かたぎり かつもと

片桐且元

1556.?〜 1615.6.24

 
片桐且元の面白いイラスト
  

片桐且元(且盛、直倫、直盛)は、現在の滋賀県にあたる近江国の武将です。賤ヶ岳七本槍のひとり。秀吉の死後、豊臣秀頼を支えて多くの政務を担います。方広寺の復興事業を行った際、徳川氏との関係が悪化する方広寺鐘銘事件が起こり、両家の取次役に腐心しますが、内通疑惑で豊臣家を追放されました。享年60。

片桐且元は何をした人?このページは、片桐且元のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと片桐且元が好きになる「家康の罠で裏切り者に仕立てられ豊臣家を追い出された」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:片桐直盛 → 片桐直倫 → 片桐且盛 → 片桐且元
  • 幼 名:助作
  • 官 位:従五位下、市正
  • 出身地:近江国(滋賀県)
  • 居 城:茨木城 → 竜田城
  • 正 室:片桐半右衛門の娘
  • 子ども:3男 3女
  • 跡継ぎ:片桐孝利
  • 父と母:片桐直貞 / 不明
  • 大 名:豊臣秀吉豊臣秀頼

家康の罠で裏切り者に仕立てられ豊臣家を追い出された

片桐且元は、小姓(こしょう)のころから豊臣秀吉に仕えている武将で、衰退期(すいたいき)の豊臣家の重荷を一身に背負ってしまった気の毒な人物です。

秀吉が亡くなったあとの豊臣家では、徳川家康が台頭します。1603年に家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になると、豊臣氏と徳川氏が並び立つようになりました。

片桐且元は両家を取り持つべく、豊臣家を代表して徳川家に出入りするようになり、万事が丸く治まるように粉骨砕身(ふんこつさいしん)()くしました。

徳川家に関わるうち、片桐且元は天下の権力がすでに豊臣家にないことを(はだ)で感じます。

一方、豊臣家のほうは依然(いぜん)豊臣の天下” という認識で、現実とのギャップは相当大きなものでした。

片桐且元が徳川家との取次役になって14年が経ったころ、事件が起こります。


おわりのはじまり
方広寺鐘銘事件

豊臣秀頼による方広寺大仏殿(だいぶつでん)の再建事業を担当していた片桐且元は、大仏殿(だいぶつでん)が完成した方広寺の()(かね)を手配します。

梵鐘(ぼんしょう)には、南禅寺(なんぜんじ)(そう)・文英清韓が鐘銘文(しょうめいぶん)をしたためました。

ところが、()(かね)()られた『国家安康(こっかあんこう)』と『君臣豊楽(くんしんほうらく)』の文言が徳川方を(おこ)らせてしまいます。

「君臣豊楽」は豊臣の文字が並んで縁起(えんぎ)がいいが「国」は家康の名を割っていて失礼。(のろ)っている。わざとだろ。とカンカン。険悪なムードになってしまいました。

この1614年の『方広寺鐘銘(しょうめい)事件』をきっかけに豊臣家滅亡(めつぼう)の足音が聞こえてきます。


よもや
裏切ったな

徳川さんを(おこ)らせては大変。

片桐且元は弁解のため、徳川家康のもとを訪ねますが、すっかり(おこ)ってしまって会ってもくれません。こんなことは今まで一度もありません。

家康がたいへん(おこ)っていると報告した片桐且元は、徳川氏と争わないために誠意を見せる必要があると考え、方法として淀殿(よどどの)が江戸に人質に行くなど3つの条件を提案します。

片桐且元は豊臣家存続のために3つの提案をするが…

これを聞いた淀殿(よどどの)と豊臣家の重役たちは「なんで家康にそこまで卑屈(ひくつ)になるんだ!」と大激怒(だいげきど)。こっちもカンカンになってしまいました。

というのも、片桐且元と入れちがいで駿府(すんぷ)を訪ねた大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)(大野治長の母)からは、家康と面会し、たいそう機嫌(きげん)が良かったと報告があったのです。

大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)から家康の様子を聞いていた豊臣家の面々は、”片桐且元が(うそ)をついている” と疑っていました。

そこへ受け入れ難い話を持ちかけたので裏切り者と決められてしまい、動揺(どうよう)した重役たちから片桐且元は命をねらわれます。

自身の殺害計画を知った片桐且元は、()えきらない思いで大坂城を去りました。

豊臣氏から完全に天下をうばうため、片桐且元のような忠義者を裏切り者にして豊臣家の動揺(どうよう)をさそう。これは徳川家康のねらいどおりでした。家康が大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)機嫌(きげん)よく接したのはそのためだったのです。

片桐且元が大坂城を去ったことで豊臣家の内部崩壊(ほうかい)露見(ろけん)し、徳川家康に大坂城を()められてしまうのでした。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1556年、片桐且元は近江国(おうみのくに)・浅井郡須賀谷(すがたに)に片桐直貞の長男として生まれます。父が仕えていた浅井氏が(ほろ)び、代わって領主になった豊臣秀吉の小姓(こしょう)になりました。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで武功をあげ、秀吉に気に入られて検地などの行政で重宝されるようになります。

豊臣秀頼の側近に抜擢

秀吉の死後、その息子・豊臣秀頼の傅役(もりやく)になり、豊臣氏の家老職に就きます。江戸幕府をひらいた徳川氏との関係に()れる両家をつなぐ取次役を務めますが、どっちつかずの立場に疑いの目が寄せられました。

最後と死因

豊臣家中で暗殺されそうになったため、大坂城を退去します。その後、徳川家康による大坂城()めでは徳川方の陣中(じんちゅう)に招かれ、不本意ながら主家を(ほろ)ぼす側にまわってしまいました。豊臣家滅亡(めつぼう)から20日後、片桐且元は山城国(やましろのくに)・京の屋敷(やしき)で亡くなりました。1616年6月24日、死因は肺の病気または殉死(じゅんし)。60歳でした。

領地と居城

片桐且元の領地・勢力図(1601年)

大和国(やまとのくに)竜田(たつた)など2万8千石が片桐且元の領地でした。関ヶ原の戦いに参戦せず、大坂城の秀頼を守っていたことで加増を受けています。

片桐且元の性格と人物像

片桐且元は「板挟(いたばさ)みに苦しむ人」です。

豊臣家というブランド企業(きぎょう)の役員会と、徳川家という大手取引先とのあいだで双方(そうほう)の調整に苦しみますが、限界を()えても組織愛で()ん張ります。

淀殿(よどどの)から「秀頼の親代わりとなってほしい。且元の忠節は命ある限り忘れない」と信頼(しんらい)されたかと思えば、裏切りを疑われると(にく)さ100倍とばかりに命をねらわれてしまいます。

イエズス会の宣教師ジャン=クラッセによると、且元は狡猾(こうかつ)で、豊臣氏と徳川氏の双方(そうほう)に都合が良いことを話す二枚舌だとしています。

大坂城に(じゅん)じた大野治長と比較(ひかく)して、忠義者のような顔で大坂城に弓を引いた裏切り者と批判する評価も。

賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍(しちほんやり)』に名前が挙がるなど、じつは武芸に(ひい)でています。山崎の戦いで死体を装い、秀吉を不意討ちしようとした明智光近を討ち取ったという記述もあります。

片桐且元の所用とされる全身が熊の毛で(おお)われたモッフモフな甲冑(かっちゅう)総黒熊毛植兜(そうくろくまげうえかぶと)』が現存しています。

能力を表すとこんな感じ

片桐且元の能力チャート

誠実な仕事ぶりの片桐且元はいつも一生懸命(いっしょうけんめい)(だれ)もが信頼(しんらい)する人間性ですが、実直さを政治利用された感が否めません。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する片桐且元の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

片桐且元の有名な戦い

賤ヶ岳の戦い しずがたけのたたかい 1583.6.6 〜 6.13 ○ 羽柴軍5万 vs 柴田軍3万 ●

信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの福島正則ら若手武将が活躍した。

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで片桐且元は勝っています。

目覚ましい活躍(かつやく)をみせた且元は、福島正則や加藤清正らと並んで『賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍(しちほんやり)』に数えられる武功をあげました。

大坂冬の陣 おおさかふゆのじん 1614.12.19 〜 1615.1.19 △ 徳川幕府軍20万 vs 豊臣軍9万 △

方広寺鐘銘事件を発端に、徳川氏と豊臣氏がついに衝突。徳川家康は20万の大軍で大坂城(大阪府大阪市中央区)に迫った。豊臣秀頼は牢人を集めて籠城。真田幸村が考案した真田丸で徳川勢を撃退した。しかし、徳川軍の大砲の威力を前に、豊臣氏は和睦を申しでた。

大坂冬の(じん)で片桐且元は引き分けています。

片桐且元のターニングポイントになった戦いです。
戦いが起こる直前に徳川陣営に加わります。大坂城の内部事情に詳しかった且元の情報をもとに、淀殿(よどどの)がいる場所へ大砲が撃ち込まれたといいます。

大坂夏の陣 おおさかなつのじん 1615.5.23 〜 6.4 ○ 徳川幕府軍16万5千 vs 豊臣軍5万5千 ●

大坂冬の陣から半年後、徳川家康による豊臣氏の殲滅戦。大坂城付近(大阪府藤井寺市、阿倍野区など)で激しい局地戦が行われた。毛利勝永が奮闘し、徳川本陣に真田幸村が決死の突撃をしたが、数で勝る徳川軍が押し切った。大坂城は落城。豊臣秀頼は出陣の機会なく自害した。

大坂夏の(じん)で片桐且元は勝っています。

大野治長から秀頼母子が大坂城内の山里丸に避難(ひなん)したことを知らされた且元は、徳川秀忠に2人の場所を伝えて助命を嘆願(たんがん)します。しかし、これは聞き入れられず山里丸は総攻撃(そうこうげき)され、2人の居場所を知らせる結果となってしまいました。

片桐且元の詳しい年表と出来事

片桐且元は西暦(せいれき)1556年〜1615年(引治(こうじ)2年〜慶長(けいちょう)20年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15561片桐直貞の嫡男として近江国に生まれる。幼名:助作
157318羽柴(豊臣)秀吉の小姓になる。
158219”備中高松城の戦い”毛利輝元との戦に参加。鎌倉峯砦を攻め落とす。
158328”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家との戦に参加。
158429”小牧・長久手の戦い”徳川家康との戦に参加。
158631市正に就任。
158732九州征伐に従軍。軍船を調達する。
159035豊臣秀吉が小田原城を開城降伏させる。北条家滅亡
鶴岡八幡宮の修復と検地を行う。
159136出羽国・秋田で検地を行う。【奥州仕置】
159237弟・貞隆と朝鮮国に渡る。釜山に駐在。街道普請などを指示する。【文禄の役】
”第1次晋州城攻防戦”細川忠興の指揮下で朝鮮軍が篭る晋州城を攻める。
159338”第2次晋州城攻防戦”宇喜多秀家の指揮下で朝鮮軍が篭る晋州城を攻める。
朝鮮国から帰国。
159439伏見城の普請奉行を務める。
摂津国と河内国北部の検地奉行を務める。
159540方広寺の作事奉行を務める。
豊臣秀吉から播磨国の一部を拝領する。
159843醍醐寺で行われた花見の御興添頭として警護を務める。【醍醐の花見】
主君・豊臣秀吉が死去。次代・豊臣秀頼に仕える。
159944豊臣秀頼の傅役として大坂城に入る。
160045”大津城の戦い”*徳川家康との戦に家臣を派遣する。
徳川家康のもとに長女を人質に出す。
160146大和国・竜田城を居城にする。
豊臣秀頼の代理で政務を行う徳川家康を輔佐する。大坂総奉行と呼ばれる。
徳川家臣・大久保長安の検地に協力する。
寺社総奉行を務め寺院復興事業を担う。
160449豊臣秀吉の7回忌の総奉行を務める。
160550徳川家康から豊臣氏の直轄領を管轄する国奉行を任じられる。
160954方広寺の大仏殿の再建がはじまる。奉行を務める。
161055豊臣秀吉の13回忌の総奉行を務める。
161156徳川家康と豊臣秀頼の会見を斡旋し立ち会う。【二条城会見】
161459方広寺の釣鐘に彫られた「国家安康」の文字が不敬であるとして徳川家康から責められる。【方広寺鐘銘事件】
駿府城を訪ね徳川家康に弁明を試みるが面会が叶わず。
徳川氏との不和を回避するために3つの方策を提言する。淀殿と大野治長から猛バッシングを受ける。
大野治長による暗殺計画を知る。淀殿から隠居を命じられ大坂城を去り、弟・貞隆の茨木城に入る。
大坂城を攻める徳川家康の陣営に加わる。
”大坂冬の陣”豊臣氏の討伐戦に参加。大坂城本丸への砲撃に関与する。
161560徳川家康に隠居を願い出るが許されず。
”大坂夏の陣”豊臣氏の討伐戦に参加。岡山口に布陣する。徳川秀忠に豊臣秀頼と淀殿の助命を願うが拒否される。豊臣家滅亡
山城国・京で病死。
戦国時代で片桐且元が生きた期間の表
片桐且元の顔イラスト
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