大友宗麟
1530.1.31 〜 1587.6.28

大友宗麟(義鎮)は、現在の大分県にあたる豊後国の武将・大名です。南蛮貿易を背景に一大勢力を築き『豊後の王』と称されました。大内氏を吸収し、中国地方の毛利氏と争いますが、島津氏の台頭で権威を失います。フランシスコ=ザビエルとの親交を通じてキリスト教に傾倒。神の国の創設を夢見ました。享年58。
- 大友宗麟の武将タイプ
- 信仰
大友宗麟は何をした人?このページは、大友宗麟のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと大友宗麟が好きになる「キリシタンの情熱が抑えられず神の国を作ろうとした」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:大友義鎮 → 大友宗麟
- 幼 名:塩法師丸
- あだ名:豊後の王、九州の王
- 官 位:正四位下、左近衞少将、左衛門督
- 幕 府:筑前守護、筑後守護、豊前守護、豊後守護、肥前守護、肥後守護、九州探題
- 戦 績:25戦 14勝 9敗 2分
- 出身地:豊後国(大分県)
- 領 地:筑前国、筑後国、豊前国、豊後国、肥前国、肥後国
- 居 城:大友館 → 丹生島城
- 正 室:宝岸寺殿(一色義清の娘)、奈多夫人(奈多鑑基)
- 子ども:3男 8女
- 跡継ぎ:大友義統
- 父と母:大友義鑑 / 坊城氏
- 大 名:大友氏21代当主
キリシタンの情熱が抑えられず神の国を作ろうとした
大友宗麟といえば、多くの人が ”キリシタン大名” を連想するのではないでしょうか?
ところが、彼もはじめからキリスト教徒だったわけではなく、もとは他の武将たちと同じように仏教徒でした。「宗麟」という名も仏門に入った際の戒名です。
1549年にイエズス会の宣教師・フランシスコ=ザビエルが日本に渡来し、九州地方でキリスト教の布教活動を開始しました。この出来事をきっかけに、日本と西洋に交流が生まれます。
九州の有力大名であった大友宗麟は、西洋の文化や技術に着目し、利用できると考えました。
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どうしてキリスト教に
夢中になったのか
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1551年に大友宗麟はフランシスコ=ザビエルと会います。
イエズス会に仲介してもらって、西洋との貿易『南蛮貿易』で儲けようと思ったのです。同じころにポルトガルから伝来した鉄砲にも興味がありました。
南蛮貿易にひと肌ぬいでもらう代わりに、大友宗麟もキリスト教の布教活動に協力します。ザビエルが連れてきた宣教師たちを歓迎しました。
その後、ザビエルはインドへ旅立ちましたが、大友宗麟と宣教師たちはWinWinの関係を築きます。

はじめは見識を広めることや貿易で利益を得ることが目的だった大友宗麟も、宣教師に会うたびにキリストの教えに触れ、信仰への気持ちが日増しに強くなっていったのです。
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宗麟から
ドン=フランシスコへ
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禅宗を信心していた大友宗麟は、毛利元就との泥試合に落ち着きが見えた1562年に出家。これまでの義鎮という名を改め、大友宗麟を号するようになります。
しかし、このころの彼はすでにキリスト教に魅了されており、仏教徒でありながら心はキリシタンというダブルスタンダード信仰。
やがて、キリスト教への情熱は抑られなくなっていました。
仏門に入った手前、自身がキリスト教に入信するわけにもいかない大友宗麟は、息子や家臣に対して熱心に布教活動を行います。殿さまのこの活動は、家臣たちに大きな動揺を与えました。
異教を崇拝する大友宗麟の振る舞いは、正室との離婚騒動にも発展。彼は「妻か?キリストか?」という選択で、キリストを選びました。
開き直った大友宗麟は、1578年に堂々のキリシタン宣言。名をドン=フランシスコに改め、領内政治もそっちのけでキリスト教のための活動に専念します。
ザビエルとの出会いから27年後、ようやく本当の自分になれたのです。
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仏にグッバイ!
レッツゴー神の国
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一方、九州地方では薩摩国の島津四兄弟が台頭し、風雲急を告げていました。快進撃で九州を席巻する島津氏によって、日向国を追われた伊東義祐が大友宗麟のもとに逃げてきます。
これは良い機会。
大友宗麟は日向国の半分をもらい受けることを条件に伊東義祐を助けます。島津氏を追っ払って、そこに兄弟愛に満ちた神の国、キリシタンの国をつくろうと決めたのです。
さっそく大友宗麟は赤い十字の軍旗を掲げて出立します。
「イエス様がついている!進め!」と前線に伝え、自身は後方で神社や仏閣を破壊しながら日向国を侵攻しました。
キリシタン王国に仏像は不要。
あたらしい家に引っ越しするような気持ちだったのでしょう。仏教徒だったとは思えない所業で仏の痕跡を消していきます。
しかし、家臣の多くはいまだ仏教徒です。
イエス様がついていると言われてもピンとこないばかりか、殿さまが仏像を壊しながら進んでいると聞いた家臣たちは「仏の罰が当たるのでは……」と不安になりました。戦えるメンタリティではありません。
足並みが揃わず困惑したままの大友軍は、1578年の耳川の戦いで島津軍に惨敗。その後、異教に熱を上げる殿さまについていけない家臣が相次いで離れていってしてしまい、大友氏は急速に衰退します。
御仏の罰かわかりませんが、大友宗麟が夢見た神の国計画は叶いませんでした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1530年、大友宗麟は豊後国・府内の大友館に守護大名である大友義鑑の長男として生まれます。三男に家督を譲ろうとする父と家臣団が分裂し、二階崩れの変で父と弟が殺害されて家督を継ぎました。大内氏の混乱から弟・義長が継いだ大内氏を傘下にし、北九州を制します。門司城をめぐって毛利元就と何度も争いました。
キリシタンとして覚醒
出家して宗麟を号しますが、宣教師を通じて南蛮貿易をするうちにキリスト教に夢中になり、正室・奈多夫人との宗教対立を経てキリシタンに転身。島津氏に追われた伊東義祐を助ける名目で日向国へ攻めこみ、キリシタン王国の創設を目指します。
最後と死因
耳川での大敗がきっかけで国人衆の離反が相次ぎ、島津氏の信仰を防ぎきれません。豊臣氏に降ることで保身し、援軍を得て対抗しました。島津義久が豊臣秀吉に降伏する直前、大友宗麟は豊後国・津久見で亡くなりました。1587年6月28日、死因は病気。58歳でした。細菌感染症のチフスが有力とされています。
領地と居城

豊前国、豊後国、筑前国、筑後国、これに肥後国と肥前国の一部をあわせた130万石ほどが大友宗麟の領地でした。これに加えて南蛮貿易で得た財があり、屈指の強国を築いています。
大友宗麟の性格と人物像
大友宗麟は「欲望に忠実で自己中心的な人」です。
瑞峯休庵宗麟を号した仏教徒から改宗し、キリスト教の洗礼名はドン=フランシスコ。
熱心なのは結構ですが、異教に心酔するあまり、身内や家臣にもキリスト教をすすめて仏教徒である者たちに動揺や混乱を与えてしまいました。
女性にだらしなく、身内や家臣の妻にも手を出しています。気に入った女性を手に入れるために夫である家臣に罪をきせて殺してしまう非道っぷり。あまりの女癖の悪さにキレた正室・奈多夫人が、僧侶や山伏を使って宗麟に呪いをかけてしまうほど。
子どものころから乱暴だったため、父から廃嫡(家を継がせない)されそうになり、家中を分裂させています。大人になっても家臣に対して粗暴で、理不尽な行動も目立ちました。
文化的教養に優れ、書画、茶道、能、蹴鞠を好みました。狩野永徳を招いて障壁画を描かせたり、蹴鞠は宗家である飛鳥井雅綱に教わるなど熱心です。
宗麟の蹴鞠好きは有名で、足利義輝から蹴鞠用の服をプレゼントされています。
書画や茶器の収集が趣味。大友宗麟が所有していた『新田方衝』は天下三肩衝のひとつとされ、今も現存しています。多趣味の収集癖は財政を圧迫してしまうほどでした。
足利将軍家から使用を許可されたという甲冑『白檀塗浅葱縅腹巻』も現物が残っています。
能力を表すとこんな感じ

大友宗麟は、南蛮貿易などの富国策に手腕を発揮しています。財力で幕府に影響力を発揮したり、他勢力を利用して領国を守るなど、したたかです。しかしながら求心力がなく、相次ぐ裏切りに悩まされています。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する大友宗麟の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
大友宗麟の面白い逸話やエピソード
奈多夫人と宗教対立してしまう
大友宗麟の正室・奈多夫人は奈多八幡宮の娘。異教には理解を示さず、夫が宣教師と仲良くするのを快く思っていませんでした。このような妻の感情に宗麟も気づいており、自身が洗礼を受けることは控えていました。
とはいえ、信仰への情熱を抑えることができない宗麟は、夫人に断りなく次男・親家を入信させてしまいます。
これと同じころ、娘に仕えるキリシタンの少年が、お寺から護符をもらってくる役目を拒否するといった問題が起こり、夫人は前にも増してキリスト教が大っ嫌いになります。
奈多夫人がこの少年を死罪にしようとする騒ぎになりますが、宗麟がこれをかばって収めました。
しばらくして、今度は夫人の縁者である田原親虎が入信。夫人はこれを許さず軟禁します。すると、次男・親家が親虎を励まし、かえって信仰心が強まってしまいました。
奈多夫人は息子である親家を「神仏の敵め!」と罵り、力づくでキリスト教を追い出すことを決意。兵を差し向けて教会を破壊します。
夫人の行動に宗麟もプッツン。夫人と一方的に離婚し、あてつけのように夫人の侍女を妻にしました。
信仰する神が異なることですれ違いになった夫婦は、最終的に軍隊が出動する夫婦げんかをし、夫が新しい嫁を迎えて終結します。
ふっきれた宗麟はこのタイミングでキリシタンを宣言しました。
日本で初めて大砲をぶっ放した人
大友宗麟は、南蛮貿易を通じて日本では手に入らない武器を買いつけていました。その中に、ポルトガルから購入した大筒(大砲)がありました。城ごとふっ飛ばせそうな破壊力を持つ大砲を宗麟は気に入り『国崩し』と名付けます。
宗麟はこの国崩しを府内で量産できるようにし、島津氏との戦いで実戦投入しました。織田信長が鉄砲隊を組織したのとほぼ同時期に、大友宗麟はすでに大砲を戦場に持ちこんでいました。
大友宗麟の有名な戦い
門司城(福岡県北九州市門司区)をめぐって5回も争われた合戦。大内氏を攻め滅ぼした毛利元就との協議の末、豊前国を領地とした大友義鎮だったが、毛利氏の条約違反により敵対する。小早川隆景を中心とした毛利水軍が攻勢を強めた第3次合戦が大規模な戦いとなった。
門司城の戦いで大友宗麟は敗れています。
門司城を手に入れたい毛利元就に何度も欺かれ、しつこく攻められています。立花道雪や高橋紹運らに命じて奪い合いを繰り返しますが、シーソーゲームを制することができず、最終的に毛利氏に門司城を奪われました。
肥前で勢いを増す龍造寺隆信を大友氏が攻めた合戦。大友軍は村中城(佐賀県佐賀市)を包囲するが攻めあぐねて4か月が経過。大友宗麟は弟・親貞に総攻撃を命じる。決戦前に酒宴をしていた大友陣営に鍋島信生が夜襲をかけて大友親貞を討ち取り、龍造寺軍が勝利した。
今山の戦いで大友宗麟は敗れています。
肥前国を席巻する龍造寺氏を叩きに向かったものの戦況が振るわず。弟・大友親貞に発破をかけますが、龍造寺隆信の奇襲を受けて惨敗しました。
日向国を制圧した島津氏に対して、大友宗麟が進軍。大筒を投入し、耳川ちかくの高城(宮崎県児湯郡木城町)を積極的に攻めた合戦。島津義久は伏兵を配備して迎撃する。島津義弘と、高城から出撃した島津家久が伏兵によって大友軍を一網打尽にした。高城川の戦いとも。
耳川の戦いで大友宗麟は敗れています。
大友宗麟のターニングポイントになった戦いです。
意気揚々と進軍した宗麟でしたが、大雨に油断して島津軍の動きを察知できませんでした。急いで撤退をしますが、耳川で溺死する兵も出て大惨敗を喫しました。大友家の命運が一気に暗転した出来事です。
惣無事令に違反して大友領を攻めた島津氏の討伐軍を豊臣秀吉が派兵した。毛利輝元を先導役とした豊臣軍は門司城(福岡県北九州市門司区)に着陣。島津義久が抗戦の姿勢を見せ、秋月種実に迎撃させたことで戦いが始まり、大友領をめぐって雌雄を決することとなる。九州の役とも。
九州征伐で大友宗麟は勝っています。
攻勢を強める島津氏に追い詰められて苦境に立たされますが、豊臣秀吉の救援を得たことで事態は好転します。このタイミングで、大友氏は秀吉の傘下に加わりました。
豊後国に侵攻した島津家久が大友氏の鶴ヶ城を攻める。これを救援するため、仙石秀久を主将とした豊臣軍が戸次川(大分県大分市中戸次)に布陣。秀吉は待機するよう命じたが、仙石隊は攻撃を開始してしまう。島津軍はこれを返り討ちにし、長宗我部信親を討ち取った。
戸次川の戦いで大友宗麟は敗れています。
宗麟は出陣しませんでしたが、長男・義統が豊臣軍に随行しています。この敗戦で、大友領が島津氏に侵略されてしまいました。
戸次川の戦いに勝利して勢いに乗る島津家久が大友氏の居城・丹生島城(大分県臼杵市)を攻めた合戦。干潮時でないと渡れない中洲のような丹生島にある城に島津軍は攻め手を欠く。大友宗麟は「国崩し」と名付けた大筒で反撃し、これを追い払った。
丹生島城の戦いで大友宗麟は勝っています。
ついに島津氏の兵が大友宗麟の居城に迫った ”絶対に負けられない戦い” でした。最晩年を迎えていた宗麟も気概を持って戦い、フランキ砲をぶっ放してなんとか追い払いました。
大友宗麟の詳しい年表と出来事
大友宗麟は西暦1530年〜1587年(享禄3年〜天正15年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1530 | 1 | 大友義鑑の嫡男として豊後国に生まれる。幼名:塩法師丸 |
1540 | 11 | 元服 → 大友義鎮 |
1544 | 15 | 長弟・塩乙丸(晴英=大内義長)が大内氏の猶子になる。 |
1550 | 21 | 次弟・塩市丸に家督を継がせようとする父・義鑑と一部の家臣に廃嫡を共謀される。 父・大友義鑑と次弟・塩市丸が重臣・田口鑑親らに襲撃され死亡。【二階崩れの変】 家督を相続。 戸次鑑連(立花道雪)に敵対した家臣の追討を命じる。 *戸次鑑連が津賀牟礼城を攻め落とす。逃亡した入田親誠を討伐。隈元城を攻め落として叔父・菊池義武を追放する。 一色義清の娘(宝岸寺殿)と離婚。 奈多鑑基の娘(奈多夫人)と結婚。 |
1551 | 22 | 宣教師・フランシスコ=ザビエルに会う。キリスト教の布教活動を保護する。 |
1552 | 23 | 長弟・大内晴英(義長)が大内家臣・陶隆房(晴賢)によって大内氏の当主に擁立される。 秋月文種が配下になる。 |
1553 | 24 | 一萬田鑑相、宗像鑑久が大友氏に叛く。これを討伐する。 服部右京亮が大友氏に叛く。これを討伐する。 |
1554 | 25 | *叔父・菊池義武を和平を理由に呼び戻す。戸次鑑連に護送中の菊池義武を自害させる。 肥後国守護に就任。 |
1556 | 27 | *小原鑑元、本庄統綱、中村長重、賀来惟重らが大友氏に叛く。戸次鑑連に討伐させる。【姓氏対立事件】 |
1557 | 28 | 長弟・大内義長が毛利元就に攻められて自害する。大内家滅亡 大内氏の遺領から豊前国を大友領とし毛利元就と不可侵条約を結ぶ。 毛利元就の調略で秋月文種と筑紫惟門が大友氏に叛く。 *戸次鑑連と臼杵鑑速に秋月文種を討伐させる。秋月家滅亡 *戸次鑑連と臼杵鑑速に筑紫惟門を討伐させる。筑紫惟門は逃亡。 *戸次鑑連に旧・大内領の接収を命じる。 *戸次鑑連に宗像領・許斐山城、白山城、蔦ヶ嶽城を攻めさせる。 宗像氏貞が配下になる。 |
1558 | 29 | *宗像氏貞が大友氏に叛く。戸次鑑載と奴留湯融泉に討伐させる。宗像氏貞は逃亡。 ”第1次門司城の戦い”*毛利氏に門司城を奪われる。戸次鑑連、臼杵鑑速、田原親宏らが奪還する。 |
1559 | 30 | 将軍・足利義輝に多大な献金をする。 豊前国守護、筑前国守護に就任。 毛利元就の調略で豊前国・国人衆が叛く。 毛利元就の調略で豊前国で浪人一揆が起こる。門司城、花尾城、香春岳城が占拠される。 ”第2次門司城の戦い”*田原親宏、田原親賢、佐田隆居が門司城を毛利氏から奪還する。 |
1560 | 31 | 左衛門督に就任。 ”第3次門司城の戦い”*怒留湯直方が守る門司城を毛利氏に奪われる。 宗像氏貞に許斐山城、白山城、蔦ヶ嶽城などを奪われる。 *戸次鑑連、戸次鑑載、奴留湯融泉らに宗像領を攻めさせる。 |
1561 | 32 | *戸次鑑連、田原親賢、田北鑑生、田北紹鉄が香春岳城を毛利氏から奪還。 ”第4次門司城の戦い”*小早川隆景が篭る門司城を吉岡長増、臼杵鑑速、戸次鑑連らが包囲する。 *毛利元就に香春岳城を奪われる。 |
1562 | 33 | 豊後国・丹生島城を築城、居城にする。 将軍・足利義輝に毛利元就を訴える。 *尼子義久の要請を受けて戸次鑑連と吉弘鑑理(高橋紹運)らを豊前国に派遣。 *香春岳城を毛利氏から奪還。 ”第5次門司城の戦い”*戸次鑑連と吉弘鑑理らが門司城を攻める。毛利方の防戦に苦戦。 *毛利領・松山城を攻める。決戦に至らず門司城攻めに戻す。 将軍・足利義輝の仲介により毛利元就と休戦。 出家 → 大友(休庵)宗麟 |
1563 | 34 | 幕府御相伴衆に就任。 |
1564 | 35 | 将軍・足利義輝に毛利氏との仲介を頼む。 毛利元就に門司城を除く筑前国、豊前国の城を返還させて和睦。 宗像氏貞と和睦。 筑後国・下田城を攻める。 立花鑑載が大友氏に叛く。 |
1565 | 36 | *戸次道雪(鑑連=立花道雪)、吉弘鑑理らに立花鑑載を討伐させる。立花鑑載を許す。 13代将軍・足利義輝が死亡。【永禄の変】 |
1567 | 38 | 秋月種実が秋月氏再興のため筑前国で挙兵。 高橋鑑種が大友氏に叛く。 筑紫広門が大友氏に叛く。 ”宝満城・九嶺の戦い”*戸次道雪と臼杵鑑速に高橋鑑種の討伐に向かわせる。 ”休松の合戦”*戸次道雪、吉弘鑑理らに秋月種実の討伐に向かわせる。 毛利元就の調略で原田隆種・親種父子が大友氏に叛く。 毛利氏との和睦が破談。 キリスト教宣教師を通じて火薬の原料を輸入する。毛利氏には原料を譲らないよう宣教師に命じる。 |
1568 | 39 | 筑前国・筑紫惟角、宗像氏貞が大友氏から離反する。 *毛利元就の調略で立花鑑載が再び大友氏に叛く。戸次道雪、吉弘鑑理らに討伐させる。 ”宇美河内の戦い”*戸次道雪、吉弘鑑理らに高橋鑑種を一掃させる。 ”第1次生松原合戦”*戸次道雪、吉弘鑑理らに原田隆種・親種父子を一掃させる。 |
1569 | 40 | 龍造寺領・肥前国に侵攻する。五箇山城、勢福寺城を攻略する。 ”多布施口の戦い”*吉弘鑑理に龍造寺隆信を撃破させる。追撃の機会を逃す。 毛利元就が大友領に侵攻してきたため龍造寺隆信と講和して撤退する。 ”立花合戦”*立花山城を毛利氏に奪われる。 ”多々良浜の戦い”立花山城の奪還に向かい毛利元就と対陣する。小規模な争いを18回行う。 大内輝弘を支援して毛利領・周防国で反乱を起こさせる。【大内輝弘の乱】 秋月種実が降伏、配下になる。 高橋鑑種が降伏、配下になる。高橋家の家督を剥奪する。 筑前国・岩屋城、宝満城に高橋鎮種(紹運)を入れる。 |
1570 | 41 | 立花山城を毛利氏から奪還。 豪商・仲屋顕通・宗越父子を通じて海外貿易を充実させる。 龍造寺領・肥前国に侵攻する。 ”今山の戦い”龍造寺隆信が篭る佐嘉城を包囲。今山の本陣に夜襲を受けて弟・親貞が討死し撤退する。 龍造寺隆信と和睦。 |
1571 | 42 | 豊後国・立花山城に戸次道雪を入れる。 |
1576 | 47 | 長男・大友義統に家督を譲る。引き続き政治・軍事を主導する。 ポルトガルから大砲を輸入。 |
1577 | 48 | 島津義久に日向国を追われた伊東義祐が頼ってくる。 伊東義祐の要請を受けて日向国の奪還を目指す。 |
1578 | 49 | 宣教師・フランシスコ=カブラルからキリスト教の洗礼を受ける。洗礼名:ドン=フランシスコ 島津領・日向国に侵攻する。寺社を破壊しながら進軍。 ”耳川の戦い”*田原親賢らが率いる先陣が島津義久に大敗。追撃され耳川で多数の溺死者を出して敗走。 秋月種実が大友氏に叛く。 筑紫広門が大友氏に叛く。 秋月種実、筑紫広門、原田隆種、宗像氏貞ら反大友派が筑前国、筑後国、肥前国で反乱を起こす。 ”柴田川の合戦”*立花道雪、高橋紹運が反大友派と交戦。 |
1579 | 50 | ”第1次吉川の戦い”*立花道雪が反大友派と交戦。 ”第2次生松原合戦”*立花道雪が反大友派と交戦。 ”第3次生松原合戦”*立花道雪が反大友派と交戦。 ”吉木の戦い”*立花道雪が反大友派と交戦。 ”第4次生松原合戦”*立花道雪が反大友派と交戦。 筑後国の蒲池氏、草野氏、黒木氏らが大友氏から離反する。 当代・大友義統と対立する。 |
1580 | 51 | ”第2次吉川の戦い”*立花道雪が反大友派と交戦。 ”第1次太宰府観世音寺の戦い”*立花道雪が反大友派と交戦。 ”宗像合戦”*立花道雪が反大友派と交戦。 *秋月種実が豊前国・猪膝に侵攻してくる。立花道雪が退ける。 *龍造寺隆信が筑前国に侵攻してくる。荒平城が攻め落とされる。 織田信長に島津氏との仲介を頼む。島津義久と和睦する。 |
1581 | 52 | ”第2次太宰府観世音寺の戦い”*立花道雪、高橋紹運が反大友派と交戦。 |
1582 | 53 | ”第5次生松原合戦”*立花道雪が反大友派と交戦。 ”岩戸の戦い”*立花道雪が反大友派と交戦。 少年使節団をローマに派遣する。【天正遣欧少年使節】 |
1583 | 54 | ”吉原口防戦”*立花道雪が反大友派と交戦。 *立花道雪が宗像氏貞が篭もる許斐山城を攻略。宗像氏貞は逃亡。 |
1584 | 55 | *立花道雪に龍造寺領・筑後国を攻めさせる。 |
1585 | 56 | 立花道雪が死去。 宗像氏貞に許斐山城、白山城、蔦ヶ嶽城などを奪われる。 |
1586 | 57 | ”岩屋城の戦い”*島津義久が筑前国に侵攻してくる。岩屋城を攻め落とされ高橋紹運が自害。 島津氏との和睦が破談。 ”立花山城の戦い”*島津義久が豊前国に侵攻してくる。立花統虎(宗茂)が善戦し島津氏を退けて岩屋城を奪還。 ”九州征伐”豊臣秀吉の九州征伐軍が豊前国に到着。 豊臣秀吉に従属する。 |
1587 | 58 | 鶴ヶ城が島津家久に攻められる。豊臣氏の救援を得る。 ”戸次川の戦い”*長男・義統が豊臣秀吉の九州征伐軍に加わるが島津家久に惨敗する。 島津家久が豊後国・府内に侵攻してくる。 ”丹生島城の戦い”籠城し、国崩し(フランキ砲)を用いて島津家久を退ける。 島津義久が筑前国、豊後国に侵攻してくる。 豊臣秀吉が20万の兵を率いて島津領に侵攻する。島津軍を薩摩国、大隅国、日向国まで後退させる。 豊臣秀吉が九州を平定。 豊臣秀吉から日向国を拝領する。長男・義統には豊後国を拝領する。 豊後国・津久見で病死。 |

- 大友義鎮 – Wikipedia
- 【刀剣ワールド】大友宗麟の武将年表
- 大友宗麟とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】|歴史上の人物.com
- 知れば知るほど面白い!おおいたの英傑・大友宗麟の魅力に迫る|おおいた暮らし|一般社団法人 大分市観光協会 公式ホームページ
- 九州最強島津軍が「耳川の戦い」で大友軍に釣り野伏せ&フルボッコ! – BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
- 大友宗麟・栄光と転落 神の国を目指したキリシタン大名 – YouTube
- 本郷和人監修『戦国武将の解剖図鑑』エクスナレッジ
- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
- 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社