織田信長
1534.6.23 〜 1582.6.21

織田信長は、現在の愛知県西部にあたる尾張国の武将・大名です。桶狭間の戦いで今川義元の大軍をわずかな兵力で打ち破り、歴史の表舞台に鮮烈なデビューを飾ります。尾張一国から次第に勢力を拡大していき、天下統一まであと少しというところで家臣の明智光秀の謀反に遭い、燃えさかる本能寺で自刃しました。享年49。
- 織田信長の武将タイプ
- 英雄
織田信長は何をした人?このページは、織田信長のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと織田信長が好きになる「天下布武を宣言し鉄砲などの革新性で天下統一に挑んだ」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:織田信長
- 幼 名:吉法師
- あだ名:第六天魔王、尾張のうつけ
- 官 位:従三位、権大納言、右近衛大将、正三位、内大臣、従二位、右大臣、正二位、贈正一位
- 戦 績:82戦 59勝 15敗 8分
- 出身地:尾張国(愛知県)
- 領 地:中部地方、近畿地方、中国地方
- 居 城:那古野城 → 清洲城 → 小牧山城 → 岐阜城 → 安土城
- 正 室:帰蝶(斎藤道三の娘)
- 子ども:12男 9女 5養 1猶
- 跡継ぎ:織田信忠
- 父と母:織田信秀 / 土田御前
- 大 名:織田氏4代当主
天下布武を宣言し鉄砲などの革新性で天下統一に挑んだ
ゲームやドラマでも絶大な人気があり、戦国時代の主人公のような織田信長とは、群雄が割拠する乱世に『天下布武』というスローガンを掲げて、天下統一にチャレンジしたヒーローです。
1467年に応仁の乱が起こって以来、100年余つづいていた戦国時代は日本中で戦国大名たちが争っていました。
『天下布武』とは、武力をもって天下を制するという意味で「かたっぱしからシバいていくんで夜露死苦」といった、織田信長の所信表明でした。

美濃国を武力制圧した1567年頃から、織田信長は天下布武のハンコを使用しており、天下統一という野望を意識しはじめたのもこのころからといわれています。
日本全土をノブナガ色に染めるという意味では、残念ながら織田信長の天下統一は達成されませんでした。しかし、戦乱の時代を終息にむけてスピード感を上げたことは間違いありません。
教科書からは伝わらない、織田信長のすごいところは1つや2つではありません。
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信長のすごいところ
桶狭間の奇跡
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織田信長といえば、1560年の桶狭間の戦い。
桶狭間の戦いは、織田信長が今川義元を討ち取った合戦ですが、織田軍2〜3千に対して今川軍2万5千と10倍ほどの兵力差がありました。
今川軍が本拠地に迫るなか、織田信長は家臣になんの指示もせず、じっとしていました。
とつぜん、誰にも知らせず、明け方に織田信長は1人で出撃します。これにあわてた5、6人の家来がついて行き、100人、1000人と、あとを追って増えていきました。
かっこいいだけでなく、この行動には事前に誰にも察知させないという意味がありました。作戦は、すべて頭のなかにあったのです。
一方、織田領の鷲津砦や丸根砦を攻め落として気をよくした今川義元は、桶狭間の丘陵地でランチ休憩をします。
これは願ってもないチャンス。
桶狭間という狭い場所なら、いかに大軍といえど身動きができず少数でも戦える。ましてや、休憩をしているところに突っこめば勝算は高くなります。
絶好の強襲スポットが桶狭間であり、そこに義元が現れたのでした。
にわかに降り出した雨が激しさを増すなか、織田勢が桶狭間に着くと、今川義元の本隊5千ほどが休んでいました。豪雨にまぎれたおかげで、今川兵は織田兵に気づきません。

織田信長は今川義元の首だけを目指して一気に襲いかかり、討ち取りました。
誰も予想できなかったジャイアントキリングでした。
今であれば間違いなく「番組の途中ですがニュースです」で報じられるレベルです。
桶狭間の戦いは、河越夜戦、厳島の戦いと並んで『日本三大奇襲』に挙げられる合戦ですが、織田信長は何ら奇策を講じたわけではなく、敵本陣に特攻するシンプルな戦いでした。
兵力を分散して応戦したところで、今川義元との戦力差は歴然としており、多勢に無勢。唯一勝てる方法が今川軍本陣への全力集中でした。
織田信長のねらいは、はじめから今川義元の首だったのです。
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信長のすごいところ
絶対にビビらない
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桶狭間の戦いでそうだったように、数倍の敵を前にしてもひるまない織田信長のメンタルの強さは、ほかでも発揮されます。
1576年に天王寺砦を石山本願寺に攻められたときも、本願寺の僧兵1万5千に対して3千の兵で駆けつけて強襲し、のちに本能寺の変を起こす明智光秀を、絶体絶命のピンチから救い出しています。
大名でありながら先頭を走って敵陣に突っこんでいく織田信長の合戦スタイルは、後年になっても健在で、このような戦い方をする戦国大名は、織田信長と上杉謙信くらいでした。
織田信長が臆さなかったのは敵の数だけではありません。
朝廷、幕府、寺社や堺など力を持った自治勢力のいずれにも己の理念を通しました。
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信長のすごいところ
寺も幕府も関係ねえ
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本来の機能を果たさない機関や肩書きを、織田信長は嫌悪しました。
僧侶にあるまじき贅沢三昧をしていた比叡山延暦寺もそのひとつでした。おまけに延暦寺は、織田信長と抗争中の宿敵である浅井氏と朝倉氏に味方していました。
これにキレた織田信長は、1571年に比叡山を焼き討ちにして、延暦寺にいたものをみな殺しにしてしまいました。
1573年には、足利将軍を攻めて京から追い出し、230年以上つづいた室町幕府を滅ぼします。
もともと織田信長は足利義昭が将軍になる協力をし、将軍と幕府を利用して権力を得ていましたが、機能不全に陥っていた室町幕府を ”価値なし” として見切りをつけたのです。
天下統一の邪魔になるものは、織田信長には無価値でした。
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信長のすごいところ
合理的な政策
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ふだんは畑しごとをする農民が、合戦のときに兵士になるのが普通でした。これを『半農半士』といい、どこの大名たちも田植えや収穫などの農繁期は合戦を避けるのが当たり前でした。
これでは戦える期間が限られてしまい、なかなか天下統一が進まない。そう考えた織田信長は、農民と兵士を分ける『兵農分離』を導入します。
これにより、常に動員できるプロ兵団を構成しました。

しかし、専業兵士を雇用しつづけるには多大な費用がかかります。
そこで、織田信長は城下町の課税を免除して、誰でも自由に商売ができる『楽市・楽座』を実施しました。
商売がしやすい織田領には商人がたくさん集まり、大きな経済効果をもたらしました。

おまけに楽市・楽座には、座(商業組合)を通さないことで、これまで座の加盟料を徴収して利益を得ていた「公家や寺院を弱体化させる」ねらいもあったのです。
さらには、商人たちが他国の情報を持ってきてくれる利点がありました。
織田信長はポルトガルなどの南蛮人とも貿易を通じて積極的に交流し、南蛮貿易の利益とともに先進的な外国の知識を得ていました。
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信長のすごいところ
最強の鉄砲隊
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1543年に西洋から伝来した鉄砲は破壊力がありますが、弾込め、火縄の導火線に着火するなど、撃つまでに時間がかかるのが難点でした。そのうえ高価でした。
多くの大名は「鉄砲は高い割りに実用性が低い」と考えていましたが、織田信長は撃つまでに時間がかかる問題を ”鉄砲の数” で解決します。
鉄砲隊を3つに分けて入れ替わるようにして、絶え間ない射撃を可能にしました。

3千挺もの鉄砲隊を投入した『三段撃ち』によって、当時最強と呼ばれた武田騎馬隊を壊滅させ、あたらしい合戦のトレンドをつくりました。
1575年に織田信長が武田騎馬隊をやぶった長篠の戦いは、なだらかな丘陵地をブラインドにして、敵から見えないように小隊を布陣し、土塁に馬防柵を設置する大掛かりな野戦築城でした。

これは当時の日本では例を見ない戦術で、イタリア軍の戦法をつかった可能性があります。刀と弓の戦国時代に、織田信長は西洋の戦争技術を使ったのです。
これだけ大量の鉄砲隊を組織するためには、費用と訓練が必要です。
最強の鉄砲隊を組織するうえでも、楽市・楽座で得た経済力と、兵農分離によって訓練されたプロ兵士が不可欠でした。
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信長のすごいところ
世界トップの技術力
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南蛮人や宣教師から西洋の知識を得ていた織田信長は、世界のどこにも存在しない最強の軍船を考案します。
海戦に使われていた安宅船に鉄の装甲を施した『鉄甲船』を建造し、ひときわ巨大な鉄砲を搭載して、毛利水軍を沈めました。
鉄砲や鉄甲船といった兵器の投入や西洋の戦術など、織田信長によって安土桃山時代の日本は世界でもトップの技術力を持つほどに発展していました。
天下布武には、武をもって天下を制す以外に、もうひとつの見方があります。
天下泰平の世をつくるといった意味で、強引で乱暴なようでも、天下統一によって戦乱を終わらせたい織田信長の願いがこめられていました。
異端児、革命児と表現される織田信長とは、古くからの悪い慣習を排除して、あたらしい日本のかたちをつくろうとした破壊と創造の英雄でした。
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家臣の明智光秀の裏切りによって、織田信長の天下統一の野望は達成されませんでした。その光秀も信長の死後すぐに豊臣秀吉に討たれます。
織田信長の天下統一事業は、豊臣秀吉に引き継がれ、1590年に達成されました。
教科書に載っているような【織田信長がしたこと】ついて、下記のページでまとめています。あわせてご覧ください。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1534年、織田信長は尾張国・勝幡城に織田信秀の長男として生まれます。主家筋の清洲織田家を滅ぼし、弟の織田信行を謀殺して織田家を制します。桶狭間の戦いで今川義元を返り討ちにして全国に名を轟かせました。美濃国を足がかりに、足利義昭の将軍就任に協力して上洛をし、室町幕府に大きな影響力を持ちます。
抵抗勢力を駆逐、天下統一へ
妹婿である浅井長政が裏切り、朝倉義景と連携した抵抗に悩まされ、石山本願寺の一向一揆を加えた『信長包囲網』に苦しめられます。足利義昭にも裏切られる四面楚歌の危機を乗り越え、各地に派兵した方面軍を使って勝利を重ね、強敵・武田氏も滅ぼしました。つぎつぎと大名家が服従し、いよいよ天下統一に迫ります。
最後と死因
天正10年6月2日の早朝、本能寺の変が起こります。最も頼りにしていた家臣・明智光秀の謀反でした。弓と槍を手にして戦いますが、肩に矢をうけてしまいます。「是非もなし(しかたない)」とつぶやくと小姓の森蘭丸に火をつけさせ、織田信長は京・本能寺を包む炎のなかで燃えつきました。1582年6月21日、死因は自害。49歳でした。
この『本能寺の変』で、明智光秀が謀反を起こした理由はわかっていません。本能寺の焼けあとから織田信長の遺体も見つかっていません。なぜ織田信長は殺されたのか?織田信長はどこに行ってしまったのか?わからないままです。
領地と居城の移り変わり



方面軍に分割した土地も含めて、28か国800万石ほどが織田信長の領地でした。東海道の徳川氏、関東の北条氏、奥州の伊達氏、九州の島津氏など服従を表明していた勢力を加えると、全国の半分ちかくを手に入れていました。
ざっくりした略年表と相関図
織田信長の主な出来事をまとめた略年表です。

1560年「桶狭間の戦い」1573年「室町幕府滅亡」1575年「長篠の戦い」1582年「本能寺の変」が、特に重要な出来事です。
織田信長の歴史で重要な関わり方をした人物の相関図がこちらです。

反信長勢力を構成した浅井長政は妹婿であり、足利義昭は信長が擁立した将軍です。そして、本能寺の変で信長を討った明智光秀は重臣でした。
いずれも協力関係にあった人物に裏切られている点に注目です。
歴史的にどんな功績があるの?
- 機能しない室町幕府を解体した。
- 利権や特権を得ていた寺社や体制を破壊した。
- 楽市・楽座などの政策で経済活動を自由にした。
- 南蛮貿易を奨励して西洋文化を取り入れた。
- 鉄砲などの最新技術で合戦の様式を近代化させた。
- 100年つづいていた戦国時代を終息に向かわせた。
織田信長は、天下統一を目指すことで戦国時代を終わらせようとした人物です。
戦国時代といっても、いずれの戦国大名も自国をちょっとずつ広げるのが精一杯で、日本全国を統一するといった発想は、織田信長より以前にはありませんでした。
その途方もない天下統一事業を成し遂げるために、貿易や経済政策で国力を高め、高価な鉄砲をしこたま保有して、圧倒的な武力を有しました。
腐敗した旧体制や組織、天下統一を阻むすべての障害を武力で排除し、日本から内戦をなくそうとしました。
残念ながら、織田信長の天下統一は実現しませんでしたが、織田信長が築いた基盤によって、戦国時代には新たな展望が開かれました。
非道な魔王のような残虐性と暴力のイメージが強く、野望のために手段を選ばない殺戮者とされることもある織田信長ですが、他の戦国大名と比較しても道理に外れたことはしていません。
しかしながら、比叡山焼き討ちが「殺してしまえ」のイメージを助長しています。
織田信長の性格と人物像
織田信長は「誰に対しても高圧的で上から目線な人」です。
自分に絶対的な自信があるので、部下のアドバイスは聞きません。
部下に求めるのは結果。コミュニケーションは報告だけでいい成果主義・合理主義です。そのくせ、なんでも自分でやってみないと納得しません。
信長が「おい」と声をかければ、ダッシュで駆けつけないと殺されます。信長の甲高い声を笑ったものを即座に斬り捨てた話もあり、短気なんてもんじゃありません。つねにピリついた空気をまとっています。
意外にも家臣の離反には寛大で、謝罪すれば許しています。そのせいか、頻繁に裏切られます。
武芸を好み、日々の鍛錬を怠りません。馬術は家中で一番の腕前で、弓も得意でした。
合戦が大好きで、いつも先頭を駆けていました。戦いは必ず敵の領内に踏みこんで行い、自分の領地に入らせてはダメというスタンスでした。
茶器や武具のコレクションに熱心です。紫式部ファンの上杉謙信に『源氏物語屏風』を送るなど、気が利いたプレゼントを選ぶのも上手でした。
幸若舞の『敦盛』がお気に入りで、桶狭間の戦いの前にもひと踊りしてから出陣しています。最後をむかえた本能寺でも、炎のなかで敦盛を舞う様子はあまりにも有名。
早寝早起き、規則正しい生活をして几帳面。お酒は飲みません。食事も控えめでした。干し柿が好物で、成果をあげた家臣には褒美としてあげることもありました。さっと食べられる湯漬け(お茶漬け)も好きで、気が短い信長にはピッタリのファストフードでした。
身長170cm、鼻筋の通った端正な顔立ちで、切長の目をしていました。多くの肖像画が残っており、いずれにも共通点がみられます。派手な格好や新しい物を好み、洋服や靴も愛用しました。
人並み外れた大声が出せます。大声で戦の形勢を逆転したこともありました。
子どものころから気性が激しく、かんしゃくを起こして乳母の乳首を噛みちぎった話もあります。乳ばなれが遅く、5歳になってもおっぱいを吸っていたそうです。
織田信長といえば南蛮具足ですが、残念ながら実際に使用したものは残っていません。鋼鉄製の西洋甲冑の胴の部分だけ流用して、和製の鎧と合わせたハイブリットな胴丸を着用していました。
信長の甲冑は、若いころに使用していた『紺絲威胴丸具足』などの鎧がいくつか現存しています。
能力を表すとこんな感じ

織田信長は行動力、目的を達成させる推進力が突出しています。大願成就のためなら手段を選びません。領内を活性化させる政策のアイデアも豊富。しかし、プレッシャーによる恐怖で組織を統制したツケで反発が相次いでいます。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する織田信長の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
織田信長の面白い逸話やエピソード
尾張の大うつけ、奇抜なファッションで領内を暴走する
うつけ=馬鹿という意味の言葉です。
思春期の織田信長は、領民からも『尾張の大うつけ』と呼ばれていました。
ぎゅっと縛りあげた茶筅まげ、浴衣を着くずした上半身は半裸。ヒョウと虎の革を染めた半袴(短パン)に、腰からいくつものヒョウタンと火打ち石をぶら下げて、金ピカの装飾を施したひときわ大きな太刀と脇差を携帯していました。

いわゆる不良です。
同じように派手なかっこうをした、ガラの悪い子分を引き連れて馬で領内を駆け回り、土にまみれて相撲や川あそびに興じ、餅や瓜をかじりながらねり歩く姿を人々はうつけと呼びました。
1歳下の丹羽長秀や、かぶき者で知られる前田利家は、信長の子分でした。
父の葬儀に、親族・家臣一同が居並ぶなか、信長はいつもの半裸で現れると「喝っ!!」と叫んで仏前に焼香を投げつけるありさま(抹香事件)。織田家に長く仕えている家臣たちもこれにはウンザリ。
あまりの傍若無人っぷりに信長の教育係をしていた平手政秀が諫死(死んでいさめること)してしまうほどでした。
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ぜんぶ
計算だった?
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信長のうつけ行動には、意味がありました。
馬での暴走は「領内をみて回っていた」のであり、川あそびは「場所ごとにちがう水深を調べていた」といいます。子分たちとの相撲は「鍛錬のため」でした。
うつけを装っていたのは「敵や他国を油断させるため、誰が自分の味方なのか見極めるため」だったといいます。
南蛮かぶれで黒人の家来がいた
ある日、イタリア人の宣教師が黒人を連れて信長のもとに訪れました。黒人を気に入った信長は、彼に「弥助」という名をつけて家来にしました。
褐色の肌がどうしても信じられない信長は、ゴシゴシ洗っても色落ちしないのか確かめてみたくなります。
信長は弥助を風呂につれていき、丹念にからだを洗いましたが、色が落ちるどころか、弥助は一層黒く輝きました。これを見て信長は「ほんとに黒い!」と愉快に笑いました。

弥助は身長182cmで体格がよく、十人力と評されました。
家来になった日から、弥助は信長のお供をするようになりました。
本能寺の変にも居合せた弥助は、一大事を知らせに走ったのち本能寺に戻りますが、明智光秀に捕縛され、南蛮寺に預けられたそうです。
白人の奴隷として日々を過ごしていた弥助でしたが、信長は彼を蔑むことなく、ゆくゆくは大名にしようとまで考えていました。
自分を人間として接してくれる信長のことを、弥助は心から慕っていました。
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真っ赤なマントが
トレードマーク
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宣教師ルイス=フロイスたちとの交流がきっかけで、信長は南蛮文化にハマっています。
安土城の自室には、テーブル、銀のロウソクたて、ワイングラス、地球儀などの舶来品があふれていました。大きな羽をつけた南蛮帽をかぶって出かけたり、洋服を好んで着ていました。

なかでも、ビロードのマントがお気に入りでした。
日常的にまとっていただけでなく、戦場でも鋼鉄製の南蛮具足のうえから大きなマントを羽織っていました。
南蛮人から信長に献上された物のなかには、バナナ、金平糖、カステラ、ボーロ、赤ワインなどもありました。
浅井長政のドクロを髑髏杯にした
3年間にわたって泥沼の抗争をくり広げた宿敵・浅井氏&朝倉氏の浅井長政・久政父子と、朝倉義景のドクロに、信長は金箔で加工して髑髏杯にしました。

宿敵を倒した翌年の正月祝いの席で、信長はこの髑髏杯3つを家臣の前で披露して、プハァーッと酒を飲んで上機嫌だったといいます。
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その話、
ちょっと違う
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ドクロを盃にして祝杯をあげたというのは、江戸時代中期の『浅井三代記』に書かれているもので、作り話である可能性が高いのです。
とはいえ、まったく事実無根というわけでもなく、金箔でドクロを装飾したのは本当のようです。
しかし、髑髏杯で酒を飲んだりはしていません。そもそも信長は下戸(お酒が飲めない体質)なのでお酒は飲みません。
長政ら3人のドクロを金箔で装飾して正月祝いの席に用意させたのは、長いあいだ苦しめられたライバルを悼んでのことでした。
敗者を晒す意味ではなく、戦いを終えた強敵を祝いの席に招いたのです。
織田信長の魔王テイストを強調するために尾ひれがついて広まった話のようですが、実際には命を懸けた者にしか分からない深イイ話でした。
女性と領民には意外と優しい
魔王と呼ばれた織田信長ですが、女性と領民には心優しい一面もありました。
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秀吉の浮気癖を
手紙で叱る
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夫の浮気癖に手を焼いていた、豊臣秀吉の妻・ねねを励ます手紙を書いています。
”お前みたいな綺麗な女房がいながら、けしからんハゲねずみ(秀吉)め。でも大丈夫。あの馬鹿者には、お前ほどの素敵な女性を他に見つけられないよ”
おしまいに ”この手紙は秀吉にも見せるよーに” と書かれており、これを見せられて秀吉も反省しました。
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みんなで楽しむ
安土城
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信長は安土城につづく道に街路樹を植えるよう指示しました。
家来が理由をたずねると「夏の暑い日でも歩行者が木陰で休めるように」と答えました。
夜になると松明で安土城をライトアップしてシンデレラ城のように人々を楽しませました。入城料をとって領民たちに内覧もさせています。
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気になる
ホームレス
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領内にいた足が不自由なホームレスを気にかけていて、何度か見かけたころ「あいつの家を建ててやれ。仕事も与えてやれ」と家来に命じたといいます。
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道端で居眠りする
農民の姿が好き
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信長が出陣して領内を進んでいると、ひとりの農民が道端で寝ていました。ぐうぐうとイビキをかいて居眠りしている様子をみた家臣が「殿がご出陣だというのに無礼な!斬り捨てましょう」と息巻きます。
すると信長は「俺は農民が土の上で寝ている姿が好きだ。安心して畑しごとができる世をつくらないとな」と笑って通り過ぎました。
領民想いのやさしい殿様でした。
料理人から馬鹿にされてしまう
腕がいいと評判の料理人・坪内石斎を召し抱えた信長。さっそく料理をつくらせて、ひとくち食べると「水臭ぇあにゃあ!食えにゃあで!」と怒って坪内を斬り捨てようとします。
坪内がもう一度だけチャンスをくれというので、翌日もう一度つくらせます。
すると、今度は出てきた料理に満足しました。
坪内が用意したのは、はじめは薄味の京風料理で、翌日のは思いっきり濃い味付けの料理でした。
濃いほうを気に入った信長のことを坪内は「あれ(信長)は田舎者だから、しょっぱいもん出しておけば旨い旨いと食いよる」と言いふらして笑いものにしました。
織田信長の有名な戦い
尾張に侵攻してきた今川義元を桶狭間(愛知県名古屋市緑区桶狭間)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。
桶狭間の戦いで織田信長は勝っています。
織田信長のターニングポイントになった戦いです。
今川義元を返り討ちにし、全国に名が知られることとなった合戦です。この勝利によって、不安定だった織田家臣団をまとめあげました。義元の討死は、徳川家康を独立させるきっかけにもなりました。
越前の朝倉義景を攻めていた織田信長を朝倉軍と浅井軍が金ヶ崎(福井県敦賀市金ヶ崎町)で挟み撃ちにした戦い。浅井長政の裏切りによって、織田軍は撤退を余儀なくされる。木下秀吉が、客将として参戦していた明智光秀ととも撤退戦の殿を担い、信長を無事に逃げさせた。
金ヶ崎の戦いで織田信長は敗れています。
妹婿・浅井長政の裏切りによって絶体絶命の窮地に立たされます。長政に嫁いだ妹・市から両端が縛られた小豆入りの袋が届き、信長は挟みうちの危機を察します。信長は、10名ほどを伴って京まで逃げました。これを境に信長は両家に対して憎しみを抱きます。
浅井&朝倉軍と、織田信長の援軍で参陣した徳川家康が姉川(滋賀県長浜市野村町)で激突した合戦。本多忠勝が一騎討ちで真柄直隆と渡り合うなど、徳川軍の活躍が目覚ましく、榊原康政の突撃で朝倉軍は敗走。激戦で姉川は血に染まり、血原や血川橋という地名を残した。
姉川の戦いで織田信長は勝っています。
屈辱的をあじわった金ヶ崎の戦いのあと、すぐに体制を立て直して浅井氏&朝倉氏の連合軍にリベンジを果たします。決着をつけようとしましたが、これより両家との戦いは泥沼化します。
摂津国中嶋(大阪府大阪市福島区)に城を築いて挙兵した三好三人衆を、織田信長が討伐に向かった合戦。三角州をまたいで、両軍鉄砲による銃撃戦が行われた。突如、本願寺軍が織田軍を背後から攻撃。第1次石山合戦とも呼ばれ、本願寺と信長が10年も抗争する発端になった。
野田城・福島城の戦いで織田信長は敗れています。
はじめは有利に戦いましたが、石山本願寺の参戦で逆転されます。同じころ、浅井氏&朝倉氏が信長の留守を突いて近江の織田領を脅かしたため、志賀の陣が勃発します。
信長が摂津国に出陣している隙に、浅井長政が近江国の織田領に侵攻。朝倉義景とともに1千ほどの城兵が守る宇佐山城(滋賀県大津市)を攻め、森長可らを討ち取る。摂津から織田信長が引き返してきたことを知った浅井&朝倉軍は比叡山に匿われ、以後は包囲戦が続いた。
志賀の陣で織田信長は引き分けています。
比叡山の包囲が長引いたことで、本願寺、三好三人衆、六角氏など反信長勢力が各地で挙兵。これらに対応するために、しかたなく正親町天皇に頼んで浅井氏&朝倉氏と和睦しました。このときの延暦寺の対応が、比叡山焼き討ちにつながります。
志賀の陣で浅井氏&朝倉氏を匿った延暦寺(滋賀県大津市)に業を煮やした織田信長が比叡山を攻めた事件。軍事力を持っていた比叡山の存在を抹殺することにした信長は、総指揮を明智光秀に一任して山に火を放ち、逃げる者をみな殺しにした。死者の数は3〜4千人とも。
比叡山焼き討ちで織田信長は勝っています。
志賀の陣で延暦寺は信長の勧告を無視しつづけました。本気で山ごと燃やそうとしている信長の動きに気づいた延暦寺は、黄金をたくさん用意して攻撃中止を願い出ますが、これを無視して火をつけました。
織田軍に包囲された浅井長政を救援すべく朝倉義景は出陣した。しかし、浅井氏の劣勢をみて撤退を開始する。義景の撤退を予測していた織田信長は、猛追撃して朝倉軍を壊滅させた。一乗谷城(福井県福井市城戸ノ内町)は陥落し、朝倉氏は滅亡した。刀根坂の戦いとも。
一乗谷城の戦いで織田信長は勝っています。
これまで手を焼いた朝倉義景ですが、最後の戦いはあっけなく終わりました。
信長に叛いた浅井長政を殲滅するべく、織田信長が小谷城(滋賀県長浜市湖北町)を攻めた合戦。小谷山を要害とした堅城を攻略するため、織田軍の木下秀吉は、城内を分断する作戦を実行する。崖を登って奇襲に成功し、小谷城を陥落させた。これにより、浅井氏は滅亡した。
小谷城の戦いで織田信長は勝っています。
一乗谷城で朝倉氏を滅ぼしたのち、引き返して浅井氏の小谷城を攻めました。秀吉の奇襲で優位に立ったことで、城内を制圧しました。
長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。
長篠の戦いで織田信長は勝っています。
日本史に残る戦いのなかでも特別な一戦です。鉄砲を主役としたあたらしい合戦のあり方を示しました。ここから急速に合戦の様式は近代化していきます。
本能寺(京都府中京区小川通蛸薬師元本能寺町)に織田信長が宿泊していたところを家臣の明智光秀が襲撃した事件。早朝、喧騒で目を覚ました信長は、明智軍に包囲・攻撃されている事実を知ると「余は自ら死を招いたな」と覚悟し、弓と槍で鬼神のごとく応戦したのち、本能寺に火を放って自害した。
本能寺の変で織田信長は敗れています。
日本の歴史を揺るがした大きな事件です。午前4時ごろからはじまった討ち入りが終わったのは、午前8時前でした。明智光秀は二条城にも攻め入り、信長の長男・信忠も討ちました。
ひとつの時代が終わり、豊臣秀吉が天下取りに名乗りをあげます。
織田信長の詳しい年表と出来事
織田信長は西暦1534年〜1582年(天文3年〜天正10年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1534 | 1 | 織田信秀の嫡男として尾張国に生まれる。幼名:吉法師 |
1546 | 13 | 元服 → 織田(三郎)信長 |
1547 | 14 | ”吉良大浜の戦い”初陣。今川領・大浜城付近を攻める。強風を利用して火矢を放ち、一帯を火の海にする。 |
1549 | 16 | 斎藤道三の娘(帰蝶)と結婚。父・信秀と義父・道三が和睦する。 |
1552 | 19 | 父・織田信秀の死去により家督を相続。 ”赤塚の戦い”山口教吉が織田氏に叛く。鳴海城を攻めるが、痛み分け。 ”萱津の戦い”織田信友の挙兵を鎮圧する。 |
1553 | 20 | 傅役・平手政秀が自害。政秀寺を建立する。 尾張国・正徳寺で義父・斎藤道三と会見する。 |
1554 | 21 | ”村木砦の戦い”水野信元の救援に向かい今川軍を撃退する。斎藤道三の援軍に那古野城の留守を任せる。 水野信元が配下になる。 織田信友が尾張守護・斯波義統を殺害。斯波義銀を那古野城で保護する。 ”安食の戦い”*柴田勝家に織田信友を攻めさせる。長槍を考案、実戦使用する。 叔父・織田信光を清洲城の織田信友のもとに送り込み、謀殺する。 尾張国・清洲城を奪取、居城にする。 叔父・織田信光が家臣に暗殺される。 |
1555 | 22 | 六弟・重孝が叔父・織田信次の家臣に誤って殺される。長弟・信行が報復で守山城下を焼き払う。 逃亡した叔父・織田信次に代わって異母弟・信時を森山城主にする。 ”蟹江城攻め”*今川氏に蟹江城を奪われる。 |
1556 | 23 | *柴田勝家に今川領・福谷城を攻めさせるが敗れる。 ”長良川の戦い”義父・斎藤道三の援軍に駆けつけ、斎藤義龍と争う。道三の討ち死により撤退。 ”稲生の戦い”長弟・信行を擁立する林秀貞、林通具、柴田勝家が挙兵。林通具を討ち取り鎮圧する。 母の仲介で織田信行、林秀貞、柴田勝家を許す。 |
1558 | 25 | 今川義元と通じた尾張守護・斯波義銀を追放する。 長弟・信行が再び謀反を企てる。柴田勝家の密告を受けて信行を呼び出し、誅殺する。 従兄弟・信清に姉(犬山殿)を嫁がせる。 ”浮野の戦い”織田信賢を攻める。織田信清の援軍を受けて勝利する。 |
1559 | 26 | 織田信賢の岩倉城を包囲、降伏させて追放する。 500の兵を連れて京に行く。13代将軍・足利義輝に謁見する。 |
1560 | 27 | ”桶狭間の戦い”今川義元が尾張国に侵攻してくる。桶狭間で休息中の義元本陣を強襲し、今川義元を討ち取って勝利する。近藤景春を討ち取って沓掛城を奪還。 斎藤領・美濃国に侵攻するが、斎藤義龍に敗れる。 再び美濃国に侵攻するが、斎藤義龍に敗れる。 |
1561 | 28 | ”石ヶ瀬川の戦い”*水野信元が松平元康(徳川家康)と争う。 ”森部の戦い”斎藤領・美濃国に侵攻する。長井利房、日比野清実、神戸将監を討ち取って勝利する。 ”十四条・軽海の戦い”斎藤龍興を攻める。敗れて撤退するが、すぐさま反撃する。稲葉山城を攻めるも落せず。 美濃国・墨俣に砦を築く。【墨俣一夜城】 |
1562 | 29 | 今川氏から独立した松平元康と同盟を結ぶ。【清洲同盟】 |
1563 | 30 | 尾張国・小牧山城を築城、居城にする。 ”新加納の戦い”斎藤領・美濃国に侵攻する。ベストメンバーで臨むが、斎藤龍興の軍師・竹中半兵衛に大敗する。 |
1564 | 31 | 尾張国内の反勢力、黒田城、小口城を調略で降す。 従兄弟・信清を攻めて犬山城を奪取、追放する。 尾張国を平定。 |
1565 | 32 | 斎藤家臣・佐藤忠能を調略する。 斎藤領・美濃国に侵攻する。 斎藤家臣・坪内利定と大沢正秀を調略する。 猿啄城を攻略。 ”堂洞合戦”岸信周が篭る堂洞城を攻める。乱戦を制して陥落させる。 ”関・加治田合戦”*関城主・長井道利が加治田城に侵攻してくる。義弟・斎藤利治、佐藤忠能に撃退させる。関城を攻めて陥落させる。 武田信玄の四男・勝頼に養女・遠山直廉の娘(龍勝寺殿)を嫁がせる。 |
1566 | 33 | ”河野島の戦い”斎藤領・美濃国に侵攻する。木曽川の洪水により撤退。多数が溺死する。 |
1567 | 34 | ”稲葉山城の戦い”美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家卜全)が内応、開城降伏させる。斎藤龍興は伊勢国に逃亡。斎藤家滅亡 稲葉山城を岐阜城に改名、居城にする。 美濃国を平定。 書状に『天下布武』の朱印を使いはじめる。 浅井長政に妹(市)を嫁がせる。 北畠領・伊勢国に侵攻する。北伊勢の豪族衆を制圧。 徳川家康の嫡男・竹千代(松平信康)に娘(徳姫)を嫁がせる。 武田信玄の娘(松姫)と嫡男・信忠を婚約させる。 |
1568 | 35 | 三男・三七郎(信孝)を伊勢国・神戸具盛の養嗣子にする。 次弟・信包を伊勢国・長野具藤の養嗣子にする。 足利義昭を岐阜城に迎える。 足利義昭を奉じて京に進軍を開始。 松永久秀と三好義継が従属する。 ”観音寺城の戦い”六角義賢・義治父子を攻める。箕作城、和田山城を陥落させると父子は逃亡。南近江を制圧。 京を占拠していた三好三人衆を蹴散らし、摂津国、阿波国に追いやる。 摂津国・池田勝正を攻める。池田城の城下を焼き払い降伏させる。 足利義昭を15代将軍に擁立する。【室町幕府の再興】 副将軍を打診されるが断る。 *佐久間信盛、細川藤孝、和田惟政を松永久秀の援軍に送る。 |
1569 | 36 | 三好三人衆に足利義昭が襲撃される。明智光秀、細川藤孝らが撃退する。【本圀寺の変】 足利義昭のために二条城の修築を行う。 幕府官職に就任。 足利義昭から和泉国を拝領する。 京を含む山城国を足利義昭との共同統治とする。 毛利輝元の要請を受けて木下(豊臣)秀吉に山名領・但馬国に侵攻を命じる。 毛利輝元と大友宗麟の和睦を仲介する。 ”大河内城の戦い”北畠領・伊勢国に侵攻する。北畠具教・具房父子が篭る大河内城を包囲。次男・茶筅丸(信雄)を北畠具房の養嗣子とし、北畠父子は退去することを条件に和睦。 伊勢国を実質的に支配。 武田信玄の要請で上杉輝虎(謙信)との和睦仲介を足利義昭に求める。【甲越和与】 |
1570 | 37 | 殿中御掟を制定。足利義昭に承認させる。 松井友閑と今井宗久を軸に摂津国・堺を直轄領とする。 正親町天皇から副将軍を希望されるが無視する。 ”金ヶ崎の戦い”朝倉領・越前国に侵攻する。上洛の要請に従わなかった朝倉義景を攻める。天筒山城、金ヶ崎城を陥落させるが、浅井長政が裏切り挟み撃ちに遭う。やむなく撤退。 浅井氏との同盟が破談。 浅井領・長亭軒城、長比城を調略する。 ”姉川の戦い”織田氏&徳川氏、浅井氏&朝倉氏で決戦をする。朝倉軍を敗走させて勝利し、浅井氏の横山城を陥落させる。 近江国・横山城に木下(豊臣)秀吉を入れる。 ”野洲河原の戦い”*柴田勝家が六角義賢・義治父子を撃退する。 ”野田城・福島城の戦い”摂津国で挙兵した三好三人衆を攻める。石山本願寺が三好方に加勢。背後の宇佐山城を攻められ、やむなく撤退。【第1次信長包囲網】 ”宇佐山城の戦い”*三弟・信治と森可成が浅井氏&朝倉氏&六角氏に攻められて討死。 ”志賀の陣”浅井氏&朝倉氏が比叡山延暦寺に立て篭もって抵抗する。講和を無視される。 伊勢国・長島で一向一揆が起こる。尾張国・古木江城が一揆勢に包囲され、五弟・信興が自害する。 正親町天皇に調停を頼み、比叡山延暦寺、浅井氏&朝倉氏と勅命講和する。 |
1571 | 38 | 浅井領・佐和山城を攻撃、磯野員昌を降伏させる。 ”第1次長島一向一揆”5万の兵で伊勢国・長島の一向宗門徒を攻める。伏兵に苦戦し撤退するも追撃されて大敗する。 浅井氏&朝倉氏に横山城と箕浦城を攻められるが、撃退する。 松永久秀が織田氏に叛く。近江国・中山道を封鎖される。 ”近江一向一揆”*柴田勝家、佐久間信盛らに金森の一向宗門徒を駆逐させる。中山道のルートを復旧させる。 *荒木村重、松永久秀らが高槻城を接収しようとする。佐久間信盛が勧告に失敗。明智光秀に命じて撤兵させる。 ”比叡山焼き討ち”延暦寺からの講和を拒否。比叡山を山ごと焼き払う。老若男女問わず数千人を討つ。 *佐久間信盛と明智光秀に大和国で争う筒井順慶と松永久秀を和睦させる。 筒井順慶が配下になる。 三男・信孝に命じて検地を行う。【神戸検地】 |
1572 | 39 | *松永久秀が畠山領・交野城を攻める。柴田勝家と佐久間信盛を派遣して追い散らす。 美濃国・岩村城の遠山景任が死去。五男・御坊丸(勝長)を養子に入れる。 浅井領・小谷城を包囲する。援軍に来た朝倉義景を散発的に攻撃、前波吉継と富田長繁を寝返らせる。 岩村城が秋山信友に占拠され武田氏に奪われる。叔母(おつや)が捕われる。 武田氏との同盟が破談。 足利義昭に態度を改めるよう注意する。【17か条意見書】 武田信玄が徳川領、織田領に侵攻してくる。足利義昭の呼びかけで石山本願寺、朝倉義景、浅井長政、松永久秀(三好勢)によって包囲網が形成される。浅井領・小谷城の包囲を解いて対応する。【第2次信長包囲網】 浅井家臣・宮部継潤を調略する。 *浅井長政が虎御前山砦に攻めてくるが、木下秀吉が撃退する。 徳川領が次々と武田信玄に奪われる。 上杉謙信に人質を送って上杉氏と不平等な同盟を結ぶ。【濃越同盟】 |
1573 | 40 | ”三方ヶ原の戦い”*佐久間信盛、平手汎秀、水野信元を徳川氏の援軍に派遣。武田信玄に大敗する。 将軍・足利義昭が二条城で信長打倒の挙兵。正親町天皇の仲裁で和睦する。 ”槇島城の戦い”足利義昭が再び挙兵。槙島城を攻め落とし山城国から追放する。【室町幕府の滅亡】 山城国を平定。 浅井領・小谷城を再び包囲する。援軍に現れた朝倉義景を迎撃し、大嶽砦と丁野山砦を雨中の奇襲で落とす。退却する朝倉軍を猛追撃する。 ”一乗谷城の戦い”朝倉義景を刀根坂で撃破。取り逃がすが、朝倉景鏡が義景の首を持参して投降する。朝倉家滅亡 ”小谷城の戦い”浅井久政・長政父子が篭もる小谷城を陥落させる。浅井久政・長政父子は自害。浅井家滅亡 *柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、蒲生賢秀に六角領・鯰江城を攻め落とさせる。 ”第2次長島一向一揆”一向宗門徒が篭る西別所城や坂井城を陥落させる。大湊での船の調達が捗らず帰陣する。撤退時に激しい追撃を受ける。 ”若江城の戦い”*佐久間信盛に三好義継を討伐させる。三好家滅亡 松永久秀が降伏、配下になる。 *佐久間信盛に六角領・菩提寺城、石部城を包囲させる。 |
1574 | 41 | 大和国・多聞山城を松永久秀から接収する。 東大寺で蘭奢待を切り取る。一部を正親町天皇と九条稙通に贈る。 ”明知城の戦い”武田勝頼が美濃国に侵攻してくる。明知城を落とされ遠山友治が戦死。長男・信忠と救援に向かうが山県昌景に阻まれて退く。 *佐久間信盛が菩提寺城、石部城を落とす。六角義賢・義治父子は逃亡。六角家滅亡 近江国を平定。 ”第1次高屋城の戦い”*柴田勝家に三好康長&石山本願寺の討伐に向かわせる。 ”第3次長島一向一揆”12万の兵を結集して一向宗門徒を殲滅する。長島城に追い込んで兵糧攻めにし、一向宗からの降伏を許さず焼き討ちで全滅させた。 |
1575 | 42 | 筒井順慶に娘または妹を嫁がせる。 京の相国寺で今川氏真の蹴鞠を楽しむ。 ”第2次高屋城の戦い”10万の兵で三好康長&石山本願寺の討伐に向かう。170の首級をあげて香西長信が篭る新堀城を陥落させる。三好康長を降伏させる。 河内国を平定。 ”長篠の戦い”武田勝頼が徳川領・長篠城を包囲。織田氏&徳川氏で武田勝頼との決戦に大勝する。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊ほか討ち取る。 徳川家康が従属する。 ”岩村城の戦い”長男・信忠と武田領・岩村城を攻める。秋山信友を降伏させる。投降する秋山信友と叔母(おつや)を捕らえ、長良川で逆さ磔の刑に処す。 ”越前一向一揆”一向宗門徒を殲滅する。一揆勢の城をことごとく焼き払う。安居(朝倉)景健が下間頼照の首を持参して降伏を申し出るが許さず全滅させた。 越前国を平定。 権大納言に就任。 右近衛大将に就任。朝廷から天下人と認められる。 明智光秀に丹波国の平定を命じる。 |
1576 | 43 | 柴田勝家に北陸地方の平定を命じる。 近江国・安土城の築城を開始。 波多野秀治が織田氏に叛く。 石山本願寺、毛利輝元、宇喜多直家、上杉謙信、武田勝頼によって包囲網が形成される。【第3次信長包囲網】 上杉氏との同盟が破談。 ”天王寺砦の戦い”明智光秀が守る天王寺砦が石山本願寺に攻められる。駆けつけて救援する。 佐久間信盛に対石山本願寺の司令官を命じる。 長男・織田信忠に家督を譲る。引き続き政治・軍事を主導する。 ”第1次木津川口の戦い”石山本願寺を支援する毛利輝元の水軍に敗れる。 *次男・信意(信雄)に北畠具教、長野具藤らを謀殺させる。【三瀬の変】 伊勢国を平定。 内大臣に就任。 大和国・多聞山城を破却する。 |
1577 | 44 | ”第1次紀州征伐”10万の兵で雑賀衆の討伐に向かう。ゲリラ戦に苦戦し雑賀孫一と和睦する。 ”手取川の戦い”*柴田勝家が上杉謙信に大敗する。 ”信貴山城の戦い”*松永久秀が再び織田氏に叛く。織田信忠に討伐させる。 大和国を平定。 城下町の課税を免除、座を廃止する。【楽市・楽座】 羽柴(豊臣)秀吉に中国地方の平定を命じる。 右大臣に就任。 |
1578 | 45 | ”三木合戦”*別所長治が織田氏に叛く。羽柴秀吉が大規模な包囲をする。 右大臣を辞任。 *毛利輝元が播磨国に侵攻してくる。長男・信忠を向かわせる。 毛利輝元と和睦するよう正親町天皇から勅命が下されるが拒否する。 九鬼嘉隆が建造した鉄甲船を堺で見物する。 ”第2次木津川口の戦い”*滝川一益に石山本願寺への支援を阻ませる。九鬼嘉隆の鉄甲船で毛利水軍に大勝する。 大和国・龍王山城を破却する。 |
1579 | 46 | 近江国・安土城が完成、居城にする。 *明智光秀に八上城の波多野秀治を降伏させる。波多野秀治を処刑する。波多野家滅亡 丹波国を明智光秀が平定。 丹後国を明智光秀と細川藤孝が平定。 ”有岡城の戦い”荒木村重が織田氏に叛く。有岡城はじめ諸城に篭る荒木勢の攻撃を開始。荒木村重は逃亡。村重の一族、家臣の妻子ら全員を処刑する。 ”第1次天正伊賀の乱”*次男・信雄が伊賀国に侵攻するが、百地三太夫らに敗れる。 徳川家康の嫡男・松平信康を謀反の疑いで切腹させる。 宇喜多直家が従属する。 |
1580 | 47 | *羽柴秀吉が三木城の別所長治を降伏させる。別所長治に切腹させる。 播磨国を羽柴秀吉が平定。 *羽柴秀吉に有子山城を攻めて山名堯熙を降伏させる。 但馬国を羽柴秀吉が平定。 正親町天皇の勅命で石山本願寺と和睦する。11年に及んだ闘争が終結。本願寺が大坂から退去する。 北条氏政が従属する。 ”花隈城の戦い”*池田恒興に荒木村重を討伐させる。荒木村重は逃亡。 筆頭家老・佐久間信盛に直近5年間で功績がないことを叱責し高野山に追放する。【19ヶ条の折檻状】 ”第1次鳥取城攻め”*羽柴秀吉に鳥取城を攻めさせて山名豊国を降伏させる。 ”加賀平定戦”*柴田勝家に尾山御坊を攻め落とさせる。 加賀国を柴田勝家が平定。 大友氏と島津氏の争いを調停。 |
1581 | 48 | 京で大規模な軍事パレードを行う。【京都御馬揃え】 ”高野山制圧戦”*織田信張に高野山を攻めさせる。堀秀政、筒井順慶を援軍として派遣するが苦戦する。 ”第2次天正伊賀の乱”*次男・信雄に10万の兵と滝川一益らを与えて伊賀国を攻めさせる。 伊賀国を北畠信雄が平定。 ”第2次鳥取城攻め”*羽柴秀吉が毛利氏に調略された鳥取城を兵糧攻めで降す。 *羽柴秀吉に淡路国を攻めさせて岩屋城を陥落させる。 淡路国を羽柴秀吉が平定。 朝廷に働きかけて武田勝頼を朝敵にする。 |
1582 | 49 | ”甲州征伐”*長男・織田信忠を総大将、滝川一益を軍監として武田領に侵攻させる。徳川家康、北条氏政も呼応して多方面から攻める。穴山梅雪ら武田重臣が次々と寝返り武田勝頼を攻め滅ぼす。武田家滅亡 滝川一益に関東八州の統治を命じる。 蘆名氏、伊達氏、佐竹氏が恭順の姿勢を示す。 ”魚津城の戦い”*柴田勝家に魚津城を攻め落とさせる。 ”備中高松城の戦い”*羽柴秀吉が高松城を水攻めにする。 三男・信孝、丹羽長秀に四国地方の平定を命じる。 徳川家康を安土城に招いて接待する。 備中国を攻める羽柴秀吉の援軍として明智光秀を派遣する。 明智光秀が織田氏に叛く。山城国・本能寺を襲撃されて自害。【本能寺の変】 |

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- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
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