本能寺の変とは?なぜ裏切った?謎なの?簡単にわかりやすく

日本史上最大の謎といわれる本能寺の変は、天正10年6月2日の未明に明智光秀が織田信長の宿舎を襲撃した事件です。本能寺の変で信長は自害し、歴史が大きく動きました。しかし、明智光秀が謀反を起こした理由や動機が不明で、多くの説と謎が議論されています。本能寺の変について、わかりやすくまとめてみましょう。
本能寺の変が起きた日と起こるまで
本能寺の変は、天正10年6月2日(1582年6月21日)未明に起こりました。
はじめに、本能寺の変が起こる前日から当日の様子を見ていきましょう。
明智光秀は、織田信長に命じられて中国地方で毛利氏と戦う豊臣(羽柴)秀吉の援軍に向かいます。信長もまた、秀吉の要請に応じて出馬する予定でした。
数日前に本能寺に入っていた織田信長は、6月1日に公卿たちを集めて大規模な茶会を開催しています。信長はここを宿舎とし、本能寺から秀吉のもとに向かう予定でした。
信長に先だって、明智光秀は6月1日の午後4時から6時にかけて1万3千の兵を揃え、丹波国・亀山城を出立します。
ところが、しばらくすると立ち止まります。

止まれ。
一説によると、光秀は篠村八幡宮(京都府亀岡市)で軍議をひらき、娘婿の明智秀満と明智光忠、斎藤利三、藤田行政、溝尾茂朝ら重臣を集めまたといいます。

これより、本能寺と妙覚寺に兵を向け、信長を討つ。
ここで初めて、光秀は重臣たちに謀反を起こすことを告げます。重臣たちは驚きましたが、これに従います。
明智軍は京都市街地へ進路をとります。
京都市街には本能寺と妙覚寺があり、本能寺には織田信長が、妙覚寺には信長から織田家の家督を継承していた織田信忠が居ました。
もともと出陣する予定があって動いている明智軍が京都市街に入っても、不自然ではありませんでした。
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天正10年6月2日
敵は本能寺にあり
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6月2日、未明。
信長に知らせる者がいるとまずいので、光秀は家臣に「あやしい奴は斬れ」と命じます。
そこに早朝から瓜畑に向かう農民が明智軍と遭遇します。殺気立ってただならぬ様子を恐れて農民が逃げ出すと、これを追いかけて20〜30人ほど斬り捨てました。
桂川に着くと、光秀は行軍を止めて兵たちに命じます。

馬の沓を切れ。足軽は足半に履き替えよ。鉄砲隊は縄に火をつけ5本ずつ火先を下にして掲げよ。
まぎれもなく戦闘準備の合図でした。
この時点で、目的地である中国地方にはほど遠く、足軽たちは何の戦闘に備えているのかわかりませんでした。ちょうど在京中だった徳川家康を討ちに行くと思った者も多かったようです。

小隊に分かれて市街地を駆けよ。個々に目標地点に向かい、合流するのだ。遅れをとるな。
夜が明けるころ、明智軍の諸隊が小分けになって京都市中を小走りで駆けていきます。
そして、午前4時には、本能寺で就寝中の織田信長を完全包囲しました。
本能寺には、小姓たちを含む200人ほどしかおらず、門はひらいたままでした。

皆かかれ!出世は手柄次第ぞ!
明智軍は鬨の声をあげると、本能寺御殿に鉄砲を撃ちこみました。
ワァワァという喧騒に信長も目を覚まします。
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是非に及ばず
信長、炎上
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さては謀反か。いかなる者の企てか?
信長が側小姓の森蘭丸にたずねると「明智と見受けます」との答えが返ってきます。

……是非に及ばず。
明智光秀の謀反と聞いた信長はこうつぶやくと、覚悟を決めたように弓を手にして明智兵の前に向かいました。
圧倒的な数の敵に弓で応戦した信長でしたが、弓の弦が切れると槍で戦い、そのうちに右ひじを突かれて負傷します。

女たちは逃げよ。余は奥で腹を召す。
信長は女官たちに急いで逃げるよう3回避難を呼びかけた後、火の手があがる殿中に退きました。

奥の間まで退くと内側から戸を閉じ、燃えさかる炎のなかで織田信長は自害しました。

人間五十年、夢幻の如くなり……滅せぬもののあるべきか
紅蓮の炎のなかで好きな『敦盛』を舞ったと伝わりますが、信長がどのような最後を遂げたのか見た者はおらず、わかっていません。
本能寺から250mほどしか離れていない南蛮寺から、イエズス会の宣教師たちは本能寺の変の一部始終を見ていました。
天正11年に書き記された『イエズス会日本年報』には、信長の最後がこう綴られています。
「諸人がその声ではなく、その名を聞いただけで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰した」
魔王と恐れられた信長は、髪の毛一本残さずに消えてしまったのです。
明智兵は血眼になって焼け跡から信長の遺体を探しましたが、どこにも見当たりませんでした。
午前8時、本能寺の変が終わります。
同じころ、本能寺の変に気づいた妙覚寺の織田信忠は二条御新造に移り、明智兵に抗戦したのちに自害しました。信忠は自分の首を渡さぬよう家臣に命じたといい、光秀はこちらも発見できませんでした。
本能寺の変を起こした明智光秀は55歳、織田信長は49歳でした。
謀反が起こったときの織田家臣団の状況
なぜ、明智光秀はいとも簡単に織田信長を討つことができたのか?
これには当時の織田家臣団の状況が関わっており、光秀にとって好条件になっています。
このころの織田信長は28か国800万石ほどを領有し、関東の北条氏、奥州の伊達氏、九州の島津氏などが従属を表明しており、それらすべてを合わせると全国の半分ちかくを手に入れたも同然でした。
さらに天下統一を推し進めるべく、信長は方面軍を組織して指揮官たちに地方平定を命じていました。

武田氏を滅ぼしたばかりの関東には滝川一益、北陸の上杉氏には柴田勝家、中国の毛利氏には豊臣秀吉、四国攻めは丹羽長秀、そして明智光秀は京都周辺の畿内の守備を任されていました。
明智光秀が畿内で反乱を起こしたとしても、方面軍を指揮する重臣たちはそれぞれが課題を抱えていたため、すぐに駆けつけることは難しかったのです。
このような状況から、明智光秀は謀反が成功すると考えました。
続いて、本能寺の変の諸説を紹介します。
本能寺の変の諸説いろいろ
明智光秀が本能寺の変を起こした動機は不明です。
そのため、諸説あるものの、定説や通説といったものはありません。
光秀が天下権力を欲したとする野心に基づく説、高圧的な信長に追いつめられて精神崩壊した説、あるいは光秀には信長を討つ名分があったとする説、はたまた何者かが光秀を動かして信長を討たせたという黒幕説まであります。
明智光秀の動機を決定づける明らかな資料が存在しないからこそ、本能寺の変には憶測や推理、想像をかきたてられる面白さがあります。
それでは、たくさんある諸説を順番に見ていきましょう。
天下を欲して謀反を起こした説
静かなる野心家、明智光秀が織田信長に取って代わろうとして、本能寺の変を起こしたと考える説です。

ワンチャンねらい!野望説・突発説
「明智光秀も天下が欲しかった」とする説は、謀反の直後から解釈されています。
信長の一代記『信長公記』の筆者である太田牛一は「恩知らずの光秀が主君を討った」と述べていることから、野望説は最も古くから確認できます。
しかしながら、謀反を起こした後のグダグダ感から、合理的な光秀にしては計画性に欠ける点があり、無計画で突発的に凶行に及んだとする説も。この場合も、絶好の機会を前にして天下をねらったのが動機と解釈されます。
また、明智光秀が突発的に起こした謀反であったがために、信長はこれを予測することができなかったとも考えられています。
中国地方に向けて出陣する直前の5月24日、本能寺の変を起こす1週間ほど前、威徳院で行われた戦勝祈願の連歌会で、光秀が詠んだ歌が『愛宕百韻』に記されています。

”ときは今 あめが下知る 五月かな”
「とき」=土岐氏の出身である光秀のこと。
「あめ」=天、「下知る」=命令と解釈することができ、明智光秀が天下に号令をする、
すなわち信長を討つという心情を表しているとされ、野望説を印象づけています。
追い詰められて謀反を起こした説
なんらかの心理的理由で精神的に追いつめられていた明智光秀が、やむを得ずに本能寺の変を起こしたと考える説です。

恨みはらさでおくべきか…怨恨説
織田信長から耐え難いハラスメントの数々を受けていた明智光秀が、ついに我慢の限界を超えてしまうという怨恨説は、これまで多くのドラマや映画でモチーフにされてきました。
皆が見ている前で光秀が信長にフルボッコにされる、徳川家康を接待する席でも信長から理不尽な責めを受けて役を解任されるなど、プライドをへし折られる様子がドラマなどで描写されます。
遺恨から本能寺の変を起こす流れがスタンダードとなったのは、江戸から明治のことで、古典に描かれているパワハラを根拠としています。
光秀が毛利家臣・小早川隆景に宛てたとする手紙に「信長に対し憤りを抱いている」という記述がありますが、この手紙の真偽は不明です。
もうムリ。不安・ノイローゼ説
精神的なプレッシャーを受け続けた結果、ノイローゼになった明智光秀が「やられる前にやってしまえ」と謀反を起こした説です。窮鼠説とも言われています。
織田家最古参の宿老・佐久間信盛があるとき突然追放され、後任として畿内に入ったのが明智光秀でした。
長宗我部氏との交渉役をつとめていた四国政策が行きづまり、度重なる信長からの追求や言いがかりで精神が崩壊し、佐久間への仕打ちが脳裏をよぎり、冷静な判断ができなくなっていたと解釈されています。
裏切り者にも名分があった説
感情的な理由ではなく、大義名分によって織田信長を成敗するために、明智光秀が本能寺の変を起こしたとする説です。

話がちがうって!四国征伐回避説
『四国説』と呼ばれ、本能寺の変の動機として注目されている説です。
四国征服を進める長宗我部元親との交渉役をつとめた光秀でしたが、臣従を迫る信長に元親が反発し、交渉は難航します。
もともと信長は長宗我部元親に「四国は切取次第」と伝えており、信長から四国統一を認められていたので、元親も織田氏に従う意思を示していました。
それが急に、土佐国と南阿波2群を残して信長に返上せよと命じられたので、長宗我部元親は拒絶したのでした。
このタイミングで豊臣秀吉と三好康長が四国征伐をお膳立てし、気を良くした信長は1582年5月に四国攻撃軍を編成します。
四国攻撃軍は6月2日にも渡海して長宗我部氏の征伐に向かう予定でしたが、同日未明に光秀が本能寺の変を起こしました。
もし、四国征伐が行われていれば、長宗我部氏と交渉をしていた明智光秀の失策であり、出世争いをする秀吉にお株を奪われることになります。
そうなれば、光秀の失脚は確実で、佐久間信盛のようにすべてを失う可能性がありました。
だめだコイツ…暴君・神格化阻止説
晩年の信長は、自らを神と仰ぐよう周囲に強要します。
安土城で祭典を行い、信長の誕生日を祝祭日と定めるなど、神格化しようとした様子を宣教師・ルイス=フロイスが記録しています。この思想を光秀は嫌ったというもの。
残忍な比叡山焼き討ちで知られる信長は、自分のことを ”第六天魔王” と名乗っており、長島一向一揆や天正伊賀の乱でも容赦のない殺戮を行っています。
それもこれも、自分を天上の存在と勘違いした信長の横暴さの現れでした。
光秀が西尾光教に送った手紙には「信長父子の悪逆は天下の妨げ」と書かれていたといいます。
じつは黒幕がいたかもしれない説
明智光秀は本能寺の変を起こした実行犯ではあったが、裏で画策した黒幕の存在があったと推測されている説です。
黒幕説は枚挙にいとまがなく、いずれも根拠に乏しいものの、サスペンスとしての面白さがあります。

信長を恐れた朝廷が光秀にやらせた説
信長を要職に就かせることでコントロールしたい朝廷と、その手には乗らない信長とのあいだには、長らく緊張状態が続いていました。
天正9年の左大臣就任を打診したことを発端に、征夷大将軍、太政大臣、関白のいずれかに信長が就任するとかしないとか、朝廷との駆け引きがありました。
室町幕府を滅ぼした信長は「朝廷をも滅ぼすのではないか……」と恐れた正親町天皇、誠仁親王、近衛前久、吉田兼見らが、明智光秀を動かして先手を打ったとされます。
足利義昭が信長の将軍就任を邪魔した説
信長が滅ぼした室町幕府15代将軍である足利義昭は、幕府がなくなった後も将軍を名乗ったまま毛利氏に庇護されていました。
「信長から征夷大将軍の任官を求められたら、朝廷はこれを承認する可能性が高い」と朝廷関係者から聞いた義昭が、信長の将軍就任を阻むために光秀を動かしたというもの。
豊臣秀吉が関わっていた説
本能寺の変が起こったことで、結果的に利を得たのは豊臣秀吉です。
頭の良い秀吉なら「最近の上様(信長)はお供もろくに連れず、不用心すぎて心配」と光秀に漏らすことで、信長の護衛が手薄であることをさりげなく知らせて、光秀の叛意をくすぐることことぐらい簡単だったでしょう。
6月2日の本能寺の変を知った秀吉は、4日には交戦中の毛利氏と和議を結び、本能寺の変からわずか11日後の6月13日に京・山崎の戦いで明智光秀を討ちました。
まるで、本能寺の変が起こることを知っていたかのような手際の良さが不自然に思われます。
本能寺の変における不可解な謎
見つからない信長の遺体はどこ?
信長を討ち損じたと思った光秀はパニックになったといい、その様子を見かねた斎藤利三が「信長公が合掌して奥に退くのを見た」と嘘をついて落ち着かせたそうです。
信長ならびに信忠の首を手にできなかったため、両者が生存しているという情報が錯綜します。
中国地方から京に駆けつける道中、秀吉が「上様は生きている!」と言い散らかしながら戻ってきたため、誰も光秀の味方をしようとしませんでした。
信長の遺骸を確認した森蘭丸は、その上に畳をかぶせて燃やしたといい、当時の鑑識技術では全焼した木造建物の残骸から遺骸の人物を特定することは不可能と考えられています。
信長の遺骸が見つからなかったというより、同じく黒焦げになった亡骸が多すぎて、どれが信長かわからなかったようです。
かねてから信長と親交があったという阿弥陀寺の清玉上人が本能寺に駆けつけ、明智兵の目を盗んで信長の遺骸を運び出して埋葬したとする説があります。
織田信長から名人と呼ばれていた囲碁棋士・本因坊算砂が原宗安に指示し、信長の首を本能寺から持ち出して富士山麓にある西山本門寺に運んで供養したという説もあります。
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光秀が味方を
得られなかった要因かも
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結果的に、信長の首が見つからなかったことは光秀にとって大きな誤算であり、味方を得られなかった要因となっています。
どうして本能寺で茶会をした?
本能寺の変が起こる3日前の5月29日、信長は大名物の茶器38点を持って小姓たちを連れて上洛し、本能寺に入りました。
それから2日後の6月1日、大雨のなかを40名ほどの公卿たち本能寺の信長のもとに表敬訪問します。
信長は、この公卿たちと本能寺で茶会を催しました。
数日内に中国地方に向けて出陣するタイミングで、なんで茶会を?じつは、この茶会の目的は他にありました。
信長は『初花肩衝』と『新田肩衝』という大名物の茶入を所有していました。これに『楢柴肩衝』を手に入れれば、天下三大名物といわれる茶入をすべて手に入れることができる。これが信長の望みであり、この楢柴肩衝を所有する豪商・島井宗室を本能寺に来させることがねらいだったのです。
この島井宗室は博多の商人であり、5月中旬から京都に滞在していました。島井は6月はじめには博多に帰るスケジュールだったので、信長は急いで京都に来て本能寺で茶会を開催したわけです。
信長が用意した38点もの茶器は、楢柴肩衝とトレードするためのもの。
どうしてもこの茶入が欲しかった信長は、小姓だけ連れてくるという無防備さで本能寺に現れたのでした。
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信長の油断が
謀反を招いたかも
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本能寺で茶会などせずに、信長が安土城から中国地方に向けて出陣していれば、光秀の謀反が成功することはなかったでしょうし、謀反を起こすこともなかったでしょう。
本能寺の変を起こした明智光秀
本能寺の変を起こした明智光秀とは、どんな人物なのでしょう?
美濃国(岐阜県)の出身であり、はじめは斎藤道三に仕えていました。その後、朝倉義景に身を寄せ、同じく朝倉氏を頼ってきた足利義昭のサポートチームに光秀も加わります。
足利義昭を将軍職に就かせようとする働きに奔走し、ちょうどそのころ美濃国を平定した織田信長と面会します。
勢いがある信長に、義昭を連れて京に上る上洛軍を要請しました。
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信長の天下統一を
推し進めた参謀
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足利義昭は信長の軍事力を背景に将軍に就任し、織田信長は義昭と室町幕府を大義名分とする、WinWinの関係を築きます。これを実現させたのが、明智光秀でした。
義昭を将軍就任へ導いた光秀の手腕を信長は評価し、やがて光秀は信長の天下統一を手伝うようになります。
軍事、政治、外交に加えて朝廷との面識も広く、文化的な知識や教養にも明るかった光秀は信長から重宝され、織田家臣としてスカウトされます。
信長に信頼された光秀は、最も重要な政治拠点である京を中心とした畿内を統括する司令官に抜擢されました。信長は自身の喉元ともいえる京を光秀に任せたのです。
本能寺の変は、信長にとってまさに寝耳に水でした。
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本能寺には
行っていなかった?
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本能寺の変の新説として『乙夜之書物』に書かれた内容が話題になりました。
”先発した斎藤利三と明智秀満が2千ほどを率いて本能寺を襲撃した。明智光秀は本能寺から8キロ離れた鳥羽に控えていた”
明智光秀は本能寺には行っていなかったというのです。
たしかに、指揮官が自ら最前線で戦う必要はありませんし、市街地にある寺ひとつ包囲するのに1万人以上も動員する必要はなさそうです。
まだまだ信憑性が問われる新説ですが、もしも事実だとしたら、燃えさかる本能寺を光秀は見ていなかった可能性があり、ドラマとは違った視点だったかもしれません。
なぜ裏切った?謀反の理由
明智光秀が本能寺の変を起こした真相は不明であり、前述したようにさまざまな説があります。
謀反の理由についても憶測の域を出ませんが、これまでフィクションとして描かれてきたもののなかにも、あながち作り話でもなさそうな逸話もあります。
本能寺の変を起こす少し前から、光秀が信長から迫害を受けていたのは事実であり、天正10年6月2日にあらゆる条件が揃ったことが謀反を後押ししたのでしょう。
以下は、本能寺の変を描くうえで、必ずといっていいほど登場する逸話です。
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ひどすぎる
パワハラ
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甲州征伐で武田氏を滅ぼしたおり、諏訪の本陣に織田家臣が集まるなか、光秀が信長に「おめでとうございます。我らも苦労した甲斐がありました」と祝いの言葉をかけます。
ところが、信長は「お前ごときがなにをしたぁ!ゴルァ」と激昂し、光秀の頭をつかんで欄干に叩きつけました。

またあるときは皆が見ている前で小姓に光秀の頭をこづかせたこともあったといい、酒宴の席で酒に酔った信長は光秀の喉元に槍を突きつけたこともあったとか。
このように光秀の自尊心をズタボロにした信長ですが、本能寺の変の直前の出来事として、徳川家康の饗応役を解任された逸話が有名です。
ともに武田氏と戦った徳川家康を労うために、信長は安土城に招待します。ここで接待を任されたのが明智光秀でした。
しかし、おもてなしの膳に乗った魚(鮒寿司?)が腐っていると勘違いした信長が激怒し、光秀は役を降ろされるという屈辱を味わいました。
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実質没収な
領地替え
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家康の接待役をクビになった直後、中国地方で毛利輝元と戦う秀吉からの要請を受けて、信長が出陣する運びとなります。
光秀はその先鋒を命じられ、準備を進めていました。
そこに信長からの使いの者がやってきて「出雲国と石見国をやる代わりに、丹波国と近江国・志賀郡を召し上げる」というのです。
丹波と近江は光秀が必死の思いで守ってきた領地。出雲と石見は毛利氏の領地です。つまり、毛利から奪い取らなければ、光秀の領地はないという意味でした。
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メンタル面と併せて
条件が揃っていた
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このような背景から、光秀が沈鬱あるいは憤激した気持ちで、信長に疑心を抱いていたことは間違いないでしょう。
そこにきて6月1日の本能寺での茶会です。小姓しか連れず、茶器だけ持ってきて平屋建ての寺に泊まっていた信長の軽率な振る舞いが、本能寺の変を起こす引き金になったかもしれません。
織田信長との関係
本能寺の変が起こる1年前、丹波国を統治するにあたって、光秀が定めた18か条からなる『家中軍法』の最後には「水に沈む瓦礫のようだった私を召し抱え、たくさんの軍勢を預けてくれた。粉骨して忠節に励めば、主君にも伝わる」とあります。
ほかならぬ織田信長への恩義を書き記したものであり、この時点で光秀に叛意は感じられません。
一方、信長も明智光秀を「日本一の武将である。皆も見習え」と激賞しており、誰よりも信頼していました。
それからわずか1年。
明け方の本能寺で、明智の旗に囲まれている様子を知った信長は口に指をあてて「余は自ら墓穴を掘ったな……」とつぶやきました。
優秀で抜かりのない光秀のこと、逃げ道などないであろうことを信長はすぐに理解したといいます。
フロイスが見た信長と光秀
イエズス会の宣教師・ルイス=フロイスは、信長のもとをたびたび訪ねており、ふたりのことをよく知っています。
フロイスが記した著書『日本史』には、辛辣ともいえる明智光秀の評価が書かれています。
”明智はその才略、思慮、狡猾さで信長の寵愛を受けていた”
”明智は信長の嗜好をよく調べており、同情をひくために涙を流したが、それは本当の涙と思えるほどだった”
”明智は織田家ではよそもので、ほとんどの者から快く思われていなかった”
”明智は裏切りや密会を好み、残酷で独裁的であったが、抜け目なく己を偽装する”
”戦争においては謀略を得意とし、忍耐力があり、計略と策謀の達人であった”
”明智は友人に人を欺く72の方法を体得していると自慢していた”
また、催し事の準備(家康の接待)について密室で相談していた信長と光秀の様子についても書き残しています。好みに合わない提案をしてしまった光秀に、信長が激怒したとあります。
”明智が言葉を返すと信長は立ち上がり、一度か二度、明智を足蹴にした。それは密かになされたことで、ふたりだけの間での出来事だった”
”あるいはこの出来事から明智は何らかの根拠をつくろうとしたのかもしれないし、利欲と野心を募らせた明智に、天下の主となることを望ませたのかもしれない”
ルイス=フロイスの記述には、光秀が信長から蹴られる様子がうかがえますが、密室でのことなっています。この話が諏訪でのフルボッコにアレンジされた可能性があります。
そして、ルイス=フロイスは、この密室での出来事が本能寺の変を起こす誘因となったのではないかと考えていたようです。
信長に謀反を起こしたのは光秀だけじゃなかった
じつは、織田信長を裏切ったのは明智光秀だけではありません。
・1556年 織田信行(実弟)
・1570年 浅井長政(義弟)
・1571年 松永久秀
・1573年 足利義昭
・1576年 波多野秀治
・1577年 松永久秀=2回目
・1578年 別所長治
・1578年 荒木村重
・1582年 明智光秀
ざっと並べただけでもこれだけの家臣に裏切られています。
信長は、これらの謀反をすべて武力で鎮圧しています。
織田信長という強大な存在は、正面から戦って勝てる相手ではありませんでした。そのため、光秀は2百名ほどしかいない本能寺をまたとないチャンスと見たのでしょう。
明智光秀が本能寺の変を起こすまでに、じつに8回の謀反を経験している織田信長でしたが、まさか腹心の光秀にまで叛かれるとは、予想もしていませんでした。
* * * * *
明智光秀が起こした謀反によって、覇王・織田信長が倒れ、代わって豊臣秀吉というヒーローを生み出します。信長が横死した11日後、光秀も秀吉によって討たれました。
本能寺の変については現在も研究がされており、特に光秀の動機については議論が尽きません。
日本史に大きなうねりを巻き起こした大事件『本能寺の変』は、400年以上経ってもなお、話題を提供しつづけています。
- 本能寺の変 – Wikipedia
- 本能寺の変はなぜ起きた?徹底解説!明智光秀が織田信長を討った理由とは|和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!
- NHK大河ドラマの描き方と史実はまったく違う…明智光秀が「本能寺の変」で織田信長を討った本当の理由 信長への怒りから謀反を起こしたのではない|PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
- 第3章 本能寺の変はなぜ起きたのか? – 福知山市オフィシャルホームページ
- 【「麒麟がくる」コラム】明智光秀は本能寺にいなかったのか。新出史料について考えてみる(渡邊大門) – 個人 – Yahoo!ニュース
- 明智光秀は「本能寺の変」の現場にいなかった!?[日本史の新常識]|歴史人
- 本能寺の変「秀吉黒幕説」 ~ 天下人秀吉が犯人か?|戦国ヒストリー
- 明智光秀は残虐で狡猾な人物だった【宣教師ルイス・フロイスから見た光秀】 – 草の実堂
- 「本能寺の変」前日、信長が決行した茶会の真相 「本能寺の変」の真犯人を巡るひとつの視点|リーダーシップ・教養・資格・スキル|東洋経済オンライン
- かゆみ歴史編集部『イラストでサクッと理解 流れが見えてくる 戦国史図鑑』ナツメ社
- 伊藤賀一監修『キャラ絵で学ぶ!織田信長図鑑』すばる舎