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ほうじょう つなしげ

北条綱成

1515.? 〜 1587.6.11

 
北条綱成のイラスト
  

北条綱成(上総入道道感)は、現在の静岡県にあたる遠江の武将です。もとは今川家臣の出自ですが、北条氏綱に見出されて後北条氏の一門に加わります。北条氏康の義弟にあたり、玉縄城、河越城など重要拠点の城主を歴任。おもに軍事面で活躍します。地黄八幡の旗を掲げて、上杉謙信や武田信玄とも戦いました。享年73歳。

北条綱成の人物タイプ
参謀

このページでは、北条綱成が何をしたどんな人なのか、ハイライトやエピソードを紹介しています。戦国武将・北条綱成のことがきっと好きになります。

  • 名 前:北条綱成 → 上総入道道感
  • 幼 名:勝千代
  • あだ名:地黄八幡
  • 出身地:遠江(静岡県)
  • 居 城:玉縄城、河越城、深沢城
  • 正 室:北条氏綱の娘・大頂院
  • 子ども:2男 2女
  • 跡継ぎ:北条氏繁

勝った!勝った!地黄八幡の黄備えで後北条氏の最盛期を支えた

朽葉色に黄色く染めた6尺9寸(およそ2m)の旗に「八幡」の文字が、北条綱成のシンボルでした。この旗は、地黄八幡(じきはちまん)と呼ばれ、北条綱成の出陣を意味していたため、地黄八幡の旗をみた敵兵は、恐怖したといいます。

北条綱成は、シャープな判断力と統率力で、後北条氏の最盛期を支えた屋台骨です。


勝った!勝った!
突撃のキレンジャー

父が今川家臣という出自でしたが、後北条氏2代目当主・北条氏綱に見出されて、北条一門衆に加わります。
北条五色備えと呼ばれるカラフルな精鋭隊の「黄備え」のリーダーに抜擢され、玉縄城をはじめとした防衛拠点の城主をつとめました。

【北条五色備え】後北条氏の家老衆が率いた精鋭部隊

自ら先頭に立って敵中に突入する戦闘スタイルですが、北条綱成はひと味ちがう。
戦況とは関係なく「勝った!勝った!勝った!勝った!」と叫びながら突撃します。北条綱成のこの行動に敵兵は驚き、戸惑い、味方の兵は掛け声に鼓舞されて、自分たちが優勢であるかのような錯覚をして突撃しました。


北条氏康を
二人三脚で支える

北条氏康が関東のお偉いさん連合を一網打尽にして、勢力図を塗り替えた河越夜戦で、北条綱成は連合軍に包囲される河越城を守っていました。
氏康との連携プレーで、10倍はあろう敵軍に快勝したこの戦いでも「勝った!」の掛け声とともに、足利晴氏の陣にうって出て、退散させています。

援軍として参戦した、第3次川中島の戦いで上杉謙信を越後に撤退させ、三増峠の戦いでは、鉄砲隊を率いて武田信玄の左翼を壊滅させる活躍をし、稀代の名将にも劣らない戦いぶりでした。

3代目当主・北条氏康とは同い年で、義理の兄弟という間柄。氏綱の後継を選ぶおり、氏康ではなく綱成の声があがりますが、北条綱成は北条氏康の補佐役になることを希望します。氏康の名代として、軍事や外交で能力を発揮しました。

氏綱、氏康につづいて、4代目・氏政、5代目・氏直に仕えて、北条綱成は後北条氏の歴史とともに在りました。

生涯:生まれから最後まで

① 生まれ

遠江国に父・福島正成の子として生まれます。母は不明。
今川家臣だった父・正成が花倉の乱で亡くなり、22歳のころに北条氏綱に引き取られます。

② 後北条氏一門

北条氏綱の娘と結婚して、後北条氏の家族に加わります。
義父・氏綱から綱の一字をもらって北条綱成と名乗り、北条五色備えの黄色備えを率います。
28歳のときに、北条為昌に代わって玉縄城主になり、政治の中心的な役割を与えられました。

③ 北条氏康を補佐

同い年で義理の兄にあたる北条氏康が当主になっても、大事な城の城主をかけもちしたり、当主のかわりに他国との交渉も行ったり、一生懸命サポートします。
河越夜戦では、河越城を守って足利晴氏を追い払いました。援軍で参陣した川中島の戦いで、上杉謙信を撤退させるなど、合戦で大活躍しました。

④ 最後

駿河の土地をめぐって、深沢城で武田信玄と戦ったのち、57歳のときに長男・北条氏繁に家督を譲って隠居します。
上総入道道感に改名して余生を過ごし、73歳で亡くなりました。死因は病とされています。

北条綱成の簡単な年表

性格:人物像・どんな人?

北条綱成の能力チャート

なにかと万能で頼りがいがある人です。
かなり高い能力がありますが、出過ぎた真似をせず、役割を理解した行動ができます。戦場においては、先頭に立って戦う猛将です。
若い頃から武勇に秀でており、外交をまとめられる交渉力、城主を歴任する統治能力もあり、北条氏の当主候補にあがったほどでした。

八幡大菩薩を崇拝していて、毎月15日は必ず身を清めて戦勝祈願しています。シンボルの旗、地黄八幡は直八幡と読み ”じきはちまん” が同じであるため、自分は八幡の直流であるというアピールも込められていたそうです。

趣味や容姿がわかる資料はありません。実弟・綱房が絶世の美男子であったと伝わっていますので、綱成も端正な顔立ちをしていた可能性があります。

北条綱成の逸話・面白いエピソード

落ちていた地黄八幡の旗と拾われたプライド

深沢城で武田軍と戦ったすえ、開城することになった綱成。城を明け渡して引き揚げるおりに、北条綱成のシンボルである地黄八幡の旗が捨てられていました。
これを見た武田の家臣たちが「北条綱成は慌てて逃げ出したw」と嘲笑しました。

すると、武田信玄は「この旗を捨てたのは足軽兵であって、綱成ではない。彼を笑うべきではない」と家臣をたしなめ、旗を拾います。その旗を「北条綱成の武勇にあやかりなさい」と小姓に渡しました。
この話を聞いた北条綱成は「恥辱をうけずに済んだ」と、信玄に感謝したそうです。

この小姓は、のちの真田信尹でした。信尹が大切に持っていた地黄八幡の旗は、現在は真田博物館に展示されています。

北条綱成の戦い・有名な合戦

河越夜戦 かわごえやせん 1546.5.19 ● 山内上杉&扇谷上杉&古河足利軍8万 vs 北条軍1万1千 ○

山内、扇谷の上杉氏、古河公方足利氏の大連合軍で北条綱成が守る河越城(埼玉県川越市郭町)を包囲した合戦。北条氏康は鎧兜を装備しない兵士たちを率いて夜襲を決行。半年にわたる包囲戦で油断していた連合軍を大混乱に陥れ、扇谷の当主・上杉朝定を討ち取った。

河越夜戦で北条綱成は勝っています。
北条綱成のターニングポイントになった戦いです。
わずか3千の兵で連合軍8万の包囲を半年間しのいだのち、北条氏康と呼応して、足利晴氏を撃退しました。

国府台合戦 こうのだいかっせん 1563.1.4 〜 1564.1.8 ○ 北条軍2万 vs 里見軍1万2千 ●

国府台(千葉県市川市)周辺に侵攻した北条氏と、安房の里見氏のあいだで2回行われた合戦。第2次合戦では、正月早々だったこともあり、優勢に戦った里見義弘が兵士に酒を振る舞う。退却すると見せかけた北条綱成が奇襲をかけて、里見軍を大混乱に陥れた。

国府台合戦で北条綱成は勝っています。
第2次合戦で、退却するふりをして江戸川を行き来し、緒戦に勝って気を良くした里見義弘に夜襲で完勝しました。

三増峠の戦い みませとうげのたたかい 1569.10.8 ○ 武田軍2万 vs 北条軍2万 ●

北条氏の本拠地を攻めて、甲斐に引き揚げる武田信玄を、三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町)で北条軍が迎撃した合戦。北条綱成の鉄砲隊の攻撃で、浅利信種が討ち死にするなど、序盤は北条有利。しかし、山県昌景の奇襲が成功すると、武田軍が勢いづき、北条軍を押し退けた。

三増峠の戦いで北条綱成は敗れています。
綱成が指揮した鉄砲隊は、武田軍の左翼を銃撃。緒戦を優勢に進めましたが、勢いを取り戻した武田軍に苦戦し、退却しました。

北条綱成の詳しい年表・出来事

北条綱成は西暦1515年〜1587年(永正12年〜天正15年)まで生存しました。
戦国時代中期から後期に活躍した武将です。

戦国時代で北条綱成が生きた期間の表
15151福島正成の子として遠江に生まれる。幼名:勝千代
153622父・福島正成が花倉の乱で死亡。※諸説あり
北条氏綱に引き取られて近習になる。
北条氏綱の娘(大頂院)と結婚。北条一門に加わる。
北条氏綱の子・北条為昌の後見役になる。
154228北条為昌が死去。為昌の養子になり、玉縄城主になる。
154632”河越夜戦”上杉憲政&上杉朝定&足利晴氏の連合軍の包囲から、半年のあいだ河越城を防衛。北条氏康との連携で足利晴氏を撃退する。
河越城主も兼任する。
155743”第3次川中島の戦い”武田晴信の援軍として長尾景虎と戦い、撤退させる。
156450”国府台合戦”里見義堯・義弘父子と戦い、夜襲により撃破。
156955”三増峠の戦い”小田原城を攻めて撤退する武田信玄を追撃。
157157深沢城に侵攻してきた武田信玄に抗戦、退去する。
家督を子・氏繁に譲り隠居。
出家 → 上総入道道感
158773死去。

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