いい なおまさ

井伊直政

1561.3.4 〜 1602.3.24

 
井伊直政の面白いイラスト
  

井伊直政は、現在の静岡県にあたる遠江国の武将です。徳川四天王のひとり。武田軍から引き継いだ赤備えで、赤鬼と恐れられた猛将です。徳川家康の腹心として、さまざまな交渉役をこなす秘書官でもありました。東軍を勝利に導いた関ヶ原の戦いでは、槍働きに加えて、敵将の調略と戦後交渉も行いました。享年42。

井伊直政は何をした人?このページは、井伊直政のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと井伊直政が好きになる「抜け駆け上等の赤備えが関ヶ原で家康に天下を取らせた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:井伊万千代 → 井伊直政
  • 幼 名:虎松
  • あだ名:井伊の赤鬼、人斬り兵部
  • 官 位:従五位下、従四位下、修理大夫、侍従、贈従三位
  •  藩 :高崎藩主、彦根藩主
  • 出身地:遠江国(静岡県)
  • 領 地:上野国、近江国
  • 居 城:箕輪城 → 高崎城 → 佐和山城
  • 正 室:花(徳川家康の養女)
  • 子ども:2男 2女
  • 跡継ぎ:井伊直孝
  • 父と母:井伊直親 / ひよ
  • 養父母:松下清景、井伊直虎
  • 大 名:徳川家康

抜け駆け上等の赤備えが関ヶ原で家康に天下を取らせた

井伊直政は、徳川家康の天下取りのターニングポイントになった関ヶ原の戦いにおいて、大車輪の活躍(かつやく)で勝利を引き寄せた名将です。

1600年に徳川家康が率いる東軍と、石田三成が率いる西軍が激突(げきとつ)した天下分け目の決戦・関ヶ原の戦いは、井伊直政の()()けによって開戦しました。

()()」とは、戦争で手柄(てがら)を立てるために、持ち場を(はな)れて敵陣(てきじん)()め入ること。他人を出し()いて自分が先に行動してしまう意味として使われます。

「あたしが先に目をつけてたんだから()()けしないでよ」とされるアレです。()()けは友情を(こわ)しかねない行いですが、合戦においては軍律違反(いはん)(ばっ)せられる行為(こうい)でした。


ちょっと通して
からの抜け駆け

関ヶ原の戦いで東軍の先陣(せんじん)をつとめた福島正則は、一番(やり)の武勇で知られる猛将(もうしょう)です。”宇喜多ちゃんは(おれ)獲物(えもの)” というキャラですので、手柄(てがら)をゆずったりはしません。

ところが、福島隊がなかなか動かない。しびれを切らした井伊直政は、松平忠吉を(ともな)って50()ほどを連れて福島陣営(じんえい)を訪ねます。

「忠吉さま(家康の子)に戦場をお見せするから、ちょっと通して」と福島陣営(じんえい)に入ります。

しれっと前線に出ると、井伊直政は宇喜多秀家の(じん)に向けて発砲(はっぽう)しました。

井伊直政に先を()された福島正則が、あわてて宇喜多ちゃんに()ちかけて関ヶ原の戦いはキックオフしたのです。

福島隊と宇喜多隊がドンパチはじめたのを見届けると、井伊直政は徳川本陣(ほんじん)(もど)りました。

この行為(こうい)は明らかに()()けでしたが、結果的にこれが東軍に勢いをあたえました。

井伊直政が(えが)く勝利のロードマップは、ここからさらに加速します。

関ヶ原の戦いで井伊直政が描いた勝利のロードマップ

井伊直政の関ヶ原の戦いは、開戦のずっと前からはじまっていました。

そもそも関ヶ原の戦いとは、1598年に豊臣秀吉が(ぼっ)したあと、主導権あらそいが表面化し、豊臣家が分裂(ぶんれつ)して起こった紛争(ふんそう)です。

同じ豊臣氏の組織内での抗争(こうそう)ですので、賛同する同士が多い方が有利に戦えます。

井伊直政は、京極高次、竹中重門、加藤貞泰、稲葉貞通、関一政、相良頼房、犬童頼兄といった名だたるメンツを徳川派(東軍)に引きこむことに成功します。

合戦がはじまると()()けで福島正則を動かし、黒田長政を介して小早川秀秋(豊臣秀吉の養子)を寝返(ねがえ)らせて勝利を決定的なものにしました。

その後、島津義弘の1千6百の兵が退却(たいきゃく)を開始すると、井伊直政はこれを追撃(ついげき)します。

このとき、井伊直政は味方も追いつけない速さで、ほとんど一人で島津軍を追って行きました。

義弘の(おい)・島津豊久に追いつくと、銃弾(じゅうだん)(あし)に受けながらも豊久を討ち取りました。

ここでゲームセット。

こうして徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利しました。井伊直政は毛利輝元をはじめ、西軍に(くみ)した大名との講和交渉(こうしょう)奔走(ほんそう)します。後々に遺恨(いこん)を残さないよう、絶妙(ぜつみょう)なさじ加減で戦後交渉(こうしょう)をまとめました。


家康に貢献した
一番の功労者

その後、井伊直政は家康がはじめる江戸幕府にも熱心にアイデアを出し、自身が治めることになっていた彦根藩(ひこねはん)基盤(きばん)づくりに熱心に取り組みました。

残念ながら、江戸幕府がひらかれるのを見ることなく、関ヶ原の戦いで島津軍に()たれた傷の悪化と、働きすぎがもとで井伊直政はこの世を去ります。

その翌年の1603年に徳川家康は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任し、江戸幕府をひらいて天下を治めました。

生前の井伊直政の働きは、家康が幕府を開くにあたって一番の功労者である” と江戸幕府編修の『徳川実紀(とくがわじっき)』に記録されています。


なぜ、井伊直政は
赤備えを率いたか

井伊直政は頭から足先まで赤い装備の部隊を率いました。

井伊の赤備え』と(おそ)れられた赤い軍装の騎馬隊(きばたい)は、井伊直政の前は武田騎馬隊(きばたい)の山県昌景が率いていました。

1582年に武田家滅亡(めつぼう)をうけて、かつて最強と呼ばれたこの騎馬隊(きばたい)は解散となりましたが、徳川氏が武田旧領を手に入れたことで武田氏の元家臣たちが徳川氏に仕官しました。

このとき、武田旧領をめぐって北条氏と争った天正壬午(てんしょうじんご)の乱で、家康はまだ22歳の井伊直政に武田旧領を分け合う交渉役(こうしょうやく)を命じます。

井伊直政の見事な交渉力(こうしょうりょく)によって、甲斐国(かいのくに)信濃国(しなののくに)の大半を徳川領として得ることに成功し、この働きに対して家康からもらったボーナスが赤備えの最強部隊でした。

赤備えと同時に、かつて武田信玄が採用していた『甲州流軍学(こうしゅうりゅうぐんがく)』を継承(けいしょう)井伊直政によって武田メソッドが徳川軍に導入されました。

これにより、徳川軍のパワーアップにも大きく貢献(こうけん)しました。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1561年、井伊直政は遠江国(とおとうみ)井伊谷(いいのや)に井伊直親の長男として生まれます。今川氏真に父が謀殺(ぼうさつ)され、命をねらわれたため2歳のころから寺に(のがれ)れて過ごします。しばらくして叔母(おば)・井伊直虎に引き取られ、叔母(おば)の計らいで徳川家康の小姓(こしょう)になりました。家康の寝室(しんしつ)に入った刺客(しかく)を討ち取って出世します。

赤備えを率いて躍動する

天正壬午(てんしょうじんご)の乱で北条氏との交渉(こうしょう)を成功させ、武田家の遺臣を受け()ぎ、徳川軍を武田流に移行しました。井伊の赤備えを率いて転戦し、関ヶ原の戦いでは軍監(ぐんかん)として戦ったのち、戦後処理にも(いそが)しく走り回ります。来るべき江戸幕府の開府に備えて近江国(おうみのくに)彦根城(ひこねじょう)を築きました。

最後と死因

彦根城(ひこねじょう)の完成を待たずに、井伊直政は近江国(おうみのくに)・佐和山城で亡くなりました。1602年3月24日、死因は関ヶ原で負傷した足の破傷風または(なまり)中毒および過労。42歳でした。遺体は遺志により芹川(せりかわ)火葬(かそう)されました。火葬(かそう)した場所には、長松院(ちょうしょういん)建立(こんりゅう)されました。

領地と居城

井伊直政の領地・勢力図(1600年)

関ヶ原の戦いのあと、石田三成の旧領である近江国(おうみのくに)佐和山(さわやま)18万石が井伊直政の領地になりました。上野国(こうずけのくに)・高崎12万石からの加増で、徳川家臣団で最高の石高でした。

井伊直政の性格と人物像

井伊直政は「自分にも他人にも厳しく短気な人」です。

いつもピリピリしているので、まわりの人は気が休まりません。内勤でもミスると()られる緊張感(きんちょうかん)があります。

寡黙(かもく)で気難しいオーラがあり、近寄り難い存在です。同僚(どうりょう)や家来から気軽に声をかけられることはありません。

養母・井伊直虎の厳しい教えにより、極度の負けず(ぎら)いに育ちます。勝つまでやめないので、決して負けません。

本人にとっては勝つことが絶対ですので、他人にも同様の成果や取り組み方を要求してしまいます。家康を(いさ)めることもあり、落ち度があれば上司といえど妥協(だきょう)しません。

勇猛果敢(ゆうもうかかん)が過ぎて無鉄砲(むてっぽう)なところがあり、おかまいなしに()っこむ猪突猛進(ちょとつもうしん)型のアタッカーです。

合戦では、つねに生傷が絶えず、全身キズだらけでした。多少の攻撃(こうげき)が当たったくらいなら平気という理由で甲冑(かっちゅう)は重装備を好みました。

身長165cmで童顔。絶世の美男子という評判で、知勇兼備(ちゆうけんび)交渉事(こうしょうごと)になると(さわ)やかな雰囲気で相手に良い印象を(あた)えるナイスガイです。

男女問わず魅了(みりょう)する美貌(びぼう)だったので、小姓(こしょう)時代は同じ部屋の男子が布団に入ってきてしまうこともありました。

実際に井伊直政が着用していた(おに)のようなシルエットの『天衝脇立兜(てんつきわきだてかぶと)』が現存しています。大きな脇立(わきだて)がトレードマークの真っ赤な具足は健在で、以降は井伊家のシンボルとして受け()がれています。

能力を表すとこんな感じ

井伊直政の能力チャート

井伊直政は、行動力と個の強さが際立ちます。強いパーソナリティーで(おに)の赤備えを牽引(けんいん)しました。知性があり、交渉人(こうしょうにん)としても超優秀(ちょうゆうしゅう)でした。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する井伊直政の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

井伊直政の面白い逸話やエピソード

家康もぞっこんのイケメンだった

井伊直政は、ジュノンボーイみたいなイケメンくん。存亡の危機にあった井伊家が生き残るために養母・井伊直虎は、直政のルックスに()けます。

徳川氏に仕官させるために家康公のスケジュールを入手し、鷹狩(たかが)りの帰りをねらって、おめかしをした直政を通り道に置きました。

道端(みちばた)に立つ15歳の美少年をみた家康一行は、その美貌(びぼう)に目を(うば)われます。

井伊直政は超絶イケメン

男の子には興味がなかった家康も「ユー、どこの(だれ)?名前は?(だれ)かに仕えているの?」と前のめり。直虎の思惑(おもわく)どおり、直政に一目()れした家康は(そく)採用を決めました。

一説では、直政の元服が22歳と(おそ)かったのは、徳川家康が手元に置いておきたかったためといわれており、かなりの寵愛(ちょうあい)っぷりでした。

戦場で直政の(もど)りが(おそ)いと家康は落ち着かず、軍配をガジガジかじるので、歯形だらけだったといいます。


絶世の美貌に
誰もが夢中

一時期、豊臣秀吉の実母・大政所(おおまんどころ)を人質として徳川家に預かったおり、直政が世話役をしました。

気配りにも()け目がない直政が女子たちの好物である生菓子(なまがし)を持って大政所(おおまんどころ)を訪ねると、女中たちは浮き足立って「井伊様〜」と追いかけ回します。

直政が来ると聞くと高齢(こうれい)大政所(おおまんどころ)もはしゃいで、女中たちを追い払ったといいます。

大政所(おおまんどころ)が秀吉のもとへ帰るとき、直政に警護をリクエストして大坂まで送らせるほどお気に入りでした。

ミスっただけで部下を斬ってしまう

一切の妥協(だきょう)も許せないミスターストイック・井伊直政は、部下にも完璧(かんぺき)を求めます。

うっかりミスってしまった部下をその場で()り捨ててしまうので、役職の兵部少輔(ひょうぶのしょう)にちなんで『人斬(ひとき)り兵部』と呼ばれました。

毎日のように同僚(どうりょう)()られるさまを見ていた直政の部下たちは、”今日は自分かもしれない……” と覚悟(かくご)を決めて、家族と水杯(みずさかずき)を交わすお別れの儀式(ぎしき)をして出勤しました。毎朝、すれちがう他の職場の人から「おっ、まだ生きてたかw」なんて冷やかしの声をかけられたりもしました。

あまりの厳しさに、本多忠勝のところに転属を希望する人が続出。
井伊の赤備えは高給が約束されていましたが、超絶(ちょうぜつ)ブラックな職場でした。

井伊直政の有名な戦い

小牧・長久手の戦い こまき・ながくてのたたかい 1584.4.23 〜 12.13 △ 羽柴軍10万 vs 織田&徳川軍3万 △

信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と信長の盟友・徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。

小牧・長久手の戦いで井伊直政は引き分けています。

武田軍から引き()いだ赤い軍装の『井伊の赤備え』を率いた直政は、先陣(せんじん)をきって敵陣(てきじん)突入(とつにゅう)し、(おに)のように(やり)(ふる)るい、威風堂々(いふうどうどう)とした赤備えデビューをしました。

小田原征伐 おだわらせいばつ 1590.5.6 〜 8.4 ○ 豊臣軍21万 vs 北条軍5万6千 ●

天下統一に迫る豊臣秀吉が小田原城(神奈川県小田原市)を大軍で包囲した合戦。籠城する北条氏直と、隠居の北条氏政、重臣たちは「小田原評定」と揶揄された結論がでない会議を繰り返した。北条父子を黒田官兵衛が説得し、降伏開城した。小田原攻め、小田原の役とも。

小田原征伐(せいばつ)で井伊直政は勝っています。

豊臣軍として参加した直政は、秀吉の陣営(じんえい)を見て、主君である家康に「今なら秀吉を討てますよ」と助言し、やめるよう注意されたといいます。この戦いで直政は、史上初めてとなる小田原城内への攻撃(こうげき)を行っています。

関ヶ原の戦い せきがはらのたたかい 1600.10.21 ● 西軍8万2千 vs 東軍8万9千 ○

秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。

関ヶ原の戦いで井伊直政は勝っています。

井伊直政のターニングポイントになった戦いです。
開戦前から終戦後まで、すべての場面で獅子奮迅(ししふんじん)活躍(かつやく)をします。知勇兼備(ちゆうけんび)の直政の面目躍如(めんもくやくじょ)となった合戦でした。勝利から3年後、徳川家康が江戸幕府をひらきます。

井伊直政の詳しい年表と出来事

井伊直政は西暦(せいれき)1561年〜1602年(永禄(えいろく)4年〜慶長(けいちょう)7年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15611井伊直親の嫡男として遠江国に生まれる。幼名:虎松
15622今川氏真に父・井伊直親が謀殺される。
今川家臣・新野親矩に引き取られる。
15655叔母・井伊直虎の養子になる。
15688三河国・鳳来寺に入る。
157414生母の縁で徳川家臣・松下清景の養子になる。
157515徳川家康の小姓になる。
改名 → 井伊万千代
157616”芝原の戦い”初陣。武田勝頼との戦に参加。突き懸かり戦法で敵陣を崩す。徳川家康の暗殺を謀った刺客・近藤武助を寝所で討ち取る。
158121”第2次高天神城の戦い”武田勝頼との戦に参加。
158222養母・井伊直虎の死去により家督を相続。
元服 → 井伊直政
織田信長のもとに出向く徳川家康に同行して上洛。摂津国・堺の見物を楽しむ。
織田信長が死亡。【本能寺の変】
明智光秀の軍勢に追われる徳川家康を護衛して畿内を脱出。【伊賀越え】
北条氏政・氏直父子と講和を結ぶ使者を務める。旧武田領・甲斐国と信濃国を徳川領とする交渉をまとめた。【天正壬午の乱】
武田軍法と武田遺臣を引き継ぎ、山県昌景の赤備えを継承する。
158323徳川家康の養女・松平康親の娘(花)と結婚。
158424”小牧・長久手の戦い”羽柴(豊臣)秀吉との戦に参加。赤備えの部隊を率いて左翼先陣で池田恒興を蹴散らす。
158525”第1次上田合戦”上田城を攻める鳥居元忠らを撤退させる指揮を執る。
石川数正が出奔。これに伴い武田式の軍制に転換する司令官を任じられる。
158626豊臣秀吉の実母(大政所)が岡崎城に送られてくる。世話役を任じられる。
大政所を警備して豊臣秀吉のもとに送る。
159030”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。夜襲をしかけて小田原城内に攻め込む。北条家滅亡
徳川家康から上野国・箕輪を拝領する。
上野国・箕輪城を居城にする。
159131”九戸政実の乱”九戸政実の鎮圧戦に参加。奥州仕置軍の先陣を務める。【第2次奥州仕置】
159232朝鮮出兵に備えて肥前国・名護屋城に入った徳川家康に代わって領内統治をする徳川秀忠を後見する。
159838豊臣秀吉が死去。政治抗争が起こり、諸将との交渉役を務める。黒田官兵衛・長政父子などを徳川派につける。
箕輪城を廃城。
和田城を改築、高崎城に改め、居城にする。
160040”関ヶ原の戦い”石田三成との戦に東軍の軍監として参加。京極高次、竹中重門など西軍の武将を東軍に取り込む。撤退する島津義弘を追撃して島津豊久を討ち取る。脚に銃弾を受けて重症を負う。
関ヶ原の戦後処理ならびに西軍総大将・毛利輝元との講和交渉を行う。
西軍・長宗我部盛親の謝罪を仲立ちする。
西軍・真田昌幸・幸村父子の助命に尽力、流罪にとどめる。
徳川氏と島津氏の和平交渉を仲立ちする。
徳川家康から旧石田領の近江国・佐和山を拝領する。
近江国・佐和山城を居城にする。
近江国・大津城、佐和山城を廃城、資材を再利用して彦根城の築城を開始。
江戸幕府の基盤づくりに携わる。
160242近江国・佐和山城で病死。
戦国時代で井伊直政が生きた期間の表
井伊直政の顔イラスト
お仕事のご依頼はこちら