関東地方の有名な武将をわかりやすく紹介!勢力図もあるよ

関東地方の有名な武将をわかりやすく紹介!勢力図もあるよ

関東地方の有名な戦国武将をさくっと紹介します。現在の東京を作った徳川家康を筆頭に、絶大な勢力を誇った北条氏康と北条氏政、坂東太郎の異名で恐れられた佐竹義重など、関東地方を彩った武将たち。関東の戦国のおおまかな流れと勢力の変遷、有名な戦いなど、関東地方で活躍した有名な戦国武将とあわせて見てみましょう。

関東地方で活躍した有名な武将

関東地方では、戦国末期に天下をつかんだ徳川家康をはじめ、北条氏康・氏政、佐竹義重など、有力な戦国武将がしのぎを削りました。

一方で、上杉謙信や武田信玄といった外部の大名も関東地方へたびたび介入(かいにゅう)、この地は戦国時代を通じて幾度(いくど)も戦火に()れ動くこととなります。

最後に天下をとった勝者、関東のボスになった英雄(えいゆう)一族、戦乱を読む眼力。栄枯盛衰(えいこせいすい)のドラマがありました。

ここでは、関東地方を舞台(ぶたい)に戦国時代を(いろど)った有名な戦国武将たちをわかりやすく紹介(しょうかい)します。

徳川家康=東京を作った江戸幕府の初代将軍

徳川家康のイラスト
徳川家康のハナシを読む

徳川家康(松平元康)は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将・大名です。今川氏の人質から独立すると織田信長とともに天下統一を目指し、信長の死後は豊臣秀吉のもとで国家運営に携わります。秀吉の死後、征夷大将軍に就任して江戸幕府を開き、泰平の世が260年つづく江戸時代の開祖となりました。享年74。

1543年1月31日(天文(てんぶん)11年12月26日)生まれ。
愛知県岡崎市の出身です。
武蔵国(むさしのくに)・江戸城や遠江国(とおとうみのくに)・浜松城を本拠(ほんきょ)活躍(かつやく)しました。

徳川家康は、東京都千代田区や静岡県浜松市の戦国武将として有名です。

1590年の小田原征伐(せいばつ)の後、豊臣秀吉によって領地を関東へ移されます。武蔵国(むさしのくに)・江戸を本拠地(ほんきょち)にしましたが、当時の江戸は湿地(しっち)と入り江に囲まれていました。家康は江戸城と城下の大改修『天下普請(てんかぶしん)』を行い、大規模な都市計画を進めます。

川の流れを変えて外堀(そとぼり)を築き、街道を整備して江戸を全国からつながる交通の要地へと作り変えていきます。それが現在の東京都の原型となりました。

1600年の関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1603年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となって江戸幕府をひらきます。江戸時代は260年つづき、江戸は日本の首都として発展しました。

質素で忍耐(にんたい)強く、慎重(しんちょう)な戦略家というイメージの徳川家康ですが「関東移封(いほう)を逆境ではなく大きな飛躍(ひやく)のチャンス」と考え、ポジティブな原動力に変えた発想力こそ最大の強みでした。

現在も江戸城(あと)は皇居として残っており、江戸東京博物館の道路沿いには鷹狩(たかが)りをする様子の徳川家康像があります。家康像は愛知県や静岡県にも5つあり、日光東照宮など家康の威光(いこう)を伝える史跡(しせき)が数多くあります。

北条氏康=一夜にして関東の覇者となる

北条氏康のイラスト
北条氏康のハナシを読む

北条氏康は、現在の神奈川県にあたる相模国の武将・大名です。若い頃から、老獪な智略を武器に関東の諸勢力を打ち破ります。河越夜戦で扇谷・山内の上杉氏、古河公方による大連合軍を撃破して、関東地方の大半を制圧し、後北条氏の勢力を急速に拡大。上杉謙信や武田信玄とも互角以上に渡り合いました。享年57。

1515年(永正12年)生まれ。
神奈川県小田原市の出身です。
相模国(さがみのくに)・小田原城を本拠(ほんきょ)活躍(かつやく)しました。

北条氏康は、神奈川県小田原市の戦国武将として有名です。

祖父・北条早雲、父・北条氏綱の意志を()いだ3代目・北条氏康は、北条氏による関東一円の支配を決定づけた人物で、北条氏の確固たる基盤(きばん)を築きました。

1546年の河越夜戦(かわごえやせん)で、山内(やまのうち)上杉氏・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏、古河公方足利氏の連合軍8万を相手に、1万の兵力で大勝し、一夜にして関東の覇者(はしゃ)になります。8倍の兵力差をくつがえしたことで、北条氏の影響力(えいきょうりょく)は関東最大になりました。

内政でも優れた手腕(しゅわん)を発揮し、小田原城を中心に領国を統治。領民ファーストで民衆に寄り()った氏康の領土経営は北条氏の理念となり、北条領は戦国時代でも屈指(くっし)の安定感でした。

越後(えちご)(りゅう)上杉謙信との18年にもおよぶ抗争(こうそう)でも領地を守りぬき、甲斐(かい)(とら)武田信玄侵攻(しんこう)も退けつづけた北条氏康は『相模(さがみ)獅子(しし)』の異名をとりました。

顔面には『氏康傷』と呼ばれる向こう傷があったといい、決して敵に背中を見せずに勇敢(ゆうかん)に戦った証として伝わっています。

北条氏政=秀吉の天下に抗った最後のプライド

北条氏政のイラスト
北条氏政のハナシを読む

北条氏政は、現在の神奈川県にあたる相模国の武将・大名です。北条氏康の次男。早逝した長男に代わって後北条氏4代目当主になります。弟たちと協力して関東を支配し、東国一の地位を築きますが、天下統一を目前にした豊臣秀吉の前に屈しました。結論が出ない会議を指す『小田原評定』が有名です。享年53。

1538年(天文7年)生まれ。
神奈川県小田原市の出身です。
相模国(さがみのくに)・小田原城を本拠(ほんきょ)活躍(かつやく)しました。

北条氏政は、神奈川県小田原市の戦国武将として有名です。

北条氏政は父・氏康から引き()いだ4代目です。5代目・北条氏直の父であり、氏直を後見して北条氏の全盛期を牽引(けんいん)しますが、没落(ぼつらく)する北条氏の象徴(しょうちょう)にもなりました。

1590年、天下統一に近づく豊臣秀吉対抗(たいこう)できる大名は、北条氏をおいて他にありませんでした。北条氏政は関東の武士のプライドにかけて、秀吉に降伏(こうふく)することを(こば)みます。

しかし、20万ともいわれる軍勢による秀吉の小田原征伐(せいばつ)が行われ、氏政は家臣とともに小田原城に籠城(ろうじょう)しますが、戦力差の前に降伏(こうふく)を決断します。最後は領民を案じての降伏(こうふく)でした。

北条氏が統治していた領地には、徳川家康()わって入ることが決まっていましたが、氏政は領内の災害地図を家康に(わた)して、今後も領民が被災(ひさい)して困ることがないように(たの)んだといいます。

領民思いだった領主としての北条氏は、現在の小田原市にも根強く伝わっており、今もなお地域の人々に愛されています。

佐竹義重=関東最強と恐れられた坂東太郎

佐竹義重のイラスト
佐竹義重のハナシを読む

佐竹義重は、現在の茨城県にあたる常陸国の武将・大名です。16歳で佐竹氏の当主になると常陸国衆を斬り従えて、北条氏や伊達氏と争いました。剛力無双の武勇に加えて、外交術にも秀でており、有力者不在で混沌としていた地域を束ねて、奥州一統を果たし、最盛期は関東から東北南部に勢力を拡げました。享年66。

1547年3月7日(天文16年2月16日)生まれ。
茨城県常陸太田市の出身です。
常陸国(ひたちのくに)・太田城を本拠(ほんきょ)活躍(かつやく)しました。

佐竹義重は、茨城県常陸太田市の戦国武将として有名です。

剛勇(ごうゆう)さから、関東一の暴れ川を指す利根川の異名である『坂東太郎』と呼ばれ、関東一円に勇名を知られました。反北条氏のリーダー的な存在で、連合軍を率いて北条氏と争いました。

北条氏政との戦いが長期化するなか、これを非効率と判断した義重は、関東ではなく奥州(おうしゅう)へ目を向けるようになります。(またた)く間に奥州(おうしゅう)への影響力(えいきょうりょく)を強めると、連合軍を結成して伊達政宗対抗(たいこう)しました。

早くから豊臣秀吉に従い、1590年の小田原征伐(せいばつ)後に様変わりした関東でも所領を安堵(あんど)されます。秀吉に領地を減らされた政宗とは対照的に、先見性を示して優位に立ちました。

(おに)義重』の異名を持ち、敵を頭から一刀両断にした逸話(いつわ)も伝わります。剛勇無双(ごうゆうむそう)猛将(もうしょう)でありながら、冷静な分析力(ぶんせきりょく)と決断力をあわせ持つクレバーな武将です。

関東地方の戦国時代の流れ

関東の戦国時代のポイント
  • 関東地方支配のために鎌倉府が置かれる。
  • 鎌倉府と関東管領が対立して内乱が起こる。
  • 北条早雲が相模国へ進出、戦国大名・北条氏が台頭する。
  • 北条氏3代目・北条氏康が足利&上杉連合軍を破る。
  • 上杉謙信が北条氏討伐の関東遠征を行う。
  • 豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし天下統一を果たす。
  • 徳川家康が江戸幕府を開く。

室町幕府は関東地方とその周辺地域を統治するため、かつて鎌倉(かまくら)幕府があった鎌倉(かまくら)に『鎌倉府(かまくらふ)』を設け、足利将軍家の身内が鎌倉(かまくら)公方を務めました。鎌倉(かまくら)公方を関東管領の上杉氏が補佐する体制で関東地方の支配を固めようとしました。

ところが、独立色を強めた鎌倉府(かまくらふ)が室町幕府と対立し、1454年に幕府方の関東管領を殺害したことで『享徳(きょうとく)の乱』が起こり、関東地方の戦国時代が始まります。

争いのなかで鎌倉府(かまくらふ)は古河公方・堀越(ほりごえ)公方に分離(ぶんり)、1493年に北条早雲が堀越(ほりごえ)公方を追放して伊豆国(いずのくに)(うば)い、戦国大名になって相模国(さがみのくに)へ進出しました。

北条氏は1546年の河越夜戦(かわごえやせん)で古河公方と上杉氏を破り、関東一帯を手に入れます。1590年の小田原征伐(せいばつ)で豊臣秀吉に(ほろ)ぼされるまで、北条氏の関東支配は続きました。

豊臣秀吉の命令で徳川家康が武蔵国(むさしのくに)・江戸に移り、秀吉の死後は家康が1603年に江戸幕府を開いて、関東地方の戦国時代は終結します。


戦国大名の北条氏は
鎌倉幕府執権の北条氏とは違う

関東の戦国史をつくったと言っても過言ではない北条氏は、鎌倉(かまくら)幕府で執権(しっけん)をつとめた北条氏とは関係ありません。

北条早雲の本当の名前は伊勢(いせ)早雲。2代目の伊勢(いせ)氏綱が、関東で権威(けんい)のあった鎌倉(かまくら)幕府執権(しっけん)の北条氏の権威(けんい)にあやかって北条を(勝手に)名乗りました。鎌倉(かまくら)時代の北条氏と区別するために、戦国時代の北条氏は『後北条氏(ごほうじょうし)』とも(しょう)されます。

大名たちの勢力図と移り変わり

関東地方の勢力図(1498年)

1498年の関東地方の勢力は、伊豆国(いずのくに)を平定して相模国(さがみのくに)へ進出した北条早雲が、上杉氏や足利氏と隣接(りんせつ)します。

関東地方の勢力図(1546年)

1546年の関東地方の勢力は、河越夜戦(かわごえやせん)によって一変し、北条氏が急速に勢力を()ばしはじめます。

関東地方の勢力図(1582年)

1582年の関東地方の勢力は、北条氏と佐竹氏の二強化となりますが、北関東では武田遺臣の真田昌幸が独立勢力になります。

関東地方の勢力図(1590年)

1590年の関東地方の勢力は、小田原征伐(せいばつ)で北条氏を(ほろ)ぼした豊臣秀吉の天下統一によって再編成され、徳川家康が関東移封(いほう)されました。

関東地方で起こった有名な戦い

河越夜戦 かわごえやせん 1546.5.19 ● 山内上杉&扇谷上杉&古河足利軍8万 vs 北条軍1万1千 ○

山内、扇谷の上杉氏、古河公方足利氏の大連合軍で北条綱成が守る河越城(埼玉県川越市郭町)を包囲した合戦。北条氏康は鎧兜を装備しない兵士たちを率いて夜襲を決行。半年にわたる包囲戦で油断していた連合軍を大混乱に陥れ、扇谷の当主・上杉朝定を討ち取った。

小田原城の戦い おだわらじょうのたたかい 1561.3.29 〜 6.? ● 上杉&長尾軍10万 vs 北条軍?万 ○

北条氏を討伐するため北条氏政が篭る小田原城(神奈川県小田原市城内)を長尾景虎が包囲した合戦。関東の諸将を募って10万を越える兵で迫った。関東勢の太田資正が蓮池門に突入したが、隠居した北条氏康らの粘り強い守りもあって、1か月攻めても落城する気配はなかった。

三増峠の戦い みませとうげのたたかい 1569.11.16 ○ 武田軍2万 vs 北条軍2万 ●

北条氏の本拠地を攻めて、甲斐に引き揚げる武田信玄を、三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町)で北条軍が迎撃した合戦。北条綱成の鉄砲隊の攻撃で、浅利信種が討ち死にするなど、序盤は北条有利。しかし、山県昌景の奇襲が成功すると、武田軍が勢いづき、北条軍を押し退けた。

小田原征伐 おだわらせいばつ 1590.5.6 〜 8.4 ○ 豊臣軍21万 vs 北条軍5万6千 ●

天下統一に迫る豊臣秀吉が小田原城(神奈川県小田原市)を大軍で包囲した合戦。籠城する北条氏直と、隠居の北条氏政、重臣たちは「小田原評定」と揶揄された結論がでない会議を繰り返した。北条父子を黒田官兵衛が説得し、降伏開城した。小田原攻め、小田原の役とも。

戦国時代の関東地方では、大きな局面を()るがす戦いがくり広げられています。関東の支配者が決まった河越夜戦(かわごえやせん)、権力者が交代した小田原征伐(せいばつ)関東地方の戦国史は北条氏の盛衰(せいすい)とともにありました。

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