本能寺の変とは?なぜ裏切った?謎なの?簡単にわかりやすく

本能寺の変とは?なぜ裏切った?謎なの?簡単にわかりやすく

日本史上最大の謎といわれる本能寺の変は、天正10年6月2日の未明に明智光秀が織田信長の宿舎を襲撃した事件です。本能寺の変で信長は自害し、歴史が大きく動きました。しかし、明智光秀が謀反を起こした理由や動機が不明で、多くの説と謎が議論されています。本能寺の変について、わかりやすくまとめてみましょう。

本能寺の変が起きた日と起こるまで

本能寺の変は、天正10年6月2日(1582年6月21日)未明に起こりました。

はじめに、本能寺の変が起こる前日から当日の様子を見ていきましょう。

明智光秀は、織田信長に命じられて中国地方で毛利氏と戦う豊臣(羽柴)秀吉の援軍(えんぐん)に向かいます。信長もまた、秀吉の要請(ようせい)に応じて出馬する予定でした。

数日前に本能寺に入っていた織田信長は、6月1日に公卿(くぎょう)たちを集めて大規模な茶会を開催(かいさい)しています。信長はここを宿舎とし、本能寺から秀吉のもとに向かう予定でした。

信長に先だって、明智光秀は6月1日の午後4時から6時にかけて1万3千の兵を(そろ)え、丹波国(たんばのくに)・亀山城を出立します。

ところが、しばらくすると立ち止まります。

明智光秀
明智光秀の顔イラスト

止まれ。

一説によると、光秀は篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう)(京都府亀岡市(かめおかし))で軍議をひらき、娘婿(むすめむこ)の明智秀満と明智光忠、斎藤利三、藤田行政、溝尾茂朝ら重臣を集めまたといいます。

明智光秀
明智光秀の顔イラスト

これより、本能寺と妙覚寺(みょうかくじ)に兵を向け、信長を討つ。

ここで初めて、光秀は重臣たちに謀反(むほん)を起こすことを告げます。重臣たちは(おどろ)きましたが、これに従います。

明智軍は京都市街地へ進路をとります。

京都市街には本能寺と妙覚寺(みょうかくじ)があり、本能寺には織田信長が、妙覚寺(みょうかくじ)には信長から織田家の家督(かとく)継承(けいしょう)していた織田信忠が居ました。

もともと出陣(しゅつじん)する予定があって動いている明智軍が京都市街に入っても、不自然ではありませんでした。


天正10年6月2日
敵は本能寺にあり

6月2日、未明。
信長に知らせる者がいるとまずいので、光秀は家臣に「あやしい(やつ)()」と命じます。

そこに早朝から(うり)畑に向かう農民が明智軍と遭遇(そうぐう)します。殺気立ってただならぬ様子を(おそ)れて農民が()げ出すと、これを追いかけて20〜30人ほど()り捨てました。

桂川(かつらがわ)に着くと、光秀は行軍を止めて兵たちに命じます。

明智光秀
明智光秀の顔イラスト

馬の(くつ)を切れ。足軽は足半(あしなか)()()えよ。鉄砲隊(てっぽうたい)(なわ)に火をつけ5本ずつ火先を下にして(かか)げよ。

まぎれもなく戦闘(せんとう)準備の合図でした。

この時点で、目的地である中国地方にはほど遠く、足軽たちは何の戦闘(せんとう)に備えているのかわかりませんでした。ちょうど在京中だった徳川家康を討ちに行くと思った者も多かったようです。

明智光秀
明智光秀の顔イラスト

小隊に分かれて市街地を()けよ。個々に目標地点に向かい、合流するのだ。(おく)れをとるな。

夜が明けるころ、明智軍の諸隊が小分けになって京都市中を小走りで()けていきます。

そして、午前4時には、本能寺で就寝中(しゅうしんちゅう)の織田信長を完全包囲しました。

本能寺には、小姓(こしょう)たちを(ふく)む200人ほどしかおらず、門はひらいたままでした。

明智光秀
明智光秀の顔イラスト

(みな)かかれ!出世は手柄(てがら)次第ぞ!

明智軍は(とき)の声をあげると、本能寺御殿(ごてん)鉄砲(てっぽう)を撃ちこみました。

ワァワァという喧騒(けんそう)に信長も目を覚まします。


是非に及ばず
信長、炎上

織田信長
織田信長の顔イラスト

さては謀反(むほん)か。いかなる者の(くわだ)てか?

信長が側小姓(そばこしょう)の森蘭丸にたずねると「明智と見受けます」との答えが返ってきます。

織田信長
織田信長の顔イラスト

……是非(ぜひ)(およ)ばず。

明智光秀の謀反(むほん)と聞いた信長はこうつぶやくと、覚悟(かくご)を決めたように弓を手にして明智兵の前に向かいました。

圧倒的(あっとうてき)な数の敵に弓で応戦した信長でしたが、弓の(つる)が切れると(やり)で戦い、そのうちに右ひじを()かれて負傷します。

織田信長
織田信長の顔イラスト

女たちは()げよ。余は(おく)で腹を()す。

信長は女官たちに急いで()げるよう3回避難(ひなん)を呼びかけた後、火の手があがる殿中(でんちゅう)退(しりぞ)きました。

本能寺の変で炎につつまれる織田信長(1582年)

(おく)の間まで退(しりぞ)くと内側から戸を閉じ、燃えさかる(ほのお)のなかで織田信長は自害しました。

織田信長
織田信長の顔イラスト

人間五十年、夢幻(ゆめまぼろし)(ごと)くなり……(めっ)せぬもののあるべきか

紅蓮(ぐれん)(ほのお)のなかで好きな『敦盛(あつもり)』を()ったと伝わりますが、信長がどのような最後を()げたのか見た者はおらず、わかっていません。

本能寺から250mほどしか(はな)れていない南蛮寺(なんばんでら)から、イエズス会の宣教師たちは本能寺の変の一部始終を見ていました。

天正11年に書き記された『イエズス会日本年報』には、信長の最後がこう(つづ)られています。

諸人(もろびと)がその声ではなく、その名を聞いただけで戦慄(せんりつ)した人が、毛髪(もうはつ)も残らず(ちり)と灰に()した

魔王(まおう)(おそ)れられた信長は、(かみ)の毛一本残さずに消えてしまったのです。

明智兵は血眼(ちまなこ)になって焼け(あと)から信長の遺体を探しましたが、どこにも見当たりませんでした。

午前8時、本能寺の変が終わります。

同じころ、本能寺の変に気づいた妙覚寺(みょうかくじ)の織田信忠は二条御新造に移り、明智兵に抗戦(こうせん)したのちに自害しました。信忠は自分の首を(わた)さぬよう家臣に命じたといい、光秀はこちらも発見できませんでした。

本能寺の変を起こした明智光秀は55歳、織田信長は49歳でした。

謀反が起こったときの織田家臣団の状況

なぜ、明智光秀はいとも簡単に織田信長を討つことができたのか?

これには当時の織田家臣団の状況(じょうきょう)が関わっており、光秀にとって好条件になっています。

このころの織田信長は28か国800万石ほどを領有し、関東の北条氏、奥州(おうしゅう)の伊達氏、九州の島津氏などが従属を表明しており、それらすべてを合わせると全国の半分ちかくを手に入れたも同然でした。

さらに天下統一を推し進めるべく、信長は方面軍を組織して指揮官たちに地方平定を命じていました。

本能寺の変が起こる直前の織田方面軍の配置

武田氏を(ほろ)ぼしたばかりの関東には滝川一益、北陸の上杉氏には柴田勝家、中国の毛利氏には豊臣秀吉、四国()めは丹羽長秀、そして明智光秀は京都周辺の畿内(きない)の守備を任されていました。

明智光秀が畿内(きない)で反乱を起こしたとしても、方面軍を指揮する重臣たちはそれぞれが課題を(かか)えていたため、すぐに()けつけることは難しかったのです。

このような状況から、明智光秀は謀反(むほん)が成功すると考えました。

続いて、本能寺の変の諸説を紹介(しょうかい)します。

本能寺の変の諸説いろいろ

明智光秀が本能寺の変を起こした動機は不明です。

そのため、諸説あるものの、定説や通説といったものはありません。

光秀が天下権力を欲したとする野心に基づく説、高圧的な信長に追いつめられて精神崩壊(ほうかい)した説、あるいは光秀には信長を討つ名分があったとする説、はたまた何者かが光秀を動かして信長を討たせたという黒幕説まであります。

明智光秀の動機を決定づける明らかな資料が存在しないからこそ、本能寺の変には憶測(おくそく)や推理、想像をかきたてられる面白さがあります。

それでは、たくさんある諸説を順番に見ていきましょう。

天下を欲して謀反を起こした説

静かなる野心家、明智光秀が織田信長に取って代わろうとして、本能寺の変を起こしたと考える説です。

本能寺の変(野望説・突発説)

ワンチャンねらい!野望説・突発説

明智光秀も天下が欲しかった」とする説は、謀反(むほん)の直後から解釈(かいしゃく)されています。

信長の一代記『信長公記(しんちょうこうき)』の筆者である太田牛一は「恩知らずの光秀が主君を討った」と述べていることから、野望説は最も古くから確認できます。

しかしながら、謀反(むほん)を起こした後のグダグダ感から、合理的な光秀にしては計画性に欠ける点があり、無計画で突発的(とっぱつてき)凶行(きょうこう)(およ)んだとする説も。この場合も、絶好の機会を前にして天下をねらったのが動機と解釈(かいしゃく)されます。

また、明智光秀が突発的(とっぱつてき)に起こした謀反(むほん)であったがために、信長はこれを予測することができなかったとも考えられています。

中国地方に向けて出陣(しゅつじん)する直前の5月24日、本能寺の変を起こす1週間ほど前、威徳院(いとくいん)で行われた戦勝祈願(きがん)の連歌会で、光秀が()んだ歌が『愛宕百韻(あたごひゃくいん)』に記されています。

明智光秀が謀反をにおわせた歌

ときは今 あめが下知(したし)る 五月かな

「とき」=土岐氏の出身である光秀のこと。
「あめ」=天、「下知(したし)る」=命令と解釈(かいしゃく)することができ、明智光秀が天下に号令をする、

すなわち信長を討つという心情を表しているとされ、野望説を印象づけています。

追い詰められて謀反を起こした説

なんらかの心理的理由で精神的に追いつめられていた明智光秀が、やむを得ずに本能寺の変を起こしたと考える説です。

本能寺の変(怨恨説・不安説)

恨みはらさでおくべきか…怨恨説

織田信長から()(がた)いハラスメントの数々を受けていた明智光秀が、ついに我慢(がまん)の限界を()えてしまうという怨恨(えんこん)説は、これまで多くのドラマや映画でモチーフにされてきました。

(みな)が見ている前で光秀が信長にフルボッコにされる、徳川家康を接待する席でも信長から理不尽(りふじん)な責めを受けて役を解任されるなど、プライドをへし折られる様子がドラマなどで描写(びょうしゃ)されます。

遺恨(いこん)から本能寺の変を起こす流れがスタンダードとなったのは、江戸から明治のことで、古典に(えが)かれているパワハラを根拠(こんきょ)としています。

光秀が毛利家臣・小早川隆景に()てたとする手紙に「信長に対し(いきどお)りを(いだ)いている」という記述がありますが、この手紙の真偽(しんぎ)は不明です。

もうムリ。不安・ノイローゼ説

精神的なプレッシャーを受け続けた結果、ノイローゼになった明智光秀が「やられる前にやってしまえ」と謀反(むほん)を起こした説です。窮鼠(きゅうそ)説とも言われています。

織田家最古参の宿老・佐久間信盛があるとき突然(とつぜん)追放され、後任として畿内(きない)に入ったのが明智光秀でした。

長宗我部氏との交渉役(こうしょうやく)をつとめていた四国政策が行きづまり、度重なる信長からの追求や言いがかりで精神が崩壊(ほうかい)、佐久間への仕打ちが脳裏をよぎり、冷静な判断ができなくなっていたと解釈(かいしゃく)されています。

裏切り者にも名分があった説

感情的な理由ではなく、大義名分によって織田信長を成敗するために、明智光秀が本能寺の変を起こしたとする説です。

本能寺の変(四国説・暴君説)

話がちがうって!四国征伐回避説

四国説』と呼ばれ、本能寺の変の動機として注目されている説です。

四国征服(せいふく)を進める長宗我部元親との交渉役(こうしょうやく)をつとめた光秀でしたが、臣従を(せま)る信長に元親が反発し、交渉(こうしょう)は難航します。

もともと信長は長宗我部元親に「四国は切取次第(きりとりしだい)」と伝えており、信長から四国統一を認められていたので、元親も織田氏に従う意思を示していました。

それが急に、土佐国(とさのくに)と南阿波(あわ)2群を残して信長に返上せよと命じられたので、長宗我部元親は拒絶(きょぜつ)したのでした。

このタイミングで豊臣秀吉と三好康長が四国征伐(せいばつ)をお(ぜん)立てし、気を良くした信長は1582年5月に四国攻撃(こうげき)軍を編成します。

四国攻撃(こうげき)軍は6月2日にも渡海(とかい)して長宗我部氏の征伐(せいばつ)に向かう予定でしたが、同日未明に光秀が本能寺の変を起こしました。

もし、四国征伐(せいばつ)が行われていれば、長宗我部氏と交渉(こうしょう)をしていた明智光秀の失策であり、出世争いをする秀吉にお株を(うば)われることになります。

そうなれば、光秀の失脚(しっきゃく)は確実で、佐久間信盛のようにすべてを失う可能性がありました。

だめだコイツ…暴君・神格化阻止説

晩年の信長は、自らを神と(あお)ぐよう周囲に強要します。

安土城で祭典を行い、信長の誕生日を祝祭日と定めるなど、神格化しようとした様子を宣教師・ルイス=フロイスが記録しています。この思想を光秀は(きら)ったというもの。

残忍(ざんにん)比叡山(ひえいざん)焼き討ちで知られる信長は、自分のことを ”第六天魔王(まおう)” と名乗っており、長島一向一揆(いっき)や天正伊賀(いが)の乱でも容赦(ようしゃ)のない殺戮(さつりく)を行っています。

それもこれも、自分を天上の存在と勘違(かんちが)いした信長の横暴さの現れでした。

光秀が西尾光教に送った手紙には「信長父子の悪逆は天下の(さまた)」と書かれていたといいます。

じつは黒幕がいたかもしれない説

明智光秀は本能寺の変を起こした実行犯ではあったが、裏で画策した黒幕の存在があったと推測されている説です。

黒幕説は枚挙にいとまがなく、いずれも根拠(こんきょ)(とぼ)しいものの、サスペンスとしての面白さがあります。

本能寺の変(黒幕説)

信長を恐れた朝廷が光秀にやらせた説

信長を要職に就かせることでコントロールしたい朝廷(ちょうてい)と、その手には乗らない信長とのあいだには、長らく緊張(きんちょう)状態が続いていました。

天正9年の左大臣就任を打診(だしん)したことを発端(ほったん)に、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)太政大臣(だじょうだいじん)関白(かんぱく)のいずれかに信長が就任するとかしないとか、朝廷(ちょうてい)との()け引きがありました。

室町幕府を(ほろ)ぼした信長は「朝廷(ちょうてい)をも(ほろ)ぼすのではないか……」と(おそ)れた正親町(おおぎまち)天皇、誠仁親王、近衛前久、吉田兼見らが、明智光秀を動かして先手を打ったとされます。

足利義昭が信長の将軍就任を邪魔した説

信長が(ほろ)ぼした室町幕府15代将軍である足利義昭は、幕府がなくなった後も将軍を名乗ったまま毛利氏に庇護(ひご)されていました。

信長から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の任官を求められたら、朝廷(ちょうてい)はこれを承認する可能性が高い」と朝廷(ちょうてい)関係者から聞いた義昭が、信長の将軍就任を(はば)むために光秀を動かしたというもの。

豊臣秀吉が関わっていた説

本能寺の変が起こったことで、結果的に利を得たのは豊臣秀吉です。

頭の良い秀吉なら「最近の上様(信長)はお供もろくに連れず、不用心すぎて心配」と光秀に()らすことで、信長の護衛が手薄(てうす)であることをさりげなく知らせて、光秀の叛意(はんい)をくすぐることことぐらい簡単だったでしょう。

6月2日の本能寺の変を知った秀吉は、4日には交戦中の毛利氏と和議を結び、本能寺の変からわずか11日後の6月13日に京・山崎の戦いで明智光秀を討ちました。

まるで、本能寺の変が起こることを知っていたかのような手際の良さが不自然に思われます。

本能寺の変における不可解な謎

見つからない信長の遺体はどこ?

信長を討ち損じたと思った光秀はパニックになったといい、その様子を見かねた斎藤利三が「信長公が合掌(がっしょう)して(おく)退(しりぞ)くのを見た」と(うそ)をついて落ち着かせたそうです。

信長ならびに信忠の首を手にできなかったため、両者が生存しているという情報が錯綜(さくそう)します。

中国地方から京に()けつける道中、秀吉が「上様は生きている!」と言い散らかしながら(もど)ってきたため、(だれ)も光秀の味方をしようとしませんでした。

信長の遺骸(いがい)を確認した森蘭丸は、その上に(たたみ)をかぶせて燃やしたといい、当時の鑑識(かんしき)技術では全焼した木造建物の残骸(ざんがい)から遺骸(いがい)の人物を特定することは不可能と考えられています。

信長の遺骸(いがい)が見つからなかったというより、同じく黒焦(くろこ)げになった亡骸(なきがら)が多すぎて、どれが信長かわからなかったようです。

かねてから信長と親交があったという阿弥陀寺(あみだでら)清玉上人(せいぎょくじょうにん)が本能寺に()けつけ、明智兵の目を盗んで信長の遺骸(いがい)を運び出して埋葬(まいそう)したとする説があります。

織田信長から名人と呼ばれていた囲碁棋士(いごきし)本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)が原宗安に指示し、信長の首を本能寺から持ち出して富士山麓(ふじさんろく)にある西山本門寺に運んで供養したという説もあります。


光秀が味方を
得られなかった要因かも

結果的に、信長の首が見つからなかったことは光秀にとって大きな誤算であり、味方を得られなかった要因となっています。

どうして本能寺で茶会をした?

本能寺の変が起こる3日前の5月29日、信長は大名物(だいめいぶつ)の茶器38点を持って小姓(こしょう)たちを連れて上洛(じょうらく)し、本能寺に入りました。

それから2日後の6月1日、大雨のなかを40名ほどの公卿(くぎょう)たち本能寺の信長のもとに表敬(ひょうけい)訪問します。

信長は、この公卿(くぎょう)たちと本能寺で茶会を(もよお)しました。

数日内に中国地方に向けて出陣(しゅつじん)するタイミングで、なんで茶会を?じつは、この茶会の目的は他にありました。

信長は『初花肩衝(はつはなかたつき)』と『新田肩衝(にったかたつき)』という大名物(だいめいぶつ)の茶入を所有していました。これに『楢柴肩衝(ならしなかたつき)』を手に入れれば、天下三大名物といわれる茶入をすべて手に入れることができる。これが信長の望みであり、この楢柴肩衝(ならしばかたつき)を所有する豪商(ごうしょう)・島井宗室を本能寺に来させることがねらいだったのです。

この島井宗室は博多の商人であり、5月中旬(ちゅうじゅん)から京都に滞在(たいざい)していました。島井は6月はじめには博多に帰るスケジュールだったので、信長は急いで京都に来て本能寺で茶会を開催(かいさい)したわけです。

信長が用意した38点もの茶器は、楢柴肩衝(ならしばかたつき)とトレードするためのもの。

どうしてもこの茶入が欲しかった信長は、小姓(こしょう)だけ連れてくるという無防備さで本能寺に現れたのでした。


信長の油断が
謀反を招いたかも

本能寺で茶会などせずに、信長が安土城から中国地方に向けて出陣(しゅつじん)していれば、光秀の謀反(むほん)が成功することはなかったでしょうし、謀反(むほん)を起こすこともなかったでしょう。

本能寺の変を起こした明智光秀

本能寺の変を起こした明智光秀とは、どんな人物なのでしょう?

美濃国(みののくに)(岐阜県)の出身であり、はじめは斎藤道三に仕えていました。その後、朝倉義景に身を寄せ、同じく朝倉氏を(たよ)ってきた足利義昭のサポートチームに光秀も加わります。

足利義昭を将軍職に就かせようとする働きに奔走(ほんそう)し、ちょうどそのころ美濃国(みののくに)を平定した織田信長と面会します。

勢いがある信長に、義昭を連れて京に上る上洛(じょうらく)軍を要請(ようせい)しました。


信長の天下統一を
推し進めた参謀

足利義昭は信長の軍事力を背景に将軍に就任し、織田信長は義昭と室町幕府を大義名分とする、WinWinの関係を築きます。これを実現させたのが、明智光秀でした。

義昭を将軍就任へ導いた光秀の手腕(しゅわん)を信長は評価し、やがて光秀は信長の天下統一を手伝うようになります。

軍事、政治、外交に加えて朝廷(ちょうてい)との面識も広く、文化的な知識や教養にも明るかった光秀は信長から重宝され、織田家臣としてスカウトされます。

信長に信頼(しんらい)された光秀は、最も重要な政治拠点(きょてん)である京を中心とした畿内(きない)統括(とうかつ)する司令官に抜擢(ばってき)されました。信長は自身の喉元(のどもと)ともいえる京を光秀に任せたのです。

本能寺の変は、信長にとってまさに寝耳(ねみみ)に水でした。


本能寺には
行っていなかった?

本能寺の変の新説として『乙夜之書物(いつやのかきもの)』に書かれた内容が話題になりました。

先発した斎藤利三と明智秀満が2千ほどを率いて本能寺を襲撃(しゅうげき)した。明智光秀は本能寺から8キロ(はな)れた鳥羽(とば)(ひか)えていた

明智光秀は本能寺には行っていなかったというのです。

たしかに、指揮官が自ら最前線で戦う必要はありませんし、市街地にある寺ひとつ包囲するのに1万人以上も動員する必要はなさそうです。

まだまだ信憑性(しんぴょうせい)が問われる新説ですが、もしも事実だとしたら、燃えさかる本能寺を光秀は見ていなかった可能性があり、ドラマとは(ちが)った視点だったかもしれません。

なぜ裏切った?謀反の理由

明智光秀が本能寺の変を起こした真相は不明であり、前述したようにさまざまな説があります。

謀反(むほん)の理由についても憶測(おくそく)の域を出ませんが、これまでフィクションとして(えが)かれてきたもののなかにも、あながち作り話でもなさそうな逸話(いつわ)もあります。

本能寺の変を起こす少し前から、光秀が信長から迫害(はくがい)を受けていたのは事実であり、天正10年6月2日にあらゆる条件が(そろ)ったことが謀反(むほん)後押(あとお)ししたのでしょう。

以下は、本能寺の変を(えが)くうえで、必ずといっていいほど登場する逸話(いつわ)です。


ひどすぎる
パワハラ

甲州征伐(こうしゅうせいばつ)で武田氏を(ほろ)ぼしたおり、諏訪(すわ)本陣(ほんじん)に織田家臣が集まるなか、光秀が信長に「おめでとうございます。我らも苦労した甲斐(かい)がありました」と祝いの言葉をかけます。

ところが、信長は「お前ごときがなにをしたぁ!ゴルァ」と激昂(げきこう)し、光秀の頭をつかんで欄干(らんかん)(たた)きつけました。

【諏訪御折檻】諸侯の前で信長は光秀に暴行した

またあるときは(みな)が見ている前で小姓(こしょう)に光秀の頭をこづかせたこともあったといい、酒宴(しゅえん)の席で酒に()った信長は光秀の喉元(のどもと)(やり)()きつけたこともあったとか。

このように光秀の自尊心をズタボロにした信長ですが、本能寺の変の直前の出来事として、徳川家康の饗応役(きょうおうやく)を解任された逸話(いつわ)が有名です。

ともに武田氏と戦った徳川家康を労うために、信長は安土城に招待します。ここで接待を任されたのが明智光秀でした。

しかし、おもてなしの(ぜん)に乗った魚(鮒寿司(ふなずし)?)が(くさ)っていると勘違(かんちが)いした信長が激怒(げきど)し、光秀は役を降ろされるという屈辱(くつじょく)を味わいました。


実質没収な
領地替え

家康の接待役をクビになった直後、中国地方で毛利輝元と戦う秀吉からの要請(ようせい)を受けて、信長が出陣(しゅつじん)する運びとなります。

光秀はその先鋒(せんぽう)を命じられ、準備を進めていました。

そこに信長からの使いの者がやってきて「出雲国(いずものくに)石見国(いわみのくに)をやる代わりに、丹波国(たんばのくに)近江国(おうみのくに)・志賀郡を()し上げる」というのです。

丹波(たんば)近江(おうみ)は光秀が必死の思いで守ってきた領地。出雲(いずも)石見(いわみ)は毛利氏の領地です。つまり、毛利から(うば)い取らなければ、光秀の領地はないという意味でした。


メンタル面と併せて
条件が揃っていた

このような背景から、光秀が沈鬱(ちんうつ)あるいは憤激(ふんげき)した気持ちで、信長に疑心を(いだ)いていたことは間違(まちが)いないでしょう。

そこにきて6月1日の本能寺での茶会です。小姓(こしょう)しか連れず、茶器だけ持ってきて平屋建ての寺に()まっていた信長の軽率な()()いが、本能寺の変を起こす引き金になったかもしれません。

織田信長との関係

本能寺の変が起こる1年前、丹波国(たんばのくに)を統治するにあたって、光秀が定めた18か条からなる『家中軍法』の最後には「水に(しず)瓦礫(がれき)のようだった私を()(かか)え、たくさんの軍勢を預けてくれた。粉骨して忠節に(はげ)めば、主君にも伝わる」とあります。

ほかならぬ織田信長への恩義を書き記したものであり、この時点で光秀に叛意(はんい)は感じられません。

一方、信長も明智光秀を「日本一の武将である。(みな)も見習え」と激賞しており、(だれ)よりも信頼(しんらい)していました。

それからわずか1年。
明け方の本能寺で、明智の旗に囲まれている様子を知った信長は口に指をあてて「余は自ら墓穴を()ったな……」とつぶやきました。

優秀(ゆうしゅう)()かりのない光秀のこと、()げ道などないであろうことを信長はすぐに理解したといいます。

フロイスが見た信長と光秀

イエズス会の宣教師・ルイス=フロイスは、信長のもとをたびたび訪ねており、ふたりのことをよく知っています。

フロイスが記した著書『日本史』には、辛辣(しんらつ)ともいえる明智光秀の評価が書かれています。

”明智はその才略、思慮(しりょ)狡猾(こうかつ)さで信長の寵愛(ちょうあい)を受けていた”

”明智は信長の嗜好(しこう)をよく調べており、同情をひくために(なみだ)を流したが、それは本当の(なみだ)と思えるほどだった”

”明智は織田家ではよそもので、ほとんどの者から(こころよ)く思われていなかった”

”明智は裏切りや密会を好み、残酷(ざんこく)で独裁的であったが、()け目なく己を偽装(ぎそう)する”

”戦争においては謀略(ぼうりゃく)を得意とし、忍耐力(にんたいりょく)があり、計略と策謀(さくぼう)の達人であった”

”明智は友人に人を(あざむ)く72の方法を体得していると自慢(じまん)していた”

また、(もよお)し事の準備(家康の接待)について密室で相談していた信長と光秀の様子についても書き残しています。好みに合わない提案をしてしまった光秀に、信長が激怒(げきど)したとあります。

明智が言葉を返すと信長は立ち上がり、一度か二度、明智を足蹴(あしげ)にした。それは密かになされたことで、ふたりだけの間での出来事だった

あるいはこの出来事から明智は何らかの根拠(こんきょ)をつくろうとしたのかもしれないし、利欲と野心を(つの)らせた明智に、天下の主となることを望ませたのかもしれない

ルイス=フロイスの記述には、光秀が信長から()られる様子がうかがえますが、密室でのことなっています。この話が諏訪(すわ)でのフルボッコにアレンジされた可能性があります。

そして、ルイス=フロイスは、この密室での出来事が本能寺の変を起こす誘因(ゆういん)となったのではないかと考えていたようです。

信長に謀反を起こしたのは光秀だけじゃなかった

じつは、織田信長を裏切ったのは明智光秀だけではありません。

・1556年 織田信行(実弟)
・1570年 浅井長政(義弟)
・1571年 松永久秀
・1573年 足利義昭
・1576年 波多野秀治
・1577年 松永久秀=2回目
・1578年 別所長治
・1578年 荒木村重
・1582年 明智光秀

ざっと並べただけでもこれだけの家臣に裏切られています。
信長は、これらの謀反(むほん)をすべて武力で鎮圧(ちんあつ)しています。

織田信長という強大な存在は、正面から戦って勝てる相手ではありませんでした。そのため、光秀は2百名ほどしかいない本能寺をまたとないチャンスと見たのでしょう。

明智光秀が本能寺の変を起こすまでに、じつに8回の謀反(むほん)を経験している織田信長でしたが、まさか腹心の光秀にまで(そむ)かれるとは、予想もしていませんでした。

* * * * *

明智光秀が起こした謀反(むほん)によって、覇王(はおう)・織田信長が倒れ、代わって豊臣秀吉というヒーローを生み出します。信長が横死(おうし)した11日後、光秀も秀吉によって討たれました。

本能寺の変については現在も研究がされており、特に光秀の動機については議論が()きません。

日本史に大きなうねりを巻き起こした大事件『本能寺の変』は、400年以上経ってもなお、話題を提供しつづけています。

明智光秀のイラスト
明智光秀のハナシを読む

明智光秀(惟任光秀)は、現在の岐阜県にあたる美濃国の武将です。織田四天王のひとり。足利義昭を将軍にするために、織田信長との接点になって尽力します。次第に信長の参謀として働くようになり、天下統一に向けて貢献しますが、本能寺の変で信長を殺害します。豊臣秀吉との戦いに敗れて死亡しました。享年55。

織田信長のイラスト
織田信長のハナシを読む

織田信長は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将・大名です。桶狭間の戦いで今川義元の大軍をわずかな兵力で打ち破り、歴史の表舞台に鮮烈なデビューを飾ります。尾張一国から次第に勢力を拡大していき、天下統一まであと少しというところで家臣の明智光秀の謀反に遭い、燃えさかる本能寺で自刃しました。享年49。

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