榊原康政
1548.?〜 1606.6.19

榊原康政は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。徳川四天王のひとり。豪胆で思い切りが良く、遊撃隊を率いて局面を打開するのが得意な猛将です。武勇一辺倒ではなく教養もあり、文字を書かせれば達筆という文武両道の人物です。江戸幕府がひらかれると、上野国・館林藩の初代藩主になりました。享年59。
- 榊原康政の武将タイプ
- 猛将
榊原康政は何をした人?このページは、榊原康政のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと榊原康政が好きになる「達筆の挑発文で秀吉をキレさせ10万石の賞金首にされた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:榊原康政
- 幼 名:亀丸
- 官 位:従五位下、式部大輔、贈正四位
- 幕 府:老中
- 藩 :館林藩主
- 出身地:三河国(愛知県)
- 領 地:上野国
- 居 城:館林城
- 正 室:大須賀康高の娘
- 子ども:3男 2女 2養
- 跡継ぎ:榊原康勝
- 父と母:榊原長政 / 道家氏
- 大 名:徳川家康
達筆の挑発文で秀吉をキレさせ10万石の賞金首にされた
榊原康政とは、徳川家康が戦国大名として独立したころから仕え、江戸幕府をひらくまで武力で支えた猛将です。
徳川家康が豊臣秀吉とたった一度だけ争ったことがあり、そのとき榊原康政が秀吉に送った挑発状が開戦のきっかけとなりました。
榊原康政の手紙をみて猿のように顔を赤めてはげしく怒った羽柴(豊臣)秀吉は「こやつを討ち取ったものに10万石やる!」と、破格の恩賞を約束をして家臣に命令しました。
賞金首にされた榊原康政のねらいは、秀吉を怒らせて戦局を動かすことでした。
織田信長が本能寺の変で横死した2年後の1584年、織田信雄&徳川家康の連合軍と豊臣秀吉の対立から小牧・長久手の戦いが勃発します。
しかし、総力戦を望まない両者は、いまいち消極的な序盤戦となっていました。
なかなか戦況が動かずイライラした榊原康政は「そうだ、秀吉を煽ろう」と、スラスラと筆を走らせます。
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達筆の書状で
盛大にディスる
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榊原康政が秀吉に宛てた手紙はこうです。
「身分いやしい猿吉。信長公の世話になったくせに恩知らず。ばーか」(超訳)
貧民出身の秀吉にとって出自は最大のタブー。おまけに榊原康政は達筆で、流れるような美しい文字で罵ったのです。教養をみせられて、普段なら冷静に対処する秀吉も完全に煽られました。
秀吉はすぐに甥の秀次に出撃を命じます。
これを榊原康政は「待ってました!」とばかりに迎え討ち、側面から突撃して秀次隊を壊滅させました。
榊原康政の突撃が呼び水となって徳川軍本隊が行動を開始し、神出鬼没に局地戦を展開して、秀吉軍の池田恒興、森長可らを戦死させ、見事に戦勝しました。
小牧・長久手の戦いはこのあと和睦し、榊原康政と対面した秀吉はこれを殺さず、戦いぶりと豪胆さを称えました。榊原康政がディスったことも不問になりました。
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ぶっこみまくる
サイドアタッカー
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小牧・長久手の戦いで豊臣秀次を崩壊させた榊原康政のサイドアタックは、これよりずっと前、1570年に姉川の戦いでも炸裂しています。
徳川軍は朝倉軍と交戦しますが、先陣の酒井忠次がもたつきます。
榊原康政は大先輩の忠次に文句を言いながら追い越して行き、朝倉軍の側面に突撃して敗走させました。
1600年の関ヶ原の戦いに、家康の三男・徳川秀忠は真田昌幸に足止めされて間に合いませんでした。家康は憤慨し、秀忠に会おうとしませんでした。
この様子に榊原康政は横から口を挟んで「子を待たずに始める親があるか!」と家康を叱りました。これには家康も驚き、秀忠を許しました。
親子の問題にも遠慮なく横からぶっこむ男。それが榊原康政でした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1548年、榊原康政は三河国・上野郷に榊原長政の次男として生まれます。桶狭間の戦いから帰る途中の徳川家康と大樹寺で出会い、家来になります。三河一向一揆から、家康のほとんどの合戦に出陣して武功を重ねます。重要な行事ではいつも同行し、石田三成が企てた家康暗殺を防いだこともありました。
初代・館林藩主になる
家康の三男・秀忠を補佐する役を与えられ、江戸幕府が開かれると初代・館林藩主になります。利根川水域に堤防を築くなど内政に勤しみました。同い年の本多忠勝と切磋琢磨しながら競い合い、家康を支えました。
最後と死因
親友の井伊直政が亡くなるとなにかと井伊家を気にかけ、直政の死から4年後に榊原康政は上野国・館林城で亡くなりました。1606年6月9日、死因は細菌感染症(毛嚢炎)の悪化。59歳でした。
領地と居城

上野国・館林10万石が榊原康政の領地でした。広い土地への引っ越しを提案されても「ずっと家康のそばがいい」といって江戸に近い館林から動きませんでした。
榊原康政の性格と人物像
榊原康政は「上司にもズケズケ言える人」です。
相手が誰であろうと正しいと思ったことを主張します。主君である家康や御曹司の松平信康をも叱りつける熱苦しさも慣れればありがたいものでした。
初陣のときに友人からもらったボロの甲冑をいつまでも大切にするなど情に厚く、義理堅い性格がうかがえます。
家臣からも信頼されており、康政の死後にあとを追って殉死する者もいました。
好き嫌いがはっきりしていて、そりが合わない人物を忌み嫌うところがあります。
策謀家の本多正信のことを「あやつは腸が腐っている」と毛嫌いしており、一方で井伊直政のことは「あいつが死んだら俺も死ぬ」とまで言い、好意を隠しませんでした。
大軍の指揮は本多忠勝にも勝ると称された勇将ですが、勉学を好み、書を読んで、字が大変上手かったそうです。行政能力もあったので、たびたび家康の書状を代筆しました。
合戦がなくなった晩年は、さびしそうに拗ねて過ごしました。
身長160cmくらいで平均的な体格でした。不動明王が右手に持っている剣をデザインした『三鈷剣前立兜』を愛用しており、榊原康政が着用した実物が残っています。
能力を表すとこんな感じ

一糸乱れぬ側面攻撃を得意とした榊原康政は統率力に優れています。判断が鋭く、頭脳戦の駆け引きも巧みでした。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する榊原康政の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
榊原康政の面白い逸話やエピソード
一生懸命な井伊直政に惹かれてズッ友になる
武田家が滅亡したのち、徳川家臣団のなかで最年少の井伊直政が頭角をあらわしてきます。この若者は北条氏と交渉をまとめ、武田旧領のうち甲斐国と信濃国を徳川領とする話をつけました。
この功績により、井伊直政は最強と称された武田騎馬隊と赤備えを引き継ぐことになります。
激しい嫉妬から、13歳下の若者に「あのガキと刺し違えてて俺も死ぬ」と息巻きますが、仕事熱心な直政の姿を見ているうちに「徳川のことを心から想っているのは俺と直政だけ」と思うようになります。
以来、井伊直政との交流を深めて、合戦では ”どちらかが家康のそばに居ればお互い安心できた” というほど、信頼し合う仲になりました。
「直政が病気になったら俺も病気になるし逆も同じ」と、康政は公言していました。
直政が亡くなったあとの井伊家を助け、直政の死から4年後に康政も亡くなりました。
榊原康政の有名な戦い
上宮寺や勝鬘寺(ともに愛知県岡崎市)などの寺社を拠点とした本願寺門徒と松平元康の争い。今川氏から独立して三河の支配を強める松平氏が、上宮寺から無理に兵糧を奪ったことを発端とする一向一揆。本多正信らが一揆に加担し、松平家中で家康に反する内紛が起きた。
三河一向一揆で榊原康政は勝っています。
榊原康政のターニングポイントになった戦いです。
これが初陣でしたが、神仏を恐れる味方に「仏罰は俺が引き受ける!安心しろ!」と言い放って士気をあげました。この戦いでの功績で家康から ”康” の一字をもらい、康政を名乗りました。
浅井&朝倉軍と、織田信長の援軍で参陣した徳川家康が姉川(滋賀県長浜市野村町)で激突した合戦。本多忠勝が一騎討ちで真柄直隆と渡り合うなど、徳川軍の活躍が目覚ましく、榊原康政の突撃で朝倉軍は敗走。激戦で姉川は血に染まり、血原や血川橋という地名を残した。
姉川の戦いで榊原康政は勝っています。
徳川軍は朝倉軍と戦いましたが、相手の勢いに押されていました。朝倉軍が縦に伸びきったところを榊原隊が側面から分断し、勝利に大きく貢献しました。
西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。
三方ヶ原の戦いで榊原康政は敗れています。
武田信玄の前に潰走した徳川軍でしたが、康政は武田軍に夜襲をかけます。一斉に大声をあげながら武田軍に突入して混乱させてから浜松城に引きあげています。
長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。
長篠の戦いで榊原康政は勝っています。
武田方の内藤昌豊が徳川家康の陣に突撃してきますが、本多忠勝と立ちはだかって退けました。
信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と信長の盟友・徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。
小牧・長久手の戦いで榊原康政は引き分けています。
秀吉を挑発して怒らせ、手柄を急いだ秀吉の甥・羽柴秀次を壊滅させる働きで、徳川方の戦況を有利にしました。和睦の際の使者までつとめて秀吉を感嘆させました。
榊原康政の詳しい年表と出来事
榊原康政は西暦1548年〜1606年(天文17年〜慶長11年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1548 | 1 | 榊原長政の次男として三河国に生まれる。幼名:亀丸 |
1560 | 13 | 松平元康(徳川家康)に仕える。 主君・松平元康が今川氏から独立。 |
1562 | 15 | 父が死去、兄・榊原清政を差し置いて家督を相続。 |
1563 | 16 | ”三河一向一揆”初陣。一向宗門徒の鎮圧戦に参加。 改名 → 榊原(小平太)康政 |
1564 | 17 | ”馬頭原合戦”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。 今川領・吉田城攻めに参加。 |
1566 | 19 | 旗本先手役に抜擢される。 元服 |
1568 | 21 | 今川領・遠江国攻めに参加。 |
1569 | 22 | 今川領・遠江国攻めに参加。今川家滅亡 |
1570 | 23 | ”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。朝倉軍の側面を突いて混乱させる。 |
1573 | 26 | ”三方ヶ原の戦い”武田信玄との戦に参加。夜襲で武田軍を崩す。 武田領・長篠城攻めに参加。 |
1575 | 28 | ”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。突撃してきた内藤昌豊を本多忠勝と撃退する。 ”諏訪原城の戦い”武田勝頼との戦に参加。 |
1581 | 34 | ”第2次高天神城の戦い”武田勝頼との戦に参加。先陣を務める。 |
1582 | 35 | ”甲州征伐”武田勝頼との戦に参加。武田家滅亡 織田信長のもとに出向く徳川家康に同行して上洛。摂津国・堺の見物を楽しむ。 織田信長が死亡。【本能寺の変】 明智光秀の軍勢に追われる徳川家康を護衛して畿内を脱出。【伊賀越え】 ”若御子対陣”空白地となった旧・武田領への侵攻に参加。【天正壬午の乱】 |
1584 | 37 | ”小牧・長久手の戦い”羽柴(豊臣)秀吉との戦に参加。挑発文を送って戦況を動かす。羽柴(豊臣)秀次を壊滅、池田恒興と森長可を戦死させる。 |
1589 | 42 | 上野国・沼田城が真田昌幸から北条氏政に引き渡される際の立会人を務める。 |
1590 | 43 | ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。北条家滅亡 徳川家康から上野国・館林を拝領する。 上野国・館林城を居城にする。 利根川水域の堤防整備に取り組む。 |
1592 | 45 | 朝鮮出兵に備えて肥前国・名護屋城に入った徳川家康に代わって領内統治をする徳川秀忠を後見する。 |
1599 | 52 | 宇喜多秀家の家臣同士の対立を調停人として大谷吉継と介入する。【宇喜多騒動】 徳川家康を暗殺しようとする石田三成の企てを察知して防ぐ。 |
1600 | 53 | ”第2次上田合戦”真田昌幸との戦に参加。徳川秀忠に従軍。上田城攻めを中止して関ヶ原に向かうが遅刻する。 |
1603 | 56 | 上野国・館林藩の藩主になる。【江戸幕府の成立】 |
1606 | 59 | 上野国・館林城で病死。 |

- 榊原康政 – Wikipedia
- 【刀剣ワールド】榊原康政の武将年表|戦国武将年表
- 榊原康政の解説 武勇と知勇を馳せた徳川家の重臣ー武将辞典
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