立花道雪
1513.4.22 〜 1585.11.2

立花道雪(戸次鑑連、親廉、親守)は現在の大分県にあたる豊後国の武将です。大友氏の最盛期を牽引した軍事参謀で、戦いでは負け無し。軍神や雷神と畏怖されました。折に触れて主君・大友宗麟をよく諌め、一緒に出家して道雪を名乗ります。立花山城の城督となったことから立花姓で知られています。享年73。
- 立花道雪の武将タイプ
- 参謀
立花道雪は何をした人?このページは、立花道雪のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと立花道雪が好きになる「雷をも切った不敗の名将が宗麟を叱りつけて盛り立てた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:戸次親守 → 戸次親廉 → 戸次鑑連 → 戸次道雪 → 立花道雪
- 幼 名:八幡丸
- 別 名:孫次郎、左衛門大夫、紀伊入道、丹後入道、摂津入道
- あだ名:鬼道雪、雷神、九州の軍神、弓矢八幡、摩利支天の化身
- 官 位:左衛門大夫、紀伊守、伯耆守、丹後守
- 幕 府:筑後守護代、筑前守護代
- 出身地:豊後国(大分県)
- 居 城:立花山城
- 正 室:白山院(入田親誠の娘)、浦辺衆田原氏の女、宝樹院(問註所鑑豊の娘)
- 子ども:3女 10養
- 跡継ぎ:立花宗茂
- 父と母:戸次親家 / 正光院、養孝院
- 大 名:大友義鑑 → 大友宗麟
雷をも切った不敗の名将が宗麟を叱りつけて盛り立てた
『雷神』『鬼道雪』の異名で畏怖された立花道雪は、大友氏の隆盛をリードしたおっかないおじさんです。ギョロッと目をむいた恐ろしい肖像画は、子どもが見たら泣くレベルです。
キリシタン大名で知られる大友宗麟を支えた『豊州三老』のひとりである立花道雪は、大戦37回、小戦100回あまりを戦い、総大将をつとめた戦いでは常勝不敗でした。
立花道雪の圧倒的な軍事センスは近隣諸国にも知れ渡り、敵国である毛利氏の軍記物『陰徳太平記』にも「いかなる状況でも臨機応変に対処できる屈指の名将」と記されるほどでした。
立花道雪が雷神と呼ばれたのは、神がかった采配で戦いに勝つというだけでなく、背景には驚くべき出来事がありました。
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雷にうたれるが
刀で雷を斬った
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1548年の暑い日、立花道雪が木陰で休んでいると、とつぜん夕立にあいました。激しい雨が降り、ゴロゴロと不穏な雷雲が立ちこめます。
ビカッと空が明かるくなった次の瞬間、立花道雪が休んでいた木に向かって稲妻の閃光が走りました。立花道雪はおもむろに抜刀し、落雷を刀で一閃しました。
大友氏の盛衰が記録されている『大友興廃記』には、この出来事が原因で立花道雪が下半身不随になった書かれており、実際にあった出来事だったということがわかります。

下半身が不自由になっても立花道雪は輿に乗って指揮し、輿のふちをバンバン叩きながら「えいとう!えいとう!」と音頭をとって突撃しました。輿の上から敵を討ち取ることも珍しくありませんでした。
それにしても、雷を斬るとは物理的に無理があるように思いますが、とにかく斬ったのです。雷を。
このとき立花道雪が携えていた刀は「千鳥」といいましたが、雷を斬った記念に「雷切」に改名しました。
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道雪という
名前の意味
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立花道雪が名乗った『麟伯軒道雪』という法号には「道にある雪は消えるまでそこにある」として「武士も一度主君を得たなら、死ぬまで尽くし抜くのが本懐である」という意味が込められています。
1562年に主君である大友宗麟が、毛利元就との抗争に疲弊&嫁との不仲をきっかけに出家します。このとき立花道雪も主君に付き合って出家しました。
出家とは、世俗を捨てて仏教の修行の道へ入ること。
主君・大友宗麟をひとりで旅立たせず、自分も供をしようという立花道雪の思いのこもった法号だったのです。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1513年、立花道雪は豊後国・大野郡に戸次親家の次男として生まれます。幼いころに兄と母を亡くし、病弱だった父に代わって参戦した初陣で敵将を捕縛し、勇名を知られます。大友氏のお家騒動、二階崩れの変では宗麟を推して当主につかせ、対立した者たちを追い討ちにしました。
立花山城の城督になる
反大友派による相次ぐ内乱をおさめつつ、毛利氏との抗争でも前線で戦います。主君・大友宗麟といっしょに出家し、道雪を名乗るようになりました。毛利氏に調略された立花鑑載をやっつけて、立花山城の城督となったことで立花姓を継ぎます。
最後と死因
筑後と筑前守護代を兼任し、反大友派の対応に追われます。娘婿に家督をゆずり、反大友派や龍造寺氏との闘争に専念しますが、柳川城を攻める高良山の陣中で発病し、立花道雪は亡くなりました。1585年11月2日、死因は病気。73歳でした。
領地と居城

筑前国・立花山4万石が立花道雪の領地でした。巨大な山城を重要拠点とし、戦いで荒れた土地を整備して統治しました。
立花道雪の性格と人物像
立花道雪は「本当は優しいカミナリおやじ」です。
たとえ相手が主君でも容赦なく叱りつけるゴリゴリの頑固者で、間違ったことを許しません。遠征中の陣地を離れて年越しを家族で過ごそうとした者を軍律違反で家族もろとも追い討ちにしてしまいます。
一方では、武功のない武士であっても、自分の部下にしたら必ず手柄をたてられる優れ者にしてやろうと心がける面倒見の良い上司でもあります。
厳しさのなかにも温かみのある人柄は他家の武将をも魅了し、道雪と戦っていた龍造寺隆信や鍋島直茂も道雪の死を知って涙したといいます。
武田信玄から一方的に尊敬されていて、ぜひとも一度会ってみたいと熱望されていました。
死んだら鎧を着せて柳川攻めの陣中に埋めろと遺言しています。さすがに遺骸は立花山城に運ぶことになり、途中で敵に発見されますが、道雪の棺と知ると追ってきませんでした。
絵が得意で、菅原道真を描いて家臣に贈ったものが残っています。花が趣味で「秘蔵の種を植えておいて」と陣中から手紙で頼んだことも。
下半身付随だったとされ、左足に歩行障害がありました。晩年は6人かつぎの輿に乗って戦っていました。輿には2尺7寸(82cm)の刀と鉄砲を搭載しています。
昼寝をしていて落雷にあったおり、雷を斬ったと伝わる名刀『雷切』は現存しています。
立花姓は名乗っておらず、本名は戸次道雪のままでした。
能力を表すとこんな感じ

立花道雪は数々の戦いで際立った統率力を発揮しています。冷静な考察力と、奮い立たせる闘争心はピカイチで、戦国史でも屈指のキャラクターです。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する立花道雪の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
立花道雪の面白い逸話やエピソード
主君・大友宗麟を行き過ぎなほど懲らしめてしまう
立花道雪の主君で大友家の当主である大友宗麟は、不真面目で遊び好きの困ったちゃんでした。これを道雪は幾度 となく嗜めます。
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女遊びで
宗麟を釣る
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あるとき、領内の政治もわすれて大友宗麟は昼間から酒と女遊びに興じていました。立花道雪は説教をしましたが逆効果で、そのうちに宗麟は道雪に会うのを嫌うようになりました。
そこで道雪は、京からべっぴんさんの踊り子をわんさと自宅へ呼び、朝な夕な、どんちゃん騒ぎをして過ごします。
連日、道雪の家から賑やかな歌や踊りの声が聞こえると噂され、舞い踊っているのは京の美人ばかりと評判になりました。
これを聞いた大友宗麟は「あの堅物の道雪が……!?」と驚きながらも、京の踊り子への興味を抑えられず、道雪の屋敷の様子を見に来ました。
すかさず道雪は宗麟をつかまえて「主人の評判が悪くなるのを放っておけない」と、一晩中とくとくと説教をしました。道雪の言葉に宗麟も襟を正して反省しました。
ちなみに、このときの道雪の屋敷での踊りが、大分県大分市龍崎の盆踊り『龍崎踊り』として伝わっています。
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宗麟のペットを
叩き殺してしまう
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大きくて凶暴な猿を飼っていた宗麟。宗麟に用があって来た家臣に大猿が飛びかかり、皆はウンザリ。その様子をみて、大友宗麟は楽しそうにしていました。
これを聞いた道雪が宗麟のもとに出向くと、案の定、大猿を飛びつかせました。道雪は、大猿の頭に鉄扇でバーンと一撃。叩き殺してしまいました。
おどろく宗麟に「人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」と説教して、大いに反省させました。(超訳:そんなことじゃリーダーとしての信頼をなくすぞ)
愛娘の誾千代を女城主にした
立花道雪には男子がいませんでした。すでに高齢だった道雪は、娘の誾千代を女武将として教育し、7歳のときに立花山城の城督にします。
とりあえずではなく、男子が家督を相続するのと同じ段取りで、正式に立花家の後継者としました。これはとても珍しいことでした。
誾千代が13歳のとき、同じ大友家臣の高橋紹運の長男を婿養子として迎え、立花姓を継がせました。
道雪が厳しく教育した婿養子はたくましく育ち、九州最強の武将と呼ばれる立花宗茂が爆誕しました。
立花家は大友氏の重臣でありましたが、2回も大友宗麟を裏切っていたため、じつは道雪が立花を名乗ることを嫌った宗麟の命令で娘に家督を継がせた説があります。
立花道雪の有名な戦い
門司城(福岡県北九州市門司区)をめぐって5回も争われた合戦。大内氏を攻め滅ぼした毛利元就との協議の末、豊前国を領地とした大友義鎮だったが、毛利氏の条約違反により敵対する。小早川隆景を中心とした毛利水軍が攻勢を強めた第3次合戦が大規模な戦いとなった。
門司城の戦いで立花道雪は敗れています。
立花道雪のターニングポイントになった戦いです。
道雪は「参らせ戸次伯耆守」と書いた矢の雨を降らせて毛利陣営をビビらせます。毛利氏から門司城を奪還できず、大友氏は敗れますが、道雪が戦う局面では負けていませんでした。
反大友氏の色合いを強める秋月種実が反乱を起こす。これを鎮圧すべく戸次鑑連が率いる2万の大友軍が休松城(福岡県朝倉市)を攻めるも難航し、毛利氏の侵攻を警戒してやむなく撤退。秋月勢は風雨のなか吉弘鑑理らの陣へ夜襲をかけ、混乱した大友勢は大打撃を受けた。
休松の戦いで立花道雪は敗れています。
大友軍は敗れましたが、秋月軍の夜襲を察知していた道雪は策をもって敵兵を惑わせ、自ら槍を手に敵陣を撹乱し、味方の撤退を助けました。
生松原(福岡県福岡市西区)周辺で、大友宗麟の兵と反大友派の原田隆種が繰り返し争った合戦。柑子岳城をめぐる攻防で戦線を拡大した原田方が形勢を崩し、戸次道雪がこれを追撃して大打撃を与えた。その後の第2次・第3次合戦では、城を攻める原田方が優勢となった。
生松原合戦で立花道雪は引き分けています。
道雪が指揮した第1次合戦では、原田隆種・親種父子を一掃して勝利しています。
第2次、第3次合戦には参戦していません。
立花山城の奪還を目指す大友宗麟と、これを防衛する毛利元就の軍勢が多々良浜(福岡県福岡市東区多々良)周辺で18回も小競り合いした合戦。小早川隆景が守る多々良川の防衛線を戸次道雪が撃破し、対陣が続くなか、尼子再興派に領国を脅かされた毛利軍が撤退した。
多々良浜の戦いで立花道雪は勝っています。
800挺の鉄砲隊を二手に分け、自身が考案した『早込』という二段撃ちを実践します。『長尾懸かり』と呼ばれる戦法で小早川隆景の陣を崩しました。
肥前で勢いを増す龍造寺隆信を大友氏が攻めた合戦。大友軍は村中城(佐賀県佐賀市)を包囲するが攻めあぐねて4か月が経過。大友宗麟は弟・親貞に総攻撃を命じる。決戦前に酒宴をしていた大友陣営に鍋島信生が夜襲をかけて大友親貞を討ち取り、龍造寺軍が勝利した。
今山の戦いで立花道雪は敗れています。
正式な記録として輿に乗って戦う道雪の様子が、緒戦の巨勢・若宮の戦いに書かれています。
立花道雪の詳しい年表と出来事
立花道雪は西暦1513年〜1585年(永正10年〜天正13年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1513 | 1 | 戸次親家の次男として豊後国に生まれる。幼名:八幡丸 |
1526 | 14 | 初陣。大内領・馬岳城を攻める。父の名代として2千の兵を率い、敵将を捕縛して勝利する。 元服 → 戸次親守 父・戸次親家の死去により家督を相続。 |
1535 | 23 | ”車返しの戦い”菊池義武が大友氏に叛く。鎮圧する。 |
1546 | 34 | 秋月文種が大友氏に叛く。佐伯惟教、臼杵鑑速らと古処山城に向かい鎮圧する。 |
1548 | 36 | 夕立で落雷に遭う。 |
1550 | 38 | 大友氏の嫡男・義鎮が廃嫡を共謀され後継者問題が起こる。大友義鎮(宗麟)を支持する。 主君・大友義鑑が死亡。【二階崩れの変】 大友義鎮を当主に擁立する。 大友義鎮から敵対した家臣の追討を任じられて津賀牟礼城を攻め落とす。逃亡した入田親誠を討伐。菊池義武の隈元城を攻め落とし敗走させる。 |
1553 | 41 | 異母弟・戸次鑑方の長男・戸次鎮連を養子にして家督を相続させる。 |
1554 | 42 | 大友義鎮に命じられて護送中の菊池義武を自害させる。 |
1556 | 44 | 小原鑑元、本庄統綱、中村長重、賀来惟重らが大友氏に叛く。鎮圧に向かい豊後国で討伐する。【姓氏対立事件】 |
1557 | 45 | 臼杵鑑速と秋月文種を討伐する。秋月家滅亡 臼杵鑑速と筑紫惟門を討伐に向かう。筑紫惟門を逃亡させる。 大友義鎮の命令で旧・大内領の接収をする。 |
1558 | 46 | ”第1次門司城の戦い”毛利元就との戦に参加。臼杵鑑速、田原親宏らと門司城を奪還する。 |
1560 | 48 | 戸次鑑載、奴留湯融泉らと宗像領を攻める。 |
1561 | 49 | 筑後守護代に就任。 田原親賢、田北鑑生、田北紹鉄と香春岳城を奪還する。 ”第4次門司城の戦い”毛利元就との戦に参加。吉岡長増、臼杵鑑速らと門司城を包囲する。 |
1562 | 50 | 大友義鎮の命令で吉弘鑑理らと豊前国に派遣される。 ”第5次門司城の戦い”毛利元就との戦に参加。吉弘鑑理(高橋紹運)らと門司城を攻める。 毛利領・松山城を攻める。 将軍・足利義輝から大友氏と毛利氏の休戦を求める御内書が届く。主君・大友義鎮に進言する。 出家 → 戸次(麟伯軒)道雪 |
1564 | 52 | 筑後国・下田城攻めに参加。 |
1565 | 53 | 吉弘鑑理と立花鑑載の討伐に向かう。立花山城を攻めて立花鑑載を降伏させる。 |
1567 | 55 | ”宝満城・九嶺の戦い”臼杵鑑速と高橋鑑種の討伐に向かう。宝満城を攻め落とす。 ”休松の戦い”秋月再興派の鎮圧戦に参加。激しい抵抗に遭うが古処山城まで進軍し味方の撤退を指揮する。 |
1568 | 56 | 立花鑑載が再び大友氏に叛く。吉弘鑑理と討伐に向かう。野田右衛門太夫を調略し立花山城を陥落させる。 ”宇美河内の戦い”吉弘鑑理と高橋鑑種を攻めて一掃する。 ”第1次生松原合戦”原田隆種・親種父子を一掃する。 問註所鑑豊の娘(宝樹院)と結婚。 |
1569 | 57 | 龍造寺領・肥前国攻めに参加。五箇山城、勢福寺城を攻略する。 大友宗麟に交戦中の龍造寺隆信との講和を提言する。 ”多々良浜の戦い”毛利氏との戦に参加。小早川隆景を撃破。 |
1570 | 58 | 龍造寺領・肥前国攻めに参加。 ”今山の戦い”龍造寺氏との戦に参加。 |
1571 | 59 | 豊後国・立花山城に入る。 筑前守護代に就任。 改名 → 立花道雪 |
1575 | 63 | 娘・誾千代に家督を譲る。 |
1578 | 66 | ”柴田川の合戦”反大友派と交戦。 |
1579 | 67 | ”第1次吉川の戦い”反大友派と交戦。 ”第2次生松原合戦”反大友派と交戦。 ”第3次生松原合戦”反大友派と交戦。 ”吉木の戦い”反大友派と交戦。 ”第4次生松原合戦”反大友派と交戦。 |
1580 | 68 | ”第2次吉川の戦い”反大友派と交戦。 ”第1次太宰府観世音寺の戦い”反大友派と交戦。 ”宗像合戦”反大友派と交戦。 秋月種実が豊前国・猪膝に侵攻してくる。これを退ける。 |
1581 | 69 | ”第2次太宰府観世音寺の戦い”反大友派と交戦。 高橋紹運の長男・高橋統虎を誾千代の婿養子にして家督を相続させる。 |
1582 | 70 | ”第5次生松原合戦”反大友派と交戦。 ”岩戸の戦い”反大友派と交戦。 |
1583 | 71 | ”吉原口防戦”反大友派と交戦。 宗像氏貞が篭もる許斐山城を攻略。 |
1584 | 72 | 龍造寺領・筑後国を攻める。反大友派を撃退、高牟礼城を降伏させる。 |
1585 | 73 | 龍造寺領・柳川城を攻める。 筑後国・高良山の陣中で病死。 |
