織田信雄
1558.3.?〜 1630.6.10

織田信雄(常真、北畠信意、北畠具富)は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将です。織田信長の次男に生まれ、父の戦略で伊勢国の国司・北畠具房の養子になります。父と兄が死亡した本能寺の変以降、家督争いを経て織田家当主になりますが、豊臣秀吉の台頭で主従が逆転。次第に凋落しました。享年72。
- 織田信雄の武将タイプ
- 文化
織田信雄は何をした人?このページは、織田信雄のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと織田信雄が好きになる「北畠家を乗っ取ったけど織田家を乗っ取られてしまった」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:北畠具豊 → 北畠信意 → 織田信勝 → 織田信雄 → 織田常真
- 幼 名:茶筅丸
- 官 位:従五位下、侍従、左近衛権中将、正五位下、従四位下、中納言、正三位、従二位、正二位、内大臣
- 出身地:尾張国(愛知県)
- 領 地:尾張国、伊賀国、伊勢国
- 居 城:田丸城 → 松ヶ島城 → 清洲城
- 正 室:雪姫(北畠具教の娘)、木造具政の娘
- 子ども:8男 5女
- 後継ぎ:織田秀雄
- 父と母:織田信長 / 吉乃
- 養 父:北畠具房
- 大 名:織田信長 → 豊臣秀吉 → 豊臣秀頼 → 徳川家康
北畠家を乗っ取ったけど織田家を乗っ取られてしまった
織田信長の次男として生まれた織田信雄は、父や兄と比べると影の薄い人物で、なにがしたかったのか理解できないエキセントリックなキャラクターです。
彼の人生を一言で表すなら ”乗っ取り” それも因果応報でした。
織田信雄は、12歳で伊勢の国司である北畠氏に養子入りします。父の野望のために「北畠家乗っ取り作戦」の尖兵として送りこまれたのでした。
1569年の大河内城の戦いで、圧倒的な兵力で信長に攻められ、北畠具教・具房父子はたまらず和平を願い出ます。
このとき、信長が和睦の条件にしたのが次男・茶筅丸(織田信雄)を養嗣子にすることでした。
「養嗣子」とは、家を継ぐ養子のこと。北畠具教の子・具房の養嗣子になった茶筅丸は、具教の娘・雪姫を嫁にし、北畠家のど真ん中にずっぽり入ります。
/
三瀬の変で北畠家の
クーデターに成功
\
1575年に北畠家を継いだ彼は、名を北畠信意に改めます。
その翌年の1576年には、北畠一族を根絶やしにするクーデター『三瀬の変』を起こして実権を得ました。
義父・北畠具教の三瀬館に滝川雄利、長野左京亮らを仕向けて、具教とその幼い息子2人、家臣14名を殺害。
一方で「親族をおもてなししたい」と騙して田丸城に一族を呼び出すと、具教の次男と三男と娘婿、その場に居合わせた者たちを謀殺しました。

義父・具教は剣の達人だったので、刀が抜けないようにあらかじめ細工をしておく周到さでした。
こうして、北畠家乗っ取り作戦は大成功しました。
/
家康を頼って
秀吉と争う
\
1582年『本能寺の変』で父・信長と兄・信忠が家臣の明智光秀に討たれる事件が起こります。
明智光秀は、同じく家臣の羽柴秀吉によって討ち果たされますが、この仇討ちによって秀吉の発言力が増しました。
そのころ、織田信雄は弟・信孝にライバル心を燃やしており、ちからを得た秀吉を味方につけます。
1583年、秀吉に加担して織田信孝の岐阜城を攻めて自害させましたが、その後は秀吉から邪魔者あつかいされてしまいます。
これに腹を立てた織田信雄は、父の盟友であった徳川家康を頼ると、秀吉と仲が良かった家臣の津川義冬ら3人をぶっ殺して宣戦布告しました。
1584年の小牧・長久手の戦いは、数で勝る秀吉を相手に徳川勢が善戦。
おかげで織田信雄は戦いを優位に進めましたが、宣戦布告の際に殺害した3人の一族が反乱を起こすなど、秀吉の調略によってパニックになります。
離反が相次ぐ状況で領内を攻められ、織田信雄は困ります。このタイミングで、秀吉から「戦いをやめて織田家の当主になってほしい」と誘われました。
前線で必死に戦ってくれていた徳川家康には相談もせず、織田信雄は秀吉との講和を選んでしまいます。

むしろちょっと勝っていたのに。
これを聞いた徳川家康は呆れて帰ってしまいました。織田信雄にお願いされて織田家のために戦っていたのですから、戦う理由がなくなってしまったわけです。
家康に苦戦していた秀吉は、織田信雄を利用して戦いを終わらせたのでした。
/
どうして
こうなった?
\
織田家の当主になった織田信雄でしたが、家臣であるはずの秀吉からあれこれと指図され、なんだかちょっと様子がおかしい。
気がつけば秀吉に命じられて小田原征伐に参陣し、秀吉の天下統一を目の当たりにします。
かつて織田家の小者だった秀吉は、いつの間にか関白・豊臣秀吉となっており、織田信雄は豊臣家に従う大名のひとりに成り下がっていました。
トップに立ったつもりが、織田家ごと豊臣秀吉に乗っ取られてしまったのでした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1558年、織田信雄は尾張国・丹羽郡に織田信長の次男として生まれます。父が北畠氏と争った際、和平の条件として北畠具房の養嗣子になりました。三瀬の変で北畠一族を抹殺して伊勢国を手に入れます。気をよくして伊賀国を攻めて大敗し、父・信長から叱られました。
父の死後、秀吉に従う
父の指導下でふたたび伊賀国を攻めるなど存在感を示しますが、本能寺の変で父と兄が討たれると弟・信孝と跡目を競うようになります。家臣の豊臣秀吉の支援を受けて跡目争いに勝利しますが、秀吉と主従が逆転してしまいました。
最後と死因
秀吉に追放されますが、徳川家康の仲介で復帰し、大坂城下で暮らしました。徳川氏による豊臣氏攻めの直前に大坂城を離れます。その後は表舞台から遠ざかって余生を送り、織田信雄は山城国・京の北野邸で亡くなりました。1630年6月10日、死因は不明。72歳でした。
領地と居城

尾張国、伊賀国、伊勢国を合わせた120万石が織田信雄の領地でした。秀吉から加増と引っ越しをお願いされますが、尾張を手放すことを拒否して追放されています。
織田信雄の性格と人物像
織田信雄は「空気が読めない人」です。
父である信長に断りもなく伊賀を攻めてボロ負けしたり、相当な覚悟で戦ってくれていた家康に無断で秀吉と和睦してしまったり、軽率な行動が目立ちます。
宣教師・ルイス=フロイスから「ふつうより知恵が劣っている」とディスられています。加増してあげようとする豊臣秀吉の好意を無下にするとも気づかず、良かれと思ってこれを断ってしまう残念さも露見します。
父・信長に似て怒りっぽく、杉の木を断りなく切った家臣に腹を立てて殺してしまったことも。
三男・信孝よりも明らかに序列が上でした。『京都御馬揃え』では、嫡男・信忠の80騎に次ぐ30騎の騎馬隊を連れて行進しています。信孝の10騎と比べて差があります。
能の名手で知られ、秀吉が主催した『天覧能』では、比類なき扇さばきが絶賛されています。能役者に与える影響も絶大でした。信長のうつけの部分だけを受け継いだ言われていますが、敦盛の舞が上手だった父からダンスセンスも遺伝していたようです。
実際に着用していた『黒糸威二枚胴具足』が現存しており、個性的な飾りの兜が目を惹きます。
能力を表すとこんな感じ

ネームバリューがある織田信雄は、表立つのに便利な存在です。領内の検地を行って知行制の統一を図るなど、政治力があります。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する織田信雄の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
織田信雄の面白い逸話やエピソード
安土城の天守閣をうっかり全焼させてしまう
豪華で派手な安土桃山時代を象徴する安土城は、織田信長が天下人のシンボルとして、琵琶湖を一望する安土山に築いた城でした。
本能寺の変が起こった1582年6月、安土城が焼失します。
安土城の火事は、規模や焼失範囲、出火原因など不明点も多く、現在でも謎とされています。
誰が火をつけたのか不明ですが、放火犯として有力視されているひとりが織田信雄です。
本能寺の変を起こした明智一派が羽柴秀吉に敗れたあと、信雄が安土城に入ります。そして、明智の残党を炙り出すために放火したところ、思いのほか炎上し、天守まで延焼してしまいました。
『日本史』を書いたルイス=フロイスは『信雄はバカだから火をつけた(超訳)』と報告しており、豪華絢爛な天守閣を全焼させた失態によって、家中での信雄の発言力も失われたと言われています。
とはいえ、天守を焼失したものの、二の丸から下は残っていたようで、城としての機能は保たれていたようです。
織田信雄の有名な戦い
織田家から北畠家に養子に入っていた北畠信意が三瀬館(三重県多気郡大台町)を襲撃。義父・北畠具教らを殺害した事件。剣の達人であった具教は抜刀して戦い、100人ほどに痛手を負わせたが、長野左京亮に討たれた。幼子まで殺害し、田丸城の一門も根絶やしにした。
三瀬の変で織田信雄は勝っています。
父・信長と北畠一族の抹殺計画を発動させました。クーデター成功により、伊勢国を北畠氏から奪い取っています。
北畠信意が伊賀(三重県伊賀市)に攻め入ったことを発端に勃発。百地三太夫ら伊賀十二人衆の激しい抵抗に遭い、織田軍が惨敗する。激怒した織田信長が大軍を投じて伊賀国を武力制圧した。村や寺院は焼き払われ、僧侶7百人が斬首、非戦闘員を含む3万人が虐殺された。
天正伊賀の乱で織田信雄は勝っています。
父の了承を得ずに独断で攻め入った1次侵攻では大敗し、信長から父子の関係を絶縁するとまで言われています。2次侵攻では、経験豊富な指揮官が補佐役につき、大兵力で蹂躙しました。
信長亡きあと、織田家の掌握を狙う羽柴秀吉と、家中を二分していた柴田勝家が賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で展開した戦い。前田利家の戦線離脱によって、柴田軍は潰走。勢いづく秀吉に北ノ庄城を攻められ落城した。秀吉子飼いの福島正則ら若手武将が活躍した。
賤ヶ岳の戦いで織田信雄は勝っています。
弟・信孝が篭る岐阜城を包囲し、開城するよう説得しています。開城降伏した信孝を尾張国に移送し、秀吉の命令を受けて切腹させました。
信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と信長の盟友・徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。
小牧・長久手の戦いで織田信雄は引き分けています。
織田信雄のターニングポイントになった戦いです。
徳川家康のバックアップを受けて秀吉と争いましたが、家康に相談なく和睦してしまいます。戦う理由をなくした徳川方は撤退し、秀吉包囲網に加わった雑賀衆や長宗我部氏は孤立。秀吉の紀州征伐、四国征伐につながってゆきます。
天下統一に迫る豊臣秀吉が小田原城(神奈川県小田原市)を大軍で包囲した合戦。籠城する北条氏直と、隠居の北条氏政、重臣たちは「小田原評定」と揶揄された結論がでない会議を繰り返した。北条父子を黒田官兵衛が説得し、降伏開城した。小田原攻め、小田原の役とも。
小田原征伐で織田信雄は勝っています。
伊豆国・韮山城攻めを指揮しますが落とせず、役目を交代させられています。
織田信雄の詳しい年表と出来事
織田信雄は西暦1558年〜1630年(永禄元年〜寛永7年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍した武将です。
1558 | 1 | 織田信長の次男として尾張国に生まれる。幼名:茶筅丸 |
1569 | 12 | 北畠具房の養嗣子になる。 北畠具教の娘(雪姫)と結婚。父・信長と養父・具房が和睦する。 |
1572 | 15 | 元服 → 北畠具豊 |
1574 | 17 | ”第3次長島一向一揆”初陣。一向宗門徒の殲滅戦に参加。 |
1575 | 18 | 養父・北畠具房の隠居により家督を相続。 伊勢国・田丸城を居城にする。 改名 → 北畠信意 ”越前一向一揆”一向宗門徒の殲滅戦に参加。 |
1576 | 19 | 滝川雄利、柘植保重、軽野左京進と共謀して義父・北畠具教を殺害。【三瀬の変】 北畠家の親族を扶助した織田忠寛を粛清する。 |
1577 | 20 | ”第1次紀州征伐”雑賀衆との戦に参加。 |
1579 | 22 | ”第1次天正伊賀の乱”伊賀国に侵攻し、伊賀惣国一揆を攻める。百地三太夫ら伊賀十二人衆に大敗する。 |
1580 | 23 | 伊勢国・松ヶ島城を築城、居城にする。 |
1581 | 24 | 京都で行われた軍事パレードに参加。【京都御馬揃え】 ”第2次天正伊賀の乱”10万の兵と滝川一益を与えられて伊賀国に侵攻する。非戦闘員を含む3万余を殺害し制圧する。 織田信長から伊賀国・3郡を拝領する。 |
1582 | 25 | 弟・信孝の四国征伐軍に援軍を派兵。 父・織田信長と兄・織田信忠が死亡。【本能寺の変】 復姓 → 織田信勝 改名 → 織田信雄 清洲城で柴田勝家、丹羽長秀、羽柴(豊臣)秀吉、池田恒興の4人で会議を行う。弟・信孝と次代を競うが、三法師(信長の孫)が後継者となる。【清洲会議】 尾張国、伊賀国、伊勢国南部を相続。 羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の3人が談合を行い、清洲会議の決定を反故する。織田家当主に擁立される。 |
1583 | 26 | ”賤ヶ岳の戦い”羽柴秀吉の指揮下で柴田勝家との戦に参加。弟・信孝の岐阜城を包囲し開城降伏させる。 羽柴秀吉の命令で弟・織田信孝を自害させる。 羽柴秀吉から伊勢国北部を拝領する。 三法師を後見して安土城に入るが羽柴秀吉から退去を命じられる。 |
1584 | 27 | 近江国・三井寺で羽柴秀吉と会見し決裂する。 徳川家康と同盟する。 羽柴秀吉との内通疑惑により津川義冬、岡田重孝、浅井長時を殺害し宣戦布告する。 ”小牧・長久手の戦い”織田信雄&徳川氏で羽柴秀吉と争う。雑賀衆、長宗我部元親、佐々成政らを加えて包囲網を形成する。 羽柴秀吉と和睦する。 羽柴秀吉の配下になる。 長女・小姫を羽柴秀吉の養女にする。 |
1585 | 28 | ”越中征伐”佐々成政との戦に参加。佐々成政を説得して降伏させる。 尾張国・清洲城を居城にする。 |
1587 | 30 | 内大臣に就任。 |
1590 | 33 | ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。韮山城から転戦し小田原城包囲軍に加わる。 豊臣秀吉が小田原城を開城降伏させる。北条家滅亡 豊臣秀吉から旧徳川領への移封を命じられる。尾張国を手放すことを拒絶し改易される。 下野国・烏山に流罪。 出家 → 織田常真 |
1591 | 34 | 出羽国・秋田の八郎潟湖畔に流罪。 伊予国に流罪。 |
1592 | 35 | 徳川家康の仲介で赦免される。 豊臣秀吉の御伽衆に加わる。 朝鮮出兵に備えて肥前国・名護屋城に入る。朝鮮には渡らず。【文禄の役】 |
1598 | 41 | 主君・豊臣秀吉が死去。次代・豊臣秀頼に仕える。 |
1600 | 43 | ”関ヶ原の戦い”徳川家康との戦に西軍として参加。西軍が敗れたため、領地を没収される。 大坂城下で隠遁生活をする。 |
1614 | 57 | 片桐且元に殺害計画があることを知らせて大坂城を去る。 山城国・京に移る。 |
1615 | 58 | 徳川家康が大坂城を攻め落とす。豊臣家滅亡 徳川家康から大和国と上野国に5万石を拝領する。 |
1628 | 70 | 3代将軍・徳川家光から江戸城での茶会に招かれる。 |
1630 | 72 | 山城国・京の北野邸で死去。 |
