筒井順慶
1549.3.31 〜 1584.9.15

筒井順慶(筒井藤政)は、現在の奈良県にあたる大和国の武将・大名です。京で政権を樹立した織田信長に従い、寺院が多い大和国を統治する重責を担いました。信長の死後、明智光秀と羽柴秀吉のあいだで揺れ、どっちつかずの姿勢をとってしまったことから『日和見順慶』と揶揄されています。享年36。
- 筒井順慶の武将タイプ
- 信仰
筒井順慶は何をした人?このページは、筒井順慶のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと筒井順慶が好きになる「洞ヶ峠を決め込んで光秀と秀吉の天王山を日和見した」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:筒井藤政 → 筒井順慶
- あだ名:日和見順慶
- 幼 名:藤勝
- 幕 府:大和守護
- 出身地:大和国(奈良県)
- 領 地:大和国
- 居 城:筒井城
- 正 室:多加姫(足利義昭の養女)、松(布施春行の娘)、織田信長の娘か妹
- 子ども:4養
- 跡継ぎ:筒井定次
- 父と母:筒井順昭 / 大方殿
- 大 名:筒井氏8代当主
洞ヶ峠を決め込んで光秀と秀吉の天王山を日和見した
「洞ヶ峠を決め込む」とは、形勢をうかがって有利な方につこうとすること、日和見する様子を表す慣用句です。
「日和見」とは、積極的に関わらず傍観すること。
筒井順慶は『日和見順慶』いう、カッコよくないあだ名で知られる人物で、1582年に織田信長が横死した本能寺の変のあとに勃発する明智光秀と羽柴秀吉の決戦を日和見したことから、そう呼ばれるようになりました。
両者が争う山崎の戦いで、筒井順慶は戦場に近い洞ヶ峠から傍観していました。筒井軍が参戦しなかったことも一因となって、明智光秀は敗れました。
信長を倒した光秀を討った秀吉は、この後、関白・豊臣秀吉となって天下統一します。
山崎の戦いとは、天下を決する一戦であり、勝敗は筒井順慶の日和見に左右されたといっても過言ではないのです。
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なぜ、
日和見したのか?
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1570年ごろ、大和国での終わらない抗争に疲れていた筒井順慶は、すぐとなりの京まで勢力を拡げていた織田信長の傘下に収まることで筒井氏を守ろうと考えました。
その時、信長に話をつけてくれたのが、織田家臣・明智光秀でした。
それ以来、筒井順慶は明智部長の部署に配属され、光秀の子を養子にもらうなど、家ぐるみの付き合いをするようになりました。
そのため、明智光秀としては、秀吉との戦いに筒井順慶が加わるのは当然と考えていました。
ところが筒井順慶にしてみれば、雇用主は織田社長であり、明智部長は社長ごろしの反逆者です。味方などできるはずもない。
しかし、あの織田社長を倒したのですから、明智部長の天下もあるか……。ここは味方しておくかと思っていた矢先、羽柴部長が織田社長の仇を討ちに飛んできたので、わけがわからなくなってしまったのです。
こうなると勝ったほうが次期社長になるでしょうから、慎重に様子を見ているうちに、日和見順慶なんて言われてしまったわけです。
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じつは、
洞ヶ峠にいなかった
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山崎の戦いのおり、筒井順慶は洞ヶ峠にいませんでした。それどころか、居城に篭っていました。
実際には、洞ヶ峠にいたのは明智光秀で、秀吉との戦いに加わるよう筒井順慶に圧力をかけに来ていたのです。
武士の社会で主人や上司に叛くのは大罪。筒井順慶も明智光秀に味方するつもりはありませんでしたが、世話になった義理もあって、しばらく話をあわせていました。
様子見のずるい人を指して「あいつ、洞ヶ峠を決め込むつもりだな」などと言われますが、これは誤った解釈で、筒井順慶に今もつきまとう風評被害なのでした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1549年、筒井順慶は大和国・筒井城に筒井順昭の子として生まれます。早くに父を亡くし、叔父に支えられて2歳で当主になりました。大和国の支配権をめぐって松永久秀となんども争い、抗争によって互いに消耗してしまいます。
信長に従い光秀を補佐
上洛してきた織田信長に接近し、松永久秀とともに信長の傘下に収まります。信長から明智光秀のサポート役を命じられます。貴重な香木・蘭奢待を欲しがるなど信長の無茶ぶりにも応えました。やがて光秀が謀反を起こして信長を討つと、難しい立場になりました。
最後と死因
光秀から味方するよう求められるも応じず。明智討伐をした豊臣秀吉に従いますが、陣営に加わるのが遅かったをこと責められて、休む間もなく酷使され、小牧・長久手の陣中で体調が悪化。京で療養したのち、筒井順慶は大和国・郡山城で亡くなりました。1584年9月15日、死因は胃がん。36歳でした。
領地と居城

直轄領18万石に寄力を加えた大和国45万石が筒井順慶の領地でした。信長から国主と認められ、大和支配を許されました。
筒井順慶の性格と人物像
筒井順慶は「態度がはっきりしない人」です。
本人のなかでは答えが出ていても、どちらか一方の肩をもつわけにもいかず、煮えきらないように見えてしまいます。
生真面目で、上下関係を気にするあまりはっきりとした意思表示が苦手です。そのせいか、パワハラを受けやすく、高圧的な上司たちに疲弊し、いつも過労気味です。
もともと僧侶なので仏教の信仰も厚く、寺院を大切にしますが、寺の釣り鐘をかき集めて鉄砲の材料にするといった戦国大名らしい一面もあります。
自ら興行主となって能の公演をひらくなど、能楽に熱心でした。能楽の流派・金春流から秘伝書も譲り受けています。茶道も一流です。
『伊勢物語』に描かれていることで有名な大井戸茶碗『筒井筒』を所有しており、秀吉に服従する際に差し出しています。筒井順慶が持っていた『筒井肩衝』など、いずれも現存しています。
能力を表すとこんな感じ

教養があり、寺社にパイプを持つ政治力が筒井順慶の魅力です。思慮深い僧侶ゆえの気づかいが、武士としては優柔不断に映ってしまいます。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する筒井順慶の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
筒井順慶の有名な戦い
若くして家督を継いだ筒井藤政の居城・筒井城(奈良県大和郡山市筒井町)を松永久秀が何度も攻めた合戦。大和国の要所をめぐる戦いは、三好三人衆も加わり激化。奪い奪われの攻防戦が続いたが、織田信長の支援を受けた久秀が最終的に勝利した。
筒井城の戦いで筒井順慶は敗れています。
第7次合戦では、松永久秀が堺で三好三人衆に包囲されている隙をついて勝利したものの、何度も居城を攻められては逃げるを繰り返しています。
三好三人衆に筒井順慶、池田勝正を加えた連合軍と、松永久秀が東大寺(奈良県奈良市雑司町)で激突した合戦。三好長逸は、東大寺なら攻められまいと考えたが、松永軍はひるまず夜襲を決行。三好・松永の兵火とも呼ばれ、東大寺の多くの建造物が焼失。大仏も焼け崩れた。
東大寺大仏殿の戦いで筒井順慶は敗れています。
三好三人衆ら反松永派の勢力と結託し、久秀との決戦に臨みましたが、奇襲を受けて連合軍は崩壊しました。
多聞山城を攻めるため、筒井順慶は辰市城(奈良県奈良市東九条町)を築く。これに対抗するため、松永久秀が信貴山城と信貴山城から兵を出して争った合戦。筒井軍も徹底抗戦し、松永兵5百余りを討ち取った。大和でこれほど戦死者が出たのは初めてと言い伝わる。
辰市城の戦いで筒井順慶は勝っています。
筒井順慶のターニングポイントになった戦いです。
信長に反旗を翻した松永久秀を撃退し、これをきっかけに明智光秀を介して織田氏に編入してもらうことになります。敗走した久秀が筒井城を放棄したため、居城も取り戻しました。
ふたたび信長に叛いた松永久秀が信貴山城(奈良県生駒郡平群町)に籠城して織田軍を迎え討った合戦。織田信忠を総大将とした4万の大軍で包囲された久秀は、しばらく抵抗したのち、一国にも値するといわれた茶釜・古天明平蜘蛛とともに壮絶な爆死を遂げた。
信貴山城の戦いで筒井順慶は勝っています。
松永方の森好久を調略し、鉄砲隊200を預けて伏兵としました。この鉄砲隊が三の丸で反乱を起こし、信貴山城を内部崩壊させます。宿敵・久秀の遺骸を回収し、達磨寺に手厚く葬りました。
北畠信意が伊賀(三重県伊賀市)に攻め入ったことを発端に勃発。百地三太夫ら伊賀十二人衆の激しい抵抗に遭い、織田軍が惨敗する。激怒した織田信長が大軍を投じて伊賀国を武力制圧した。村や寺院は焼き払われ、僧侶7百人が斬首、非戦闘員を含む3万人が虐殺された。
天正伊賀の乱で筒井順慶は勝っています。
第2次侵攻に参加した順慶は比自山城を包囲しますが、伊賀衆の夜襲で1千5百以上の兵を失い、戦線を離脱しています。
筒井順慶の詳しい年表と出来事
筒井順慶は西暦1549年〜1584年(天文18年〜天正12年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1549 | 1 | 筒井順昭の子として大和国に生まれる。幼名:藤勝 |
1550 | 2 | 父・筒井順昭の死去により家督を相続。叔父・順政が後見する。 |
1559 | 11 | 三好長慶が大和国に侵攻してくる。松永久秀に筒井城の周辺諸城を落とされる。 |
1564 | 16 | 叔父・筒井順政が死去。 |
1565 | 17 | 三好三人衆と同盟を結ぶ。 ”第6次筒井城の戦い”松永久秀に筒井城を攻めてくる。高田為成、箸尾高春ら国人に裏切られ、筒井城を落とされる。逃亡し、布施行盛を頼る。 高田為成の高田城を攻める。城下を焼き討ちにする。 |
1566 | 18 | 松永領・美濃庄城を三好三人衆と攻める。 ”上芝の戦い”三好三人衆と畠山氏&松永氏の連合軍を敗走させる。 三好三人衆が摂津国・堺で松永久秀を包囲する。会合衆の仲介で和睦する。 ”第7次筒井城の戦い”筒井城を松永氏から奪還する。 |
1567 | 19 | 改名 → 筒井(陽舜房)順慶 ”東大寺大仏殿の戦い”東大寺大仏殿を本陣に三好三人衆、池田氏と松永久秀を迎撃するが敗れる。大仏殿が消失する。 |
1568 | 20 | 織田信長から佐久間信盛、細川藤孝、和田惟政の援軍を得た松永久秀が大和国に侵攻してくる。 菅田豊春ら家臣が離反し、七條を焼き討ちされる。 ”第8次筒井城の戦い”松永久秀が筒井城に攻めてくる。逃亡し、叔父・福住順弘を頼る。 松永久秀に窪之庄城を落とされる。 |
1570 | 22 | 十市領・十市城を攻め落とす。 窪之庄城を松永氏から奪還する。 |
1571 | 23 | *松永久秀が窪之庄城に攻めてくるが、窪庄宗重が撃退する。 将軍・足利義昭の養女(多加姫)と結婚。 ”辰市城の戦い”松永久秀が辰市城に攻めてくる。竹内秀勝を討ち取り500の首級をあげる。 筒井城を松永氏から奪還する。 織田信長の配下に加わる。 佐久間信盛と明智光秀の仲介で松永久秀と和睦する。 |
1574 | 26 | 織田信長の命令で明智光秀の子・自然丸を養子に迎える。 織田信長のもとに実母(大方殿)を人質に出す。 |
1575 | 27 | 織田信長の娘または妹と結婚。 織田信長の命令で塙直政の与力になる。 東大寺の蘭奢待を織田信長が拝見する手配を任される。 ”長篠の戦い”*武田勝頼との戦に鉄砲隊50を派遣。 ”越前一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。 |
1576 | 28 | ”天王寺砦の戦い”石山本願寺との戦に参加。塙直政が討死。 織田信長から塙直政の後任として大和守護に任命される。 織田信長の命令で明智光秀の与力になる。 |
1577 | 29 | ”第1次紀州征伐”雑賀衆との戦に参加。山手から攻める。 ”信貴山城の戦い”松永久秀が織田氏に叛く。討伐に向かう。明智光秀、細川藤孝と片岡城を落とす。森好久を調略し信貴山城を内部崩壊させる。 |
1578 | 30 | ”三木合戦”羽柴秀吉の指揮下で三木城の包囲作戦に加わる。 大和国で反乱が起こる。戒重氏と大仏供氏を討伐し、吉野一向宗を焼き討ちする。 |
1579 | 31 | ”有岡城の戦い”荒木村重が織田氏に叛く。討伐に向かう。 |
1580 | 32 | 大和国の寺社から釣り鐘を徴収。鉄砲鋳造の材料にする。 筒井城を破却する。 大和国・郡山城を改修、居城にする。 |
1581 | 33 | ”第2次天正伊賀の乱”北畠信意(織田信雄)の指揮下で伊賀国に侵攻する。伊賀衆の夜襲を受けて撤退。 |
1582 | 34 | 主君・織田信長が死亡。【本能寺の変】 本能寺の変を起こした明智光秀から味方するよう誘われる。しぶしぶ近江国に派兵する。 羽柴(豊臣)秀吉に従う誓書を書く。明智光秀の使者を追い返す。 河内国・洞ヶ峠に布陣した明智光秀から威嚇される。静観して動かず。 明智光秀を討伐した羽柴秀吉に拝謁する。明智討伐に加わらなかったことを叱責されて体調を崩す。 羽柴秀吉のもとに養子・定次を人質に出す。 |
1583 | 35 | 越智玄蕃を謀殺。越智氏を滅ぼし大和国の支配を強める。 |
1584 | 36 | ”小牧・長久手の戦い”羽柴秀吉の指揮下で織田信雄との戦に参加。体調を崩し戦線を離脱。 大和国・郡山城で病死。 |
