赤備えの部隊は最強だった!なぜ強い?率いた武将は誰?

赤備えの部隊は最強だった!なぜ強い?率いた武将は誰?

『赤備え』とは、全身を赤い軍装で揃えた兵士で構成された部隊のこと。戦国時代に活躍した赤備えで有名なのは、武田騎馬隊でしょう。威風堂々と戦場を駆ける武田の赤備えは、さながら炎の如く敵軍を駆逐しました。そして、赤備えは最強部隊の証として知られます。なぜ、赤備えは最強だったのか?探ってみましょう。

赤備えのルーツと由来

赤備えをはじめに率いたのは、武田二十四将に数えられる猛将(もうしょう)・飯富虎昌です。武田信虎、武田信玄の二代に仕え、信玄の嫡男(ちゃくなん)である武田義信の傅役(もりやく)もつとめた武田家の宿老です。

甲山(こうざん)猛虎(もうこ)』と(おそ)れられた飯富虎昌の部隊は、武具、差し物、馬具に至るまですべて赤一色に身を包んだ騎馬兵(きばへい)のみで編成されました。

その戦いぶりは ”飯富虎昌隊の勢いたるや、あたかも猛虎(もうこ)羊群(ようぐん)突入(とつにゅう)したるがごとく、全軍が巨大(きょだい)な火の玉に見えたり” と『千曲之真砂(ちくまのまさご)』に記されています。


どうして虎昌は
目立つ赤装備にした?

そもそも虎昌が赤い(よろい)を身につけるようになったきっかけは、毎度の(いくさ)で敵の返り血を浴びて洗うのが面倒(めんどう)だから。

はじめから赤く染めておけばいいという理屈(りくつ)でした。

飯富虎昌は甲冑の汚れを理由に赤備えを思いついた

赤は戦場で目立つので、結果的に敵が寄ってくるので多くの首級を取れるようになりました。

飯富隊は次男以下の者で構成されていたといいます。次男では家名を()げないため、自分の働きで手柄(てがら)を立てなければ認められませんでした。

そこで、虎昌は配下にも赤い装備をさせて戦場での働きぶりを際立たせました。

朱色(しゅいろ)は染料が高価なので、手柄(てがら)を立てた者にだけ、大名から(あた)えられるご褒美(ほうび)でした。

ということは、ご褒美(ほうび)の赤備えをまとった武者は敵から見たら手柄(てがら)そのもの。当然、戦場ではねらわれやすくなりますので、強い者しか着られません。死にますから。

赤備えの元祖・虎昌は、武田義信の謀反未遂(むほんみすい)関与(かんよ)した容疑をかけられて自害します。

その後、内藤昌豊・小幡信真・浅利信種によって、武田の赤備えは継承(けいしょう)されました。

こうして赤備えは、武田軍を象徴(しょうちょう)する最強騎馬隊(きばたい)のカラーとして定着します。

飯富虎昌のイラスト
飯富虎昌のハナシを読む

飯富虎昌は、現在の山梨県にあたる甲斐国の武将です。武田信虎に叛き、敗れたのち信虎・信玄の二代に仕えました。武田軍の代名詞となる赤備えの騎馬隊を率いた元祖で、数々の戦いで武功を挙げます。信玄の嫡男・義信の傅役を務めますが、父子の不和に巻き込まれ、謀反を疑われて自害しました。享年62。

赤備えの強さの秘密は心理的効果にあり

」という色には、人間の闘争心(とうそうしん)(あお)る心理的効果があり、文字通り火がつくように気持ちが奮い立たされます。

これは身につけた場合にはたらく心理で、目にした相手には威圧感(いあつかん)(あた)えます。

実際、スポーツでも赤いユニフォームは勝率が高い傾向(けいこう)があります。

赤いユニフォームのゴールキーパーのPKセーブ率はその他の色の2倍という統計があり、キッカーに対する威圧(いあつ)効果と考えられています。

また、統一された軍装には、仲間意識や団結力を向上させる効果があります。

恐怖の赤備えを率いた武将たち

火の玉と比喩(ひゆ)された飯富虎昌の赤備えは、虎昌の死後も猛者(もさ)たちのコスチュームとして脈々と受け()がれます。

赤備えの直流は武田家の騎馬隊(きばたい)ですが、武田氏が(ほろ)んだのち、徳川家と真田家に派生します。

武田の赤備え=家康をフルボッコにして脱糞させた山県昌景

前述の飯富虎昌の弟である山県昌景(旧名・飯富源四郎)が、飯富隊を引き()ぎます。

虎昌と同じく、赤備えの騎馬隊(きばたい)を率いた昌景は、武田信玄()()み隊長として活躍(かつやく)しました。

山県昌景は身長140cmほどしかありませんでしたが、身の(たけ)よりも大きな太刀を自在に(あつか)い、敵を()り刻みました。

そのさまは対戦する者を戦慄(せんりつ)させ、戦場に昌景の旗印が見えると「小男が出るぞー!」と敵陣(てきじん)恐怖(きょうふ)しました。

1575年の三方ヶ原の戦いで、武田軍に惨敗(ざんぱい)して敗走する徳川家康猛追(もうつい)し、昌景に追われる(おそ)ろしさのあまり、家康は馬上で脱糞(だっぷん)(うんち()らし)したという逸話(いつわ)があります。

山県昌景のイラスト
山県昌景のハナシを読む

山県昌景(飯富源四郎)は、現在の山梨県にあたる甲斐国の武将です。武田四天王のひとり。身長140cmほどの小柄な体格で、ひときわ大きな太刀をふるい、戦国最強といわれた赤備えの武田騎馬隊を率いました。徳川領の攻略で存在感を発揮しますが、長篠の戦いで織田軍の鉄砲隊に敗れて戦死しました。享年47。

複数の武将が武田の赤備えを率いましたが、一般的に知られる赤備え最強のイメージや武田騎馬隊(きばたい)を印象付けたのは、虎昌と昌景の飯富兄弟です。

井伊の赤備え=武田から徳川にプライドを受け継いだ井伊直政

飯富虎昌 → 山県昌景と()がれてきた赤備えの公式な継承者(けいしょうしゃ)で三代目となるのが、徳川四天王の井伊直政です。

1582年に武田家が滅亡(めつぼう)し、その後の混乱で空白地となった武田領を徳川氏が接収します。

その際に空白地をめぐって北条氏との交渉役(こうしょうやく)をつとめた井伊直政の功績に対して、徳川家康から武田遺臣と赤備えがプレゼントされました。

さらに直政には、飯富虎昌が名乗っていた兵部少輔(ひょうぶのすけ)の役職が(あた)えられ、内外に対して赤備えの正当な継承者(けいしょうしゃ)であることが示されました。

直政の赤備えは『井伊の赤鬼』と呼ばれ、死後も井伊家に受け()がれています。

井伊直政のイラスト
井伊直政のハナシを読む

井伊直政は、現在の静岡県にあたる遠江国の武将です。徳川四天王のひとり。武田軍から引き継いだ赤備えで、赤鬼と恐れられた猛将です。徳川家康の腹心として、さまざまな交渉役をこなす秘書官でもありました。東軍を勝利に導いた関ヶ原の戦いでは、槍働きに加えて、敵将の調略と戦後交渉も行いました。享年42。

江戸時代末期の1853年に、ペリーの黒船が浦賀沖(うらがおき)に来航したおり、井伊の赤備えが江戸内海の警備にあたる様子が『ペリー浦賀(うらが)来航図』に(えが)かれています。

幕末期の長州(はん)と幕府軍の戦いで、250年前と変わらない井伊の赤備えのまま先鋒(せんぽう)をつとめた彦根藩(ひこねはん)は、目立つ軍装がライフル(じゅう)をかまえる長州兵のかっこうの的になってしまいました。

真田の赤備え=家康にトラウマを思い出させた真田幸村

真田の赤備えは、大坂の(じん)で真田幸村が率いたことで知られています。(ただ)し、幸村が初出ではなく、これより以前から幸村の兄・真田信之が真田家の軍装に赤を用いていたようです。

幸村が赤備えにした理由として、もうひとつ。

大坂の(じん)で幸村が戦ったのは徳川家康ですから、三方ヶ原で武田騎馬隊(きばたい)惨敗(ざんぱい)した家康にトラウマを思い起こさせるねらいがあったのではないでしょうか。

戦国時代で最後の大戦となった1615年の大坂夏の(じん)で、真田幸村隊は火の玉の如く徳川本陣(ほんじん)突撃(とつげき)

赤備えの真田隊によって、徳川の旗が無惨(むざん)()(たお)されますが、このような事態は三方ヶ原の戦い以来のことだったといいます。

真田幸村のイラスト
真田幸村のハナシを読む

真田幸村(信繁、好白)は、現在の長野県にあたる信濃国の武将です。関ヶ原の戦いのあとで九度山に流罪、不遇を過ごします。大坂の陣で戦国史に登場し、真田丸で徳川軍を相手に完封勝利を収めました。夏の陣では、玉砕覚悟で徳川本陣に突撃し、徳川家康を追いつめた苛烈な戦いぶりが伝説になりました。享年49。

1614年の大坂冬の(じん)では、井伊の赤備えを()いだ井伊直孝と、真田の赤備えの真田幸村が真田丸で激突(げきとつ)し、赤備え同士の対戦が見られました。

その他の赤備えたち

後北条氏には『北条五色(ごしき)備え』と呼ばれる白・黒・赤・青・黄のカラフルな部隊があり、このうち赤備えを北条綱高が率いました。

豊臣家の猛将(もうしょう)福島正則の配下には、朱塗(しゅぬ)りの甲冑(かっちゅう)(あた)えられた『赤坊主(あかぼうず)』と呼ばれる20()ほどの精鋭(せいえい)部隊が存在しました。

赤は進出色であり膨張色(ぼうちょうしょく)です。

赤備えの部隊は発色が良く、()き出て見えたといいます。膨張(ぼうちょう)して大きく見える効果も(あい)まって、(せま)ってくるような圧迫感(あっぱくかん)と実数より多く感じる威圧感(いあつかん)がありました。

なにより、戦場を(あざ)やかに()ける赤備えには(はな)がありました。

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