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陶晴賢

1521.?〜 1555.10.16

 
陶晴賢のイラスト
  

陶晴賢(隆房)は、現在の山口県東部にあたる周防国の武将です。大内義隆に重用され、主に軍事面で存在感を発揮しました。大内家の方針が文治に変わると居場所を失い、相良武任と家中で対立。復権を目指しますが立ち行かず、主君・義隆を討って権力を得たものの、毛利元就の謀略に敗れました。享年35歳。

陶晴賢は何をした人?このページは、陶晴賢のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと陶晴賢が好きになる「謀反を起こして大内家を乗っ取るも疑心暗鬼で自滅した」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:陶隆房 → 陶晴賢
  • 幼 名:五郎
  • 官 位:従五位上、尾張守
  • 出身地:周防国(山口県)
  • 居 城:若山城
  • 正 室:大方(内藤隆時の娘)
  • 子ども:3男
  • 父と母:陶興房 / 右田氏

謀反を起こして大内家を乗っ取るも疑心暗鬼で自滅した

大内氏は中国地方6か国の守護を務める西国最大の大名でした。陶晴賢は大内氏の庶流にあたる家柄で、子どもの頃から大内義隆に仕えて、重臣として別格の存在感を放っていました。

というのも、陶晴賢は容姿端麗のイケメン、大内義隆は美少年が大好きという主従でした。陶晴賢は主君からものすごく深い愛を受けていたのです。

陶晴賢の提案に、主君・義隆はいつも「うん、うん」とうなずき、大内軍の方針など任せきりでした。陶晴賢もこのことをよく理解しており、主君を思いのままにする(よろこ)びを感じていました。

1542年、陶晴賢は尼子晴久の出雲国(いずものくに)を攻める提案をします。もちろんGOサインが出され、陶晴賢を中心とした大内軍が尼子領に攻め込みますが、1543年の月山富田城(がっさんとだじょう)の戦いに惨敗し、大内義隆の後継者であった晴持が退却時に溺死してしまいました。

それ以来、意気消沈してしまった大内義隆は和歌や連歌に没頭するようになり「これからは風流に生きよう」と、すっかり弱腰。これだけでも 恋人 主君に対してガッカリしたのに、陶晴賢にとってさらに受け入れ難い状況になります。


はじめに裏切った
あなたが悪い

風流に生きる義隆は大内氏の方針を180度変え、インテリな家臣たちを重用しはじめます。相良武任(さがらたけとう)に甘えるようになると、陶晴賢はお役御免になってしまったのです。

陶晴賢と大内義賢・相良武任の三角関係

こんな裏切りは許せない。
陶晴賢は相良さがらを追い出します。それでも義隆が相良さがらを連れ戻すと、陶晴賢はこれを暗殺しようとくわだてます。しかし、計画が義隆にバレてしまい、主君との関係は冷え切ってしまいました。

自分を裏切った主君を討つと決めた陶晴賢は1551年に挙兵、大寧寺(たいねいじ)の変で大内義隆を自害に追い込みます。相思相愛だった主従の最後は、後味の悪いものでした。


もう
誰も信じない

大内家には大友宗麟(そうりん)の弟で大内義隆の姉の子にあたる晴英(はるひで)(大内義長)が養子に来ていました。陶晴賢はこれを当主にし、あやつり人形のごとく従わせます。

自分に反対する者たちを殺害し、大内家を乗っ取ることに成功。ところが、強引なやり方は賛同を得られませんでした。それどころか、1553年に吉見正頼が裏切り、このような大内氏の衰退を待っていた毛利元就が厳島(いつくしま)を奪うなど、離反ムーブメントが起こります。

さらには、一番頼りにしていた家臣の ”江良房栄(ふさひで)が裏切るという(うわさ)” が耳に入り、陶晴賢は誰も信じられなくなりました。これは江良の存在を警戒した毛利元就の策略でしたが、陶晴賢は江良を殺してしまいます。

1555年、毛利から厳島(いつくしま)を奪還しようとする陶晴賢に、味方である弘中隆包が「厳島(いつくしま)に誘い出して全滅させるのが毛利のねらい」と忠告しますが、これも信用せず。毛利元就の策略にはまって厳島(いつくしま)の戦いで大敗します。

乗ってきた舟の場所まで逃げてくると、毛利方によって舟は流されていました。孤立した陶晴賢は、諦めたように辞世の句を詠み、自ら命を断ちました。

何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に
(こうして死ぬことは定めだった。今さら何を惜しみ恨むことがあろうか)

栄華を築いた大内氏は陶晴賢の敗死から2年後、毛利元就に丸ごと飲み込まれて滅びました。

生涯を簡単に振り返る

1521年、陶晴賢は周防国(すおうのくに)に陶興房(おきふさ)の次男として生まれます。大内義隆に気に入られて、若いうちから重用されます。武断派の筆頭として尼子氏との戦いなどで存在感を示しますが、月山富田城(がっさんとだじょう)攻めに失敗。これを機に文治派(ぶんじは)相良武任(さがらたけとう)が発言力を強めると、やがて立場を失いました。

大内家中の派閥争いが激化、分断が進んだことに起因する大寧寺(たいねいじ)の変で大内義隆と義隆の嫡男(ちゃくなん)義尊(よしたか)を殺害し、大友氏からの猶子(ゆうし)・義長を当主に擁立しました。大内義長を傀儡(かいらい)として実質的な主導権を握ります。

最後と死因

武力行使による勢力拡大に乗り出しますが、大内氏から離反した毛利元就と対立し、厳島(いつくしま)をめぐって争います。安芸国(あきのくに)厳島(いつくしま)の宮尾城を大軍で攻めたところを毛利方の奇襲に遭い惨敗。厳島(いつくしま)からの退路を断たれ、陶晴賢は絶命しました。1555年10月16日、死因は自害。35歳でした。

領地と居城

陶晴賢の領地・勢力図(1555年)

瀬戸内海の周防灘(すおうなだ)を見下ろす要所、周防国(すおうのくに)・若山が陶晴賢の領地でした。主君から領内の一部の返還を求められたことも謀叛(むほん)の一因になったようです。

陶晴賢の性格と人物像

陶晴賢は「狂喜のツンデレ」です。

西国無双の侍大将、智も勇も人を超えたり」と称されたカリスマ性がありますが、他人の意見に耳を傾けず、直情型で独断専行が目立ちます。コミュ力の無さもクールに写ってしまうほどの端正なマスクで主君もメロメロにしています。

美少年として知られ、大内義隆の寵童(ちょうどう)でした。主君・義隆の愛は深く、晴賢に会うために5時間も馬を飛ばして来たこともあったとか。義隆が他者を頼りにするとこれが面白くなく、裏切り行為と感じ、邪魔者をことごとく殺しています。

サイコパスを思わせる残虐性があり、大内一族を根絶やしにするため、義隆の末子でわずか5歳の歓寿丸の局部を切って処刑しています。無罪を訴える家臣を火(あぶ)りにした際にも笑顔を浮かべていたといいます。また一方では、敗走するおりに配下の小者を気づかい、兵糧を与えて自分は干鰯(ほしか)を食べて耐える部下思いな一面も。

晴賢の偏った性格が大内義隆との軋轢(あつれき)を生じさせたという見方が強く、不仲となってしまった以上、ふたりの関係の修復は不可能でした。

能力を表すとこんな感じ

陶晴賢の能力チャート

直情型である陶晴賢は、カッとなるとすぐに行動に移します。しかしながら、後先のことを考えない事後処理能力には疑問符がつきます。

信長の野望シリーズに登場する陶晴賢の能力値も参考にしています。

信長の野望・新生

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陶晴賢の面白い逸話やエピソード

火炙りにした家臣の亡霊に落馬させられる

あるとき、厚狭弾正(あつさだんじょう)という男に裏切りの疑いが持たれます。弾正(だんじょう)は陶晴賢の家臣でしたが、晴賢は死を持って裏切りの代償を求めます。弾正(だんじょう)は懸命に無実を訴えますが、晴賢は火(あぶ)りを命じました。

この出来事があったあとの合戦で陶晴賢は落馬します。このとき、厚狭弾正(あつさだんじょう)の亡霊が晴賢を馬から突き落とす姿をまわりの者たちは見ていました。

陶晴賢の有名な戦い

吉田郡山城の戦い よしだこおりやまじょうのたたかい 1540.6.? 〜 1541.1.13 ● 尼子軍3万 vs 大内(毛利)軍1万2千 ○

大内氏と交戦する尼子晴久が吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町)を攻めた合戦。郡山合戦ともいわれる。尼子軍と毛利勢が激突した第2次侵攻で、毛利元就は少数の兵を三手に分けて尼子軍を攻撃。大打撃を与えて撃退した。この戦いの後、尼子氏は安芸から撤退した。

吉田郡山城の戦いで陶晴賢は勝っています。
大内軍の総大将として1万の兵を率いて毛利元就の救援に向かい、尼子方を撃退しています。

大寧寺の変 たいねいじのへん 1551.8.20 〜 9.1 ○ 陶軍1万 vs 大内軍2千 ●

大内家当主である大内義隆に対して、武断派筆頭の陶隆房が謀反を起こした事件。圧倒的に有利な兵力差で陶軍が押し迫り、大内館を攻められた義隆は足を痛めながら逃れるが、暴風雨のため船を出せず、大寧寺(山口県長門市深川湯本)で自害。義隆の嫡男・義尊も殺害された。

大寧寺の変で陶晴賢は勝っています。
すれ違いが続いた主君を討ち、晴賢はすぐに大友宗麟(そうりん)の弟・義長を当主に擁立して次世代の大内氏を始動させます。先代の色を消すために、義隆が京から招いていた公家らもみなごろしにしました。

厳島の戦い いつくしまのたたかい 1555.10.16 ● 大内(陶)軍2万 vs 毛利軍4千 ○

兵数で劣る毛利元就は、厳島(広島県廿日市市宮島町)に陶晴賢の大軍を誘い出すことに成功。毛利軍は、小早川隆景らの別働隊と同時に、風雨の激しい夜に作戦を開始した。挟撃による奇襲に慌てた陶軍は混乱して舟に向かうが、村上水軍がこれを迎撃。陶晴賢は自害した。

厳島の戦いで陶晴賢は敗れています。
陶晴賢のターニングポイントになった戦いです。
大内氏から独立を宣言した毛利元就と厳島いつくしまで決戦に臨みますが、島での戦闘で大軍が思うように動けず。陸海から挟み撃ちを受けて潰走し、大江浦おおえのうらまで逃げたところで自刃じじんしました。

陶晴賢の詳しい年表と出来事

陶晴賢は西暦1521年〜1555年(大永元年〜天分24年)まで生存しました。戦国時代中期に活躍した武将です。

15211陶興房の次男として周防国に生まれる。
153919父・陶興房の死去により家督を相続。
154020”吉田郡山城の戦い”尼子詮久(晴久)との戦に参加。毛利元就の援軍に向かい尼子軍を退ける。
154222主君・大内義隆に出雲国攻めを提言する。
尼子領・出雲国攻めに参加。
154323”第1次月山富田城の戦い”尼子晴久との戦に参加。惨敗し主君・大内義隆の信用を失う。
大内家中で相良武任ら文治派が台頭。
154525相良武任を失脚させる。
154727”神辺合戦”毛利元就と山名理興を攻める。
相良武任が復帰し失脚させられる。
155030内藤興盛と共謀して相良武任の暗殺を企てる。事前に発覚し大内家中での立場を失う。
155131内藤興盛と挙兵。主君・大内義隆を襲撃、追い詰めて大寧寺で自害させる。義隆の嫡男・大内義尊を殺害。【大寧寺の変】
*野上房忠に相良武任、杉興運を討たせる。
厳島で瀬戸内海の通行料を徴収する。村上水軍がこれに反発する。
155232大内晴英(義長)を大内氏の当主に擁立する。
改名 → 陶晴賢
筑前国・宗像氏の家督争いに介入。宗像氏貞を使って内紛を起こさせる。【山田事件】
155333吉見正頼が反陶派として大内氏に叛く。討伐に向かうが撃退される。
155434”三本松城の戦い”吉見正頼が篭る三本松城を攻めて降伏させる。
毛利元就が大内氏に叛く。厳島などを奪われる。
”折敷畑の戦い”毛利領・安芸国に侵攻する。毛利元就に敗れて宮川房長が討死。
毛利元就が周防国に侵攻してくる。
厳島の奪還に向かうが宮尾城に苦戦し撤退。
毛利方の呉水軍と能美水軍を調略する。
呉水軍と能美水軍が毛利元就に討伐され能美島を奪われる。
155535”厳島の戦い”大軍を率いて厳島の奪還に向かう。毛利元就の奇襲により敗走、村上水軍に退路を断たれて自害。
戦国時代で陶晴賢が生きた期間の表

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陶晴賢の顔イラスト