武家諸法度とは?だれが作った?簡単に内容をわかりやすくする

武家諸法度とは?だれが作った?簡単に内容をわかりやすくする

江戸時代のはじめに発布された『武家諸法度』って何?江戸幕府の歴史に登場する一国一城令や参勤交代にはどんな理由があって、なぜそんな決まりを定めたの?大きな船はどうして作っちゃいけなかったの?目的はなんだったの?教科書で習うだけじゃよくわからない武家諸法度について、わかりやすくまとめてみましょう。

武家諸法度が制定された背景と目的

江戸幕府が武家を統制するために定めた法令や規定の総称(そうしょう)を『武家諸法度』といいます。

戦国時代を勝ち()いて江戸幕府をひらいた徳川家康が、徳川将軍家の政権維持(いじ)を目的として発案しました。

1603年に徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になって江戸幕府を開きましたが、この時点ではまだ豊臣氏が存在しており、将軍になったとはいえ、徳川氏が完全に天下をとったと言い切れる状況(じょうきょう)ではありませんでした。

1615年に大坂夏の(じん)で豊臣秀頼を()(ほろ)ぼしたことで、天下にライバルが存在しなくなり、その後の徳川将軍家の統治を確固たるものとするため、武家諸法度が発布されました。


はじまりは
1615年

1615年に初めて発布された武家諸法度は『元和令(げんなれい)』と呼ばれるもので、江戸幕府2代将軍となっていた徳川秀忠の名前で公布されました。

武家」とは国持ち大名のことを指し「法度(はっと)」はやってはいけないことを指します。

大名が守るべきことや()けるべきことが規定されたのが武家諸法度の始まりであり、13か条のルールにまとめたものでした。

【武家諸法度】1615年に江戸幕府が公布した条文

この元和令げんなれいをはじめとして、武家諸法度は江戸幕府における最も重要な法令とされます。

2代・秀忠から以降も微妙(びみょう)に内容を変えながら受け継がれていきます。


武家諸法度の目的は
大名の力を抑えること

江戸幕府は幕府と藩による『幕藩体制ばくはんたいせい』で成り立っていました。

幕府を運営するのは徳川家。
全国に設置された藩を運営するのは、親藩しんぱん譜代ふだい外様とざまの大名でした。

親藩しんぱん」とは徳川家の親戚(しんせき)たちのこと。「譜代ふだい」とは代々徳川家に仕える家臣のこと。「外様とざま」とは家来になって日が浅い大名のこと。

特に豊臣氏にルーツを持つ外様とざま大名は、幕府にとって要注意でした。

そこで、外様とざま大名が幕府に逆らえないようにパワーをコントロールするために考えられたルールブックが武家諸法度だったのです。

外様とざま大名のみならず、違反(いはん)があれば譜代ふだいでも(ばっ)せられました。

主な内容を簡単にまとめる

文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事。

武家諸法度 – Wikipedia

学問と武芸(弓馬きゅうば)の鍛錬(たんれん)(はげ)みなさい” という意味です。武士にとって国を守ることが第一です。

諸国ノ居城、修補ヲナスト雖、必ス言上スヘシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停 止セシムル事。

武家諸法度 – Wikipedia

居城であっても、城の修理は幕府の許可を得ること。新築は固く禁止します” という意味です。城に関して幕府はすべて把握(はあく)します。

私ニ婚姻を締フヘカラサル事。

武家諸法度 – Wikipedia

幕府の許可なしに大名同士が結婚(けっこん)してはいけません” という意味です。政略結婚(けっこん)は認められません。

重要なポイントを原文から書き出すとこんな感じです。

いずれも大名のちからを増強させないために練られた条文です。

とはいえ、武士として弱いと異国の脅威(きょうい)に備えることができないため、弓馬きゅうば鍛錬(たんれん)は重要項目(こうもく)となっています。

作った人は徳川家康、発布したのは徳川秀忠

江戸幕府の開祖である徳川家康が1611年に大名から集めた誓紙(せいし)3か条をもとに、臨済寺りんざいじの僧侶・以心崇伝いしんすうでん10か条を加えた13か条の法令が定められました。

武家諸法度が発布されるまでの流れ

豊臣氏が(ほろ)びた1615年に京都・伏見城(ふしみじょう)に諸大名が集められます。そこで当時の征夷大将軍せいいたいしょうぐん・徳川秀忠から発布された13か条の法令を武家諸法度といいます。

武家諸法度のなぜ?とその理由

幕府の許可がないと〇〇してはいけない」といった(しば)りだらけの武家諸法度。

江戸幕府はどうして結婚(けっこん)や城の修理を禁止したのでしょうか?

なぜ大きな船を作ってはいけなかったのでしょうか?

参勤交代さんきんこうたいは何のためでしょうか?

武家諸法度4つのなぜ

武家諸法度のなぜ?」をまとめてみます。

大名の結婚を禁止したのは怖いから

大名同士が幕府に許可なく結婚(けっこん)することを禁止したのは、政略結婚(けっこん)をさせないためです。

徳川家康は、豊臣秀吉が亡くなった直後から有力な大名に養女を(とつ)がせるなど、積極的な政略結婚(けっこん)によって婚姻(こんいん)政策を推進しました。その結果、徳川派閥(はばつ)は豊臣氏をしのぐちからを得ています。

婚姻(こんいん)政策による派閥(はばつ)形成の(こわ)さをよく知る家康は、大名たちがこれを利用することを固く禁じたのです。

理屈(りくつ)では許可があれば結婚(けっこん)できますが、許されるケースはほとんどありません。

城の修理禁止は武装させないため

城は、軍事要塞(ようさい)としての機能を持ちます。修理と(しょう)して強固な要塞(ようさい)を築かれては困るので、原則的に城に手を加えることは認めませんでした。新築は厳禁です。

武家諸法度と同じ頃、江戸幕府は『一国一城令いっこくいちじょうれい』を発布しています。

これは、全国に存在した軍事用の城砦じょうさいの多くを破却(はきゃく)して、居城のみ残すことを命じた法令です。

城は政治のためのものとされ、軍事利用を禁じました。

大船建造の禁止は貿易独占のため

大船たいせん建造の禁』は、1609年に制定された500石積み(積載量(せきさいりょう)75t)以上の船の所有を禁止する法令です。

はじめは西国大名を対象とした法令でしたが、1635年に3代将軍・徳川家光が武家諸法度に追加して全国の大名が対象とされました。

江戸幕府が貿易に使用する朱印船(しゅいんせん)は例外とされていることから、第一の目的は貿易を独占(どくせん)し、諸藩(しょはん)に貿易で(もう)けさせないため。利益や軍船を持たせないためです。

第二の目的はキリスト教禁制に(ともな)鎖国(さこく)政策のためです。

江戸幕府は1639年に南蛮船(なんばんせん)の入港を禁止しました。

ポルトガルやスペインとの往来をシャットアウトするため、外洋航行が可能な大型船を諸藩(しょはん)が持つことは厳禁とされました。

しかし、1853年の『黒船来航』により海上防衛の必要性が高まり、大船たいせん建造の禁は全面解除となります。

参勤交代のねらいは主従の確認

参勤』は、江戸幕府がひらかれたころにはすでに機能していました。

将軍の元に参じて勤務することで、大名たちは自身の忠誠心をアピールしようとしたのです。これはあくまでも大名たちの自発的な行動でした。

武家諸法度が発布された当初、参勤に関する法令は国持ち大名が対象でした。3代将軍・徳川家光は参勤の対象を1万石以上の大名から小名まで広げるため、1635年に武家諸法度に追加しました。

参勤(江戸勤務)と自国領地を1年おきに交代する仕組みとして『参勤交代さんきんこうたい』となりました。

徳川将軍家と諸藩(しょはん)の主従関係を確認することが参勤交代のねらいです。

しかし、江戸との往復費用などの出費が大名の財政を圧迫(あっぱく)したため、結果的に諸大名のちからを()ぐことに一役買っています。

武家諸法度の変化と改正内容

武家諸法度は徳川秀忠が発布してから、5人の徳川将軍によって内容が改正されました。

2代・秀忠以降に武家諸法度を改正した将軍は下記のとおりです。

3代・徳川家光=寛永令かんえいれい
4代・徳川家綱=寛文令かんぶんれい
5代・徳川綱吉=天和令てんなれい
6代・徳川家宣いえのぶ宝永令ほうえいれい
8代・徳川吉宗=享保令きょうほうれい

武家諸法度を改正した徳川将軍たち

リリースとアップデートの履歴

1615年〜1717年のおよそ100年間で、武家諸法度はアップデートを繰り返しています。

元和令(げんなれい)が初めてリリースされてから以降に行われたアップデートの内容と特徴(とくちょう)、時代背景を簡単にまとめました。

元和令(1615年)

元和令げんなれい』は、元和げんな元年に発布された13か条からなる武家諸法度です。

発布者は2代将軍・徳川秀忠
起案者は僧侶の以心崇伝いしんすうでん

はじめの武家諸法度で、国持ち大名を対象としています。

将軍を退しりぞいてはいましたが、大御所(おおごしょ)徳川家康が存命中に発布されており、実質的には家康の号令と考えられます。

これ以降、寛永令かんえいれい寛文令かんぶんれいまでのベースとなります。

寛永令(1635年)

寛永令かんえいれい』は、寛永かんえい12年に発布された19か条からなる武家諸法度です。

発布者は3代将軍・徳川家光。
起案者は儒学者(じゅがくしゃ)林羅山はやしらざん

元和令げんなれいに『参勤交代』の義務化と『大船たいせん建造の禁』が加えられた追加アップデートです。

法度の適用対象が1万石以上の大名と小名に引き下げられた項目(こうもく)が増え、身分による制限の線引きなど、細かすぎる&厳しすぎるのが特徴(とくちょう)です。

寛文令(1663年)

寛文令かんぶんれい』は、寛文かんぶん3年に発布された21か条からなる武家諸法度です。

発布者は4代将軍・徳川家綱。

寛永令かんえいれいに『キリスト教の禁止』と『不孝者の処罰(しょばつ)』を加えた追加アップデートです。

大船たいせん建造の禁に関して商船を例外とする緩和(かんわ)がなされます。殉死(じゅんし)が禁止されました。

これまで、武家諸法度の法令違反(いはん)容赦(ようしゃ)なく処罰(しょばつ)したため、家や主をなくした牢人ろうにんが増えて治安が悪化してしまいます。

これを受けて、武家諸法度はマイルドな文治ぶんじ路線に変わっていきます。

天和令(1683年)

天和令てんなれい』は、天和てんな3年に発布された15か条からなる武家諸法度です。

発布者は5代将軍・徳川綱吉。

文治ぶんじ政治への路線変更がなされた大型アップデートです。

もろもろの規制が緩和(かんわ)されたほか、旗本・御家人(ごけにん)を対象としていた『諸士法度しょしはっと』が武家諸法度に統合されました。

条文の見直しに(ともな)い、関連条項(じょうこう)や類似条項(じょうこう)が整理されました。

元和令げんなれいから第1条に記載(きさい)されていた ”弓馬きゅうば鍛錬(たんれん)” という箇所(かしょ)が「文武忠孝に(はげ)み、礼儀(れいぎ)を正すこと」に変更(へんこう)されました。

儒教(じゅきょう)影響(えいきょう)から礼儀(れいぎ)による秩序(ちつじょ)が志され、弓馬きゅうば鍛錬(たんれん)よりも重要視されます。

なお、綱吉が発布した『生類憐しょうるいあわれみの令』は、武家諸法度とは別の法令です。

宝永令(1710年)

宝永令ほうえいれい』は、宝永ほうえい7年に発布された17か条からなる武家諸法度です。

発布者は6代将軍・徳川家宣いえのぶ
発起者は朱子学者(しゅしがくしゃ)の新井白石はくせき

徳のある統治者が人民を治めるべきとした儒教(じゅきょう)の仁政思想テイストが盛りこまれた大型アップデートです。

役人の賄賂わいろが禁止されます。このころ、低迷した政治を立て直すため、財政改革や貿易の制限による『正徳しょうとく』が行われます。

享保令(1717年)

享保令きょうほうれい』は、享保きょうほう2年に発布された15か条からなる武家諸法度です。

発布者は8代将軍・徳川吉宗。

吉宗は、宝永令ほうえいれいを廃止して天和令てんなれいに戻します。
これより以降、武家諸法度はアップデートされません。

深刻な財政難から回復を図る『享保きょうほうの改革』をはじめとした江戸時代の三大改革は、このころから行われます。

このようなアップデートをくり返して紆余曲折(うよきょくせつ)しながらも、1867年の『大政奉還たいせいほうかん』で15代将軍・徳川慶喜よしのぶが政権を朝廷(ちょうてい)に返上するまで、武家諸法度は江戸幕府の治世ルールであり続けました。

武家諸法度に違反すると…

武家諸法度に違反(いはん)することは江戸幕府に反することと同じであるため、違反者(いはんしゃ)は決して許されません。

違反(いはん)した場合、改易(所領や身分を没収(ぼっしゅう)されること)、減封げんぽう(領地を減らされる)、国替え(転封てんぽう移封いほうなど強制移転)などの厳罰(げんばつ)が命じられます。

例えば、広島城の雨漏(あまも)りを直した福島正則が「城の無断修理」に該当(がいとう)するとして改易されています。

別所吉治は仮病で参勤をさぼったため改易。密貿易の疑いで竹中重義を改易。参勤の病欠など勤務怠慢(たいまん)で一柳直興を改易。

この他にも枚挙にいとまがないほど大勢が改易されています。

武家諸法度とは、江戸幕府がつくった(おそ)ろしく絶対的なルールでした。

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