戦国三英傑(信長・秀吉・家康)くらべてみよう、ホトトギス

戦国時代の日本をリードした3人の英雄たちを『戦国三英傑』といいます。3人の英雄とは、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のことで、いずれも現在の愛知県から輩出されました。混迷の乱世で群雄が割拠した日本を、ひとつにまとめあげるために大きな功績を残しています。あらゆる視点から、戦国三英傑を比較してみましょう。
戦国三英傑の天下統一リレー
1467年の応仁の乱に端を発した戦国時代は、京都の争乱が各地に飛び火して、日本中が燃え続ける山火事のように収拾がつかなくなりました。
そんななか、力を持った戦国大名たちが台頭します。戦国大名たちは領土拡大に野心を燃やし、ちからのない者は淘汰されていきました。あまつさえ、いずれの戦国大名にも、日本をまとめあげる力量はなく、室町幕府の権威は地に落ちていました。
応仁の乱からおよそ100年後、混沌とした戦国ニッポンを切り拓く3人の英傑が現れます。それが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康です。
三英傑はバトンをつなぐように戦乱の世を終わらせました。とはいえ3人の天下リレーは、次の走者にバトンを託すといったものではなく、前走者が落としたバトンを抜け目なく拾うといったものでした。
第1走者=織田信長が天下への道を拓いた
1560年に桶狭間の戦いで今川義元をやぶった織田信長の登場によって歴史が大きく動き出します。
武力による天下統一『天下布武』を宣言した信長は、1568年に足利義昭を室町幕府第15代将軍に擁立し、幕府再興の大義名分を利用して台頭します。意に従わない大名や宗教勢力を次々と攻め滅ぼしました。最終的には不要となった室町幕府も滅ぼしてしまいます。
出自や経歴不問の超有能な家臣団を構成し、方面軍を配置して侵攻させて日本の半分ほどを支配下に置きました。
最後は家臣の明智光秀に裏切られ、1582年の本能寺の変で織田信長は自害します。天下統一というゴールを示した織田信長が第1走者として疾駆しましたが、ここでバトンを落とします。
1534年(天文3年)
5月12日生まれ。
愛知県愛西市勝幡町の出身です。
秀吉の3歳上、家康の8歳上。
1568〜1582年、35歳から49歳までの14年間が信長の全盛期でした。

つづいて豊臣秀吉が第2走者をつとめます。
第2走者=豊臣秀吉が天下統一を果たした
1582年の本能寺の変で織田信長が横死すると、信長の家臣だった豊臣秀吉が野望を引き継ぎます。
秀吉は、信長を襲撃した明智光秀を討ち果たして織田家を乗っ取ります。対抗馬の織田家老・柴田勝家を攻め滅ぼして織田家を弱体化させ、自ら大名として台頭しました。
朝廷に取り入って1585年に関白に就任。天皇に次ぐ立場を得るとこれを利用して、徳川家康をはじめとする大名たちを懐柔し、1590年に天下統一を果たしました。関白就任に伴って、豊臣秀吉を名乗ります。
朝鮮出兵など血迷った晩年を過ごしたのち、1598年に豊臣秀吉は病没します。天下統一という区間賞をとった第2走者の豊臣秀吉でしたが、死亡とともにワンマン政権は終了。ここでバトンを落とします。
1537年(天文6年)
2月6日生まれ。
愛知県名古屋市中村区の出身です。
信長の3歳下、家康の5歳上。
1585〜1598年、49歳から62歳までの13年間が秀吉の全盛期でした。

いよいよ徳川家康がアンカーをつとめます。
アンカー=徳川家康が戦国の世を終わらせた
1598年に秀吉が没した豊臣家で、最大の権力を握っていた徳川家康が動き出します。
豊臣家中に混乱を生じさせて二分すると、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成をやぶって徳川に歯向かう大名たちを一掃します。豊臣家臣でありながら粛々と政治基盤を固めて、1603年に征夷大将軍に就任。江戸に幕府を開きました。
1605年には徳川秀忠を江戸幕府第2代将軍に据えて、徳川の世襲を強調。これに反発する豊臣家を煽って挙兵させ、1614年と1615年の大坂の陣で、豊臣秀頼を攻め滅ぼしました。
江戸幕府を頂点とした『武家諸法度』を制定し、武家町人に至るまで徳川家が律する仕組みを残します。これにより再び争乱が起こせないようにコントロールしました。
天下泰平の総仕上げとして豊臣家を滅ぼした翌年の1616年に徳川家康は病没します。最終走者となった徳川家康は、最晩年までかけて長期政権を見据えた世作りをしました。家康が築いた江戸幕府は、260年も続いていきます。
1543年(天文11年)
1月31日生まれ。
愛知県岡崎市の出身です。
信長の9歳下、秀吉の6歳下。
1603〜1616年、61歳から74歳までの13年間が家康の全盛期でした。

こうして、三英傑の天下リレーと共に戦国時代は終わりました。
3人がつないだ天下バトンが存在する
織田信長が登場する以前、天下に最も近いと言われたのは『海道一の弓取り』こと、今川義元でした。桶狭間の戦いで義元が手にしていた太刀『義元左文字』は、戦利品として織田信長が持ち帰ります。
信長は二尺六寸(98cm)あった義元左文字を、二尺二寸(84cm)に短くカスタマイズして持ち歩きました。本能寺の変後、京の松尾大社の神官を経て、豊臣秀吉が手にします。秀吉の没後、江戸幕府をひらいた徳川家康の手に渡り、以降は徳川家に伝わりました。
信長、秀吉、家康が受け継いだことから、義元左文字は『天下取りの刀』と呼ばれています。現在も残っており、義元左文字は重要文化財として京都国立博物館に寄託されています。
戦国三英傑の人物像の違い
ホトトギスの狂歌にみる性格の特徴

信長・秀吉・家康の性格を表した有名な狂歌「鳴かぬなら ○○○○ ホトトギス」は、江戸時代の後期に書かれた『甲子夜話』にあります。この○○に入る言葉から、三英傑の性格が言い伝わっています。
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鳴かぬなら
殺してしまえ
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織田信長は、鳴かないホトトギスを殺してしまいます。
意に従わない者を討ち果たすスタイルと、些細なことでも人を斬り捨てたという信長の短気さを表しています。
成果主義であった信長は、部下の能力を重視しました。そのため、いくら勤続年数が長かろうとも、実績がともなわなければ解雇します。信長にとって、美しい鳴き声を聞かせないホトトギスなど不要でした。
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鳴かぬなら
鳴かせてみよう
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豊臣秀吉は、あらゆる手段でホトトギスを鳴かせてみせます。
なるべく戦わずに相手を調略したり、降伏させて天下を取った秀吉のやり方を表しています。
低い身分の出身であった秀吉には何の後ろ盾もなく、どうすれば出世できるか?どうやればライバルに勝てるか?つねに工夫とチャレンジの連続でした。合戦ばかりが戦じゃない。力任せでは人は従わない。秀吉は、どんなホトトギスでも鳴かせられると考えていました。
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鳴かぬなら
鳴くまで待とう
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徳川家康は、ホトトギスが鳴くまで何年でも待ちます。
信長、秀吉のもとで耐え、人間50年の時代に60歳手前までチャンスを待ち続けた家康の忍耐力を表しています。
家康の天下は待っていて転がってきたわけではありません。鳴くまで待つとは、相手が手を出すまで待つことであり、家康は狡猾な駆け引きが上手でした。今は鳴かなくとも、いずれホトトギスは鳴くことを家康は知っていました。
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じつは
続きがある
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鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス
鳴かぬなら、鳴かせてみようホトトギス
鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス
鳴かぬなら、鳥屋へやれよホトトギス
鳴かぬなら、もらっておけよホトトギス
甲子夜話にあるホトトギスを書いたのは、肥後国・第9代平戸藩主の松浦静山です。静山は、三英傑を引き合いに出して、鳥屋へやれよ(売ってしまえ)と第11代将軍・徳川家斉を揶揄し、もらっておけよでは拝金主義となった田沼意次の世相を皮肉っています。
身長や容姿の特徴
三英傑でいちばん身長が高いのは?どんな顔をしていた?信長・秀吉・家康の容姿に関する情報からわかることをまとめてみます。
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身長と体型
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織田信長の身長170cm、細身でマッチョ。ボクサーのような体格です。
豊臣秀吉の身長140〜150cm、体重45kgほどで華奢。弱々しい体格です。
徳川家康の身長159cm、恰幅が良く筋肉質。柔道家のような体格です。
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顔のつくり
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織田信長は髭は少なく面長、鼻筋が通った端正な顔立ち。切れ長で鋭い目をしていました。
豊臣秀吉は目が飛び出ていて髭は少ない、宣教師から醜悪と言われています。
徳川家康はふっくらした丸顔に、大きな耳と瞳がチャームポイントでした。
趣味や趣向、生活習慣の特徴
ストイックな信長、贅沢を好む秀吉、健康第一の家康、三英傑の趣向はまったく異なります。
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規則正しく
ストイックな信長
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織田信長は規則正しく几帳面、早寝早起きです。武術を好み、毎日の鍛錬を欠かしません。馬術・弓術は織田家中でもトップクラスの腕前でした。
お酒はまったく飲みません。食事の量も控えめで、湯漬け(お茶漬け)などパッと食べられる物を好みました。趣味は茶器コレクション。服装は派手な色やデザインが好きで、斬新なかっこうをしていました。肖像画が地味なのは、秀吉が後年の印象操作のために塗り替えさせたから。
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贅沢三昧
金ピカ好きの秀吉
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豊臣秀吉は病的なほどの女性好きで知られます。特に身分の高い女性に異常な執着があり、秀吉の様子を記録した宣教師も引くほど。貧民出身のコンプレックスが強く、アンタッチャブルな要素でした。
派手好きで贅沢趣向、権威を見せつけるためでもありましたが、金ピカの茶室まで作ってしまいました。身につける物は金ばかり。茶器あつめが趣味ですが、黒漆塗りは好みません。あらゆる物を食べ尽くし、好物は虎肉でした。
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質素でケチ
健康志向の家康
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徳川家康は健康志向で質素倹約。汚れが目立たないという理由から浅黄色の肌着を用いるなど、いささかケチな傾向があります。医者を信用せず、自分で薬を調合しているうちに薬学のエキスパートになっています。孫・家光の病気を自作の薬で治したこともあります。
食事は麦飯と豆味噌が基本。好物は鯛の天ぷらです。4人の剣術師範から習っていた剣の腕前はなかなかのものです。
戦国三英傑の戦い方の違い
てっぺんを目指した三英傑の戦い方には、ホトトギスの歌さながらの特徴があります。
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火力重視
すべてを燃やす信長
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圧倒的な武力で徹底的に殲滅するのが織田信長のやり方です。3千挺もの鉄砲隊で武田騎馬隊を壊滅させたり、比叡山延暦寺を山ごと燃やした焼き討ちなどがそれです。
相手の領内に踏み込んで戦うのが信長のセオリー。確実に勝利できる兵力の動員を基本としていました。例外的だったのが桶狭間の戦いで、今川本陣に特攻をかける急襲戦法で勝利しています。この時はまだ兵力が十分ではなかったため、最も勝算が見込めたのが敵本陣への特攻でした。
戦場では赤いマントをなびかせて、大名なのに先頭を駆けていました。
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戦意を削れ
戦わずに勝つ秀吉
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できるだけ味方の被害を少なくし、勝利を得るのが豊臣秀吉のやり方です。そのため、いかにして相手を降すかが戦い方の基本となります。
天下統一がかかった小田原征伐では、20万の大軍で小田原城を包囲。城の前でどんちゃん騒ぎをして見せたうえ、向かいの石垣山にいつの間にか城を築くなど、突飛なアイデアで北条方の戦意を喪失させました。
自ら本陣を離れることはほとんどなく、周りを動かすのが上手でした。
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ぶったね?
手を出させて潰す家康
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狸といわれた徳川家康は、しれっと相手が怒ることをしておいて、手を出してくるのを誘いました。相手が少しでも攻撃的な姿勢を見せたところで、正当性を主張してフルスイングをお見舞いします。
豊臣家の内乱を誘発した関ヶ原の戦いや、豊臣家を滅ぼした大坂の陣などがその典型です。豊臣家臣であった徳川家康が天下を取るためには、”戦う理由が重要” でした。そのため、先に手を出させることが戦略の第一歩でした。
けっこうないくさ好きで、最晩年まで自ら戦場に立ち続けました。
勝率が一番高いのは…
織田信長の戦績
82戦 59勝 15敗 8分
勝率:79.7%
豊臣秀吉の戦績
143戦 106勝 22敗 15分
勝率:82.8%
徳川家康の戦績
74戦 52勝 10敗 12分
勝率:83.9%
戦乱を戦い抜いた三英傑は、このような戦績でした。いずれも勝率8割ほどをマークしており、さすが乱世で勝利を重ねた英傑たちです。基本的に負けません。
僅差ですが、徳川家康の勝率83.9%が三英傑中トップです。家康の倍ほどの143戦を戦っている豊臣秀吉の勝率がほぼ同率というのは脅威的です。
ちなみに、戦国最強で知られる上杉謙信の勝率は96.8%という異常値。三英傑も恐れた武田信玄は勝率92.0%でこちらも異常値でした。
- 三英傑でつかんだ天下統一!武家政権によって混乱した愛知県域の中世の歴史 – カルチャー|まっぷるトラベルガイド
- 三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)を並べると何が見える?|Historist(ヒストリスト)
- 義元左文字 – Wikipedia
- 寓話から教訓を学ぶ「信長・秀吉・家康のホトトギス」 – 株式会社きらめき労働オフィス ブログ
- 本郷和人監修『戦国武将の解剖図鑑』エクスナレッジ
- 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社
- 歴史人『戦国武将最強ランキング』KKベストセラーズ
- 歴史と人物『戦国争乱「桶狭間の戦い」から「大坂の陣」まで』中央公論新社
- 学習まんが少年少女 日本の歴史『天下の統一』小学館
- 学習まんが少年少女 日本の歴史『江戸幕府ひらく』小学館
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