今川氏真
1538.?〜 1615.1.27

今川氏真(仙巌斎、宗誾)は、現在の静岡県中部にあたる駿河国の武将・大名です。海道一の弓取りと言われた父・今川義元が桶狭間の戦いで討ち死にし、人生が一変します。父の跡を継ぎますが、武田信玄と徳川家康に攻められて今川家は滅亡。その後は文化人として庇護されました。蹴鞠の名人です。享年78。
- 今川氏真の武将タイプ
- 文化
今川氏真は何をした人?このページは、今川氏真のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと今川氏真が好きになる「放り投げられた蹴鞠のように浮遊しながら生き抜いた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:今川氏真 → 今川宗誾 → 今川仙巌斎
- 幼 名:龍王丸
- 官 位:従四位下、刑部大輔、治部大輔
- 幕 府:駿河守護、遠江守護、相伴衆
- 出身地:駿河国(静岡県)
- 領 地:駿河国、遠江国
- 居 城:今川館 → 牧野城
- 正 室:早川殿(北条氏康の娘)
- 子ども:4男 1女 1猶
- 跡継ぎ:今川範以
- 父と母:今川義元 / 定恵院
- 大 名:今川氏12代当主
放り投げられた蹴鞠のように浮遊しながら生き抜いた
今川氏真とは、海道一と称されるも織田信長に敗れた今川義元の嫡男で、父のあとを継いでわずか8年で今川家を滅ぼしてしまった馬鹿な人として知られるボンボン。
後年になっても徳川8代将軍・徳川吉宗の孫、松平定信に「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」とさらりとディスられてしまう、典型的なバカ殿です。
しかし、そんな彼は戦国乱世を独自のやり方で生き抜きます。
果たして、今川氏真は本当に愚かなバカ殿だったのでしょうか?
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なぜ、たった8年で
今川家は滅びたのか
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今川家の終わりのはじまりは、1560年の桶狭間の戦いでした。
今川氏真の父・義元が織田信長に討ち取られる不測の事態によって混乱が生じて、松平氏(徳川家康)ほか、国人たちが今川氏から離反するムーブメントが起こります。
1562年〜1566年にかけて発生した『遠州忩劇』と呼ばれる遠江国での今川離れは大規模な叛乱に発展しますが、井伊家や飯尾家を血祭りにする強引な手段と、徳政令や楽市令などの政策でなんとか騒動を収めました。
ひとまず落ち着いたので、今川氏真が連歌会や茶会に勤しんでいると、今度は武田信玄が徳川家康と示し合わせて今川領に攻めてきました。

武田氏、北条氏、今川氏の間では、相互婚姻による『甲相駿三国同盟』という不戦の約束がありました。
今川家から武田家に出していた嫁を信玄は送り返してきて、約束を白紙にする ”まさかの行動” に出たのです。
戦国最強といわれる武田信玄と、のちに天下を取る徳川家康に挟み撃ちをされてしまったわけですから、これは今川氏真でなくとも無理ゲーでした。
結局、たいした抵抗もできず、1568年に信玄に駿河国を奪われ、1569年には家康に遠江国を奪われて降伏。妻の実家の北条氏を頼って小田原に逃れました。
これをもって、戦国大名としての今川氏は滅びました。
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信長を魅せた
蹴鞠リフティング
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1571年に義父・北条氏康が亡くなると北条氏にも居られなくなり、今川氏真はなんと徳川家康を頼ります。もともと今川氏に養われていた身だった家康は、これを受け入れました。
1575年には父の仇である織田信長と対面。ここで信長から「蹴鞠がうまいんだって?ちょっとやってみろよw」と言われ、ここでも驚きの行動を見せます。
完全にバカにされているので普通なら怒るところですが、フリースタイルリフティングの妙技を披露して、人生を一変させた憎い男を喜ばせました。
織田信長に「この男は武将ではない」と思われたことで、今川氏真は生き延びました。
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ピースフル氏真
まさかの勝ち組へ
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今川氏真が北条家を去るときに詠んだ和歌の一節がこちら。
”なかなかに 世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科にして”
(世も人も恨んでいない。時代に合っていない私が悪いのだ)
なんとも健気な歌ではありませんか。しかし、世も捨てたものではありません。
1603年に徳川家康が江戸幕府をひらくと、世の中は泰平ムードになります。武力よりも教養や文化が政治的安定をもたらすようになりました。
今川氏真がその素養を生かす時代が到来します。
今川氏真の公家文化や教養が評価され、幕府と朝廷・公家との交渉役として「高家」に抜擢されます。そして、その後も今川家は高家として幕末まで生き残りました。
最終的には徳川家と江戸幕府に重用され、文化人がクローズアップされるようになったことを思えば、今川氏真は時代のニーズを先取りしたとも言えます。
これこそまさに今川義元による公家文化教育の賜物でした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1538年、今川氏真は駿河国・今川館に守護大名である今川義元の長男として生まれます。尾張国を攻めた父が桶狭間の戦いで討ち死にし、今川家を一身に背負うことになりました。家来の離反などで次第に弱体化し、武田信玄と徳川家康に領地を攻め取られてしまいます。
徳川家康に庇護される
北条氏を頼ったのち、徳川氏に身を寄せますが、ほどなくして京都に移住。嫡男・範以が亡くなると、14歳の孫・直房を引き取って育てました。江戸幕府を開府した家康のもとに戻った晩年は、徳川氏の外交に携わるなどして過ごしました。
最後と死因
長年連れ添った愛妻の早川殿とのんびりした余生を送り、早川殿が亡くなった2年後に今川氏真は武蔵国・江戸で亡くなりました。1615年1月27日、死因は不明。78歳でした。
領地と居城

駿河国、遠江国、三河国の半分を合わせた80万石ほどが今川氏真の領地でした。西側を徳川氏、東側を武田氏に奪われ、すべての領地を失いました。
今川氏真の性格と人物像
今川氏真は「足技で魅了するエンターテイナー」です。
和歌・蹴鞠の宗家である飛鳥井雅綱から指導を受けています。蹴鞠は相当な実力のクラッキ(名手)でした。蹴鞠のパフォーマンスは氏真の処世術として重要なパーソナリティを形成します。
父の仇を討たないヤワさに愛想を尽かした家臣に叛かれ、賢い譜代の重臣を疎んじて媚びへつらう家臣を重用し、それが今川家の衰退を早めてしまいました。
一方で、織田信長よりも早いうちから楽市令を実施するといった意外な一面もあります。
剣術は剣聖・塚原卜伝に師事した腕前。詩歌に通じた太原雪斎や冷泉為益から文化的教養の英才教育を受けており、文武両道です。
多くの和歌を詠んでいます。
428首を収録した私歌集『今川氏真詠草』が現存しているほか『今川氏と観泉寺』には1,658首が収録されています。しかしながら、和歌の腕前は平凡でした。
逃避行を共にした正室・早川殿とは仲睦まじい夫婦でした。並んで描かれている肖像画(遺像)が残っています。
能力を表すとこんな感じ

武将の評価軸では今川氏真は測れません。凋落する今川家を黙って見ていたわけでなく、さまざまな政策を施す政治力はありました。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する今川氏真の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
今川氏真の面白い逸話やエピソード
たびたび家康を訪ねるので遠ざけられてしまう
晩年、今川氏真は徳川家に庇護されて江戸に移り住みます。江戸幕府のお膝下に安住の地を得て、穏やかな日常を送っていました。
暇な時間も多く、話し相手が欲しくなります。でも大丈夫。氏真にはちょうど良い話し相手がいました。徳川家康です。
家康がいる江戸城は氏真の屋敷から徒歩で行けるため、頻繁に訪ねてはおしゃべりを楽しみました。
いろいろあったけど、お互い歳をとって良い関係になったものです。ところが、これは家康からすれば迷惑でした。
それもそのはず。かたや徳川家康は大御所と呼ばれ、今も徳川家の実権を握る多忙な身です。余生を送る今川氏真とは立場がちがう。
氏真がしょっちゅう家康を訪ねては長話をするので、江戸城から少し離れた品川に今川屋敷を移されていまいました。
今川氏真の有名な戦い
今川領・駿河に侵攻する武田信玄と、今川氏・北条氏が薩埵峠(静岡県静岡市清水区)で対陣した攻防戦。先の対戦で今川氏真がなす術なく敗れ、これを救うべく北条氏政は援軍に向かう。互いに牽制し、激しい衝突はなかったが後の全面抗争に発展するきっかけになった。
薩埵峠の戦いで今川氏真は敗れています。
今川氏真のターニングポイントになった戦いです。
第1次合戦のおり、一族の瀬名信輝ら21名が武田信玄の調略で寝返り、あっけなく駿河へ侵攻されてしまいます。正室・早川殿も徒歩で逃げたという状況に義父・北条氏康が憤慨し、援軍を送ってくれました。
長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。
長篠の戦いで今川氏真は勝っています。
徳川軍の後詰として参戦しています。織田&徳川軍が勝利したのち、武田軍の雑兵を掃討する部隊に加わりました。
今川氏真の詳しい年表と出来事
今川氏真は西暦1538年〜1615年(天文7年〜慶長19年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1538 | 1 | 今川義元の嫡男として駿河国に生まれる。幼名:龍王丸 |
1554 | 17 | 北条氏康の娘(早川殿)と結婚。【相駿同盟】 武田氏、北条氏、今川氏が互いに婚姻関係を結ぶ同盟が成立する。【甲相駿三国同盟】 |
1558 | 21 | 父・今川義元の隠居により家督を相続。駿河国と遠江国の統治を任される。 |
1560 | 23 | 父・今川義元が桶狭間の戦いで討死。 松平元康(徳川家康)に三河国・岡崎城を奪われる。 松平元康が今川氏に叛く。 祖母・寿桂尼を後見につける。 |
1561 | 24 | *長男景虎の侵攻を受ける義父・北条氏康に援軍を派遣。 幕府御相伴衆に就任。 松平元康に三河国・牛久保城を攻められる。一宮砦で松平元康に撃退される。 |
1563 | 26 | 遠江国の国衆が相次いで今川氏から離反する。【遠州忩劇】 松平氏と内通の疑いで井伊直親を誅殺する。 飯尾連龍が今川氏に叛く。 天野景泰が今川氏に叛く。天野藤秀が鎮圧。 奥山吉兼が今川氏に叛く。 |
1564 | 27 | 飯尾連龍を許し頭陀寺城を破却する。 松平元康に三河国・吉田城が落とされる。 松平元康に三河国・牛久保城が落とされる。 飯尾連龍が再び今川氏に叛く。 |
1565 | 28 | *三浦正俊に飯尾連龍が篭る曳馬城を攻めさせるが撃退される。 和睦に応じた曳馬城主・飯尾連龍を謀殺する。 |
1566 | 29 | 飯尾家臣・江馬時成が曳馬城で抵抗。所領安堵を認める。 富士大宮・六斎市に楽市、徳政令を実施する。 |
1567 | 30 | 駿河国に三条西実澄、冷泉為益を招いて連歌や茶会を頻繁に行う。 武田義信に嫁いでいた嶺松院が武田氏から返される。 武田氏、北条氏、今川氏の甲相駿三国同盟が破綻。 武田氏との交易を停止。塩止めを行う。 |
1568 | 31 | 武田信玄が駿河国に侵攻してくる。【第1次駿河侵攻】 ”第1次薩埵峠の戦い”武田信玄の調略で瀬名信輝、朝比奈政貞、三浦義鏡、葛山氏元ら21人が寝返る。薩埵峠の防衛網を突破される。 武田信玄に愛宕山城、八幡城、賤機山城を落とされる。 遠江国・掛川城まで逃げる。 武田信玄に駿河国・駿府を制圧される。 徳川家康が遠江国に侵攻してくる。 井伊谷城、白須賀城、曳馬城を落とされ、掛川城を包囲される。 |
1569 | 32 | ”第2次薩埵峠の戦い”*北条氏政の援軍を得るが武田軍を追い払うには至らず。 掛川城を開城して降伏する。今川家滅亡 北条氏を頼り伊豆国を経て相模国・小田原に屋敷をもらう。 北条氏政の次男・国王丸(北条氏直)を猶子に迎える。 上杉謙信と北条氏政の同盟を斡旋する。【越相同盟】 武田信玄に駿河国・蒲原城、深澤城が落とされる。 |
1571 | 34 | 義父・北条氏康が死去。 北条氏政が武田信玄と和睦する。 |
1572 | 35 | 北条氏の相模国・小田原を出る。 徳川氏の遠江国・浜松に入る。 徳川家康の庇護を受ける。 |
1575 | 38 | 1月から9月までに428首の歌を詠む。【今川氏真詠草】 上洛の旅に出る。京で三条西実澄など公家を訪問。相国寺で織田信長に蹴鞠を披露する。 ”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。三河国・牛久保で後詰を務める。勝利後は武田軍の掃討、武田領・駿河国の各地を放火する。 ”諏訪原城の戦い”武田勝頼との戦に参加。 出家 → 今川宗誾 |
1576 | 39 | 遠江国・牧野城(旧諏訪原城)城主になる。 |
1577 | 40 | 遠江国・浜松に呼び戻される。 |
1583 | 46 | 近衛前久をもてなす徳川家康に同席する。 |
? | ? | 山城国・京に移り住む。 改名 → 今川仙巌斎 |
1607 | 70 | 嫡男・今川範以が死去。 孫・範英(直房)を養育する。 |
1612 | 75 | 冷泉為満の屋敷で開かれた連歌会に出席。 駿河国・駿府で徳川家康と面会。 徳川家康から武蔵国・多摩を拝領する。 武蔵国・江戸に移り住む。 |
1613 | 76 | 正室・早川殿が死去。 |
1615 | 78 | 武蔵国・江戸で死去。 |

- 今川氏真 – Wikipedia
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