島左近
1540.6.9 〜 1600.10.21?

島左近(清興、勝猛)は、現在の奈良県にあたる大和国の武将です。鬼の異名をとった猛将で、関ヶ原の戦いでは東軍を相手に孤軍奮闘します。黒田長政の鉄砲隊に撃たれて戦死しました。石田三成の懐刀として知られていますが、ほとんどが謎に包まれており、最後の様子も諸説あるミステリアスな存在です。享年61。
- 島左近の武将タイプ
- 参謀
島左近は何をした人?このページは、島左近のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと島左近が好きになる「三成に過ぎたるものと謳われた鬼が関ヶ原を震撼させた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:島清興
- 別 名:左近、勝猛、友之、清胤、昌仲、庄屋?
- あだ名:鬼左近
- 出身地:大和国(奈良県)
- 居 城:椿井城
- 子ども:3男 2女
- 父と母:島清国 / 不明
- 大 名:畠山高政 → 筒井順慶 → 筒井定次 → 豊臣秀吉 → 豊臣秀頼
三成に過ぎたるものと謳われた鬼が関ヶ原を震撼させた
「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」
これは、なにかとディスられてしまう石田三成を揶揄した俗謡です。
この ”島の左近” というのが島左近のことで、彼は三成なんぞには勿体ないといわれた猛者でした。
島左近は、生涯のほとんどがよくわかっておらず、どんな功績があったのか不明ですが、めちゃくちゃ能力が高い武将として名が売れた存在でした。
主である石田三成が、徳川家康と対立してまごまごしていると「やっちゃいましょう」と『家康暗殺未遂事件』を起こしてしまうあたり、只者ではない感がだだ漏れしています。
残念ながら家康の暗殺は失敗でしたが、その後の関ヶ原の戦いが島左近のハイライトとなりました。
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なんて恐ろしい
鬼の左近
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1600年に徳川家康と石田三成が激突した関ヶ原の戦いは、杭瀬川の戦いを制した島左近のゲリラ部隊によって火蓋が切られます。
杭瀬川の勝利の翌朝、石田三成の本陣から100の兵を連れて出撃した島左近は、50ほどを柵の内側に残して、黒田長政隊5千4百に挑みました。
50人で5千人に突撃をかけたのです。
「かかれえー!!」という島左近の号令は、雷のように響き渡り、あまりの迫力に黒田兵は萎縮してしまい、鬼の形相をした島左近をまともに見ることもできませんでした。
島左近に近寄ることができない黒田兵は、丘の上に移動した鉄砲隊が高所から狙撃します。撃たれてしまった島左近は自陣に退き、治療を終えるとふたたび突撃し、そのまま戦場へと消えました。
多くの者が島左近の姿を見たはずなのに、怖くて直視できなかったため、島左近がどんな軍装だったのか覚えている黒田兵はいませんでした。
こつ然と戦場から消えた鬼の姿は黒田兵の脳裏に恐怖として植え付けられ、戦いが終わったあとも島左近の悪夢にうなされました。
戦国武将の逸話を記した『常山紀談』には、島左近の号令が頭から離れずに眠れない黒田兵の様子が書き残されています。
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主人と同じ
給料で雇用される
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島左近が石田三成に仕えた正確な時期はわかりませんが、1590年の小田原征伐のころには主従関係にあったといいます。
島左近と石田三成は20歳も年の差があり、年長者の島左近に三成は必死でオファーしました。
石田三成は、自分の領地4万石のうち2万石を島左近に与えて家臣にします。これを聞いた豊臣秀吉は「主と家来が同じ給料とはな!」といっておおいに笑いました。
というのが通説ですが、実際には、石田三成が佐和山を与えられたあとに召し抱えられたと考えられ、三成が持つ19万石のうち2万石が島左近の給与だったと考えられています。
いくさ下手と馬鹿にされていた三成は、その弱点を補うために島左近を大名なみの高待遇で迎えたのでした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1540年、島左近は大和国に島清国の子として生まれます。対馬国、近江国など出自について諸説あり。畠山氏、筒井氏に仕えましたが、筒井定次と折り合いが悪く、出奔します。その後、豊臣秀吉の弟・秀長に仕えたのち、牢人になって近江国に移り住みました。
石田三成と出会う
しばらくのあいだひっそりと暮らしていました。色んな武家からスカウトされましたが、どの誘いにも良い返事はしませんでした。しかし、豊臣家の奉行・石田三成からの熱心なスカウトに心を動かされて家臣になります。三成の知恵袋として、助言や作戦を述べました。
最後と死因
やがて、三成が徳川家康と対立すると、家康の暗殺を企てますが失敗。関ヶ原の戦いで三成が挙兵すると、本陣の指揮を執りました。黒田長政の鉄砲隊の銃弾を受けて負傷し、島左近は戦死しました。1600年10月21日、死因は討死。61歳でした。首は発見されておらず、消息不明などの説もあります。
島左近の性格と人物像
島左近は「弟子を叱る師匠のような人」です。
「大坂の繁栄は豊臣の治世と人徳の賜物」と褒めちぎる石田三成に「天下人がいるところには利益が生じやすいから人が集まって来る。人徳じゃない」と、夢見がちな主人の目を覚まさせようと現実を伝えています。
豊臣のことばかり気にする三成に「ちゃんと遠くまで見ろ。民が苦しんでるぞ」と、辛辣な助言を与えたりもしました。
旧知の仲である柳生宗矩から西軍の動向を探られ、三成について聞かれると「決断が遅いからもう何もできぬ」と答え、主人の欠点を理解しつつも裏切ることはないと話しています。
八幡大菩薩、鎮宅霊符神、鬼子母神十羅刹女を旗印にしていました。南無妙法蓮華経の小旗も掲げており、法華経を信仰していたことがわかります。
有名な赤い角の前立てではありませんが、島左近の兜と伝わる『紺絲威兜』が現存しています。
左近は別名で、本名は島清興です。
能力を表すとこんな感じ

抜群の強さが島左近の長所です。奇襲や夜襲、暗殺を企てるなど知略謀略にも長けており、石田三成に足りない部分を補って余りある存在でした。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する島左近の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
島左近の面白い逸話やエピソード
じつはどんな最後だったのかわからない
関ヶ原の戦いで負傷した島左近は、その後どうなったのかはっきりとしていません。島左近の最後については諸説あり、関ヶ原を脱出して生き延びた生存説まであります。
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島左近の最後
関ヶ原で戦死した説
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島左近が関ヶ原で戦死したという説には、黒田長政の鉄砲兵・管六之助に狙撃されて負傷し、柵際で激しく戦い討ち死にした、加藤嘉明の家臣・戸川達安に討ち取られたというものがあります。
『関ヶ原軍記大全』では、細川忠興に攻められる石田三成の本陣を助けずに、故郷である対馬に帰ったとあり、『関ヶ原軍記』には、負傷した左近が佐和山城に入って自害したとあります。
しかし、島左近の首は発見されず、首実検も行われていないため、消息不明です。
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島左近の最後
各地に残る生存説
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関ヶ原を脱出した左近は、京都に潜伏して生き延びたと『石田軍記』『関ヶ原御合戦当日記』など、関ヶ原の戦い前後を記した軍記に書かれています。
京都・立本寺の僧侶として1632年まで生きたとされ、お墓もあります。だとすれば、関ヶ原から32年後に93歳で没したことになります。
静岡県浜松市には “島金八” と名を変え、百姓に扮して過ごしたと伝わっていて、島家の後裔も存在しています。
熊本県や滋賀県にも島左近が生存していた伝承があり、対馬・島山地区には左近の墓があります。
島左近の有名な戦い
関ヶ原の戦い前日に起こった前哨戦。東軍の陣容が整い、決戦が近づいたことで西軍に動揺が走る。味方の士気を上げるため、島左近が奇襲攻撃を提案。杭瀬川(岐阜県大垣市)を挟んで中村一栄を挑発、おびき出して挟撃した。これに明石全登も加わり、完勝した。
杭瀬川の戦いで島左近は勝っています。
決戦を迎える直前、味方の士気低下を察した左近は、東軍に奇襲をかけます。中村隊をおびき出すため、小競り合いで負けたふりをし、深追いさせて伏兵で挟み撃ちにしました。
秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。
関ヶ原の戦いで島左近は敗れています。
島左近のターニングポイントになった戦いです。
寡兵ながら獅子奮迅した左近は、徳川家康の本陣ちかくまで迫りました。黒田長政の鉄砲隊の銃撃をうけて負傷し、退いたのち、小早川隊の裏切りを聞いて再出陣しています。その後の左近の消息は不明です。
島左近の詳しい年表と出来事
島左近は西暦1540年〜1600年(天文9年〜慶長5年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1540 | 1 | 島清国の子として大和国に生まれる。※対馬国、近江国の出身とする説あり |
1567 | 28 | ※平群嶋城(西宮城)で継母と継母の子らあわせて9人を殺害したかもしれない。 |
1581 | 42 | ”第2次天正伊賀の乱”織田信長との戦に参加。陣所を焼き討ちされ負傷。 |
1583 | 44 | ”賤ヶ岳の戦い”柴田勝家との戦に参加。 |
1584 | 45 | 大和国・椿井城を居城にする。 主君・筒井順慶が死去。次代・筒井定次に仕える。 |
1586 | 47 | 灌漑用水をめぐって中坊秀祐と争う。筒井定次から不利な裁定を下されて憤慨す。 |
1588 | 49 | 筒井氏を出奔。 |
? | ? | 豊臣秀長に仕える。 主君・豊臣秀長が死去。 牢人となり近江国に移る。 |
1590 | 51 | 石田三成に仕える。 ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。 |
1599 | 60 | 石田三成に徳川家康の暗殺を献策する。事前に察知され未遂に終わる。 |
1600 | 61 | 石田三成、大谷吉継が反徳川の挙兵。徳川家康が美濃国・関ヶ原に向かう。 ”杭瀬川の戦い”明石全登と中村一栄を敗走させる。 ”関ヶ原の戦い”徳川家康との戦に西軍として参加。黒田長政の鉄砲隊に撃たれて負傷。ケガを押して再出陣し討死。 |

- 島清興 – Wikipedia
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