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おだ のぶなが

織田信長

1534.6.23 〜 1582.6.21

 
織田信長のイラスト
  

織田信長は、現在の愛知県西部にあたる尾張の武将・大名です。桶狭間の戦いで今川義元の大軍をわずかな兵力で打ち破り、歴史の表舞台に鮮烈なデビューを飾ります。尾張一国から次第に勢力を拡大していき、天下統一まであと少しというところで家臣の明智光秀の謀反に遭い、燃えさかる京都本能寺で自刃しました。享年49歳。

織田信長と似ている人物
三好長慶
徳川家康
豊臣秀吉

このページでは、織田信長が何をしたどんな人なのか、ハイライトやエピソードを紹介しています。戦国武将・織田信長のことがきっと好きになります。

  • 名 前:織田信長
  • 幼 名:吉法師
  • あだ名:第六天魔王、尾張のうつけ
  • 官 位:権大納言、右近衛大将、内大臣、右大臣
  • 戦 績:82戦 59勝 15敗 8分
  • 出身地:尾張(愛知県)
  • 領 地:中部地方、近畿地方、中国地方
  • 居 城:那古野城 → 清洲城 → 小牧山城 → 岐阜城 → 安土城
  • 正 室:斎藤道三の娘・帰蝶
  • 子ども:12男 9女 5養 1猶
  • 跡継ぎ:織田信忠

天下布武を宣言して革新的なアイデアで天下統一にチャレンジした

美濃を制圧した1567年頃から、織田信長は「天下布武」というハンコを使用しており、天下統一という野望を意識しはじめたと考えられています。

天下布武とは、武力をもって天下を制するとした織田信長の挑戦的な意思表明と解釈されました。しかし、その真意は、争いのない泰平の世を創るという決意であったとする説もあり、一見乱暴なようでも、日本から争いをなくす織田信長の強い意志が込められています。

歴史上、織田信長の功績は、100年続いていた戦国時代を終結に向けて急加速させたことです。

戦国時代の終わりには諸説あり、教科書では1573年とされています。この年は、織田信長が15代将軍・足利義昭を京都から追放し、室町幕府を滅ぼしました。
室町時代の滅亡をピリオドとする場合、織田信長は戦国時代を終わらせた人物となります。

楽市楽座の実施、兵農分離、鉄砲隊の実戦投入、鉄甲船の建造など、これまでの常識にあてはまらない数々の政策や戦術を駆使して、中部地方から、近畿地方、中国地方を制圧し、版図を拡げていきました。

比叡山延暦寺の焼き討ち、室町幕府を滅ぼすなど、古い体制や悪しき慣習を排除して、新しい日本のかたちをつくろうとしました。織田信長は破壊と創造の英雄です。


信長のすごいところ
桶狭間の奇跡

桶狭間の戦いで今川軍は総勢2万5千、織田軍は総動員しても2〜3千だったといい、10倍ほどの兵力差がありました。

鷲津砦や丸根砦での緒戦の勝利に気をよくした今川義元が、桶狭間でランチ休憩をしているところを急襲し、討ち取りました。とつぜん降り出した豪雨と丘陵によって、義元に気づかれることなく奇襲に成功しました。

桶狭間の戦いの図

これがどれほど大変な出来事だったかというと、プロの格闘家と試合をした小学生が1ラウンドKO勝ちしてしまうくらい衝撃的なことでした。今であれば間違いなく「番組の途中ですがニュースです」で報じられます。

桶狭間の戦いは、河越夜戦、厳島の戦いと並んで「日本三大奇襲」に挙げられる合戦ですが、近年の研究では、ラッキーパンチが当たったのではなく、作戦による計算された勝利という見方がされています。
今川義元を桶狭間で休憩させるために、地元民に差し入れをさせる策を講じていました。


信長のすごいところ
合理的な政策

織田信長が版図を拡大できた最大の要因はいつでも兵を動員できたことです。

兵隊と農民を分ける「兵農分離」によって、常に戦闘に動員できるプロ兵団を構成しました。当然、専業兵士を雇用しつづけるには多大な費用がかかります。

そこで、織田信長は城下町の課税を免除して、誰でも自由に商売ができる「楽市楽座」を奨励しました。商売がしやすい織田領には、商人がたくさん集まり、大きな経済効果をもたらしました。

【半農半士】と【兵農分離】のイメージ
【楽市楽座】市場の自由交易を奨励したイメージ

おまけに楽市楽座には、これまで座(組合)の徴収によって利益を得ていた、公家や寺院を弱体化させる狙いもあったのです。


信長のすごいところ
最強の鉄砲隊

戦のありかたも、織田信長が大きく変えました。

西洋から伝来した鉄砲は破壊力がありますが、弾込め、火縄の導火線に着火するなど、撃つまでに時間がかかるのが難点でした。織田信長は、鉄砲隊を3つに分けることで鉄砲の弱点を克服します。
交代で入れ替わるようにして、鉄砲による絶え間ない射撃を可能にしました。

【鉄砲の三段撃ち】交代で絶え間なく撃ち続けるイメージ

長篠の戦いで武田軍の騎馬隊を粉砕した「三段撃ち」と呼ばれるこの戦法によって、鉄砲が合戦の主役となったのです。

鉄砲は高価な武器でしたが、織田信長は楽市などの政策で得た潤沢な資金で、数千丁もの鉄砲を所有していたため、三段撃ちの破壊力はすさまじいものでした。

長篠の戦いで織田信長が採用した戦術は、丘陵地を利用したもので、敵から見えないように途切れ途切れに小隊を布陣し、土塁に馬防柵を設置する大掛かりな野戦築城でした。これは当時の日本では例を見ない戦術で、イタリア軍役を適用した可能性が指摘されています。

つまり、刀と弓矢の戦国時代に、銃が主体となる西洋の戦争技術を使ったことになります。敗れた武田勝頼はおろか、日本人の誰も見たことがない戦術が用いられたのですから、古来からの合戦に改革が起こったセンセーショナルなものでした。


信長のすごいところ
世界トップの技術力

最強と称されていた毛利水軍に対して、木津川口の戦いで敗北を喫しますが、織田信長は鉄の装甲を施した鉄甲船という奇想天外な技術でリベンジを果たします。鉄の装甲板で覆われた軍船は、世界のどこにもない発想でした。

鉄砲や鉄甲船といった兵器の投入、西洋の戦術など、織田信長は世界の最先端にいました。織田信長によって、日本の技術力は飛躍的に向上しました。


信長のすごいところ
全国統一の基盤をつくる

1467年に起こった応仁の乱に端を発して以来、100年余つづいていた戦国時代は、織田信長の強引な武力制圧によって急加速しました。

尾張を統一してから、美濃、伊勢に進出。
近江、山城、摂津、河内、大和、伊賀、越前、若狭、丹波、丹後、但馬、播磨をつぎつぎと支配して、近畿地方を平定しました。

当代の名将である武田信玄や上杉謙信が死去すると、信濃、甲斐、上野の武田領、加賀、能登、越中の上杉領を侵略しました。

桶狭間の戦いから、およそ20年で20以上の領国を有するまでに成長した織田信長は、関東の北条氏と東海の徳川氏を服従させて、本州の半分近くを制圧しました。明智光秀の裏切りによって、本能寺の変で非業の死を遂げますが、天下統一事業は豊臣秀吉が引き継ぎます。

織田信長の偉業を間近でみていた家臣の豊臣秀吉、盟友の徳川家康が全国を統一して、日本国内から争いが終息したのは1615年。織田信長が横死した1582年の本能寺の変から33年後でした。

生涯:生まれから最後まで

① 生まれ

尾張国の勝幡城に父・織田信秀と母・土田御前の長男として生まれます。
13歳で元服しますが、だらしないかっこうで、前田利家ら不良っぽい家来を連れて領内を馬で走り回っていたので、評判がよくありませんでした。

② 家督相続と内紛

18歳のときに父・信秀が病死し、家督を継ぎます。ところが、柴田勝家をはじめとした反対派が弟・織田信勝に家督を継がせようとしました。
稲生の戦いで反対派をやぶり、2回の謀反を計画した弟・信勝を殺害。兄弟の騒動を抑えると、同族で争っていた織田信賢を排除して、26歳で尾張を統一しました。

③ 天下統一を目指す

おちつく間もなく、今川氏の大軍が攻めてきます。桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、全国的に有名になります。
義父・斎藤道三が内乱で戦死した美濃を攻め取ると、34歳のころから天下統一を目指します。
家来の豊臣秀吉の活躍や、同盟関係にあった徳川家康や義弟・浅井長政の協力で近畿地方に進出しました。

④ 室町幕府の再興

将軍の相続問題で混乱していた室町幕府をたてなおす手伝いをします。
将軍の継承権をもつ足利義昭の頼みをきいて京に攻めのぼると、都を占領していた三好三人衆を追い払って義昭を将軍に就任させました。

⑤ 信長包囲網

将軍のちからを利用して、越前の朝倉義景を攻めますが、浅井長政と足利義昭の裏切りにあい、石山本願寺らをくわえた集団で信長をやっつけようとする「信長包囲網」が結成されます。
いちばん手強い武田信玄は、つぎつぎと織田領と徳川領を攻め落としましたが、信玄が急死してピンチを逃れました。

⑥ 快進撃

40歳をむかえた信長は、足利義昭を追放、朝倉氏と浅井氏を攻め滅ぼし、武田勝頼を長篠の戦いで圧倒する快進撃をみせます。
45歳のころは、松永久秀や荒木村重ら家臣の裏切りに悩まされます。ことごとく制圧し、関東地方、中部地方、近畿地方、四国地方、中国地方まで領地をひろげた信長に対抗できる勢力はわずかになりました。

⑦ 最後

とつぜん、家臣の明智光秀が裏切り、宿泊していた京都本能寺を襲われます。
信長も弓と槍で戦いますが、肩に矢をうけてしまい、森蘭丸に命じて本能寺に火をつけ「是非もなし(仕方ない)」とつぶやいて自害しました。
本能寺は全焼。信長の遺体は見つかっていません。49歳の生涯でした。

織田信長の簡単な年表
織田信長の領地・勢力図(1582年)
織田信長と関わりが深い人物

性格:人物像・どんな人?

織田信長の能力チャート

織田信長は「誰に対しても高圧的で上から目線な人」です。
自分に絶対的な自信があるので、部下のアドバイスは聞きません。部下に求めるのは結果。コミュニケーションは報告だけでいい成果主義・合理主義です。
家臣の離反には意外と寛大で、謝罪すれば許しています。そのせいか、頻繁に裏切られます。

信長が「おい」と声をかければ、ダッシュで駆けつけないと殺されます。信長の甲高い声を笑ったものを即座に切り捨てた話もあり、短気なんてもんじゃありません。つねにピリついた空気をまとっています。

武芸を好み、日々の鍛錬を怠りません。馬術は家中で一番の腕前で、弓も得意でした。合戦が大好きで、大名なのに先頭を駆けていました。戦は必ず敵の領内に踏み込んで行う、自分の領地に入らせてはダメというスタンスでした。
人並みはずれた大声が出せます。大声で戦の形勢を逆転したことも。

早寝早起き、規則正しい生活をして、几帳面。お酒は飲みません。食事も控えめだったそうです。
身長170cm、派手な格好や新しい物を好みました。茶器や武具のコレクションにも熱心です。気が利いたプレゼントを選ぶのも上手です。

幸若舞の『敦盛』が好きで、桶狭間の戦いの前にはひと踊りしてから出陣しています。
干し柿が好物。成果をあげた家臣には、褒美として干し柿をあげることもありました。

織田信長といえば南蛮具足ですが、鋼鉄製の西洋甲冑は体のサイズがフィットしないと着用できないため、胴の部分だけ流用して、和製の甲冑とブレンドしたハイブリッドな甲冑を着用していました。信長が着用していた甲冑はいくつか現存していますが、南蛮鎧は残っていません。

織田信長の逸話・面白いエピソード

奇抜なファッションで領内を暴走するうつけもの

うつけ=ばか。若いころの織田信長は「尾張の大うつけ」と呼ばれていました。

ぎゅっと縛りあげた茶筅まげ、浴衣を着くずした上半身は半裸、ヒョウと虎の革を染めた半袴(短パン)、腰にはヒョウタンと火打ち石をぶら下げて、金ピカの装飾を施した一際おおきな太刀と脇差を差していました。
同じように派手なかっこうをした前田利家ら子分を引き連れて、喧嘩上等・チームノブナガは毎日のように暴走行為を繰り返していたのです。

【尾張の大うつけ】派手なかっこうをしていた思春期の織田信長

父・信秀の葬儀では、親族・家臣一同が居並ぶなか半裸で現れ「喝っ!!」と叫びながら仏前に焼香を投げつける(抹香事件)ありさま。
織田家に長く仕えている家臣たちも信長の傍若無人な振る舞いにはウンザリ。

金も権力もあり、わがまま放題。まさに絵に描いたようなドラ息子でした。

南蛮かぶれでマントをつけていた

ルイス・フロイスら宣教師との交流がきっかけとなり、南蛮文化にハマっています。安土城の自室には、テーブル、銀のロウソクたて、ワイングラス、地球儀などの舶来品があふれていました。
大きな羽をつけた南蛮帽をかぶって出かけたり、洋服を好んで着ていました。

南蛮ファッションに身を包む織田信長公

なかでもお気に入りはビロードのマント。日常的にまとっていただけでなく、合戦では鋼鉄製の南蛮鎧にマントを羽織っていたそうです。

京の料理人から田舎者と馬鹿にされてしまう

腕がいいと評判の料理人・坪内石斎を召し抱えることになった信長。さっそく料理をつくらせて、ひとくち食べると「水臭ぇあにゃあ!食えにゃあで!」と激怒。坪内を斬り捨てようとします。

翌日、坪内にもう一度チャンスをやると、信長は出てきた料理に満足しました。
坪内が用意したのは、最初の味付けは薄味の京風、翌日のは思いっきり濃い味付けの料理でした。
坪内はこれを「信長は田舎者だから、しょっぱいもの出しておけば旨い旨いと食いよる」と小馬鹿にしたといいます。

領民と女性には意外と優しい

”奥さんみたいな綺麗な女性がいながら、けしからんハゲねずみめ。でも大丈夫。あの馬鹿者はあなたほど素敵な女性を他に見つけられないですよ”
夫の浮気癖に手を焼いている豊臣秀吉の妻を気遣う一文があります。
”この手紙は秀吉にも見せるよーに” と書かれており、秀吉も反省したとのことです。

足が不自由なホームレスを領内で見かけたおり、家来に ”あいつの家を作ってやれ” と命じたそうです。収穫の祭りには必ず参加する、城下の人々を楽しませようと居城の安土城をライトアップするなど、領民に対して心を配る殿様という一面もありました。

織田信長の戦い・有名な合戦

稲生の戦い いのうのたたかい 1556.9.27 ● 織田信勝軍1千7百 vs 織田信長軍7百 ○

織田信長の家督相続を不満とする弟・信勝が挙兵、稲生原(愛知県名古屋市西区名塚町)付近で行われた合戦。序盤、柴田勝家を擁する信勝軍が優勢に進めるが、戦線にいた織田信長が大声で叫ぶと柴田隊が混乱。信長が林通具を討ち取ると信勝軍は敗走、信長が勝利した。

稲生の戦いで織田信長は勝っています。
信長に反対する織田家重臣たちが、弟・織田信勝を旗頭に挙兵。これを鎮圧して、反対派の多くをだまらせました。

桶狭間の戦い おけはざまのたたかい 1560.6.12 ● 今川軍2万5千 vs 織田軍3千 ○

尾張の織田領に侵攻してきた今川義元を田楽間(愛知県名古屋市緑区)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。

桶狭間の戦いで織田信長は勝っています。
織田信長のターニングポイントになった戦いです。
この頃の信長は、家督を継いで間もなく、当主として疑問視されていたため、不安定な状況にありましたが、今川義元を討ち取って実力を示しました。
徳川家康が今川氏から独立するきっかけにもなっており、日本史にあたえた影響も大きな合戦です。

観音寺城の戦い かんのんじじょうのたたかい 1568.9.12 ○ 織田&浅井軍6万 vs 六角軍1万1千 ●

京に上洛する織田信長が、途上にある観音寺城(滋賀県近江八幡市)を攻めた合戦。18からなる支城で構成された難攻不落の山城だったが、わずか1日で要所であった箕作城と和田山城が陥落した。六角義賢は観音寺城を放棄して甲賀郡に逃亡し、城兵たちは降伏した。

観音寺城の戦いで織田信長は勝っています。
足利義昭を報じて京都を目指す信長の上洛戦で一番重要なポイントでしたが、大きな被害を出さずに南近江を制圧しました。

金ヶ崎の戦い かねがさきのたたかい 1570.4.28 ● 織田&徳川軍3万 vs 浅井&朝倉軍2万5千 ○

越前の朝倉義景を攻めていた織田信長を朝倉軍と浅井軍が金ヶ崎(福井県敦賀市金ヶ崎町)で挟み撃ちにした戦い。浅井長政の裏切りによって、織田軍は撤退を余儀なくされる。木下秀吉が、客将として参戦していた明智光秀ととも撤退戦の殿を担い、信長を無事に逃げさせた。

金ヶ崎の戦いで織田信長は敗れています。
浅井長政の裏切りによって絶体絶命の窮地に立たされますが、これを切り抜け、覇道を突き進む原動力としています。

姉川の戦い あねがわのたたかい 1570.7.30 ○ 織田&徳川軍3万 vs 浅井&朝倉軍2万 ●

浅井&朝倉軍と、織田信長の援軍で参陣した徳川家康が姉川(滋賀県長浜市野村町)で激突した合戦。徳川軍の活躍が目覚ましく、本多忠勝が一騎打ちで真柄直隆を討ち取り、榊原康政が突撃して朝倉軍を敗走させた。激戦で姉川は血に染まり、血原や血川橋という地名を残した。

姉川の戦いで織田信長は勝っています。
辛酸をあじわった金ヶ崎のあと、すぐに体制を立て直した信長は、徳川家康の助力もあって、浅井氏&朝倉氏の連合軍との激闘を制しました。

槇島城の戦い まきしまじょうのたたかい 1573.7.18 ○ 織田軍7万 vs 足利幕府軍1万2千 ●

再び反信長の挙兵をした足利義昭が篭る槇島城(京都府宇治市槇島町)を織田信長が攻めた合戦。信長は宇治川を渡って槇島城を包囲すると、城壁を破壊して城に火を放った。義昭は嫡男を人質として差し出し、降伏した。合戦のあと、足利義昭は河内に追放された。

槇島城の戦いで織田信長は勝っています。
挙兵を繰り返して籠城した足利義昭を打破し、追放しました。この戦いによって、室町幕府を滅ぼしました。

一乗谷城の戦い いちじょうだにじょうのたたかい 1573.8.8 〜 8.20 ○ 織田軍3万 vs 朝倉軍2万 ●

織田軍に包囲された浅井長政を救援すべく朝倉義景は出陣した。しかし、浅井氏の劣勢をみて撤退を開始する。義景の撤退を予測していた織田信長は、猛追撃して朝倉軍を壊滅させた。一乗谷城(福井県福井市城戸ノ内町)は陥落し、朝倉氏は滅亡した。刀根坂の戦いとも。

一乗谷城の戦いで織田信長は勝っています。
朝倉義景との決着をつける殲滅戦はあっけなく、朝倉氏を滅亡させました。

小谷城の戦い おだにじょうのたたかい 1573.8.8 〜 9.1 ○ 織田軍3万 vs 浅井軍5千 ●

信長に叛いた浅井長政を殲滅するべく、織田信長が小谷城(滋賀県長浜市湖北町)を攻めた合戦。小谷山を要害とした堅城を攻略するため、織田軍の木下秀吉は、城内を分断する作戦を実行する。崖を登って奇襲に成功し、小谷城を陥落させた。これにより、浅井氏は滅亡した。

小谷城の戦いで織田信長は勝っています。
朝倉氏を攻め滅ぼした勢いもそのままに、つづけざまに浅井氏を攻めて滅亡させました。

長篠の戦い ながしののたたかい 1575.6.29 ● 武田軍1万5千 vs 織田&徳川軍3万8千 ○

長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、3,000挺からなる鉄砲隊で絶え間なく銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田騎馬隊は壊滅、被害は1万人とも。

長篠の戦いで織田信長は勝っています。
日本の合戦史でも重要な一戦で、弓と槍で戦う時代に鉄砲の有用性を知らしめました。当事者であった織田氏、徳川氏、武田氏だけでなく、日本中に衝撃を与えました。
これ以降、合戦は鉄砲の時代をむかえます。

本能寺の変 ほんのうじのへん 1582.6.21 ○ 明智軍1万3千 vs 織田軍2百 ●

本能寺(京都府中京区小川通蛸薬師元本能寺町)に織田信長が宿泊していたところを家臣の明智光秀が襲撃した事件。早朝、喧騒で目を覚ました信長は、明智軍に包囲・攻撃されている事実を知ると「余は自ら死を招いたな」と覚悟し、弓と槍で鬼神のごとく応戦したのち、本能寺に火を放って自害した。

本能寺の変で織田信長は敗れています。
明智光秀の謀反・本能寺の変で信長が死亡した事件は、織田家中を混沌に陥れ、羽柴(豊臣)秀吉に天下統一の野望を抱かせました。
本能寺の変は日本史上でも大きな分岐点となった出来事で、このあとは豊臣秀吉によって天下統一が成し遂げられます。

織田信長の詳しい年表・出来事

織田信長は西暦1534年〜1582年(天文3年〜天正10年)まで生存しました。
戦国時代中期から後期に活躍した武将です。

戦国時代で織田信長が生きた期間の表
15341織田信秀の嫡男として尾張に生まれる。幼名:吉法師
154613元服 → 織田(三郎)信長
154916斎藤道三の娘(帰蝶)と結婚。
155118父・織田信秀の死去により家督を相続。
”萱津の戦い”同族の織田信友の挙兵を鎮圧。
155421”安食の戦い”織田信友を破り清洲城を奪う。
155623”長良川の戦い”義父・斎藤道三の援軍として斎藤義龍と争う。道三の討ち死により撤退。
”稲生の戦い”弟・織田信勝を後継者に推進する柴田勝家らが挙兵、これを撃破。
155825再び謀反を企てていた弟・信勝を計略によって殺害。
”浮野の戦い”同族の織田信賢を撃破。
155926織田信賢の岩倉城を包囲。降伏させて追放する。
尾張国内の内紛を制圧して国主となる。
156027”桶狭間の戦い”尾張に侵攻してきた今川氏の本陣を強襲し、今川義元を討ち取り撃破。
156128”森部の戦い”美濃の斎藤領に侵攻。長井利房、日比野清実、神戸将監を討ち取って勝利。
”十四条・軽海の戦い”斎藤氏に敗れて一時撤退するが、すぐさま反撃する。
稲葉山城を攻めるが、落せずに撤退。
156229松平元康(徳川家康)と同盟を結ぶ。【清洲同盟】
156330”新加納の戦い”美濃の斎藤領に再度侵攻し、稲葉山城を狙うが、新加納で迎撃されて退却する。
156431浅井長政に妹(市)を嫁がせて同盟を結ぶ。
156734”稲葉山城の戦い”稲葉良通、安藤守就、氏家卜全を調略。斎藤龍興を追い出す。稲葉山城を岐阜城と改名する。斎藤家滅亡
書状に「天下布武」の朱印を使いはじめる。
伊勢の北畠領に侵攻。北伊勢を制圧する。
156835足利義昭を奉じて、浅井氏とともに京都に進軍を開始。
松永久秀と三好義継が服属する。
”観音寺城の戦い”近江の六角義賢・義治父子を撃破。
三好三人衆の軍を次々と撃破、京から追い出す。
京に入り、足利義昭を第15代将軍に擁立する。【室町幕府の再興】
156936足利義昭を三好三人衆が襲撃、これを撃退する。【本圀寺の変】
足利義昭のために二条城の修築を行う。
幕府官職に就任。殿中御掟を制定し、足利義昭に承認させる。
足利義昭から和泉を拝領する。山城も義昭との共同統治とする。
今井宗久、千利休などの豪商を抱き込み、摂津・堺の直轄化を進める。
毛利元就の要請を受けて、木下秀吉に但馬攻略を命じる。
”大河内城の戦い”北畠氏を攻撃。次男・信雄を北畠具教の養嗣子とすることで和睦。伊勢を実質的に支配する。
157037”金ヶ崎の戦い”上洛の命令に従わなかった朝倉義景を攻める。天筒山城、金ヶ崎城を次々と陥落させるが、浅井長政の裏切りにより挟み撃ちに遭う。やむなく撤退。
”姉川の戦い”2ヶ月後に徳川氏とともに浅井氏&朝倉氏の連合軍にリベンジを果たす。
”野田城・福島城の戦い”摂津で籠城する三好三人衆を攻めるが、石山本願寺が三好方に加勢。浅井氏&朝倉氏の連合軍に近江の織田領を攻められ、弟・織田信治と森可成が戦死。退却を余儀なくされる。
”志賀の陣”浅井氏&朝倉氏が比叡山延暦寺に立て篭もって抵抗する。
伊勢・長島では一向一揆が起こり、同時多発的に織田領を脅かす。浅井氏&朝倉氏と和睦し窮地を逃れる。【第1次信長包囲網】
157138浅井氏&朝倉氏の連合軍に近江の織田領を攻められるが、撃退する。
”比叡山焼き討ち”敵対する僧侶らが立て篭もる延暦寺を山ごと燃やす。
157239足利義昭に態度を改めるよう注意する。【17か条意見書】
武田信玄が上洛を開始、呼応して足利義昭が挙兵。浅井氏、朝倉氏、石山本願寺、三好三人衆、離反した松永久秀によって包囲網が形成される。【第2次信長包囲網】
”三方ヶ原の戦い”三河に侵攻してきた武田信玄を徳川氏とともに迎え撃つが大敗する。
157340足利義昭を近江、山城で撃破。朝廷の仲介で講和する。
”槇島城の戦い”再び挙兵した足利義昭を破り、追放する。【室町幕府の滅亡】
近江に侵攻する。浅井氏の援軍に現れたが交戦せずに撤退した朝倉義景を追撃する。
”一乗谷城の戦い”越前にて朝倉氏を撃破。朝倉義景の首をもって朝倉景鏡が降伏する。朝倉家滅亡
”小谷城の戦い”浅井久政・長政父子が立て篭もる小谷城を攻略。浅井父子は自害。浅井家滅亡
”若江城の戦い”足利義昭を庇護した三好義継を討伐。三好家滅亡
松永久秀が降伏、配下になる。
筒井順慶が配下になる。
157441六角義賢が篭る菩提寺城、石部城を攻略。六角家滅亡
”長島一向一揆”数年続いていた一向一揆を焼き討ちにて制圧。
157542”長篠の戦い”三河に侵攻してきた武田勝頼を織田氏&徳川氏の連合軍で圧勝する。
徳川家康が服属する。
越前一向一揆を殲滅する。
越前を平定。
157643石山本願寺、雑賀衆、上杉、毛利、波多野が反信長の姿勢を示す。【第3次信長包囲網】
”天王寺砦の戦い”摂津にて石山本願寺を破る。
”第1次木津川口の戦い”毛利氏の水軍に大敗する。
波多野秀治が離反する。
157744”紀州征伐”10万の兵を動員して雑賀衆を討伐、雑賀孫一を降伏させる。
”信貴山城の戦い”松永久秀が謀反を起こし、これを鎮圧。久秀は自害。
楽市楽座を発布。
157845”三木合戦”別所長治が謀反を起こす。
”第2次木津川口の戦い毛利水軍を撃破、2年前のリベンジを果たす。鉄甲船を実戦で使用。
”有岡城の戦い”荒木村重が謀反を起こし、これを鎮圧。
157946安土城が完成、居城を移す。
”八上城の戦い”包囲戦の末、波多野秀治を捕縛、処刑する。
家臣・明智光秀が丹波、丹後を平定。
”第1次天正伊賀の乱”次男・織田信雄が伊賀に侵攻するが、伊賀衆に敗れる。
158047別所長治が切腹、三木城を開城させる。
家臣・羽柴秀吉が播磨を平定。
北条氏政が服属する。関東を支配下に置く。
10年続いた石山本願寺との紛争を和睦。
”加賀平定戦”北陸地方の一向一揆の本山である尾山御坊を制圧。
家臣・柴田勝家が加賀を平定。
158148京都で大規模な軍事パレードを行う。【京都御馬揃え】
”第2次天正伊賀の乱”次男・織田信雄を総大将とした5万の大軍で伊賀に侵攻する。平楽寺、比自山城を攻略。村、寺院を焼き払う。
伊賀を平定。
”高野山制圧戦”13万の大軍で高野山に総攻撃をかけるが激しい抵抗にあう。
158249”甲州征伐”徳川氏と呼応して信濃・武田領を次々と攻略。武田家滅亡
明智光秀の謀反により宿所を襲撃されて自害。【本能寺の変】

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