東北地方の有名な武将をわかりやすく紹介!勢力図もあるよ

東北地方の有名な戦国武将をさくっと紹介します。独眼竜こと伊達政宗をはじめ、そのライバル最上義光、寡黙な義将で知られる上杉景勝、独立のヒーロー津軽為信など、東北地方にも面白い武将がいました。東北の戦国のおおまかな流れと勢力の変遷、有名な戦いなど、東北地方で活躍した有名な戦国武将とあわせて見てみましょう。
東北地方で活躍した有名な武将
東北地方では、有名な『独眼竜』伊達政宗をはじめ、最上義光、上杉景勝、津軽為信など、個性的な戦国武将たちが活躍しました。
京から遠く離れていたため、戦国時代が ”遅れてきた地域” ともいわれる東北地方ですが、それゆえに中央地域とは違った戦国模様がありました。
天下をめざす野心、領土を守る胆力、折れない義心、独立への知略。それぞれの武将が自らの道を切りひらきました。
ここでは、東北地方を舞台に戦国時代を彩った有名な武将たちをわかりやすく紹介します。
伊達政宗=奥州から天下をねらった独眼竜
1567年9月5日(永禄10年8月3日)生まれ。
山形県米沢市の出身です。
陸奥国・仙台城を本拠に活躍しました。
伊達政宗は、宮城県仙台市の戦国武将として有名です。
5歳のときに天然痘の病で右目を失明し『独眼竜』とあだ名されます。眼帯、大きな三日月の飾りがついた兜など、派手なビジュアルで人気があります。
戦国時代の後期に生まれた伊達政宗は「遅れてきた英雄」と言われています。天下取りへの強い野心を持ち、東北地方で領土拡大のための戦いをくり広げました。
1590年に天下統一を果たした豊臣秀吉に降伏。以後は豊臣政権に従いながらも独立色を失いませんでした。1603年に徳川家康が江戸幕府をひらくとこれに従い、仙台藩の初代藩主になります。卓越した手腕で現在の仙台の礎を築きました。
仙台から海外進出を志し、家臣をヨーロッパに派遣する『慶長遣欧使節』を送るなど、他の戦国大名とは異なるスケールの大きさも伊達政宗の魅力です。
伊達政宗があと10年はやく生まれていたら、日本史が変わっていたかもしれないというロマンを感じさせる戦国武将です。悠然とした伊達政宗公騎馬像が仙台城跡にあります。
最上義光=政宗の叔父にして最大のライバル
1546年2月1日(天文15年1月1日)生まれ。
山形県山形市の出身です。
出羽国・山形城を本拠に活躍しました。
最上義光は、山形県山形市の戦国武将として有名です。
最上義光の妹・義姫が政略結婚で伊達氏に嫁ぎ、産まれたのが伊達政宗でした。すなわち、最上義光は伊達政宗の叔父にあたりますが、しばしば政宗と対立した最強のライバルです。
政治や外交など知略にも優れており、豊臣秀吉や徳川家康とも巧みに良好な関係を築き、天下を治める権力者が変わっても所領を守り抜きました。領土を減らされた政宗とは対照的です。
1600年の関ヶ原の戦いの際に東北でくり広げられた長谷堂城の戦いでは、上杉軍との激戦で兜に銃弾を受けながらも勇敢に戦ったことが語り草になっています。
長谷堂城の戦いでの功績によって、米沢を除く山形県のほぼ全土を治めることとなり、山形藩の初代藩主になりました。
政宗の強烈な個性に対抗できる存在として、マニアックな人気がある戦国武将です。山形城跡にある霞城公園には、馬に乗った超かっこいい最上義光像があります。
上杉景勝=義を重んじた奥羽の守護者
1556年1月8日(弘治元年11月27日)生まれ。
新潟県南魚沼市の出身です。
出羽国・米沢城を本拠に活躍しました。
上杉景勝は、山形県米沢市の戦国武将として有名です。
越後国の戦国大名である上杉謙信の養子として家督を継ぎました。無口で寡黙ながらも「義」を重んじる姿勢を貫いた人物として知られています。
1587年に豊臣秀吉に臣従して厚い信頼を得て、1598年には東北地方の要として越後国から陸奥国・会津に移され、伊達政宗などを牽制しました。
徳川家康との不仲が1600年の関ヶ原の戦いのきっかけとなり、北の関ヶ原と呼ばれる長谷堂城の戦いで徳川派の最上&伊達軍と争って敗れます。
関ヶ原の戦いに勝利して天下を手中におさめた徳川家康に従う形となり、会津120万石から米沢30万石に減封されますが、米沢藩の初代藩主として名を残します。
大河ドラマ『天地人』の主役となった直江兼続は上杉景勝の腹心で、米沢城址には景勝と兼続が並ぶ主従の像があります。
津軽為信=北の果てで独立をつかんだ男
1550年1月18日(天文19年1月1日)生まれ。
青森県弘前市の出身です。
陸奥国・大浦城を本拠に活躍しました。
津軽為信は、青森県弘前市の戦国武将として有名です。
もともと津軽地方は南部氏の支配下にありましたが、津軽為信は機を見て独立を志し、巧みな戦略と果断な行動力で南部氏から独立。津軽氏の基盤を築き上げました。
1590年に豊臣秀吉が行った小田原征伐のおり、東北大名の多くが奥州仕置で罰せられるなか、津軽為信は早くから秀吉に従う政治的工作を行っていたため、所領を安堵されます。
津軽の地に独自の領主としての地位を確立したのちは、江戸期に向かうさなかの混乱も切り抜け、弘前藩につながる礎を築いた藩祖として知られています。
ローカルヒーロー的な支持があり、マニア受けする戦国武将です。弘前城東門の近くに立ち姿の津軽為信像があります。
東北地方の戦国時代の流れ
- 東北地方は室町幕府の支配が及ばなかった。
- 伊達氏が東北初の守護になる。
- 周囲の大名も巻き込む伊達家のお家騒動が起こる。
- 伊達氏と最上氏が争い、佐竹氏が奥州支配に介入する。
- 伊達政宗が奥州の武力支配を押し進める。
- 天下統一した豊臣秀吉が奥州仕置を行う。
- 長谷堂城の戦いで最上氏&伊達氏と上杉氏が争う。
東北地方には守護がおらず、室町幕府は奥州管領を置きましたが、内部分裂や鎌倉公方との紛争により影響力は弱まり、京から離れていたこともあって幕府の支配が及ばない地域でした。
室町幕府は伊達氏を陸奥守護に任じますが、伊達家では1542年から6年つづいた『天文の乱』に端を発した内乱が相次ぎ、東北の大名を巻きこむ騒動になりました。
東北地方には、伊達氏、最上氏、蘆名氏、南部氏、葛西氏などの有力大名がいましたが、大部分で国人たちが林立。そのため奥州では小競り合いがあるものの、大きな合戦に至るケースはありませんでした。
伊達政宗が登場した1585年ごろから戦乱が激化しますが、1590年に天下統一した豊臣秀吉の『奥州仕置』によって様相は一変。1600年の関ヶ原の戦いの裏で起こった北の関ヶ原こと長谷堂城の戦いを最後に、東北地方の戦国時代は終結します。
/
よく聞くけど
奥州ってなに?
\
「奥州」とは、陸奥国の別称で、陸奥国とは現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県を指します。かつては中尊寺金色堂で知られる奥州藤原氏が栄えた地域です。
陸奥国に出羽国(秋田県・山形県)を加えて、東北地方全域を総称する場合は「奥羽」といいます。
大名たちの勢力図と移り変わり

1542年の東北地方の勢力は、伊達氏、最上氏といった大名家での内乱が続き、いずれも勢力を伸ばしきれません。

1590年の東北地方の勢力は、豊臣秀吉の『奥州仕置』によって再編され、蒲生氏や木村氏が監督する役目として編入されました。

1600年の東北地方の勢力は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康によって再編され、佐竹氏が関東地方から移封、上杉氏が大幅な減封となります。
東北地方で起こった有名な戦い
二本松城を攻めた伊達政宗と、伊達氏に対抗する南陸奥の勢力が、人取橋(福島県本宮市)で戦った合戦。父・伊達輝宗の弔い合戦とする政宗が、11歳の二本松国王丸に攻撃。これを救援するため、佐竹義重を中心とした連合軍が伊達軍を追い払おうとした。
反伊達の中心である蘆名氏を討つべく、伊達政宗が出陣。神出鬼没の動きで相馬氏を封じながら進軍し、摺上原(福島県磐梯町、猪苗代町)で蘆名義広との決戦に臨んだ。はじめ優勢だった蘆名軍は、形勢を逆転されると崩壊し、黒川城を奪取した伊達軍が攻め滅ぼした。
総大将を直江兼続とした上杉軍が最上家の志村光安が守る長谷堂城(山形県山形市)を攻めた合戦。上杉方は上泉泰綱が討死、関ヶ原で西軍敗報により撤退。追った最上義光も頭部に弾丸を受ける激戦となった。兼続とともに前田慶次も奮戦した。北の関ヶ原、慶長出羽合戦とも。
戦国時代の東北地方は、わりと穏やかでしたが伊達政宗によって一転、乱世へ突入します。東北地方で起こった有名な戦いも、ほとんどが政宗がらみの戦いです。
- 伊達政宗 – Wikipedia
- 最上義光 – Wikipedia
- 上杉景勝 – Wikipedia
- 津軽為信 – Wikipedia
- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
- 小和田哲男監修『地域別 x 武将だからおもしろい 戦国史』朝日新聞出版
- 歴史人『戦国大名の勢力変遷マップ』ABCアーク
- 小和田哲男監修・高橋伸幸『戦国の合戦と武将の絵事典』成美堂出版

