前田利家
1539.1.15 〜 1599.4.27

前田利家は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将・大名です。豊臣五大老のひとり。織田信長とは少年時代からの付き合いで、親衛隊として戦いました。6mもある派手な槍を振るって大暴れする姿から、槍の又左と呼ばれます。信長の死後は豊臣秀吉に仕えて加賀を領有し、豊臣家のご意見番になりました。享年61。
- 前田利家の武将タイプ
- 猛将
前田利家は何をした人?このページは、前田利家のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと前田利家が好きになる「信長の親衛隊長・槍の又左が秀吉の時代に家康を抑えた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:前田利家
- 幼 名:犬千代
- あだ名:槍の又左
- 官 位:従四位下、左近衛権少将、筑前守、右近衛権中将、正四位下、参議、従三位、権中納言、従二位、権大納言、贈従一位
- 出身地:尾張国(愛知県)
- 領 地:能登国、加賀国、越前国
- 居 城:七尾城 → 小丸山城 → 金沢城
- 正 室:まつ(篠原一計の娘)
- 子ども:8男 10女 1養
- 跡継ぎ:前田利長
- 父と母:前田利春 / 長齢院
- 大 名:織田信長 → 豊臣秀吉
信長の親衛隊長・槍の又左が秀吉の時代に家康を抑えた
石川県のきらびやかなイメージを表した『加賀百万石』というフレーズは多くの人が耳にしたことがあると思います。前田利家は、加賀百万石を築いた開祖となった武将です。
前田 ”又左衛門” 利家は、自分で赤く塗ったという長さ6.3mの大槍を振るって戦場を暴れ回りました。
顔面に矢を受けたまま槍で敵を仕留めたこともあり、それ以来『槍の
女物の着物を着くずしてアレンジした異様な格好で練り歩く傾奇者だった前田利家は、うつけ(ばか)と言われていた少年・織田信長を取り巻く悪ガキの筆頭でした。
悪ガキは、やがて赤い母衣を背負った精鋭部隊・赤母衣衆を率いて、佐々成政の黒母衣衆と並び、信長の親衛隊をつとめました。
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暴れん坊の
槍の又左
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馬上にまたがる前田利家の腰のまわりに首が3つ4つ、手に持った槍の先にも首が突き刺してある恐ろしいワンショットが残っています。

これは1560年の桶狭間の戦いで活躍した前田利家を描いたものですが、じつはこの合戦には呼ばれていませんでした。
というのも、1559年に信長お気に入りの茶坊主をうっかりぶっ殺してしまう事件を起こして、前田利家は織田家を追放されていたのです。
つまりこれは、信長に許してもらうために沢山の首を持参した前田利家の姿です。ところが、信長は勝手に参戦したことを怒ります。
許されるどころか叱られて腹を立てた前田利家は、この首を泥にぶちこんで捨ててしまいました。
1561年に信長が美濃を攻めた森部の戦いにも勝手に参戦し、首取足立と呼ばれる怪力の豪傑・足立六兵衛を一騎討ちで倒して、織田家に戻ることを許されました。
1570年の野田城・福島城の戦いでは、撤退する織田軍が石山本願寺の門徒に追撃されます。
前田利家は淀川を挟んだ対岸に立ち、橋を渡ってくる本願寺門徒をたったひとりで追い払う活躍をします。
この働きを信長は ”日本無双の槍” と称えました。
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北陸の親分
にらみをきかせる
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本能寺の変で信長が亡くなると、遺志をついだ豊臣秀吉が1590年に天下統一を果たします。
秀吉と古くからの友達だった前田利家は、これを支えて出世します。
能登国、加賀国、越前国の北陸ラインを統括し、上杉氏や徳川氏を牽制しました。北陸道に立ちはだかり、大坂に居る秀吉を守る盾の役割を果たしていました。

加賀と大坂のホットラインは、東国大名ににらみをきかせる効果が抜群で、江戸の徳川家康も前田利家の存在が気になって大人しくせざるを得ませんでした。
抑えがきかない暴れん坊だった前田利家は、豊臣政権では他者を抑制する監視役を担いました。
1598年に豊臣秀吉が没した翌年、ちから尽きるように前田利家も亡くなります。すると、この呪縛から解放された徳川家康が待っていたかのようにアクションを起こしました。
そして、1600年に豊臣家を二分する関ヶ原の戦いが起こり、これに勝利した徳川の世がはじまります。
前田利家とは、信長、秀吉、家康のそれぞれに異なる関わり方をして歴史を創出したひとりでした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1539年、前田利家は尾張国・荒子城に前田利春の四男として生まれます。織田信長の小姓から赤母衣衆の筆頭に抜擢されますが、信長の怒りにふれて追放。許されて復帰を果たすと柴田勝家に預けられ、数々の戦いで武功を挙げます。信長の死後、織田家の内部抗争では賤ヶ岳の戦いで勝家から離反し、豊臣秀吉を味方しました。
豊臣政権の重役として
秀吉から加賀を与えられ、北陸を見張る役目をします。小田原征伐や奥州仕置で秀吉の天下統一に貢献し、なんでも話せる側近をつとめました。晩年になると、秀吉の後継者である幼い豊臣秀頼の傅役として五大老の上首に任命されます。秀吉の死後、次第に荒れる豊臣家中の統制に腐心しました。
最後と死因
五大老のひとり徳川家康に不審な点があり、石田三成が追求します。対立する両者のいざこざを仲裁し、秀吉が没した8か月後に前田利家は摂津国・大坂城で亡くなりました。1599年4月27日、死因は消化器系のがん。61歳でした。病床を見舞う家康と刺し違えようかと、抜いた太刀を布団の下に隠していました。
領地と居城

加賀百万石で知られる前田家ですが、それは次代・利長や次々代・利常のころの話で、前田利家のときは能登国、加賀国、越前国あわせて83万石ほどでした。
前田利家の性格と人物像
前田利家は「怖いもの知らずな人」です。
気に入らない奴はぶん殴る、やられたら倍返し。カッとなって、やりすぎてしまうのが玉にきずです。
晩年になっても「もしも死んで地獄に堕ちるなら、閻魔大王と一戦やってやる」と意気込み、妻からも「あんたは地獄に行くだろね」と太鼓判をもらっています。
派手好き目立ちたがり屋の傾奇者で知られ、利家(19)まつ(12)で結婚し、翌年に娘が生まれるフリーダムっぷりです。
愛妻家で、まつが作った大根やごぼうなどの根菜をつかったあつめ汁と玄米が好物でした。
織田家を追い出された無給時代の貧乏暮らしから、お金の大切さを知りすぎてケチになってしまいます。
しかし、困っている人には大金を貸し「返せないやつの借金はなかったことにしてやれ」と遺言しています。
最晩年に死期が近いことを知ると、およそ50名に対して財産分与をかなり細かく決めました。
身長182cm、細身で長身。端正な顔立ちのイケメンで、立っているだけで絵になるタイプでした。異様な格好でねり歩く姿は怖がられましたが、若い娘は利家の危険な雰囲気にキャーキャーさわぎました。
織田信長とはリーダーと子分、男色の恋仲でもありました。
つねに持ち歩いていた愛用の算盤(当時はハイテク)は、日本最古の部類のものとして、保管されています。
前田利家が身につけたド派手な金ピカの兜『長烏帽子形兜』や鍾馗様が描かれたド派手な陣羽織も現存しています。
能力を表すとこんな感じ

ゴリゴリの武闘派である前田利家は単騎で強さを発揮します。親分肌で人情味があり、豊臣家の若手武将たちから慕われました。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する前田利家の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
前田利家の面白い逸話やエピソード
妻・まつの内助の功にたびたび助けられる
妻・まつは、利家の従妹にあたる娘さんです。まつは12歳で嫁いで13歳で娘を出産、利家との間に合計で2男9女を授かりました。
利家の子をたくさん産んだという以外にも、多くの面で前田家を支えたアゲマンでした。
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まつのおかげで
秀吉に許してもらう
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本能寺で織田信長が討たれた後、混乱する織田家では、親友の豊臣秀吉が台頭します。これに対抗したのは利家の上司である柴田勝家でした。
ふたりは賤ヶ岳の戦いで争うことになり、柴田方として参戦した利家は、どうしたらいいのかわからず何もしないうちに家に帰ってしまいました。
友達の秀吉につきたい気持ちをまつに伝えると、まつは秀吉の妻・ねねに頼んでくれました。
柴田方として敵対した利家に秀吉は怒りましたが、まつが懸命にお願いして家来にしてもらいました。
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まつのおかげで
末森城を防衛する
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小牧・長久手の戦いで、利家は豊臣秀吉から金沢城の守備を命じられます。
利家が金沢城から動けずにいるのを知った佐々成政が、前田領・末森城を攻めました。
まつは、軍費をケチっていたせいで末森城が手薄になっていたことを皮肉って「まだお金が惜しいのね。いっそ金銀に槍でも持たせたらいかが?」と、金銀が入った袋を差し出しました。
利家は「金を貯めていたのが正しかったと教えてやらあ!」と啖呵を切って、金で兵を集めると末森城に向かい、佐々勢を追い散らしました。
まつの思惑どおりになりました。
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まつのおかげで
前田家が助かる
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利家の死後、跡を継いだ前田利長は、天下取りに乗り出した徳川家康から言いがかりをつけられます。
あらぬ嫌疑をかけられた利長は家康と戦う気でいましたが、まつがこれを止めました。
まつは、自ら人質として家康のもとに出向き、利長の異母弟・前田利常の嫁に徳川秀忠の娘をもらうことで徳川家と争うつもりがないと示しました。
まつの機転によって、前田家は存亡の危機を逃れました。
茶坊主を斬って追放されてしまう
拾阿弥という織田信長のお気に入りの茶坊主は、利家らにも横柄に振る舞うなど、信長の威を借りて調子に乗っていました。
あるとき、まつからもらった利家の大切な佩刀の笄(刀につける止め具)を拾阿弥が盗み、からかってきました。
利家はこれに我慢できず、信長の目の前で拾阿弥を斬ってしまいます。
信長は言葉にならないほど怒り、利家を斬り捨てようとしますが、柴田勝家が止めに入ったおかげで助かりました。
しかし、信長の怒りはおさまらず『笄斬り事件』と呼ばれるこの出来事で、利家は出仕停止処分(クビ)になってしまいます。
信長から許されたのは、事件から2年後でした。
前田利家の有名な戦い
織田信長の家督相続を不満とする弟・織田信行が挙兵、稲生原(愛知県名古屋市西区名塚町)付近で行われた合戦。序盤、柴田勝家を擁する信行軍が優勢に進めるが、戦線にいた織田信長が大声で叫ぶと柴田隊が混乱。信長が林通具を討ち取ると信行軍は敗走した。
稲生の戦いで前田利家は勝っています。
利家は右頬にうけた矢がささったまま戦い、矢を射った宮井勘兵衛を槍で突き刺しました。凄まじい戦いぶりで槍の又左の面目躍如となった合戦です。
長良川を渡って森部村(岐阜県安八郡安八町森部薬師堂)に侵攻した織田信長と斎藤氏が激突した合戦。信長は、討って出てきた斎藤軍を沼地に誘い、伏兵で囲い討ちで壊滅させた。織田軍の戦果は目覚ましく、前田利家が敵の豪傑・足立六兵衛を討ち取る活躍をした。
森部の戦いで前田利家は勝っています。
出仕停止中のオフィシャルではない立場ながら、押しかけ参戦した利家は、斎藤方の豪傑・足立六兵衛をひとりで討ち取りました。「足立の首は城ひとつに値する」と信長から帰参を許された合戦です。
摂津国中嶋(大阪府大阪市福島区)に城を築いて挙兵した三好三人衆を、織田信長が討伐に向かった合戦。三角州をまたいで、両軍鉄砲による銃撃戦が行われた。突如、本願寺軍が織田軍を背後から攻撃。第1次石山合戦とも呼ばれ、本願寺と信長が10年も抗争する発端になった。
野田城・福島城の戦いで前田利家は敗れています。
戦いに敗れはしますが、そこからが利家の見せ場でした。春日井堤に留まって本願寺門徒をひとりで相手にし、信長を京に退かせました。
信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの福島正則ら若手武将が活躍した。
賤ヶ岳の戦いで前田利家は敗れています。
前田利家のターニングポイントになった戦いです。
悩んだすえ、利家は親友・羽柴秀吉との戦闘を避けました。秀吉に降伏したのち、柴田攻めの先鋒を命じられ、世話になった上司を滅ぼしました。これを境に秀吉の側近として天下に影響力を持つまでになります。
小牧・長久手で羽柴氏と徳川氏の争いがおこると、能登では佐々成政が前田領の末森城(石川県羽咋郡宝達志水町)を攻撃。城主・奥村永福が奮闘するが、落城寸前まで追い込まれる。金沢城から駆けつけた前田利家が背後から佐々勢を攻めて撃退に成功した。末森の合戦とも。
末森城の戦いで前田利家は勝っています。
秀吉からは金沢城の守備を命じられていましたが、まつの助言もあって末森城の援軍に向かい、ギリギリのところで佐々成政を追い払いました。
前田利家の詳しい年表と出来事
前田利家は西暦1539年〜1599年(天文7年〜慶長4年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1539 | 1 | 前田利春の四男として尾張国に生まれる。幼名:犬千代 |
1551 | 13 | 織田信長に仕える。 |
1552 | 14 | ”萱津の戦い”初陣。織田信友との戦に参加。 元服 → 前田(又左衛門)利家 |
1556 | 18 | ”稲生の戦い”織田信行との戦に参加。 |
1558 | 19 | ”浮野の戦い”織田信賢との戦に参加。 篠原一計の娘で従妹(まつ=芳春院)と結婚。 |
1559 | 21 | 同朋衆の拾阿弥を斬り殺す。織田信長に激怒されて出仕停止処分になる。【笄斬り事件】 |
1560 | 22 | ”桶狭間の戦い”今川義元との戦に無断で参加。3の首級をあげるが許されず。 |
1561 | 23 | ”森部の戦い”斎藤龍興との戦に無断で参加。足立六兵衛を一騎討ちで討ち取る。織田信長に許されて出仕停止から復帰する。 |
1569 | 31 | 織田信長の命令で兄・前田利久に代わって家督を相続。 |
1570 | 32 | ”金ヶ崎の戦い”朝倉義景との戦に参加。退却する織田信長の護衛を務める。 ”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。浅井弥七郎を討ち取る。 ”野田城・福島城の戦い”三好三人衆との戦に参加。淀川の春日井堤に留まり、ひとりで本願寺勢を食い止めて信長本隊を退却させる。 ”志賀の陣”比叡山延暦寺に篭る浅井氏&朝倉氏との戦に参加。 |
1571 | 33 | ”第1次長島一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。 ”比叡山焼き討ち”比叡山延暦寺の殲滅戦に参加。 |
1573 | 35 | ”一乗谷城の戦い”朝倉義景との戦に参加。朝倉家滅亡 ”小谷城の戦い”浅井長政との戦に参加。浅井家滅亡 ”第2次長島一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。 |
1574 | 36 | ”第3次長島一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。早尾口から攻める。 柴田勝家の与力になる。 |
1575 | 37 | ”第2次高屋城の戦い”三好康長&石山本願寺との戦に参加。 ”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。 ”越前一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。捕縛した千人ほどを磔、釜茹でにする。 織田信長から越前国・府中を拝領する。佐々成政、不破光治と分割統治する。 |
1577 | 39 | ”手取川の戦い”柴田勝家の指揮下で上杉謙信との戦に参加。 |
1578 | 40 | ”三木合戦”羽柴秀吉の指揮下で別所長治との戦に参加。 |
1579 | 41 | ”有岡城の戦い”荒木村重が織田氏に叛く。討伐に向かう。 |
1580 | 42 | ”加賀平定戦”柴田勝家の指揮下で一向宗門徒の殲滅戦に参加。 |
1581 | 43 | 織田信長から能登国を拝領する。 能登国・七尾城を居城にする。 京都で行われた軍事パレードに参加。【京都御馬揃え】 |
1582 | 44 | 能登国・七尾城を廃城し、小丸山城を築城、居城にする。 ”魚津城の戦い”柴田勝家の指揮下で上杉景勝との戦に参加。 主君・織田信長が死亡。【本能寺の変】 |
1583 | 45 | ”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家の指揮下で羽柴(豊臣)秀吉との戦に参加。戦線を放棄して単独降伏する。 ”北ノ庄城の戦い”羽柴秀吉の指揮下で柴田勝家の居城を攻める。先陣を務める。 羽柴秀吉から加賀国・石川を拝領する。 加賀国・金沢城を居城にする。 |
1584 | 46 | ”末森城の戦い”佐々成政が能登国に侵攻してくるが、撃退する。 |
1585 | 47 | ”越中征伐”佐々成政との戦に参加。富山城を包囲する羽柴軍10万を先導する。 丹羽長秀が自害。羽柴秀吉から丹羽領・越前国を拝領する。 北陸地方最大の大名となる。 |
1586 | 48 | 左近衞権少将に就任。 |
1587 | 49 | 島津氏の討伐で留守になる畿内の守備を任される。 |
1590 | 52 | 参議に就任。 ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。上杉景勝、真田昌幸を従えて北条領を攻める。 ”碓氷峠の戦い”大道寺政繁を碓氷峠で撃破。松井田城を包囲して開城降伏させる。 箕輪城に進軍。無血開城させる。 上野国を平定。 北条領・武蔵国に侵攻。北条氏邦が篭る鉢形城、松山城を次々と開城降伏させる。 ”八王子城の戦い”八王子城を陥落させる。 ”忍城の戦い”石田三成の指揮下で成田長親との戦に参加。 豊臣秀吉が小田原城を開城降伏させる。北条家滅亡 豊臣秀吉の天下統一が成る。 小田原参陣に遅れた伊達政宗を尋問。 豊臣秀吉の奥羽地方の領土仕置に同行する。【第1次奥州仕置】 |
1591 | 53 | ”九戸政実の乱”九戸政実の鎮圧戦に参加。津軽方面から制圧する。【第2次奥州仕置】 |
1592 | 54 | 朝鮮出兵に備えて肥前国・名護屋城に入る。朝鮮には渡らず。【文禄の役】 |
1594 | 56 | 権中納言に就任。 |
1595 | 57 | 徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景が五大老に任じられる。 蒲生氏郷の死後、蒲生家のお家騒動を調停する。【蒲生騒動】 |
1596 | 58 | 権大納言に就任。 |
1597 | 59 | 権大納言を辞任。 |
1598 | 60 | 長男・前田利長に家督を譲って隠居。 豊臣秀頼を支える五大老・上首に任じられる。 主君・豊臣秀吉が死去。次代・豊臣秀頼に仕える。 豊臣秀吉の遺命により五大老・五奉行による合議制が敷かれる。 |
1599 | 61 | 豊臣秀頼の傅役として摂津国・大坂城に入る。 徳川家康の婚姻政策に石田三成が反発し、騒動になる。仲裁して誓書を交わさせる。 摂津国・大坂城で病死。 |

- 前田利家 – Wikipedia
- 前田利家 【 戦国武将 人物解説と年表 】
- あの信長も折れた『前田利家』とは??『槍の又左』との異名を持つ利家の生涯に迫る!!|サムライ書房
- 前田利家の正室・まつを5分で!子供やかっこいい生き様って?|れきし上の人物.com
- 【戦国内助の功】利家を支えた妻・まつ(芳春院)と、前田家を継ぎ守った息子たち|歴人マガジン
- 前田利家 ヤンキー武将の生涯に迫る – YouTube
- 本郷和人監修『戦国武将の解剖図鑑』エクスナレッジ
- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
- 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社