朝倉義景
1533.10.12 〜 1573.9.16

朝倉義景(延景)は、現在の福井県にあたる越前国の武将・大名です。室町幕府15代将軍・足利義昭の上洛をきっかけに織田信長と対立します。同盟関係にあった浅井長政をはじめ、比叡山や石山本願寺らとともに何度も信長と戦い、苦しめますが敗れます。家臣の裏切りによって追いつめられ、自害しました。享年41歳。
- 朝倉義景の武将タイプ
- 文化
朝倉義景は何をした人?このページは、朝倉義景のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと朝倉義景が好きになる「信長の背後をねらうヒット&アウェイでマジギレされた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:朝倉延景 → 朝倉義景
- 幼 名:長夜叉
- 官 位:従四位下、左衛門督
- 幕 府:越前守護
- 出身地:越前国(福井県)
- 領 地:越前国、若狭国
- 居 城:一乗谷城
- 正 室:細川晴元の娘、近衛稙家の娘
- 子ども:3男 4女
- 父と母:朝倉孝景 / 高徳院
信長の背後をねらうヒット&アウェイでマジギレされた
どうしても相見えることができない相性というものがあります。
朝倉義景と織田信長はどうしても無理でした。
越前守護・朝倉義景には、祖父の代から続く浅井氏との深い絆がありました。当代の浅井長政とも、良好な関係でした。そこに突然、織田信長というクセが強い人が入ってきたので、朝倉義景の気持ちは大きく乱されます。

浅井長政が信長の妹と結婚したのです。それ以来、三者はバランスが悪い三角関係になりました。
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足利義昭の上洛
のった人とそった人
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成否を天にまかせて思い切ってやってみようという意思を表すことを「伸るか反るか」と言います。1568年に将軍に就任した足利義昭の上洛に際して、朝倉義景と織田信長はまさに対照的でした。
義昭の上洛に協力せず ”反った” 朝倉義景と、上洛にチャレンジして将軍に就かせて ”伸った” 織田信長のあいだでは、お互いに「気に入らないムカつくヤローだ」という感情がヒートアップします。
足利義昭を15代将軍に就かせた信長は「義昭さんとこに挨拶に来い」と朝倉義景に上洛を命じます。朝倉家は守護職、信長の織田家は守護代の分家。どちらも斯波氏の家臣の家柄なので、朝倉義景のほうが身分が上でした。信長ごときの上洛命令など、余裕で無視してやりました。
これに怒った信長が、朝倉義景を将軍に従わない悪者として討伐に乗り出します。こうして泥沼の戦いの火蓋がきって落とされました。
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浅井長政を巻き込んで
信長とファイト
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1570年、信長が朝倉領に攻め入ってきます。いとも簡単に金ヶ崎城を落とされますが、朝倉義景には策がありました。信長の義理の弟である浅井長政に背後を襲わせる計画だったのです。
したたかにも、浅井軍との挟み討ちで信長を仕留めてやるつもりでした。信頼していた義弟のまさかの裏切りに、してやられた信長は10人ほどの側近に守られて命からがら逃げ出しました。
朝倉義景、まずは1勝。
その2か月後、姉川の戦いでは信長に負けてしまいましたが、なんのこれから。
畿内を荒らす三好の残党を片づけに出かけた信長の背後を浅井長政とともに攻撃。留守中の織田領に攻め込み、信長の弟・信治と重臣・森可成を戦死させました。信長が急いで戻ってきたので比叡山に逃げ込み、鉄砲武装した坊さんたちに匿ってもらいました。
朝倉義景、余裕のあかんべえで2勝め。
ちなみに、この志賀の陣で延暦寺が朝倉義景を庇ったために、このあと信長が比叡山を焼き討ちにしてしまう大事件が起こります。
その後、信長から「日にちを決めて決戦しようや」と呼びかけられますが、もちろん無視。そうこうするうちに、信長と将軍・義昭が揉めはじめたので、これに便乗してワオワオしました。
隙を突いたヒット&アウェイでけっこうなダメージを与えた朝倉義景でしたが、最後はマジギレした信長に回り込まれて逃げきれず、痛恨のいちげきを受けて滅ぼされてしまいました。
生涯を簡単に振り返る
1533年、朝倉義景は越前国・一乗谷城に守護大名である朝倉孝景の長男として生まれます。一人っ子でした。若くして当主になったので、政務は大叔父・朝倉宗滴が行いました。宗滴の死後は、従弟・景鏡たち一門衆に任せて、優雅に暮らしました。領内は平和だったので、居場所を失った明智光秀や足利義昭を保護してあげました。
足利義昭の将軍就任をきっかけに織田信長と対立するようになります。浅井長政を味方につけて金ヶ崎の戦いや姉川の戦いで抗戦し、抗争が激化すると比叡山延暦寺の協力を得て立て篭もり、志賀の陣で信長を悩ませました。その後、信長包囲網に加わったものの、消極的になってしまいました。
最後と死因
包囲網をやぶった信長に攻められ、朝倉義景は越前国・一乗谷城ちかくの賢松寺に逃げますが、信長に内通した従弟・景鏡に襲われて命運尽きました。1573年9月16日、死因は自害。41歳でした。頭蓋骨は浅井父子と共に金箔加工を施され、箔濃の盃にされました。
領地と居城

越前国に若狭国の一部を加えた50万石ほどが朝倉義景の領地でした。盟友・浅井長政の近江国北部と、宿敵・織田信長の美濃国と隣接していました。
朝倉義景の性格と人物像
朝倉義景は「大事なところで弱腰になってしまう人」です。
新将軍擁立の機会を逃すなど、先見性がなかったことが悔やまれます。優柔不断なところがあり、なにより良くなかったのが、やる気があるアピールをしていたこと。朝令暮改をくりかえすうちに家臣の気持ちが離れてしまいました。
やっと授かった子供が早死にしてしまう、大好きだった側室が死んでしまうといった気の毒なところもありますが、自暴自棄になって昼間から酒と女におぼれて政務をしないなど、残念ポイントが目立ちます。
教養があり、人柄はおだやか。行き場をなくした明智光秀や足利義昭を保護する優しさもありました。武将としてはからっきしですが、歌道、茶道、絵画などの芸事に精通しています。桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯の活動を支援するスポンサーでした。
着用する機会は少なかったようですが、義景のものと伝わる大きな耳を模したお洒落な『銀箔押二枚折紙頭立兜』が現存しています。
能力を表すとこんな感じ

あくまで維持程度ですが朝倉義景には政務能力があります。しかしながら、積極性がなく腰が重いため、多くをひと任せにしています。
信長の野望シリーズに登場する朝倉義景の能力値も参考にしています。
朝倉義景の面白い逸話やエピソード
武田信玄からメチャクチャ怒られてしまう
将軍・足利義昭の「信長を討て」という呼びかけに甲斐の虎・武田信玄が立ち上がります。信玄は、信長のまわりの勢力が協力していっせいに攻めることを提案しました。
「武田は東から織田領を攻めるので、朝倉さんは北から美濃を攻めてください」という作戦を持ちかけられます。これに対して「りょーかい!」と薄っすい返答をして出陣した義景ですが、信長から反撃をうけるとすぐに越前に帰ってしまいます。
そのあとは雪や疲労を言い訳にして、越前から出てこなくなってしまいました。
これに怒った信玄は「おい!朝倉!おい!」と何度も催促しますが、音信不通となった義景は返答せず。石山本願寺の顕如が「朝倉はん!」と呼びかけますが、これも無視。
結局、陣中で持病が悪化した武田信玄が病死してしまい、信長を討つ絶好の機会をなくしてしまいました。
朝倉義景の有名な戦い
越前の朝倉義景を攻めていた織田信長を朝倉軍と浅井軍が金ヶ崎(福井県敦賀市金ヶ崎町)で挟み撃ちにした戦い。浅井長政の裏切りによって、織田軍は撤退を余儀なくされる。木下秀吉が、客将として参戦していた明智光秀ととも撤退戦の殿を担い、信長を無事に逃げさせた。
金ヶ崎の戦いで朝倉義景は勝っています。
朝倉義景のターニングポイントになった戦いです。
金ヶ崎城を落とされましたが、信長の義弟・浅井長政を味方につけて逆転勝利します。が、この勝利が破滅への入り口となりました。
浅井&朝倉軍と、織田信長の援軍で参陣した徳川家康が姉川(滋賀県長浜市野村町)で激突した合戦。本多忠勝が一騎討ちで真柄直隆と渡り合うなど、徳川軍の活躍が目覚ましく、榊原康政の突撃で朝倉軍は敗走。激戦で姉川は血に染まり、血原や血川橋という地名を残した。
姉川の戦いで朝倉義景は敗れています。
この合戦に義景は参加していません。朝倉景健を大将とした朝倉軍は徳川軍に敗れました。
信長が摂津国に出陣している隙に、浅井長政が近江国の織田領に侵攻。朝倉義景とともに1千ほどの城兵が守る宇佐山城(滋賀県大津市)を攻め、森長可らを討ち取る。摂津から織田信長が引き返してきたことを知った浅井&朝倉軍は比叡山に匿われ、以後は包囲戦が続いた。
志賀の陣で朝倉義景は引き分けています。
畿内で信長と争う三好氏に便乗して、浅井長政とともに織田軍の背後をねらいました。織田領を荒らしたのち、信長の反撃を受ける前に比叡山に入りました。
織田軍に包囲された浅井長政を救援すべく朝倉義景は出陣した。しかし、浅井氏の劣勢をみて撤退を開始する。義景の撤退を予測していた織田信長は、猛追撃して朝倉軍を壊滅させた。一乗谷城(福井県福井市城戸ノ内町)は陥落し、朝倉氏は滅亡した。刀根坂の戦いとも。
一乗谷城の戦いで朝倉義景は敗れています。
浅井氏の救援に向かうものの、これを断念して帰ろうとしたところを追撃されて壊滅しました。あまりにも突然で、あっけない最後でした。義景が自害したあと、浅井長政も織田信長に攻め滅ぼされました。
朝倉義景の詳しい年表・出来事
朝倉義景は西暦1533年〜1573年(天文2年〜天正元年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1533 | 1 | 朝倉孝景の嫡男として越前国に生まれる。幼名:長夜叉 |
1548 | 16 | 父・朝倉孝景の死去により家督を相続。 元服 → 朝倉(孫次郎)延景 |
1552 | 20 | 改名 → 朝倉義景 |
1555 | 23 | 政務ならびに軍事補佐をしていた大叔父・朝倉宗滴が死去。 |
1556 | 24 | 美濃国から逃れてきた明智光秀を客将として迎える。 |
1563 | 31 | 若狭守護・武田義統に叛いた粟屋勝久を攻める。 |
1566 | 34 | 足利義秋(義昭)が越前国に逃れてくる。これを歓迎する。 |
1567 | 35 | *加賀国の一向一揆と共謀した堀江景忠が叛く。山崎吉家と魚住景固に鎮圧させる。 |
1568 | 36 | 足利義昭に上洛の手助けを頼まれるが断る。 嫡男・阿君丸が急死。 足利義昭、明智光秀が織田信長を頼って美濃国に移る。 若狭国で内紛に乗じて守護職・武田元明を連れ去る。若狭国の一部を支配する。 朝倉景健や朝倉景鏡に政務と軍事を任せるようになる。 織田信長が足利義昭を奉じて上洛。信長から京に出向くよう命じられるが拒否する。 |
1570 | 38 | ”金ヶ崎の戦い”織田信長に天筒山城、金ヶ崎城を攻め落とされる。浅井氏に援軍を要請して織田軍を挟撃し、敗走させる。 ”姉川の戦い”*浅井氏と協力して織田氏&徳川氏の連合軍と決戦をする。朝倉景健を派遣するが徳川家康に敗れる。 ”宇佐山城の戦い”*浅井氏、六角氏と協力して朝倉景鏡に織田領・近江国を攻めさせる。織田信治と森可成を討ち取る。【第1次信長包囲網】 ”志賀の陣”比叡山延暦寺に浅井氏と庇護を受けて織田信長に抵抗する。織田氏からの講和の申し出を無視する。 正親町天皇の勅命により織田信長と和睦する。 |
1571 | 39 | 石山本願寺の顕如の子・教如と娘(四葩)を婚約させて一向宗と和睦する。 浅井氏と協力して織田領・横山城と箕浦城を攻めるが、敗れる。 |
1572 | 40 | 織田信長に包囲された浅井領・小谷城の救援に向かう。前波吉継と富田長繁が寝返り、撃退される。 織田信長から決戦の申し入れがあるが無視する。 武田信玄が織田領に侵攻する。織田領・近江国への出兵要請を受ける。【第2次信長包囲網】 浅井氏と協力して織田領・虎御前山砦を攻めるが、木下秀吉に敗れる。 |
1573 | 41 | 武田信玄と石山本願寺の顕如から信長討伐の出兵を要請されるが、兵を出さない。 将軍・足利義昭が信長打倒の挙兵をするが敗れて京を追放される。【室町幕府の滅亡】 織田信長に浅井領・小谷城が再び包囲される。朝倉景鏡と魚住景固に出陣を拒否されて自ら救援に向かうが、大嶽砦と丁野山砦が織田信長に落とされる。一乗谷城に退却するが、猛追撃を受ける。 ”一乗谷城の戦い”織田信長に越前国・刀根坂で敗れる。逃れるが、従弟・朝倉景鏡に裏切られて自害。朝倉家滅亡 |

- 朝倉義景 – Wikipedia
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