やまがた まさかげ

山県昌景

1529.?〜 1575.6.29

 
山県昌景の面白いイラスト
  

山県昌景(飯富源四郎)は、現在の山梨県にあたる甲斐国の武将です。武田四天王のひとり。身長140cmほどの小柄な体格で、ひときわ大きな太刀をふるい、戦国最強といわれた赤備えの武田騎馬隊を率いました。徳川領の攻略で存在感を発揮しますが、長篠の戦いで織田軍の鉄砲隊に敗れて戦死しました。享年47。

山県昌景は何をした人?このページは、山県昌景のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと山県昌景が好きになる「身長が低い最強の小男の赤備えが家康を震えあがらせた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:飯富源四郎 → 山県昌景
  • あだ名:小男
  • 出身地:甲斐国(山梨県)
  • 居 城:江尻城
  • 子ども:4男 3女 2養
  • 跡継ぎ:山県昌重
  • 父と母:不明
  • 大 名:武田信玄武田勝頼

身長が低い最強の小男の赤備えが家康を震えあがらせた

戦国最強といわれた武田騎馬隊(きばたい)のなかでも、山県昌景は際立った存在で、(おそ)ろしく強い()りこみ隊長として知られた猛将(もうしょう)です。

1573年のこと。三方ヶ原の戦いで惨敗(ざんぱい)して浜松城に()げ帰った徳川家康は、転がるように馬からおりてこう(さけ)びます。

おそろしや!ヤマガター!」さきほどまで(かれ)は赤い(おに)に追いかけられ、命びろいしたことを実感するのにしばらく時間がかかったといいます。

それもそのはず。家康を追っていたのは、恐怖(きょうふ)の赤備えで見る者を(ふる)えさせた山県昌景だったのです。


小男あらわりて
敵陣が震える

山県昌景が現れただけで敵は恐怖(きょうふ)しました。見かけただけで(おそ)ろしいとは、どんなにゴツい大男かと思いきや、山県昌景は130〜140cmほどの小男でした。

当時、日本の成人男性の平均身長は160cm前後ですので、かなり小柄(こがら)です。

山県昌景の身長は130〜140cmほど

山県昌景が出陣(しゅつじん)すると、敵陣(てきじん)では「小男が出たぞー!」の声があがって兵たちはパニックになったといいます。

歴史的な激戦となった1561年の第4次川中島の戦いで、この小男が160cmもある大太刀(おおたち)()り回して無双(むそう)するさまが「真っ向縦割り、輪切り、縦切り、膝折(ひざおり)腰車(こしぐるま)と切り()せ、切り()せる……」とあり、なにやら(すさ)まじい戦いぶりだった様子が伝わってきます。


最強の象徴
赤備え

武田信玄が(かか)げていた風林火山の ”侵略(しんりゃく)すること火の(ごと)” とは、火の手が回るような速さで()めるという意味ですが、山県昌景が率いた赤備えの騎馬隊(きばたい)は、遠巻きに見ると巨大(きょだい)な火のかたまりが移動しているように見えたといいます。

織田信長が率いる4万の大軍を6千の兵で迎撃(げいげき)し、信長の旗本衆を討ち取るなど、山県昌景の苛烈(かれつ)な戦いぶりから、いつしか赤備えは「最強部隊のみ許される自己表現」と考えられるようになりました。

しかし、山県昌景と戦国最強の武田騎馬隊(きばたい)にも、とつぜん終わりがやってきます。

信玄の死後、武田勝頼の指揮下で臨んだ1575年の長篠(ながしの)の戦いで、蓮吾川(れんごがわ)沿いに2kmにわたって設置された(さく)をみた山県昌景は、騎馬隊(きばたい)の不利を察します。騎馬隊(きばたい)が通れない(さく)の向こうから、鉄砲(てっぽう)()たれてはひとたまりもないからです。

これを主君・勝頼に説きますが、臆病者(おくびょうもの)馬鹿(ばか)にされてしまいます。

わからず屋の勝頼にあきれた山県昌景は「犬に説教してもはじまらぬ」と(なげ)いて出撃(しゅつげき)し、おびただしい鉄砲(てっぽう)銃撃(じゅうげき)をうけて壮絶(そうぜつ)な討死をしました。

山県昌景は、500人に1人とされる口唇裂(こうしんれつ)(わずら)っていました。
徳川家では、口唇裂(こうしんれつ)で産まれた子を「強くなるから縁起(えんぎ)がいい」とし、畏敬(いけい)の念をもって山県昌景の強さを伝えたといいます。

山県昌景が戦死した7年後、武田家は滅亡(めつぼう)。旧領は徳川領となりました。赤備えの部隊は井伊直政によって徳川家に引き()がれました。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1529年、山県昌景は甲斐国(かいのくに)飯富おぶ村に生まれます。歳の(はな)れた兄・飯富虎昌が武田信玄に仕えていたので、その(えん)小姓(こしょう)になりました。兄・虎昌と信玄の嫡男(ちゃくなん)・武田義信が謀反(むほん)(くわだ)てていることを告発し、信玄から信頼(しんらい)を得ました。これを機に兄から赤備え部隊を引き()ぎ、信玄のすすめで山県に改姓(かいせい)しました。

信玄から勝頼の転換期

川中島の戦いをはじめ主な戦いのほとんどに参戦し、飛騨国(ひだのくに)や徳川領を()める()りこみ部隊として活躍(かつやく)します。信玄の没後(ぼつご)は武田勝頼に仕えますが、折り合いが悪く、厄介者扱(かやっかいものあつか)いされてしまいました。

最後と死因

武田軍が徳川領・三河国(みかわのくに)()めた長篠(ながしの)の戦いで、山県昌景は織田軍の鉄砲隊(てっぽうたい)突撃(とつげき)して戦死しました。1575年6月29日、死因は討死。47歳でした。3千(ちょう)もの鉄砲隊(てっぽうたい)から絶え間ない銃撃(じゅうげき)をうけて、17か所に被弾(ひだん)しても落馬せず、手足がきかなくなると采配(さいはい)を口にくわえて特攻(とっこう)しました。

山県昌景の性格と人物像

山県昌景は「面倒見(めんどうみ)がよくて謙虚(けんきょ)な人」です。

家系のルーツが甲斐(かい)ではなかったため、他国から武田氏に就職した人たちの面倒(めんどう)をみていました。

強さの秘訣(ひけつ)を問われると「他国出身の部下たちが頑張(がんば)ってくれるから」と答える良い上司です。

いつも初陣(ういじん)の気持ちで、勝てると確信しないかぎり戦わないと心がける慎重派(しんちょうは)これも大切な部下を死なせないための気づかいです。

身長は140cmほどしかなく、上半身がかなり短い小男で、体重も軽かったといいます。小さくても立ち上がって下知(げち)する声はカミナリが落ちたような迫力(はくりょく)でした。

山県昌景の赤備えの甲冑(かっちゅう)本小札色々威朱具足(ほんこざねいろいろおどししゅぐそく)』は残っており、井伊直政の重臣・三浦十左衛門によって保管され、関ヶ原の戦いで十左衛門が着用したといいます。現在は山梨県の温泉旅館に(かざ)られています。

能力を表すとこんな感じ

山県昌景の能力チャート

山県昌景が現れただけで(おそ)れられているように、個の強さが際立ちます。気迫(きはく)あふれる小男(こおとこ)牽引(けんいん)された部隊は(おそ)れ知らずでした。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する山県昌景の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

山県昌景の有名な戦い

川中島の戦い かわなかじまのたたかい #1:1553.10.8 〜 10.27 △ 上杉軍? vs 武田軍? △ #2:1555.8.16 △ 上杉軍? vs 武田軍? △ #3:1557.5.16 〜 9.? △ 上杉軍? vs 武田軍? △ #4:1561.10.18 △ 上杉軍1万3千 vs 武田軍2万 △ #5:1564.? △ 上杉軍? vs 武田軍? △

北信濃を国人衆のもとに取り戻そうとする上杉謙信と、これを支配しようとする武田信玄の合戦。千曲川(長野県長野市小島田町)を挟んで5回対戦したが、決着はつかず。激戦となった第4次・八幡原の戦いでは、謙信が武田本陣に突撃し、信玄を斬りつけたエピソードがある。

川中島の戦いで山県昌景は引き分けています。

越後(えちご)豪傑(ごうけつ)・鬼小島弥太郎(194cm)と一騎討(いっきう)ちをしています。息を()む接戦でしたが、武田義信のピンチを知り、弥太郎に「勝負を預けたい」と伝えて義信の救出に向かいました。

三増峠の戦い みませとうげのたたかい 1569.11.16 ○ 武田軍2万 vs 北条軍2万 ●

北条氏の本拠地を攻めて、甲斐に引き揚げる武田信玄を、三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町)で北条軍が迎撃した合戦。北条綱成の鉄砲隊の攻撃で、浅利信種が討ち死にするなど、序盤は北条有利。しかし、山県昌景の奇襲が成功すると、武田軍が勢いづき、北条軍を押し退けた。

三増峠(みませとうげ)の戦いで山県昌景は勝っています。

別働隊を率いて、山岳(さんがく)地帯の高所から一気に北条軍に(おそ)いかかって撃破(げきは)しました。

三方ヶ原の戦い みかたがはらのたたかい 1573.1.25 ○ 武田軍3万 vs 織田&徳川軍1万5千 ●

西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。

三方ヶ原の戦いで山県昌景は勝っています。

徳川家康の生涯(しょうがい)における最大の危機といわれた戦いで、家康を追いつめたのは昌景でした。この戦いで昌景は徳川軍の本多忠勝に苦戦し、加勢にきた武田勝頼に救われています。

長篠の戦い ながしののたたかい 1575.6.29 ● 武田軍1万5千 vs 織田&徳川軍3万8千 ○

長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。

長篠(ながしの)の戦いで山県昌景は敗れています。

山県昌景のターニングポイントになった戦いです。
戦死者リストの一番上には山県昌景の名があり、信長と家康は勝利よりも山県昌景を討ち取ったことを喜びました。この敗戦をさかいに、武田家の衰退(すいたい)がはじまります。

山県昌景の詳しい年表と出来事

山県昌景は西暦(せいれき)1529年〜1575年(享禄(きょうろく)2年〜天正(てんしょう)3年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍(かつやく)した武将です。

15291飯富道悦の子息として甲斐国に生まれる。※安芸国の出身とする説あり
武田晴信(信玄)の奥近習になる。
155224信濃国攻めの功績により150の騎馬隊を率いる侍大将に抜擢される。
156133”第4次川中島の戦い”上杉政虎(謙信)との戦に参加。
156436甘利昌忠と飛騨国に向かい江馬時盛に加勢する。
156537武田信玄の暗殺を武田義信、飯富虎昌、長坂昌国、曽根虎盛が共謀する。これを告発。兄・飯富虎昌は自害。【義信事件】
飯富虎昌が率いた赤備えを継承する。
山県姓を継ぐ → 山県(三郎兵衛)昌景
156840今川領・駿河国攻めに参加。【第1次駿河侵攻】
156941駿河国・江尻城に入る。
今川領・大宮城攻めに参加。【第2次駿河侵攻】
北条領・小田原城攻めに参加。
”三増峠の戦い”北条綱成との戦に参加。別働隊を率いて奇襲を成功させる。
今川領・駿河国攻めに参加。【第3次駿河侵攻】
157143徳川領・遠江国、三河国攻めに参加。山家三方衆らを従属させる。
大野田城を攻略、菅沼定盈を蹴散らす。
157244武田信玄の西上作戦で別働隊を率いて信濃国から徳川領・三河国を攻める。
三河国・柿本城、武節城、長篠城を攻略、遠江国・井平城を攻略。
”一言坂の戦い”徳川家康との戦に参加。
”二俣城の戦い”徳川家康との戦に参加。
157345”三方ヶ原の戦い”徳川氏&織田氏との戦に参加。徳川家康を猛追する。
主君・武田信玄が死去。次代・武田勝頼に仕える。
157446”明知城の戦い”織田信長との戦に参加。鶴岡山で織田軍を襲撃。織田信長を退かせる。
”飯羽間城の戦い”織田信長との戦に参加。
”第1次高天神城の戦い”徳川家康との戦に参加。
157547”長篠の戦い”織田氏&徳川氏との戦に参加。織田軍の鉄砲隊に騎馬突撃して討死。
戦国時代で山県昌景が生きた期間の表
山県昌景の顔イラスト
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