
1538 | 24 | ”第1次国府台合戦”足利氏&里見氏の連合軍との戦に参加。総大将・足利義明を討ち取る。 |
1541 | 27 | 父・北条氏綱の死去により家督を相続。 |
1545 | 31 | ”第2次河東の乱”今川氏&上杉氏の連合軍の挟撃に遭い、武田氏を加えた今川軍に敗れる。武田晴信(信玄)の仲介で和睦し、今川義元に駿河国の東部を奪還される。 |
1546 | 32 | ”河越夜戦”上杉憲政&上杉朝定&足利晴氏の連合軍に河越城を包囲される。計略と奇策によってこれを撃退、上杉朝定を討ち取る。扇谷上杉家滅亡 |
1550 | 36 | 前年に起きた関東大地震の影響で領民の生活が困窮。税制改革を行う。【公事赦免令】 |
1551 | 37 | 山内上杉領・上野国に侵攻。平井城、厩橋城、白井城つづけてを攻略し、上杉憲政を追い詰める。 |
1552 | 38 | 長男・北条氏親が死去。次男・北条氏政を嫡男にする。 上杉憲政が越後国に逃亡し長尾景虎(上杉謙信)を頼る。 長尾景虎が上野国に侵攻してくる。旧・山内上杉領を奪還され、北条領・武蔵国まで攻め込まれる。 |
1554 | 40 | 今川義元の嫡男・氏真に娘(早川殿)を嫁がせる。【相駿同盟】 武田晴信(信玄)の娘(黄梅院)を嫡男・氏政の嫁にもらう。【甲相同盟】 武田氏、北条氏、今川氏が互いに婚姻関係を結ぶ同盟を結成。【甲相駿三国同盟】 四男・氏規を人質として今川氏に預ける。 |
1555 | 41 | 古河公方・足利義氏の元服式に参列。 |
1558 | 44 | 北条領内で飢饉が起こり疫病が流行る。 |
1559 | 45 | 次男・北条氏政に家督を譲る。引き続き政治・軍事を主導する。 上野国の横瀬氏、斎藤氏、沼田氏を降伏させる。 |
1560 | 46 | 長尾景虎(上杉謙信)が上野に侵攻してくる。旧・山内上杉領を奪還され、北条領・武蔵、相模まで攻め込まれる。 太田資正が北条氏に叛く。 |
1561 | 47 | ”小田原城の戦い”長尾景虎に小田原城を攻められて1か月耐える。武田信玄に信濃国への侵攻を要請し長尾景虎を信濃国・川中島に向かわせる。 今川氏から独立した松平元康(徳川家康)と争う水野信元に仲介を申し出る。 |
1563 | 49 | *三男・氏照に三田綱秀を攻めさせる。辛垣城を陥落させる。 武田信玄の協力を得て、上野国の松山城、厩橋城を攻略。 上杉輝虎(謙信)が北条領に侵攻してくる。上野国、下野国、武蔵国、常陸国、下総国など、関東各地で争う。 |
1564 | 50 | ”第2次国府台合戦”上総国に侵攻する。里見義堯・義弘父子を撃破。 娘婿・太田氏資と共謀して氏資の父・太田資正を追放する。 |
1565 | 51 | ”第1次関宿合戦”下総国に侵攻する。古河公方・足利氏の関宿城を攻める。上杉輝虎(謙信)が関宿城の救援に出陣したため撤退。 成田氏長が配下になる。 |
1566 | 52 | ”臼井城の戦い”上杉輝虎が下総国に侵攻してくる。臼井城の救援に向かい退ける。 次男・北条氏政に全権を託して隠居。 |
1567 | 53 | ”三船山合戦”*次男・氏政が里見義弘に敗れる。 今川氏と武田氏の同盟が破談。 武田氏、北条氏、今川氏の甲相駿三国同盟が破綻。 |
1568 | 54 | ”第2次関宿合戦”*三男・氏照が関宿城の簗田晴助を攻める。 娘婿・今川氏真が武田信玄に攻められて掛川城に逃げる。娘(早川殿)は輿を用意することも出来ず徒歩で逃げる。武田信玄に激怒する。 |
1569 | 55 | ”第2次薩埵峠の戦い”*北条氏政を援軍として娘婿・今川氏真のもとに派遣。 上杉輝虎(謙信)の関東管領職を認めて和睦。同盟を結ぶ。【越相同盟】 武田信玄が駿河国に侵攻してくる。 武田信玄が武蔵国に侵攻してくる。 武田信玄に相模国・小田原城を包囲される。次男・氏政と籠城し撃退する。 ”三増峠の戦い”*三男・氏照、五男・氏邦、北条綱成らが三増峠を通る武田信玄と交戦し、敗れる。 持病の中風が悪化して体調を崩す。 |
1570 | 56 | 一時的に回復。武田攻めを指示する。 七男・三郎(上杉景虎)を上杉謙信の養子にする。 *四男・氏規が韮山城を武田氏から防衛する。 |
1571 | 57 | 相模国・小田原城で病死。 |

- 北条氏康 – Wikipedia
- 北条氏康とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】 | 歴史上の人物.com
- 1万vs8万で劇的逆転! 河越城の戦い(河越夜戦)の北条がスゴすぎる – BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
- マイナー・史跡巡り:北条五代記③~小沢原の戦いと勝坂~
- 北条氏康の解説 文武両道な猛将も家中や庶民を大切にした戦国大名と瑞渓院 -武将辞典
- 【合戦解説】10分でわかる河越夜戦「北条氏康、お得意の夜襲が炸裂!日本三大奇襲戦」/RE:戦国覇王 – YouTube
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