織田信長
1534.6.23 〜 1582.6.21

織田信長は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将・大名です。桶狭間の戦いで今川義元の大軍をわずかな兵力で打ち破り、歴史の表舞台に鮮烈なデビューを飾ります。尾張一国から次第に勢力を拡大していき、天下統一まであと少しというところで家臣の明智光秀の謀反に遭い、燃えさかる本能寺で自刃しました。享年49歳。
- 織田信長の人物タイプ
- 英雄
このページでは、織田信長が何をしたどんな人なのか、ハイライトやエピソードを紹介しています。きっと織田信長のことが好きになります。
- 名 前:織田信長
- 幼 名:吉法師
- あだ名:第六天魔王、尾張のうつけ
- 官 位:権大納言、右近衛大将、内大臣、右大臣
- 戦 績:82戦 59勝 15敗 8分
- 出身地:尾張国(愛知県)
- 領 地:中部地方、近畿地方、中国地方
- 居 城:那古野城 → 清洲城 → 小牧山城 → 岐阜城 → 安土城
- 正 室:斎藤道三の娘(帰蝶)
- 子ども:12男 9女 5養 1猶
- 跡継ぎ:織田信忠
- 父と母:織田信秀 / 土田御前
- 足利将軍の味方をして大義名分を得た。
- 室町幕府に従わない大名を討伐した。
- 信長を討とうとした室町幕府を滅ぼした。
- 武力で他国を攻め取った。
天下布武を宣言し鉄砲などの革新性で天下統一に挑んだ
1467年に起こった応仁の乱に端を発して以来、100年余つづいていた戦国時代は日本中で戦国大名たちが争ってました。
戦国時代の終わりには諸説あり、教科書では1573年とされています。織田信長が15代将軍・足利義昭を京都から追放して、室町幕府を滅ぼしたのがこの年です。室町幕府の滅亡をピリオドとする場合、織田信長は戦国時代を終わらせた人物となります。
美濃国を武力制圧した1567年頃から天下布武のハンコを使用しており、織田信長が天下統一という野望を意識しはじめたのもこの頃からといわれています。
『天下布武』とは、武力をもって天下を制するという意味で「少々強引に行くけど夜露死苦」といった織田信長の所信表明です。
日本全土をノブナガ色に染めるという意味では織田信長の天下統一は達成されませんでしたが、戦乱が続いていた時代のスピード感を上げたことは間違いありません。
教科書からは伝わらない、織田信長のすごいところは1つや2つではありません。
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信長のすごいところ
桶狭間の奇跡
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織田信長といえば、1560年の桶狭間の戦いでしょう。桶狭間の戦いは、圧倒的な兵力で今川義元が織田信長を攻めた合戦です。今川軍は総勢2万5千、対する織田軍は総動員しても2〜3千だったといい、10倍ほどの兵力差がありました。家臣を含めた全員が籠城するほかないと考えていました。
ところが、織田信長は誰にも知らせず明け方にとつぜん1人で出撃します。これに5、6人がついて行き、100人、1000人と、あとを追って増えていきました。この行動には、単にかっこいいだけでなく、事前に(誰にも)察知させないという意味がありました。
一方、織田領の鷲津砦や丸根砦を落として気をよくした今川義元は、桶狭間でランチ休憩をします。じつはこれも織田信長のシナリオどおりの展開でした。

桶狭間という狭い場所に留めおけば、いかに大軍といえど身動きができず、少数でも戦えると考えたのです。ましてや、休憩をしているところに突っ込めば勝算はさらに高くなります。
今川義元の本隊5千ほどが腰をおろして休んでいました。今川軍は急に降り出した豪雨にあわてて陣幕をたたみ、織田軍の馬の足音に気付きませんでした。織田信長は、今川義元の首だけを目指すように下知して一気に崖を駆け降ります。今川本陣を急襲し、見事に義元を討ち取りました。
誰も予想できなかったジャイアントキリングでした。今であれば間違いなく「番組の途中ですがニュースです」で報じられるレベルです。
桶狭間の戦いは、河越夜戦、厳島の戦いと並んで『日本三大奇襲』に挙げられる合戦ですが、ラッキーパンチが当たったのではなく計算された勝利でした。
情報網を張り巡らせて今川軍の動向を逐一把握し、今川義元を桶狭間で休憩させるために地元民に差し入れをさせる策まで講じていました。豪雨はラッキーでしたが、当然の結果として織田信長は今川義元を討ち取ったのです。
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信長のすごいところ
合理的な政策
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どこの大名家でも、合戦にあわせて農民から徴兵する『半農半士』が普通でした。そのため、収穫期には合戦ができません。いつでも合戦を可能にするために、織田信長は兵隊と農民を分ける『兵農分離』政策を導入します。これにより常に動員できるプロ兵団を構成しました。

しかし、専業兵士を雇用しつづけるには多大な費用がかかります。そこで、織田信長は城下町の課税を免除して、誰でも自由に商売ができる『楽市・楽座』を奨励しました。商売がしやすい織田領には、商人がたくさん集まり大きな経済効果をもたらしました。

おまけに楽市・楽座には、これまで座(組合)の徴収によって利益を得ていた公家や寺院を弱体化させる狙いもあったのです。
もっとも安定した収益を得ていたのは貿易です。津島や堺といった、港の交易を財源とした経済力が織田信長の強さの秘密でした。
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信長のすごいところ
最強の鉄砲隊
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1543年に西洋から伝来した鉄砲は破壊力がありますが、弾込め、火縄の導火線に着火するなど、撃つまでに時間がかかるのが難点でした。おまけに、ばかみたいな高値で売られていました。そのため、多くの大名は「鉄砲は高い割りに実用性が低い」と考えました。
織田信長は撃つまでに時間がかかる問題を ”鉄砲の数” で解決します。鉄砲隊を3つに分けて入れ替わるようにして、絶え間ない射撃を可能にしました。

3千挺もの鉄砲隊を実戦に投入した『三段撃ち』によって、当時最強と呼ばれた武田騎馬隊を壊滅させ、あたらしい合戦のトレンドをつくりました。
1575年に織田信長が武田軍をやぶった長篠の戦いは、丘陵地を利用したもので、敵から見えないように途切れ途切れに小隊を布陣し、土塁に馬防柵を設置する大掛かりな野戦築城でした。これは当時の日本では例を見ない戦術で、イタリア軍役を適用した可能性があります。
つまり、刀と弓矢の戦国時代に織田信長は西洋の戦争技術を使ったのです。
もちろん、鉄砲を大量に保有するためにはお金がかかります。これも経済力で補い、鉄砲鍛冶を抱きこむことで自国生産も可能にしていました。
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信長のすごいところ
世界トップの技術力
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南蛮人や宣教師から西洋の知識を得ていた織田信長は、世界のどこにも存在しない最強の軍艦を考案します。海戦に使われていた安宅船に鉄の装甲を施した『鉄甲船』を建造し、ひときわ巨大な鉄砲を搭載して毛利水軍を沈めました。
鉄砲や鉄甲船といった兵器の投入や西洋の戦術など、織田信長によって安土桃山時代の日本は世界でもトップの技術力を持つほどに発展していました。
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比叡山を山ごと燃やす
室町幕府をぶっこわす
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織田信長は成すべき機能を果たさない機関や肩書きを嫌悪しました。比叡山延暦寺もそのひとつで、贅沢三昧の僧侶たちを許しませんでした。おまけに宿敵・浅井氏と朝倉氏を匿ったもんだから容赦しません。1571年、織田信長は比叡山に放火して、延暦寺にいたものをみな殺しにしてしまいました。
室町幕府の大義名分を背景に畿内(京都周辺)を制圧した織田信長でしたが、将軍・足利義昭の堕落ぶりにあきれて、室町幕府に価値なしとみると幕府を滅ぼしてしまいます。幕府に代わる政権を樹立して、織田信長を頂点とした天下統一を目指しました。
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いろいろ謎な
本能寺の変
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1582年6月21日(天正10年6月2日)の早朝。最も頼りにしていた家臣の明智光秀が、前触れもなく織田信長を裏切ります。本能寺を襲撃された織田信長は弓と槍で戦いますが、肩に矢をうけてしまいます。
”是非もなし(しかたない)” とつぶやくと、そばにいた森蘭丸に本能寺に火をつけさせて、燃えさかる炎のなかで織田信長は自害しました。
この『本能寺の変』は、明智光秀が謀反を起こした理由がわかっていません。本能寺の焼け跡からは、織田信長の遺体が見つかっていません。なぜ織田信長は殺されたのか?織田信長はどこに行ってしまったのか?わからないままです。
天下布武にはもうひとつの見解がありました。天下泰平の世をつくるといった意味で、強引で乱暴なようでも、天下統一を果たして戦乱を終わらせたいという織田信長の願いが込められていました。
本能寺の変で織田信長を討った明智光秀も、11日後に豊臣秀吉に討たれ、天下統一は秀吉によって達成されました。
織田信長の生涯をふりかえる
1534年、織田信長は尾張国・勝幡城に武士の長男として生まれます。主家筋の清洲織田家を滅ぼし、弟・織田信行を謀殺して織田家をまとめます。1560年の桶狭間の戦いで今川義元を返り討ちにして全国に名を轟かせました。美濃国を足掛かりに、足利義昭を新将軍に擁立して上洛を果たすと、室町幕府の実権と威光を手に入れます。
妹婿・浅井長政の裏切りと朝倉義景に悩まされ、石山本願寺の一向一揆を加えた『信長包囲網』に苦しめられます。危機を乗り越えて攻勢に転じると、各地に派兵した方面軍を使って破竹の勢いで勝利を重ね、天下統一を目前にしますが、1582年に明智光秀が謀反を起こした本能寺の変で自害しました。49歳でした。
非道な魔王のような残虐性と暴力のイメージが強く、野望のために手段を選ばない殺戮者と目されることもある織田信長ですが、他の戦国大名と比較しても道理に外れたことはしていません。ただ、時代に必要だった断捨離を苛烈な方法で行ないました。
異端児、革命児と表現される織田信長とは、古くからの悪しき慣習を排除して、あたらしい日本のかたちをつくろうとした、破壊と創造の英雄でした。

方面軍に分割した土地も含めて、28か国800万石ほどが織田信長の領地でした。東海道の徳川氏、関東の北条氏、九州の島津氏など従属を表明していた勢力を加えると、全国の半分ちかくを掌握していました。
織田信長の性格と人物像
織田信長は「誰に対しても高圧的で上から目線な人」です。自分に絶対的な自信があるので、部下のアドバイスは聞きません。部下に求めるのは結果。コミュニケーションは報告だけでいい成果主義・合理主義です。そのくせ、なんでも自分でやってみないと納得しません。
信長が「おい」と声をかければ、ダッシュで駆けつけないと殺されます。信長の甲高い声を笑ったものを即座に切り捨てた話もあり、短気なんてもんじゃありません。つねにピリついた空気をまとっています。意外にも家臣の離反には寛大で、謝罪すれば許しています。そのせいか、頻繁に裏切られます。
武芸を好み、日々の鍛錬を怠りません。馬術は家中で一番の腕前で弓も得意でした。合戦が大好きで、いつも先頭を駆けていました。戦は必ず敵の領内に踏み込んで行う、自分の領地に入らせてはダメというスタンスでした。
身長170cm、鼻筋の通った端正な顔立ちで、切長の目をしていました。多くの肖像画が残っており、いずれにも共通点がみられます。派手な格好や新しい物を好み、洋服や靴も履いていました。
人並み外れた大声が出せます。大声で戦の形勢を逆転したこともありました。
茶器や武具のコレクションに熱心です。紫式部ファンの上杉謙信に源氏物語屏風を送るなど、気が利いたプレゼントを選ぶのも上手でした。幸若舞の『敦盛』がお気に入りで、桶狭間の戦いの前にもひと踊りしてから出陣しています。
早寝早起き、規則正しい生活をして几帳面。お酒は飲みません。食事も控えめでした。干し柿が好物で、成果をあげた家臣には褒美として干し柿をあげることもありました。さっと食べられる湯漬け(お茶漬け)も好きで、気が短い信長にはピッタリのファストフードでした。
子どもの頃から気性が激しく、かんしゃくを起こして乳母の乳首を噛みちぎったなんて話もあります。また、乳ばなれが遅く5歳になってもおっぱいを吸っていたそうです。
織田信長といえば南蛮具足ですが、残念ながら実際に使用したものは残っていません。鋼鉄製の西洋甲冑の胴の部分だけ流用して、和製の鎧と合わせたハイブリットな胴丸を着用していました。信長の甲冑は、若い頃に使用していた『紺絲威胴丸具足』などの鎧がいくつか現存しています。
織田信長の能力を考えてみる

織田信長は行動力、目的を達成させる推進力が突出しています。大願成就のために手段を選びません。領内を活性化させる政策のアイデアも豊富。しかしながら、プレッシャーによる恐怖で組織を統制したツケで反発が相次ぎます。
実用的でわかりやすい名言を数多く残しています。
織田信長のエピソードや逸話
尾張の大うつけ、奇抜なファッションで領内を暴走する
うつけ=ばか。思春期の織田信長は、領民からも『尾張の大うつけ』と呼ばれていました。ぎゅっと縛りあげた茶筅まげ、浴衣を着くずした上半身は半裸。ヒョウと虎の革を染めた半袴(短パン)に、腰からいくつものヒョウタンと火打ち石をぶら下げて、金ピカの装飾を施した一際おおきな太刀と脇差を差していました。

同じように派手なかっこうをした、ガラの悪い子分を引き連れて馬で領内を駆け回り、土にまみれて相撲や川あそびに興じる。餅や瓜をかじりながら、気の向くままにねり歩く姿を人々はうつけと呼びました。1歳下の丹羽長秀や、かぶき者で知られる前田利家は、信長の子分でした。
父の葬儀に、親族・家臣一同が居並ぶなか、信長はいつもの半裸姿で現れると「喝っ!!」と叫んで仏前に焼香を投げつける(抹香事件)ありさま。織田家に長く仕えている家臣たちもこれにはウンザリ。あまりの傍若無人っぷりに信長の教育係をしていた平手政秀が諫死(死んでいさめること)してしまうほどでした。
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ぜんぶ
計算だった?
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信長のうつけ行動には、意味がありました。暴走行為は領内をみて回っていたといい、川あそびは場所ごとにちがう水深を調べていました。子分たちとの相撲は鍛錬のため。総じて、うつけを装っていたのは内外の勢力を油断させるためだったといいます。
南蛮かぶれで黒人の家来をつれていた
ある日、イタリア人の宣教師が黒人を伴って信長のもとを訪問します。黒人を気に入った信長は、弥助という名をつけて家来にしました。信長は弥助を風呂につれていき、丹念にからだを洗いますが、色が落ちるどころか一層黒く光りました。「ほんとに黒い!」と愉快に笑って、塗られたものではないことを確かめたといいます。
弥助は182cmでガタイがよく十人力と評されました。家来になった日から弥助は信長の共をするようになります。本能寺の変にも居合せた弥助は明智光秀に捕縛されたのち、南蛮寺に預けられたそうです。
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真っ赤なマントが
トレードマーク
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宣教師ルイス・フロイスたちとの交流がきっかけで、信長は南蛮文化にハマっています。安土城の自室には、テーブル、銀のロウソクたて、ワイングラス、地球儀などの舶来品があふれていました。大きな羽をつけた南蛮帽をかぶって出かけたり、洋服を好んで着ていました。

なかでもビロードのマントがお気に入りでした。日常的にまとっていただけでなく、鋼鉄製の南蛮鎧のうえから戦場でも大きなマントを羽織っていました。南蛮人から信長に献上された物のなかには、バナナ、金平糖、カステラ、ボーロ、赤ワインなどもありました。
女性と領民には意外と優しい
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秀吉の浮気癖を
手紙で叱る
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夫の浮気癖に手を焼いていた、豊臣秀吉の妻・ねねに手紙を書いています。
”お前みたいな綺麗な女房がいながら、けしからんハゲねずみめ。でも大丈夫。あの馬鹿者は、お前ほどの素敵な女性を他に見つけられないよ”
おしまいに ”この手紙は秀吉にも見せるよーに” と書かれており、これを見せられて秀吉も反省しました。
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みんなで楽しむ
安土城
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信長は安土城につづく道に街路樹を植えるよう指示しました。家来が理由をたずねると「夏の暑い日でも歩行者が木陰で休めるように」と答えました。夜になると松明で安土城をライトアップしてシンデレラ城のように人々を楽しませました。入城料をとって領民たちに内覧もさせています。
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気になる
ホームレス
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領内にいた足が不自由なホームレスを気にかけていて、何度か見かけたころ「あいつの家を建ててやれ。仕事も与えてやれ」と家来に命じたといいます。このように、織田信長には領民に気を配るやさしい殿様な一面もありました。
料理人から馬鹿にされてしまう
腕がいいと評判の料理人・坪内石斎を召し抱えることになった信長。さっそく料理をつくらせて、ひとくち食べると「水臭ぇあにゃあ!食えにゃあで!」と激怒して坪内を斬り捨てようとします。
翌日、坪内にもう一度チャンスをやると、出てきた料理に信長は満足しました。坪内が用意したのは、はじめは薄味の京風料理で、翌日のは思いっきり濃い味付けの料理でした。
濃いほうを気に入った信長を坪内は「あれ(信長)は田舎者だから、しょっぱいもん出しておけば旨い旨いと食いよる」と言いふらして笑いものにしました。
織田信長の有名な戦い
織田信長の家督相続を不満とする弟・織田信行が挙兵、稲生原(愛知県名古屋市西区名塚町)付近で行われた合戦。序盤、柴田勝家を擁する信行軍が優勢に進めるが、戦線にいた織田信長が大声で叫ぶと柴田隊が混乱。信長が林通具を討ち取ると信行軍は敗走した。
稲生の戦いで織田信長は勝っています。
弟・織田信行を旗頭に挙兵した反信長派を巧みな采配ぶりで撃退しました。このあと、ふたたび謀反を企てた信行を誅殺して家督騒動に決着をつけました。
尾張に侵攻してきた今川義元を桶狭間(愛知県名古屋市緑区桶狭間)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。
桶狭間の戦いで織田信長は勝っています。
織田信長のターニングポイントになった戦いです。
信長を若輩者と侮った今川義元を返り討ちにしたことで一躍名を馳せた合戦です。不安定だった織田家をまとめあげる勝利となりました。
義元の討死は、徳川家康を独立させるきっかけにもなりました。
京に上洛する織田信長が、途上にある観音寺城(滋賀県近江八幡市)を攻めた合戦。18からなる支城で構成された難攻不落の山城だったが、丹羽長秀らの活躍により、わずか1日で要所であった箕作城と和田山城が陥落。六角義賢は観音寺城を放棄して甲賀郡に逃亡した。
観音寺城の戦いで織田信長は勝っています。
足利義昭を将軍に就任させる上洛戦で難関と思っていたポイントでしたが、六角氏が城から退去したため、拍子抜けするほどあっさり南近江を制しました。
越前の朝倉義景を攻めていた織田信長を朝倉軍と浅井軍が金ヶ崎(福井県敦賀市金ヶ崎町)で挟み撃ちにした戦い。浅井長政の裏切りによって、織田軍は撤退を余儀なくされる。木下秀吉が、客将として参戦していた明智光秀ととも撤退戦の殿を担い、信長を無事に逃げさせた。
金ヶ崎の戦いで織田信長は敗れています。
義弟・浅井長政の裏切りによって絶体絶命の窮地に立たされます。長政に嫁いだ妹・市の機転でピンチを知り、とっさの撤退策を講じます。10名ほどを伴って京都まで必死で逃げました。
浅井&朝倉軍と、織田信長の援軍で参陣した徳川家康が姉川(滋賀県長浜市野村町)で激突した合戦。本多忠勝が一騎討ちで真柄直隆と渡り合うなど、徳川軍の活躍が目覚ましく、榊原康政の突撃で朝倉軍は敗走。激戦で姉川は血に染まり、血原や血川橋という地名を残した。
姉川の戦いで織田信長は勝っています。
辛酸をあじわった金ヶ崎の戦いのあと、すぐに体制を立て直した信長は浅井氏&朝倉氏の連合軍にリベンジを果たします。徳川家康が率いた三河勢が目覚ましい活躍で朝倉軍を撃破しました。
再び反信長の挙兵をした足利義昭が篭る槇島城(京都府宇治市槇島町)を織田信長が攻めた合戦。信長は宇治川を渡って槇島城を包囲すると、城壁を破壊して城に火を放った。義昭は嫡男を人質として差し出し、降伏した。合戦のあと、足利義昭は河内国に追放された。
槇島城の戦いで織田信長は勝っています。
繰り返し叛意をみせる足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼしました。ここから反信長勢力をつぎつぎと滅ぼしていきました。
織田軍に包囲された浅井長政を救援すべく朝倉義景は出陣した。しかし、浅井氏の劣勢をみて撤退を開始する。義景の撤退を予測していた織田信長は、猛追撃して朝倉軍を壊滅させた。一乗谷城(福井県福井市城戸ノ内町)は陥落し、朝倉氏は滅亡した。刀根坂の戦いとも。
一乗谷城の戦いで織田信長は勝っています。
これまで手を焼いた朝倉義景ですが、最後の戦いはあっけなく終わりました。
信長に叛いた浅井長政を殲滅するべく、織田信長が小谷城(滋賀県長浜市湖北町)を攻めた合戦。小谷山を要害とした堅城を攻略するため、織田軍の木下秀吉は、城内を分断する作戦を実行する。崖を登って奇襲に成功し、小谷城を陥落させた。これにより、浅井氏は滅亡した。
小谷城の戦いで織田信長は勝っています。
一乗谷城で朝倉氏を滅ぼしたのち、引き返して浅井氏の小谷城を攻めました。秀吉の奇襲で優位に立ったことで、城内を制圧しました。
長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。
長篠の戦いで織田信長は勝っています。
日本史に残る戦いのなかでも特別な一戦です。鉄砲を主役としたあたらしい合戦のあり方を示しました。ここから急速に合戦の様式は近代化していきます。
本能寺(京都府中京区小川通蛸薬師元本能寺町)に織田信長が宿泊していたところを家臣の明智光秀が襲撃した事件。早朝、喧騒で目を覚ました信長は、明智軍に包囲・攻撃されている事実を知ると「余は自ら死を招いたな」と覚悟し、弓と槍で鬼神のごとく応戦したのち、本能寺に火を放って自害した。
本能寺の変で織田信長は敗れています。
日本の歴史を揺るがした大きな事件です。午前4時頃からはじまった討ち入りが終わったのは、午前8時前でした。明智光秀は二条城にも攻め入り、信長の長男・信忠も討ちました。
ひとつの時代が終わり、豊臣秀吉が天下取りに名乗りをあげます。
織田信長の詳しい年表
織田信長は西暦1534年〜1582年(天文3年〜天正10年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1534 | 1 | 織田信秀の嫡男として尾張国に生まれる。幼名:吉法師 |
1546 | 13 | 元服 → 織田(三郎)信長 |
1547 | 14 | ”吉良大浜の戦い”初陣。今川領・大浜城付近を攻める。強風を利用して火矢を放ち、一帯を火の海にする。 |
1549 | 16 | 斎藤道三の娘(帰蝶)と結婚。父と道三が和睦する。 |
1552 | 19 | 父・織田信秀の死去により家督を相続。 ”赤塚の戦い”山口教吉が織田氏に叛く。鳴海城を攻めるが、痛み分け。 ”萱津の戦い”織田信友の挙兵を鎮圧する。 |
1553 | 20 | 傅役・平手政秀が自害。政秀寺を建立する。 尾張国・正徳寺で義父・斎藤道三と会見する。 |
1554 | 21 | ”村木砦の戦い”今川領・村木砦を攻める。斎藤道三から援軍を得て、辛勝する。 織田信友が尾張守護・斯波義統を殺害。斯波義銀を那古野城で保護する。 ”安食の戦い”*柴田勝家に織田信友を攻めさせる。長槍を考案、実戦使用する。 叔父・織田信光を清洲城の織田信友のもとに送り込み、謀殺する。 清洲城を奪取、居城にする。 叔父・織田信光が家臣に暗殺される。 |
1556 | 23 | *柴田勝家に今川領・福谷城を攻めさせるが敗れる。 ”長良川の戦い”義父・斎藤道三の援軍に駆けつけ、斎藤義龍と争う。道三の討ち死により撤退。 ”稲生の戦い”長弟・信行を擁立する林秀貞、林通具、柴田勝家が挙兵。林通具を討ち取り鎮圧する。 母の仲介で織田信行、林秀貞、柴田勝家を許す。 |
1558 | 25 | 今川義元と通じた尾張守護・斯波義銀を追放する。 長弟・信行が再び謀反を企てる。柴田勝家の密告を受けて信行を呼び出し、誅殺する。 従兄弟・信清に姉(犬山殿)を嫁がせて味方につける。 ”浮野の戦い”織田信賢を攻める。織田信清の援軍を受けて勝利する。 |
1559 | 26 | 織田信賢の岩倉城を包囲、降伏させて追放する。 500の兵を連れて京に行く。13代将軍・足利義輝に謁見する。 |
1560 | 27 | ”桶狭間の戦い”今川義元が尾張国に侵攻してくる。桶狭間で休息中の義元本陣を強襲し、今川義元を討ち取って勝利する。 斎藤領・美濃国に侵攻するが、斎藤義龍に敗れる。 再び美濃国に侵攻するが、斎藤義龍に敗れる。 |
1561 | 28 | ”森部の戦い”斎藤領・美濃国に侵攻。長井利房、日比野清実、神戸将監を討ち取って勝利する。 ”十四条・軽海の戦い”斎藤龍興を攻める。敗れて撤退するが、すぐさま反撃する。稲葉山城を攻めるも落せず。 美濃国・墨俣に砦を築く。【墨俣一夜城】 |
1562 | 29 | 今川氏から独立した松平元康(徳川家康)と同盟を結ぶ。【清洲同盟】 |
1563 | 30 | 小牧山城を築城、居城にする。 ”新加納の戦い”斎藤領・美濃国に侵攻する。ベストメンバーで臨むが、斎藤龍興の軍師・竹中半兵衛に大敗する。 |
1564 | 31 | 尾張国内の反勢力、黒田城、小口城を調略で降す。 従兄弟・信清を攻めて犬山城を奪取、追放する。 尾張国を平定。 |
1565 | 32 | 斎藤龍興の家臣、加治田城主・佐藤忠能を調略する。 斎藤領・美濃国に侵攻する。 斎藤龍興の家臣、松倉城主・坪内利定、鵜沼城主・大沢正秀を調略する。 猿啄城を攻略。 ”堂洞合戦”岸信周が篭る堂洞城を攻める。乱戦を制して陥落させる。 ”関・加治田合戦”*関城主・長井道利が加治田城に侵攻してくる。義弟・斎藤利治、佐藤忠能に撃退させる。関城を攻めて陥落させる。 武田信玄の四男・勝頼に養女(龍勝寺殿)を嫁がせて武田氏と同盟を結ぶ。 |
1566 | 33 | ”河野島の戦い”斎藤領・美濃国に侵攻する。木曽川の洪水により撤退。多数が溺死する。 |
1567 | 34 | 浅井長政に妹(市)を嫁がせて浅井氏と同盟を結ぶ。 ”稲葉山城の戦い”美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家卜全)が内応、開城降伏させる。斎藤龍興は伊勢国に逃亡。斎藤家滅亡 稲葉山城を岐阜城に改名、居城にする。 美濃国を平定。 書状に『天下布武』の朱印を使いはじめる。 北畠領・伊勢国に侵攻する。北伊勢の豪族衆を制圧。 徳川家康の嫡男・信康に長女(五徳)を嫁がせる。 武田信玄の娘(松姫)と嫡男・信忠を婚約させる。 |
1568 | 35 | 三男・三七郎(信孝)を伊勢国・神戸具盛の養嗣子にする。 次弟・信包を伊勢国・長野具藤の養嗣子にする。 足利義昭を岐阜城に迎える。 足利義昭を奉じて京に進軍を開始。 松永久秀と三好義継が恭順する。 ”観音寺城の戦い”六角義賢・義治父子を攻める。箕作城、和田山城を陥落させると父子は逃亡。南近江を制圧。 京を占拠していた三好三人衆を蹴散らし、摂津国、阿波国に追いやる。 摂津国・池田勝正を攻める。池田城の城下を焼き払い降伏させる。 足利義昭を15代将軍に擁立する。【室町幕府の再興】 副将軍を打診されるが断る。 |
1569 | 36 | 三好三人衆に足利義昭が襲撃される。明智光秀、細川藤孝らが撃退する。【本圀寺の変】 足利義昭のために二条城の修築を行う。 幕府官職に就任。 足利義昭から和泉国を拝領する。 京都を含む山城国を足利義昭との共同統治とする。 木下(豊臣)秀吉に但馬国に侵攻を命じる。 ”大河内城の戦い”北畠領・伊勢国に侵攻する。北畠具教・具房父子が篭る大河内城を包囲。次男・茶筅丸(信雄)を北畠具房の養嗣子とし、北畠父子は退去することを条件に和睦。 伊勢国を実質的に支配。 |
1570 | 37 | 殿中御掟を制定。足利義昭に承認させる。 松井友閑と今井宗久を軸に摂津国・堺を直轄領とする。 正親町天皇から副将軍を希望されるが無視する。 ”金ヶ崎の戦い”朝倉領・越前国に侵攻する。上洛の要請に従わなかった朝倉義景を攻める。天筒山城、金ヶ崎城を陥落させるが、浅井長政が裏切り挟み撃ちに遭う。やむなく撤退。 浅井氏との同盟が破談。 浅井領・長亭軒城、長比城を調略する。 ”姉川の戦い”織田氏&徳川氏、浅井氏&朝倉氏で決戦をする。朝倉軍を敗走させて勝利し、浅井氏の横山城を陥落させる。 ”野洲河原の戦い”*柴田勝家が六角義賢・義治父子を撃退する。 ”野田城・福島城の戦い”摂津国で挙兵した三好三人衆を攻める。石山本願寺が三好方に加勢。背後の宇佐山城を攻められ、やむなく撤退。【第1次信長包囲網】 ”宇佐山城の戦い”*三弟・信治と森可成が浅井氏&朝倉氏&六角氏に攻められて討死。 ”志賀の陣”浅井氏&朝倉氏が比叡山延暦寺に立て篭もって抵抗する。講和を無視される。 伊勢国・長島で一向一揆が起こる。尾張国・古木江城が一揆勢に包囲され、五弟・信興が自害する。 正親町天皇に調停を頼み、比叡山延暦寺、浅井氏&朝倉氏と勅命講和する。 |
1571 | 38 | 浅井領・佐和山城を攻撃、磯野員昌を降伏させる。 ”第1次長島一向一揆”5万の兵で伊勢国・長島の一向宗門徒を攻める。伏兵に苦戦し撤退するも追撃されて大敗する。 浅井氏&朝倉氏に横山城と箕浦城を攻められるが、撃退する。 松永久秀が織田氏に叛く。近江国・中山道を封鎖される。 ”近江一向一揆”*柴田勝家、佐久間信盛らに金森の一向宗門徒を駆逐させる。中山道のルートを復旧させる。 ”比叡山焼き討ち”延暦寺からの講和を拒否。比叡山を山ごと焼き払う。老若男女問わず数千人を討つ。 |
1572 | 39 | *松永久秀が畠山領・交野城に攻めてくるが、柴田勝家を派遣して追い散らす。 美濃国・岩村城の遠山景任が死去。五男・御坊丸(勝長)を養子に入れる。 浅井領・小谷城を包囲する。援軍に来た朝倉義景を散発的に攻撃、前波吉継と富田長繁を寝返らせる。 岩村城が秋山信友に占拠され武田氏に奪われる。 武田氏との同盟が破談。 足利義昭に態度を改めるよう注意する。【17か条意見書】 武田信玄が徳川領、織田領に侵攻してくる。足利義昭の呼びかけで石山本願寺、朝倉義景、浅井長政、松永久秀(三好勢)によって包囲網が形成される。浅井領・小谷城の包囲を解いて対応する。【第2次信長包囲網】 浅井長政の家臣、宮部城主・宮部継潤を調略する。 *浅井長政が虎御前山砦に攻めてくるが、木下秀吉が撃退する。 徳川領が次々と武田信玄に奪われる。 上杉謙信に人質を送って上杉氏と不平等な同盟を結ぶ。【濃越同盟】 |
1573 | 40 | ”三方ヶ原の戦い”*佐久間信盛、平手汎秀を徳川氏の援軍に派遣。武田信玄に大敗する。 将軍・足利義昭が二条城で信長打倒の挙兵。正親町天皇の仲裁で和睦する。 ”槇島城の戦い”足利義昭が再び挙兵。槙島城を攻め落とし山城国から追放する。【室町幕府の滅亡】 山城国を平定。 浅井領・小谷城を再び包囲する。援軍に現れた朝倉義景を迎撃し、大嶽砦と丁野山砦を雨中の奇襲で落とす。退却する朝倉軍を猛追撃する。 ”一乗谷城の戦い”朝倉義景を刀根坂で撃破。取り逃がすが、朝倉景鏡が義景の首を持参して投降する。朝倉家滅亡 ”小谷城の戦い”浅井久政・長政父子が篭もる小谷城を陥落させる。浅井久政・長政父子は自害。浅井家滅亡 *柴田勝家に六角領・鯰江城を攻め落とさせる。 ”第2次長島一向一揆”一向宗門徒が篭る西別所城や坂井城を陥落させる。大湊での船の調達が捗らず帰陣する。撤退時に激しい追撃を受ける。 ”若江城の戦い”*佐久間信盛に三好義継を討伐させる。三好家滅亡 松永久秀が降伏、配下になる。 筒井順慶が配下になる。 大和国を平定。 *佐久間信盛に六角領・菩提寺城、石部城を包囲する。 |
1574 | 41 | 武田勝頼が美濃国に侵攻してくる。迎撃に向かうが間に合わず明知城を落とされ、山県昌景の追撃を受けて撤退。 ”第1次高屋城の戦い”*柴田勝家に三好康長&石山本願寺の討伐に向かわせる。 ”第3次長島一向一揆”12万の兵を結集して一向宗門徒を殲滅する。長島城に追い込んで兵糧攻めにし、一向宗からの降伏を許さず焼き討ちで全滅させた。 *佐久間信盛が菩提寺城、石部城を落とす。六角義賢・義治父子は逃亡。六角家滅亡 近江国を平定。 |
1575 | 42 | ”第2次高屋城の戦い”10万の兵で三好康長&石山本願寺の討伐に向かう。170の首級をあげて香西長信が篭る新堀城を陥落させる。三好康長を降伏させる。 河内国を平定。 ”長篠の戦い”武田勝頼が徳川領・長篠城を攻撃。徳川家康の援軍に向かい前代未聞の鉄砲隊で武田騎馬隊を粉砕する。 徳川家康が従属する。 ”越前一向一揆”一向宗門徒を殲滅する。一揆勢の城をことごとく焼き払う。安居(朝倉)景健が下間頼照の首を持参して降伏を申し出るが許さず全滅させた。 越前国を平定。 右近衛大将に就任。朝廷から天下人と認められる。 明智光秀に丹波国の平定を命じる。 |
1576 | 43 | 柴田勝家に北陸地方の平定を命じる。 近江国・観音寺城の支城跡地に安土城の築城を開始する。 波多野秀治が織田氏に叛く。 石山本願寺、毛利輝元、宇喜多直家、上杉謙信、武田勝頼によって包囲網が形成される。【第3次信長包囲網】 上杉氏との同盟が破談。 ”天王寺砦の戦い”明智光秀と佐久間信盛が石山本願寺に攻められる。駆けつけて救援する。 長男・織田信忠に家督を譲る。引き続き政治・軍事を主導する。 ”第1次木津川口の戦い”石山本願寺を支援する毛利輝元の水軍に敗れる。 *次男・信意(信雄)に北畠具教、長野具藤らを謀殺させる。【三瀬の変】 伊勢国を平定。 |
1577 | 44 | ”第1次紀州征伐”10万の兵で雑賀衆を討伐に向かう。ゲリラ戦に苦戦し雑賀孫一と和睦する。 ”手取川の戦い”*柴田勝家が上杉謙信に大敗する。 ”信貴山城の戦い”*松永久秀が再び織田氏に叛く。織田信忠に討伐させる。 城下町の課税を免除、座を廃止する。【楽市・楽座】 羽柴(豊臣)秀吉に中国地方の平定を命じる。 |
1578 | 45 | ”三木合戦”*別所長治が織田氏に叛く。羽柴秀吉が大規模な包囲をする。 ”第2次木津川口の戦い”*滝川一益に石山本願寺への支援を阻ませる。九鬼水軍の鉄甲船で毛利水軍に大勝。 ”有岡城の戦い”荒木村重が織田氏に叛く。有岡城はじめ諸城に篭る荒木勢の攻撃を開始。 |
1579 | 46 | 安土城が完成、居城にする。 *明智光秀が八上城の波多野秀治を降伏させる。波多野秀治を処刑する。波多野家滅亡 丹波国を明智光秀が平定。 丹後国を明智光秀と細川藤孝が平定。 有岡城が開城降伏。荒木村重は逃亡。村重の一族、家臣の妻子ら全員を処刑する。 ”第1次天正伊賀の乱”*次男・信雄が伊賀国に侵攻するが、百地三太夫らに敗れる。 盟友・徳川家康の嫡男・信康に謀反の疑惑があり切腹を命じる。 宇喜多直家が従属する。 |
1580 | 47 | *羽柴秀吉が三木城の別所長治を降伏させる。別所長治に切腹させる。 播磨国を羽柴秀吉が平定。 *羽柴秀吉が有子山城を攻めて山名堯熙を降す。 但馬国を羽柴秀吉が平定。 北条氏政が従属する。 正親町天皇の勅命で石山本願寺と和睦する。11年に及んだ闘争が終結。本願寺が大坂から退去する。 ”花隈城の戦い”*池田恒興に荒木村重を討伐させる。荒木村重は逃亡。 ”第1次鳥取城攻め”*羽柴秀吉が鳥取城を攻めて山名豊国を降す。 ”加賀平定戦”*柴田勝家が尾山御坊を陥落させる。 加賀国を柴田勝家が平定。 |
1581 | 48 | 京で大規模な軍事パレードを行う。【京都御馬揃え】 ”高野山制圧戦”*織田信張に高野山を攻めさせる。堀秀政、筒井順慶を援軍として派遣するが苦戦する。 ”第2次天正伊賀の乱”*次男・信雄に10万の兵と滝川一益らを与えて伊賀国を攻めさせる。 伊賀国を北畠信雄が平定。 ”第2次鳥取城攻め”羽柴秀吉が毛利氏に調略された鳥取城を兵糧攻めで降す。 *羽柴秀吉が淡路国に侵攻して岩屋城を陥落させる。 淡路国を羽柴秀吉が平定。 |
1582 | 49 | ”甲州征伐”*長男・織田信忠を総大将、滝川一益を軍監として武田領に侵攻させる。徳川家康、北条氏直も呼応して多方面から攻める。木曾義昌、穴山信君など武田重臣を次々と降して攻め滅ぼす。武田家滅亡 滝川一益に関東八州の統治を命じる。 蘆名氏、伊達氏、佐竹氏が恭順の姿勢を示す。 ”備中高松城の戦い”*羽柴秀吉が高松城を水攻めにする。 三男・信孝、丹羽長秀に四国地方の平定を命じる。 盟友・徳川家康を安土城に招いて接待する。 備中国を攻める羽柴秀吉の援軍として明智光秀を派遣する。 明智光秀が叛く。山城国・本能寺を襲撃されて自害。【本能寺の変】 |

- 織田信長 – Wikipedia
- 織田信長 人物年表
- 信長、そして秀吉へと受け継がれた「兵農分離」の政策とは? | 戦国ヒストリー
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- 本郷和人監修『戦国武将の解剖図鑑』エクスナレッジ
- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
- 歴史人『戦国武将最強ランキング』KKベストセラーズ
- 歴史人『最強!織田家臣団の実力』KKベストセラーズ
- 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社
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