太閤検地をわかりやすく知りたい!豊臣秀吉の政策の目的とは

豊臣秀吉が行った大規模な測量調査として知られる『太閤検地』とは、どんな目的や狙いがあったの?どうして田畑の大きさや石高をわざわざ調べ直す必要があったのか?太閤検地の前と後で農民の暮らしはどんなふうに変わったの?どうやって検地が行われていたのか?太閤検地について、わかりやすくまとめてみましょう。
太閤検地が行われた理由と目的
『太閤検地』とは、豊臣秀吉が全国的に実施した検地のことです。
「検地」とは、田畑を測量してその広さや石高、収穫量を調べること。
「太閤」とは、関白職を退いた人を指す称号で、この場合は豊臣秀吉のことを指します。
豊臣秀吉が太閤殿下と呼ばれるようになる1591年よりも以前から、秀吉が行った検地もふくめて『太閤検地』と呼ばれています。
太閤検地は「天正の石直し」や「文禄の検地」とも呼ばれました。
秀吉は天下を治めるにあたり、国内の生産地面積と生産量を調べるために太閤検地を実施しました。
正確な石高と収穫量を把握するため
太閤検地が行われる以前は、田畑の広さや収穫量は基本的に自己申告制でした。
収穫量を測る枡のサイズはバラバラだったため、自己申告の穫れ高もどんぶり勘定でした。そのため、収穫量をごまかして年貢を少なく納めるなど、いわゆる ”脱税” も行われていました。
この自己申告制は「指出検地」といい、管理は各大名の家臣が行っていました。
秀吉はこの制度を良しとせず、自身が直轄する役人を土地に派遣して土地の調査を行いました。
その際、使用する枡は京枡で統一し、検地尺などの測量器具も同一基準の物で測りました。

このようなルールの徹底により、全国を同じ規格で測量し、虚偽申請などの不正をなくしました。
検地で得られた膨大なデータは台帳で管理され、田畑の広さと収穫量を ”見える化” しました。
年貢をあまさず徴収するため
すべての田畑は広さ、土地の肥え具合、立地などを考慮して収穫量が試算され、上・中・下・下々という4段階にランク分けして管理されました。
収穫量と年貢が台帳管理され、どの田畑からどれほどの年貢が取れるか明確にしたのです。
田畑のランクから収穫量を「石盛」と表し、1石あたり10斗(180リットル)と定められました。
1石から穫れる玄米の量はおよそ150kgでした。

これに伴い、これまでの年貢を通貨の単位に換算して徴収する『貫高制』から、土地の収穫量によって算出する『石高制』に改められました。
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田畑は耕作人のもの
一地一作人の原則
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太閤検地が行われる以前は、農民は「惣村」という団体で年貢を納めていました。
これは「地下請」と呼ばれる制度で、農民が個々に年貢を納めるのではなく、地域のリーダー的な農民に年貢を納め、そこからまとめて領主に年貢を納めるというものでした。
田畑には耕作人とは別の所有者がいる場合がほとんどで、権利関係はとても複雑でした。
太閤検地で秀吉は、これを所有者ではなく実際に田畑を耕している農民と土地とを紐づけます。
このルールによって、農民から小作料(作合い)を取っていた地主が中間搾取するマージンがなくなり、これまで貴族や寺社が荘園制で得ていた利益がなくなりました。
1つの田畑につき1人の耕作人とし、田畑は耕作人の物としたのが『一地一作人の原則』です。
耕作人と田畑は紐づけられ、名簿で管理されました。
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ごっそり徴収
二公一民
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貴族や寺社といった地主に払う小作料から解放された農民たちは、おかげで生活が楽になったのかというと、そんなに甘くない。
豊臣秀吉は『二公一民』という高い税率を設定します。
これは収穫の2/3を徴収されるというものでした。
年貢は石高ごとに定量が決められ、豊作・不作に関係なくガッツリ徴収しました。
耕作人を名簿で管理しているため、年貢から逃れることを絶対に許しませんでした。
太閤検地のメリットとデメリット
秀吉は検地を通じて全国の石高を明確にしたほか、土地の権利関係を整理しました。
太閤検地によって集積された様々なデータは、農民の税収や武士の給与などに活用され、その正確な情報は後の治世にも影響を与えました。
武家による統治がつづいた江戸時代でも、徳川将軍家によって手が加えられ、重要なデータベースとして活用されました。
農民と耕地をシンプルに管理した一地一作人のシステムは、年貢の納入経路をわかりやすくしたため、無駄のない徴税を可能にしました。
農民にとってはありがたくないシステム
地主に小作料を支払わなくてもよくなり、田畑が自分のものになった農民ですが、これを両手放しでは喜べません。
というのも、一地一作人の制度により田畑と農民が一対になったため、簡単に土地を離れられませんでした。
おまけに見込み収穫量から年貢が決められているので、それを下回ることも許されなかったのです。
あわせて刀狩令や身分統制令が発布される
戦国時代の農民たちは、戦いに借り出されていたため、武具や刀を所持していました。
豊臣秀吉は1588年に『刀狩令』を発布し、これらを没収します。
表向きは農民を軍役から免除するというものでしたが、実際は強制的に畑しごとをさせるためのもので、反発感情からくる一揆などの暴動に武器を持たせないためでした。
そのため、農民のなかには武器を隠し持つ者も少なくありませんでした。
さらに秀吉は、1591年に『身分統制令』を出します。武士、町人、農民の身分を固定しました。
これにより、農民は一生農民のまま、決められた土地を耕し続けることとなります。
自身が農村の出身であった秀吉は、自分のように優秀な人材が出てくることを嫌い、制度によって抑圧しました。同時に、農民を固定することで小作人を確保しました。
一連の身分統制は『兵農分離』と呼ばれ「武士」と「その他」という身分差別へとつながっていきます。
太閤検地をもうちょっと詳しく
田畑の広さを表した単位
太閤検地では、耕地面積を表す単位も定められました。
面積を測る最小単位を「歩」といい、これを基準として測量を行いました。
耕地面積が大きくなるにつれて 畝 < 反(段) < 町 と単位が分けられました。

30歩=1畝、10畝=1反、10反=1町。
小さなマスを広げていくことで大きな土地を正確に測っていました。
1歩は6尺3寸=191cm四方の範囲のことで「1間」といいます。
関西では京間、関東ではこれより狭い182cm四方を関東間と呼びます。
おおよそ両手を横に広げた長さと同程度ですので、ガラガラ開く窓や襖2枚分としてイメージするとわかりやすいです。
このように精巧な検地を実施するには、完璧に統制がとれた役人たちの活躍が不可欠でした。
妥協も不正も許さず、機械のように精密な作業を経て、細かなデータを台帳に記帳・管理したのが、石田三成ら有能な奉行たちでした。
いつから?何回くらい行われたのか
明智光秀の裏切りにより、織田信長が本能寺の変に倒れた1582年、山崎の戦いで明智光秀に勝利した豊臣秀吉は、その直後に京・山崎周辺の寺社地から検地を行いました。
これが太閤検地の始まりと考えられています。
太閤検地は、1582年から1598年にかけて継続的に行われており、年ごとにまとめるとこのようになります。

豊臣秀吉が天下統一した1590年前後が最も多く検地が行われています。
一方で、四国征伐や九州征伐、朝鮮に出兵した文禄の役と慶長の役が起こっている年では、検地の回数も減っているのがわかります。
豊臣政権の屋台骨といえる政策だった
豊臣秀吉の天下統一には、経済力が不可欠でした。
秀吉は、この太閤検地で安定した年貢の徴収を可能にするために、これまでの荘園制による貴族や寺社の利権を廃止して、利益を豊臣政権に集中させる石高制による農地管理システムを始動させます。
高い年貢で軍事費を捻出して兵の大動員をまかない、高税率に対する民衆の不満に備えて武器を取り上げておくなど、知恵が回る秀吉ならではの政策の結集であり、豊臣政権を支えた重要な屋台骨でした。
