豊臣秀頼
1593.8.29 〜 1615.6.4

豊臣秀頼は、現在の大阪府北中部にあたる摂津国の武将・大名です。晩年を迎えた豊臣秀吉に生まれた待望の男子でした。幼くして父を亡くし、母である淀殿が豊臣家を主導しますが、征夷大将軍となった徳川家康に天下を奪われてしまいます。逆賊の汚名を着せられて大坂城を総攻撃され、母と自害しました。享年23。
- 豊臣秀頼の武将タイプ
- 文化
豊臣秀頼は何をした人?このページは、豊臣秀頼のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと豊臣秀頼が好きになる「時代に取り残され母・淀殿と大坂城と運命をともにした」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:豊臣秀頼
- 幼 名:拾
- 官 位:従三位、左近衛権中将、従二位、権中納言、権大納言、正二位、内大臣、右大臣
- 出身地:摂津国(大阪府)
- 領 地:摂津国、河内国、和泉国
- 居 城:大坂城
- 正 室:千姫(徳川秀忠の娘)
- 子ども:2男 1女
- 父と母:豊臣秀吉 / 淀殿
- 大 名:豊臣氏2代当主
時代に取り残され母・淀殿と大坂城と運命をともにした
天下人・豊臣秀吉の子に生まれ、徳川家康によって攻め滅ぼされた豊臣秀頼は、時代の移り変わりの犠牲となった気の毒な人物です。
父・豊臣秀吉は、なかなか子宝に恵まれず、ようやく側室・淀殿が男子を出産しますが早逝してしまいます。
待望の男子を失った秀吉は落胆し、我が子をあきらめ、1591年に甥・豊臣秀次に関白職をゆずって後継者とすることを決めました。
ところが、1593年にふたたび淀殿が男子を出産。
子どもをあきらめていた秀吉は狂気し、授かった希望の子を「拾」と名づけて溺愛しました。
すると、関白・豊臣秀次が邪魔になります。
拾が生まれた2年後の1595年、秀吉は甥である秀次に難癖つけて切腹させてしまいました。
その翌年の1596年、わずか4歳で元服した拾は豊臣秀頼と名乗り、急ピッチで家督相続が進められました。晩年を迎えていた秀吉には時間がなかったのです。
幼い我が子を補佐する『五大老・五奉行』のサポートシステムを制定し、1598年に豊臣秀吉はこの世を去りました。

秀吉は死に際に徳川家康の手を握り、涙して「秀頼を頼みます」と懇願しました。
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五大老・五奉行とは
なんだったのか
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秀吉が没すると、豊臣秀頼のことはそっちのけで徳川家康が権力を増幅させます。
この裏切り行為にキレた石田三成が1600年に関ヶ原の戦いで徳川家康に挑みますが、勝ったのは家康でした。
これを境に五大老・五奉行システムは終了。
以後は、淀ママが豊臣秀頼を後見することになります。
これだけでも誤算だったのに、家康は関ヶ原の戦いの恩賞と称して太閤蔵入地(豊臣家の直轄領)を味方した大名たちに分け与えてしまいます。
この結果、豊臣秀頼には大坂城の周辺しか領地が残されませんでした。
1603年、徳川家康が征夷大将軍になって江戸幕府をひらきます。
淀ママにはまさに寝耳に水。
調子に乗った家康から豊臣秀頼も家来になるよう求められます。
当然、淀ママは猛反発。「家来はお前のほうじゃろが!」と拒絶しました。
1605年には家康の三男・徳川秀忠が2代目将軍に就任。この先も徳川氏が武家を治めることをアピールされます。
いよいよ
「豊臣の天下ってどこいった?」
という状況になりました。
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そして、滅びの道へ
大坂冬の陣
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江戸幕府をひらいた家康は、豊臣秀頼が邪魔になります。それはかつて、関白・秀次が邪険にされたのと似ていました。
母子が暮らす大坂城にも、次第に徳川の脅威が迫ります。
これに備えるため、豊臣秀頼は関ヶ原の戦い後に徳川家康から罰を受けて領地や家を失った者たちに協力を求めます。
豊臣秀頼の呼びかけに、真田幸村、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登らが応じました。無職の牢人たちも加わり、大坂城には10万もの兵が集まりました。
1614年11月、大坂冬の陣が開戦します。
しかし、寄せ集めの豊臣勢は足並みが揃いません。
真田幸村は大坂城から出撃して戦うことを主張しますが、淀ママが「あぶないからダメ」と豊臣秀頼の出陣を却下。大坂城に引きこもって戦うことになりました。

大坂城の南に築いた真田丸での局地線に圧勝しましたが、家康は淀殿がいる本丸の奥御殿をねらって大砲をぶちこんできます。
女中たちが崩壊した建物の下敷きになるさまを見て、怖くなった淀ママは家康に和睦を願い出ました。
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ずっとベンチにいた
大坂夏の陣
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大坂城の外堀を埋める約束で和睦となりましたが、徳川方は内堀まで埋めてしまいます。
これでは約束がちがう。
大坂城にいた牢人たちは、これに腹を立てて堀を掘り返しました。
和睦はなかったことにされ、1615年5月、大坂夏の陣が開戦します。
堀もない。真田丸もない。もう大坂城から出て戦うしかありませんでした。追い詰められた豊臣勢は強く、毛利勝永や真田幸村の奮闘は凄まじいものでした。
ここで ”御大将が出馬すれば勢いがつく” という真田幸村の提案に豊臣秀頼も出陣を決めます。
ところが、淀ママが「あぶないからダメ!」と通してくれません。

出陣するはずの豊臣秀頼がなかなか出てこないので、御大将の馬印を持って一足先に戦場に赴いていた大野治長が迎えに戻ります。
このとき大野治長が馬印を持って大坂城に戻ったため、遠くから見ていた将兵たちが「秀頼さまが城に退いていく……負けたんだ」と誤解しました。
大野治長の大チョンボが原因で、兵たちは負けていないのに敗走をはじめます。
こうなると勢いづいたのは徳川のほう。
大軍が押し寄せてきて、豊臣秀頼は出陣しないまま大坂城を攻め落とされてしまいました。
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きっかけは
寺の釣鐘
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大坂冬の陣の3か月前、豊臣秀頼は父・秀吉の17回忌に向けて方広寺を修築しました。その際、釣鐘に彫られた2つの文字を徳川方から問題視されます。
”国家安康” は家康の二文字を割っていて縁起が悪い。”君臣豊楽” は豊臣の二文字が並んでいて縁起が良い。「これは徳川を呪ってる」と因縁をつけられました。
まったくの言いがかりであると弁解しますが聞き入れられず、母子は大坂城を出てよその土地に移るか、江戸城で徳川の管理下に入るか選択を迫られます。
こんな要求に応じられるはずがありません。どちらも拒否しました。
しかし、それこそ家康の思うつぼでした。反抗的な態度を誘って、幕府に叛く行為と追求し、攻め滅ぼすつもりだったのです。
この『方広寺鐘銘事件』を発端として、大坂城攻めが行われてしまったのでした。
* * * * *
大坂城の母子は、知らず知らず時勢から置いてけぼりになっていました。豊臣秀吉が手にした天下が、徳川家康に奪われるとは思ってもいませんでした。
1615年の大坂城の落城をもって、戦乱の時代は終わりました。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1593年、豊臣秀頼は摂津国・大坂城に太閤である豊臣秀吉の庶子として生まれます。側室・淀殿が産んだ第2子でしたが、第1子が夭逝していたため、誕生をとても喜ばれました。しかし、関白を継いでいた叔父・秀次が粛清されるなど、秀吉がすすめた強引な家督相続によって、大きな混乱がありました。
関ヶ原以後、領地が激減
父・秀吉の没後、サポート役の五大老・五奉行に不和が生じて、徳川家康が権力を強めます。関ヶ原の戦いに勝利した家康によって豊臣領の再編成が行われ、一大名に格下げされてしまいました。その後、徳川氏による江戸幕府がひらかれると疎外され、天下泰平を乱す者として討伐の兵が向けられてしまい、牢人を集めて抵抗しました。
最後と死因
大坂夏の陣で総攻撃を受けて炎上する天守閣から逃れ、豊臣秀頼は摂津国・大坂城の山里丸で母・淀殿や大野治長らと最期を迎えました。1615年6月4日、死因は自害。23歳でした。山里丸に徳川兵の銃弾が撃ちこまれるなか、近習をつれて籾蔵で腹を切り、毛利勝永に介錯されました。焼け跡から遺体は発見されませんでした。
領地と居城

摂津国、河内国、和泉国の3か国65万石が豊臣秀頼の領地でした。関ヶ原の戦いの後、徳川家康によって大名の所領が再編成され、その騒動にまぎれて220万石あった直轄領を減らされてしまいました。
豊臣秀頼の性格と人物像
豊臣秀頼は「母親に反抗できない子」です。
淀殿というクセがつよい母親を持つと子も大変ですが、一度も反抗しなかったのは歪んだ母子関係を物語っています。
ケガを心配する淀殿が武術の稽古を好まなかったため、武将としての猛々しさはありません。
公家風の教育を受けており、字が上手で文化的教養がありました。礼儀正しく、私欲がなく、領民思いのやさしい人柄です。
かまぼこが好物。後天性の難聴で左耳が不自由でした。身長6尺5寸(197cm)、体重43貫(161kg)という並はずれた巨漢です。
二条城で秀頼と会見した徳川家康は、その巨体に圧倒されて生かしておいては危険と秀頼の討伐を決めたといいます。
天下一といわれた愛馬『太平楽』は体高170cmのアラビア馬系。こちらも大柄な馬ですが、秀頼があまりの巨体であるため、馬に乗れなかったという説があります。
近年になって、豊臣秀頼のものと思われる頭蓋骨が見つかっています。高価な焼き物と一緒に埋葬され、墓穴にはハマグリやアサリが敷きつめられていました。太平楽とみられる馬の骨も近くから見つかっています。
戦場で使われることはありませんでしたが、秀頼の甲冑『金小札緋絲縅具足』が現存しています。
能力を表すとこんな感じ

豊臣秀頼は評価される実績が乏しく能力は未知数です。しかしながら、人々が命を賭して戦ってくれるほどの人望があり、民衆からも慕われる魅力がありました。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する豊臣秀頼の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
豊臣秀頼の面白い逸話やエピソード
本当の父親は豊臣秀吉ではないかもしれない
豊臣秀頼は、豊臣秀吉の子ではないかもしれないというのは有名な話です。
秀吉には大勢の側室がいましたが、子どもを産んだのは淀殿だけ。
秀頼の身長は2メートルもあったのに、父である秀吉は140cmほどしかない小男。
このような不自然さで、当時から本当に秀吉の子?と疑われていました。
では、豊臣秀頼は誰の子なのか?
俗説では、歌舞伎役者の名古屋山三郎、あるいは側近の大野治長が疑われています。しかし、秀吉のお気に入りである淀殿に手を出したら命はないでしょうから、2人ともそんなリスクを冒すとは思えません。
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子宝祈願
レッツ祈祷
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この時代には、子宝に恵まれない家を存続させるために、パートナーを変えて神社や寺に篭って祈祷が行われることがありました。
祈祷と称して神仏の前で受胎を試みるのです。淀殿は秀吉の公認でこの祈祷を行ったと考えられています。
このような場合、複数のパートナーと祈祷を行います。子どもが生まれたときに誰が親なのか特定できないようにするためです。
したがって、淀殿が誰の子を宿したのか本人にもわかりません。
淀殿は2回出産しています。
2回目が秀頼なのですが、2回目の祈祷は秀吉の承認なく行われました。というのも、秀頼を懐妊したのは秀吉が朝鮮出兵のために九州に出向いている間のことでした。
おそらく秀吉が不在なのをいいことに、淀殿が勝手に祈祷してしまったようです。
淀殿ご懐妊の知らせを受けた秀吉は「おまえの乳で育てなさい」と返答しています。
側室とはいえ天下人の愛人。身分が高い女性である淀殿に ”てめえで育てろ” とは、かなりお怒りです。
こうして淀殿は秀頼を母乳で育てることになったのですが、これが淀殿を子離れできない母親にしてしまいました。
鹿児島に落ち延びた秀頼生存説
このような童謡があります。
”花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたよ鹿児島へ”
これは、大坂の陣の直後に京都や大坂で流行したもので、真田幸村が豊臣秀頼をつれて鹿児島へ落ち延びたことを歌っています。
鹿児島で秀頼は「宗連」と名乗り、秀吉の正室・北政所の兄・木下家定の三男・木下延俊の庇護をうけて45歳まで生きたといいます。
秀頼の子・国松は延俊の子として木下延由を名乗り、豊後国・立石領主になったと直系子孫によって語り継がれています。
薩摩国・谷山に『谷山の酔喰』という酒好きの浪士がいました。
この男は1615年ごろから谷山に住みつき、酒を飲んではあちこちで寝転んでいました。
国主は領民に対してこの人物に手出し禁止(ちょっかい出しちゃだめ)を命じていたことから、高貴な身分の人=秀頼と噂されました。
島津氏を頼って鹿児島に逃げたという伝承は『秀頼の薩摩落ち』として伝わり、鹿児島市谷山には豊臣秀頼の墓とされる宝塔があります。
豊臣秀頼の有名な戦い
方広寺鐘銘事件を発端に、徳川氏と豊臣氏がついに衝突。徳川家康は20万の大軍で大坂城(大阪府大阪市中央区)に迫った。豊臣秀頼は牢人を集めて籠城。真田幸村が考案した真田丸で徳川勢を撃退した。しかし、徳川軍の大砲の威力を前に、豊臣氏は和睦を申しでた。
大坂冬の陣で豊臣秀頼は引き分けています。
豊臣討伐に動き出した徳川家康を大坂城に籠城して迎えうちます。真田幸村らが善戦しましたが、秀頼が陣頭に立つことはなく、本丸に砲撃を受けて母・淀殿が和睦を願い出ます。大坂城の掘を埋めることで講和となりました。
大坂冬の陣から半年後、徳川家康による豊臣氏の殲滅戦。大坂城付近(大阪府藤井寺市、阿倍野区など)で激しい局地戦が行われた。毛利勝永が奮闘し、徳川本陣に真田幸村が決死の突撃をしたが、数で勝る徳川軍が押し切った。大坂城は落城。豊臣秀頼は出陣の機会なく自害した。
大坂夏の陣で豊臣秀頼は敗れています。
豊臣秀頼のターニングポイントになった戦いです。
堀を埋められて裸城となった大坂城では戦えず、野戦となります。秀頼も出陣するはずでしたが、大坂城から出ないまま敗れ、豊臣氏は滅びました。このあとは、徳川氏の時代が続いてゆきます。
豊臣秀頼の詳しい年表と出来事
豊臣秀頼は西暦1593年〜1615年(文禄2年〜慶長20年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍した武将です。
1593 | 1 | 豊臣秀吉の庶子として摂津国に生まれる。幼名:拾 |
1595 | 3 | 豊臣秀吉が関白・豊臣秀次を切腹させる。【秀次切腹事件】 |
1596 | 4 | 元服 → 豊臣(藤吉郎)秀頼 |
1597 | 5 | 左近衞権中将に就任。 |
1598 | 6 | 権中納言に就任。 父・豊臣秀吉の死去により家督を相続。 豊臣秀吉の遺命により五大老・五奉行による合議制が敷かれる。 |
1599 | 7 | 五大老筆頭・徳川家康と奉行・石田三成が対立。 傅役・前田利家が死去。 |
1600 | 8 | 石田三成、大谷吉継が反徳川の挙兵。 関ヶ原の戦いが勃発。大坂城で毛利輝元に庇護される。 徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利する。 徳川家康によって豊臣領が諸大名に分配される。220万石 → 65万石。 |
1601 | 9 | 権大納言に就任。 徳川家康が奏上して九条兼孝が関白になる。 |
1603 | 11 | 徳川家康が征夷大将軍になる。【江戸幕府の成立】 内大臣に就任。 徳川秀忠の娘(千)と結婚。 |
1605 | 13 | 右大臣に就任。 徳川家康から会見を打診されるが母・淀殿が拒否する。 |
1607 | 15 | 右大臣を辞任。 |
1609 | 17 | 片桐且元に命じて方広寺の大仏殿の再建を開始。 |
1611 | 19 | 加藤清正に護衛されて徳川家康と二条城で会見する。【二条城会見】 |
1614 | 22 | 方広寺の釣鐘に彫られた「国家安康」の文字が不敬であるとして徳川家康から責められる。【方広寺鐘銘事件】 徳川氏の攻勢に備えて大坂城に牢人を雇い入れる。真田幸村、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登らが加わる。 ”大坂冬の陣”徳川家康が大坂城に攻めてくる。真田丸の真田幸村が善戦するが、大坂城本丸に大砲を受けて和睦。和睦の条件として真田丸の撤去と大坂城の外堀が埋められる。 |
1615 | 23 | 約束に反して大坂城の内堀まで埋められる。不服とした牢人たちが乱暴、狼藉をはたらき、塀や堀の復旧作業をする。 徳川家康から牢人の解雇および領地の移封を提案されるが拒否する。 ”大坂夏の陣”徳川家康が大坂城に攻めてくる。道明寺、八尾、天王寺などで大規模な局地戦が行われる。真田幸村、後藤又兵衛らが戦死。摂津国・大坂城で母・淀殿と自害。豊臣家滅亡 |

- 豊臣秀頼 – Wikipedia
- 豊臣秀頼の首は生きたアサリとともに埋葬をされたのか?(大阪城三の丸の発掘調査)(書籍『秀頼の首』より)- 物欲子(ぶつよくこ)のブログ
- 豊臣秀頼が秀吉の実子でなければ誰の子なの?僧侶かそれとも陰陽師か – BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
- 大坂の陣 – Wikipedia
- 淀殿 – Wikipedia
- 【漫画】豊臣秀頼の生涯~豊臣が滅んだ理由~【日本史マンガ動画】 – YouTube
- 本郷和人監修『戦国武将の解剖図鑑』エクスナレッジ
- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
- 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社
- 歴史と人物『戦国争乱「桶狭間の戦い」から「大坂の陣」まで』中央公論新社
- 歴史人『徳川家康 天下人への決断』ABCアーク