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毛利元就

1497.4.16 〜 1571.7.6

 
毛利元就のイラスト
  

毛利元就(多治比元就)は、現在の広島県西部にあたる安芸国の武将・大名です。尼子氏、大内氏の配下で力を蓄え、陶晴賢が起こした内乱に乗じて主家を滅ぼします。山陰と山陽の有力な国人の家督を息子たちに継がせ、磐石な支配体制を築きつつ、巧みな謀略で領土を拡げて、中国地方の統一を果たしました。享年75歳。

毛利元就は何をした人?このページは、毛利元就のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと毛利元就が好きになる「謀略と兵法と折れない三本の矢で中国地方を統一した」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:多治比元就 → 毛利元就
  • 幼 名:松寿丸
  • あだ名:謀神、乞食若殿
  • 官 位:従四位上・右馬頭、治部少輔、陸奥守、贈従三位、贈正一位
  • 幕 府:相伴衆
  • 戦 績:60戦 49勝 9敗 2分
  • 出身地:安芸国(広島県)
  • 領 地:中国地方
  • 居 城:吉田郡山城
  • 正 室:妙玖(吉川国経の娘)
  • 子ども:10男 3女
  • 跡継ぎ:毛利隆元
  • 父と母:毛利広元 / 福原氏

謀略と兵法と折れない三本の矢で中国地方を統一した

毛利氏といえば、中国地方に広大な領土をもつ西国(さいごく)の名門というイメージですが、もとは安芸国(あきのくに)の一部を領有する小さな国人衆のひとつに過ぎませんでした。毛利氏は、東に尼子氏、西に大内氏という強大な勢力に挟まれながらしぶとく存続していました。

毛利元就現れると、弱小国人の毛利氏が一代で西国(さいごく)の覇者にまで成り上がったのです。すべて毛利元就の計算どおりでしたが、彼はひとつの機会も見逃しませんでした。

毛利元就が当主になった1523年頃の毛利氏は、尼子経久(つねひさ)に仕えていました。主君を見限って、尼子氏のライバルである大内義興(よしおき)に寝返ると、毛利元就は大内氏のちからを利用して少しずつ影響力を強めます。


元就の謀略
三本の矢は折れない

1544年のある日、山陽地方の竹原小早川家の当主が亡くなり、後継者が不在になるビッグチャンスが舞い込みます。ここに三男・徳寿丸(隆景)を養子に出して家を継がせ、ついでに沼田小早川家の当主を追い出してこれも継がせ、2つの小早川家を統合しました。ちゃっかり小早川水軍も手に入れます。

労せずに有力な国人を支配下に入れた毛利元就は、これに味をしめます。

1547年に妻の実家である山陰地方の吉川(きっかわ)家に次男・元春を送り込むと、それから3年後に従兄(いとこ)とその息子を殺害して元春に吉川(きっかわ)家を継がせました。

こうして毛利元就は、1550年に安芸国の国人である吉家と小早家で毛利家の両脇を固めた『毛利両川(りょうせん)体制』を構築しました。

【毛利両川】毛利・吉川・小早川の三家による政治組織

長男・毛利隆元を中心に、次男・吉川元春、三男・小早川隆景がこれを支える体制を持ったことで安芸国(あきのくに)の支配が強まり、毛利家は大名として独立する準備が整いました。さながら『三本の矢の教え』を体現したような強固な支配体制でした。


元就の謀略
出そうな杭は打つ

幼い頃、父と母を亡くしたうえに家来にだまされて城を奪われた毛利元就の人生は、孤児からスタートしたエクストラハードモードだったため、誰のことも信用していませんでした。

過度に用心深い性格の毛利元就は、態度が大きい奴、生意気な奴をあらかじめ抹殺(まっさつ)して絶対に裏切られないようにしました。そのうえで、毛利氏の家来ではない人たちにも忠誠を誓わせる起請文(きしょうもん)を書かせて徹底的に統制しました。

このあとも粛清(しゅくせい)起請文(きしょうもん)を駆使して組織を固めていき、絶対的な毛利の支配を実現しました。


元就の謀略
謀は多いほうが勝つ

(はかりごと)は多いほうが勝ち、少ないほうが負ける。(はかりごと)とは「勝利の条件」を指しており、孫子(そんし)の教えのひとつです。合戦にのぞむ前の仕掛けこそ毛利元就の真骨頂(しんこっちょう)でした。

大内氏に従っていた毛利元就は、独立の機会を待っていました。すると1551年の大寧寺(だいねいじ)の変で、陶晴賢(すえはるかた)が当主・大内義隆を討つというビッグチャンスが舞い込みます。しばらくは(すえ)に協力するふりをしていましたが、少しずつ大内家に混乱の種を()いていきます。

(すえ)派に「側近の江良房栄(えらふさひで)が裏切るぞ」という(うそ)の情報を流して、陶晴賢(すえはるかた)江良房栄(えらふさひで)(無罪)を殺害させました。脅威であった江良(えら)が排除されたところで、陶晴賢(すえはるかた)との決戦に持ち込みます。

兵力に勝る(すえ)軍とまともに戦っても不利なので、大軍が同時に行動できない厳島(いつくしま)に誘い出します。陶晴賢(すえはるかた)厳島(いつくしま)に上陸すると、風雨にまぎれて奇襲をかけ、あらかじめ買収しておいた村上水軍に退路をふさがせて(すえ)軍を大混乱させました。

厳島の戦いの図

舟をつないでおく艫綱(ともづな)を切って(すえ)軍の舟を沖に流しておく念の入れようで、逃げることもできなくなった陶晴賢(すえはるかた)を自害に追い込みました。大内家中の実力者だった陶晴賢(すえはるかた)を討ったことで、大内氏の弱体化にも成功しました。

毛利元就が鮮やかな勝利を飾った1555年の厳島(いつくしま)の戦いは、桶狭間の戦いや河越夜戦とともに『日本三大奇襲』に挙げられています。

厳島(いつくしま)の戦いの2年後、毛利元就は大内氏を攻め滅ぼします。続けて、かつての主君であった尼子氏を滅ぼし、中国地方を制しました。

このように毛利元就とは、謀略(敵の戦力を下げる)知略(自軍を好条件にする)武略(実戦での駆け引き)のブレンドが絶妙な権謀術数(けんぼうじゅっすう)の名人でした。

中国の兵法書を極めて日本国内にひろめた大江匡房(まさふさ)の子孫だったという毛利元就も、匡房(まさふさ)が書いた『闘戦経(とうせんきょう)』をはじめ、孫子(そんし)呉子(ごし)など、中国から伝来した兵法書を読みあさりました。鎌倉幕府で源頼朝(みなもとのよりとも)の腹心を務めた大江広元(おおえのひろもと)も毛利元就の先祖であり、その頭脳は受け継がれていました。

おもしろいように謀略がハマって、一大勢力を築いた毛利元就ですが「天下なんて望みません」と宣言しており、自身の躍進も運がよかったと分析しています。これ以上はリスクが強まると案じていたようです。

生涯を簡単に振り返る

1497年、毛利元就は安芸国(あきのくに)・鈴尾城に毛利広元の次男として生まれます。幼い頃に両親を亡くし、家臣に多治比猿掛城(たじひさるかけじょう)を追い出されて孤児になります。困っていたところを養母の杉大方(すぎのおおかた)に救われました。兄・毛利興元(おきもと)が亡くなると、その子を後見しますが早逝(そうせい)してしまいます。尼子氏の策略で、異母弟と毛利氏の家督を争いました。

毛利氏の当主になると大内氏に(くみ)して尼子氏に対抗しつつ、吉川(きっかわ)家と小早川家を息子に継がせて実効支配します。やがて安芸国(あきのくに)を勢力下に置くようになると、大内義隆に謀反(むほん)を起こした陶晴賢(すえはるかた)を討って独立。余勢(よせい)()って大内氏や尼子氏を倒し、70歳で中国地方を統一しました。

最後と死因

晩年は体調不良に悩まされます。名医の治療を受けて一時的に回復、戦場に立ちますが、次第に病が重くなり床に()せます。孫・輝元や三男・小早川隆景に看取(みと)られて毛利元就は安芸国(あきのくに)吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)で亡くなりました。1571年7月6日、死因は老衰または食道がん。75歳でした。

領地と居城の移り変わり

毛利元就の領地・勢力図(1546年)
毛利元就の領地・勢力図(1555年)
毛利元就の領地・勢力図(1568年)

中国地方8か国に九州地方の筑前国(ちくぜんのくに)の一部を合わせた120万石が毛利元就の領地でした。安芸国(あきのくに)の弱小国人だった毛利氏を一代で急成長させ、江戸時代になっても長州藩(ちょうしゅうはん)を治める大大名として君臨する基礎をつくりあげました。

毛利元就の性格と人物像

毛利元就は「頭が良すぎてつらい人」です。

”本当に頭が良い人って親友がいないよね。友達といえるのは歴史上の偉人(いじん)くらいだよね” と(なげ)いてしまう面倒くさい天才です。誰ともイメージを共有できない孤独さから、異常とも思えるほど念をおしてしまう(くせ)があります。

兵法に明るく、寡兵(かへい)でも大軍に勝つ方法を心得ています。計略によって敵の戦力を削ぐ手腕は、戦国史上でも屈指。勇猛果敢な指揮官であり、自ら戦場に立つことが多く、元就が陣頭で指揮をとった合戦はひとつも負けていません。

筆まめで、たくさんの書状を残していますが、数メートルにおよぶ紙にびっしりと同じことを繰り返し書くので、ねちっこいを手紙を息子たちは鬱陶(うっとう)しく思いました。愛する妻や養母に対する思いも書き(つづ)って息子に送っています。

孤児同然のところを養母に救われ、生涯に大きな影響を受けています。そのためか、身分が低い者にも気を配る人柄でした。愛妻家であり、妻と養母をつづけて亡くし、落胆(らくたん)しています。

大酒(おおざけ)が原因で父と兄を亡くしているので、お酒は飲んでも小椀(こわん)に2杯までと決めていました。健康に気づかっており、薬膳種(やくぜんしゅ)は飲みます。好物はお餅と団子とおはぎ。瀬戸内海でとれた小魚、山芋が食事の定番でした。

連歌と和歌に()っていて『毛利元就詠草連歌(えいそうれんが)』というオリジナルの歌集を残しています。毛利元就が身につけていた甲冑『色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)』と、戦場で手に持っていた金の軍配も実際に使用したものが残っています。

能力を表すとこんな感じ

毛利元就の能力チャート

相手のことも意のままに操り、ことごとく謀略を成功させる頭脳こそ、毛利元就の恐ろしいところです。一代で中国地方を制した実力は戦国最強との呼び声も高く、まったく弱点が見当たりません。

信長の野望シリーズに登場する毛利元就の能力値も参考にしています。

信長の野望・新生

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毛利元就の面白い逸話やエピソード

三本の矢の教えで矢を使った実演はしていない

毛利家といえば『三本の矢の教え』が有名です。死期を悟った毛利元就が、3人の息子(隆元、元春、隆景)を集めて協力することの大切さを説いたという逸話です。

元就「この矢を折れるものは?」
息子たち「こんなもの、簡単です。ボキッ」
元就「では、三本ではどうかな?」
息子たち「あれ!?折れない!ふしぎ!」

三本合わされば矢も折れない。これを実演して一族の結束の重要性を説きました。じつはこれ、つくり話です。というのも、元就が最晩年を迎えるより8年も前に長男・毛利隆元は亡くなっていますので、この時点で三兄弟がそろうことは不可能でした。

この逸話は、元就が息子たちに書き残した『三子教訓状(さんしきょうくんじょう)』がもとになっています。

教訓状には、毛利・吉川(きっかわ)・小早川の三家は、ずっとパートナー、毛利の苗字(みょうじ)を忘れない、毛利が大事、毛利が一番、兄弟みんな毛利、俺もお前も毛利といった14条からなり、長さ3mにもなりました。くどいので矢に例えてシンプルにしたという話です。

ちなみに、日本のサッカーチーム『サンフレッチェ広島』は、三(さん)本の矢(フレッチェ)を名前の由来としています。

子どもたちの雪合戦から両川体制を思いついた

次男・元春と三男・隆景が子どもの頃、雪合戦をするようすを元就は眺めていました。ふたりは仲間をつれあって、5対5で雪合戦をしていました。

はじめは、元春チームがしきりに雪玉を投げつけて、隆景チームを負かせました。つぎの回がはじまると、隆景チームには3人しか見当たりません。元春が隆景に突進したそのとき、両脇に隠れていた2人が飛び出し、雪玉で囲いうちにしました。

ここで元就は勝負をとめて「どちらも勝ち」としました。兄弟に個性の違いをみて、最適な活用方法を思いつきます。

合戦の強さが求められる山陰地方には、次男・吉川元春が適任。
計略と交際の巧みさが重要な山陽地方には、三男・小早川隆景が適任。
毛利両川(もうりりょうせん)体制は、こうして思いついたといいます。

毛利元就の有名な戦い

有田中井手の戦い ありたなかいでのたたかい 1517.10.22 ● 安芸武田軍5千 vs 吉川&毛利軍1千 ○

吉川氏の有田城(広島県北広島町)を攻めた武田氏を多治比元就が破った合戦。数で勝るが、押しきれない状況に業を煮やした武田元繁が又打川を渡ろうとしたところを、毛利軍が弓で一斉射撃して討ち取った。兵力差から西国の桶狭間ともいわれる戦い。有田合戦とも。

有田中井手の戦いで毛利元就は勝っています。
吉川(きっかわ)氏の援軍として毛利軍を率いた元就はこれが初陣(ういじん)でした。兵法を駆使して安芸(あき)武田氏当主を討ち取り、その名が知られることとなります。

鏡山城の戦い かがみやまじょうのたたかい 1523.6.13 〜 6.28 ○ 尼子軍? vs 大内軍? ●

尼子氏が大内氏の鏡山城(広島県東広島市)を攻撃した合戦。城を守る蔵田房信はよく戦ったが、多治比元就の計略に内応した房信の叔父・蔵田直信が、尼子軍を城内に入れてしまう。尼子経久が率いる軍勢が押し寄せて制圧。妻子と城兵の助命を嘆願して、房信は自害した。

鏡山城の戦いで毛利元就は勝っています。
元就の計略によって勝ちましたが、尼子経久(つねひさ)は警戒心を抱いて恩賞を払いませんでした。これ以降、尼子氏との主従関係が微妙になりました。

吉田郡山城の戦い よしだこおりやまじょうのたたかい 1540.6.? 〜 1541.1.13 ● 尼子軍3万 vs 大内(毛利)軍1万2千 ○

大内氏と交戦する尼子晴久が吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町)を攻めた合戦。郡山合戦ともいわれる。尼子軍と毛利勢が激突した第2次侵攻で、毛利元就は少数の兵を三手に分けて尼子軍を攻撃。大打撃を与えて撃退した。この戦いの後、尼子氏は安芸から撤退した。

吉田郡山城の戦いで毛利元就は勝っています。
2千4百ほどの兵で10倍以上の尼子軍を粉砕し、大内氏の援軍を得て撃退しました。侵攻してきた尼子氏をやぶるカウンターで勢いに乗り、尼子派の安芸(あき)武田氏を攻め滅ぼしました。

厳島の戦い いつくしまのたたかい 1555.10.16 ● 大内(陶)軍2万 vs 毛利軍4千 ○

兵数で劣る毛利元就は、厳島(広島県廿日市市宮島町)に陶晴賢の大軍を誘い出すことに成功。毛利軍は、小早川隆景らの別働隊と同時に、風雨の激しい夜に作戦を開始した。挟撃による奇襲に慌てた陶軍は混乱して舟に向かうが、村上水軍がこれを迎撃。陶晴賢は自害した。

厳島の戦いで毛利元就は勝っています。
毛利元就のターニングポイントになった戦いです。
謀略を駆使してライバルの陶晴賢(すえはるかた)に完封勝ちした合戦です。徹底した(すえ)派の殲滅(せんめつ)作戦を実行し、一兵として残さず討ち取りました。この勝利によって大内氏の弱体化に成功し、中国地方の勢力争いにリードしました。

門司城の戦い もじじょうのたたかい 1561.7.1 〜 10.10 ○ 毛利軍1万8千 vs 大友軍1万5千 ●

門司城(福岡県北九州市門司区)をめぐって5回も争われた合戦。大内氏を攻め滅ぼした毛利元就との協議の末、豊前国を領地とした大友義鎮だったが、毛利氏の条約違反により敵対する。小早川隆景を中心とした毛利水軍が攻勢を強めた第3次合戦が大規模な戦いとなった。

門司城の戦いで毛利元就は勝っています。
門司城を九州への足掛かりとしたい元就は、何度も大友領を攻めてこれを奪います。和睦(わぼく)を装った謀略を駆使して、ついに門司城を手に入れました。

月山富田城の戦い がっさんとだじょうのたたかい 1565.4.17 〜 1566.11.21 ○ 毛利軍3万 vs 尼子軍1万 ●

尼子氏の居城である月山富田城(島根県安来市広瀬町)をめぐって、たびたび行われた合戦。第2次合戦では、尼子十旗と呼ばれる支城を落とした毛利軍によって包囲される。山中鹿介が一騎討ちを制するなど尼子軍も奮戦したが、毛利元就の兵糧攻めによって陥落した。

月山富田城の戦いで毛利元就は勝っています。
第2次合戦で尼子氏を降した元就は、尼子一族を安芸(あき)に引き取って幽閉(ゆうへい)しました。事実上、戦国大名としての尼子氏は滅亡し、毛利氏が中国地方を完全に制圧しました。

毛利元就の詳しい年表と出来事

毛利元就は西暦1497年〜1571年(明応6年〜元亀2年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。

14971毛利弘元の次男として安芸国に生まれる。幼名:松寿丸
15004父・毛利弘元が隠居。兄・毛利興元が家督を相続。
父と多治比猿掛城に引っ越す。
150610父・毛利弘元が死去。
家臣・井上元盛に領地を横領され、追い出されてしまう。
母も他界していたため、養母・杉大方を頼る。
151115元服 → 多治比(少輔次郎)元就
151620兄・毛利興元が死去。兄の嫡男・幸松丸が家督を相続。
幸松丸の後見になる。
151721”有田中井手の戦い”吉川領に侵攻した武田元繁と熊谷元直を討ち取って撃退する。
吉川国経の娘(妙玖)と結婚。
152327”鏡山城の戦い”大内義興との戦に参加。
幸松丸の死去により家督を相続。
改名 → 毛利元就
152428尼子氏の支援を受けた異母弟・相合元綱が毛利氏家督争いに擁立される。相合元綱を自害させて鎮圧する。
152529尼子経久から離反して、大内義興に臣従する。
152832主君・大内義興が死去。次代・大内義隆に仕える。
152933高橋興光を破り安芸国、石見国を制圧する。
153539備後国に侵攻。多賀山通続を降伏させる。
153741嫡男・隆元を人質として大内氏に預ける。
154044”吉田郡山城の戦い”尼子詮久(晴久)との戦に参加。居城にて迎撃、撃退する。
安芸国内の尼子勢力を駆逐し、安芸武田氏を攻め滅ぼす。武田家滅亡
安芸武田氏の川内警固衆を毛利水軍に組み入れる。
154347”第1次月山富田城の戦い”尼子晴久との戦に参加。大内軍の最後尾を担う。
154448三男・徳寿丸(隆景)を竹原小早川氏の養子にして当主にする。
154549妻(妙玖)と養母(杉大方)が相次いで亡くなる。
154650長男・毛利隆元に家督を譲る。引き続き政治・軍事を主導する。
154751次男・元春を妻の実家である吉川氏の養子にする。
”神辺合戦”陶隆房(晴賢)と山名理興を攻める。
155054横暴にふるまっていた家臣・井上元兼とその一族を抹殺。
家臣全員に起請文に署名をさせて、毛利家への忠誠を誓わせる。
吉川氏の当主・吉川興経と子・千法師を謀殺。
次男・元春を吉川氏の当主にする。
沼田小早川氏の当主・小早川繁平を拘禁したのち、隠居、出家させる。繁平派を粛清。
三男・隆景と繁平の妹を結婚させて沼田と竹原2つの小早川氏を統合する。
155155主君・大内義隆が死亡。【大寧寺の変】
陶隆房の謀反に呼応して安芸国を制圧する。
安芸国を平定。
大内義隆を討った陶隆房が大内義長を当主に擁立。これに賛同する。
義隆派の国人を攻撃。頭崎城を攻略、平賀氏の実権を握る。
155357備後国に侵攻し、高杉城と旗返山城を攻略。
安芸国に侵攻してきた尼子晴久を撃退する。
大内氏の実権を握る陶晴賢と関係が悪化。讒言を用いて大内家中の内部分裂を誘う。
155458陶晴賢からの三本松城攻めの招集を拒否。大内領・厳島などを接収する。
大内氏から独立。厳島などを奪う。
”折敷畑の戦い”安芸国に侵攻してきた陶軍を撃退。宮川房長を討ち取る。
大内領・周防国に侵攻する。
陶晴賢が厳島に侵攻してくる。宮尾城で撃退する。
*呉水軍と能美水軍を三男・小早川隆景に討伐させる。能美島を占拠。
155559”厳島の戦い”厳島の奪還に動いた陶晴賢を奇襲して撃破。村上水軍に退路を断たせて陶晴賢を自害させる。
155660”忍原崩れ”尼子晴久に敗れ、石見銀山を奪われる。
155761大内領に侵攻。大内義長を自害させる。【防長経略】大内家滅亡
周防国を平定。
長門国を平定。
大内氏の遺領から豊前国を大友領とし大友義鎮(宗麟)と不可侵条約を結ぶ。
大友家臣・秋月文種を調略する。
155862”第1次門司城の戦い”*次男・吉川元春と三男・小早川隆景に大友領・門司城を攻めさせる。大友氏の反撃に遭う。
155963大友派の豊前国・国人衆を調略する。
豊前国で浪人一揆を起こさせる。大友領・門司城、花尾城、香春岳城を占拠する。
”第2次門司城の戦い”*大友氏が門司城に攻めてくる。長男・隆元と三男・小早川隆景が迎撃するが敗れる。
”降露坂の戦い”石見銀山の奪還のため、尼子領を攻めるが大敗する。
156064”第3次門司城の戦い”*仁保隆慰が門司城を大友氏から奪還する。
156165*大友義鎮に香春岳城を奪い返される。
”第4次門司城の戦い”*大友氏が門司城に攻めてくる。三男・小早川隆景が撃退する。
*香春岳城を大友氏から奪還。
156266*大友義鎮に香春岳城を奪い返される。
”第5次門司城の戦い”*大友氏が門司城に攻めてくる。小原隆言と桑原龍秋が撃退する。
将軍・足利義輝の仲介により大友義鎮と休戦する。
156367当代・毛利隆元が死去。隆元の嫡男・幸鶴丸(輝元)が家督を相続。引き続き政治・軍事を主導する。
156468大友宗麟に門司城を除く筑前国、豊前国の城を引き渡して和睦。
156670”第2次月山富田城の戦い”7ヶ月の兵糧攻めにより、尼子義久を降す。尼子家滅亡
伯耆国を平定。
出雲国を平定。
隠岐国を平定。
大病を患い、名医・曲直瀬道三の治療を受ける。
156771宍戸隆家の娘を河野通宣と結婚させて影響力を強める。
河野通宣が従属する。
*河野道宣と村上通康の要請を受けて三男・小早川隆景を伊予国に出陣させる。
大友家臣・原田隆種・親種父子を調略する。
大友氏との和睦が破談。
156872大友家臣・高橋鑑種、立花鑑載を調略する。
筑前国・筑紫惟角、宗像氏貞を大友宗麟から離反させる。
156973大友領・筑前国に侵攻する。
”立花合戦”*次男・吉川元春と三男・小早川隆景に立花山城を攻め落とさせる。
”多々良浜の戦い”立花山城の奪還に来た大友宗麟と対陣。小規模な争いを18回行う。出雲国で尼子再興派が挙兵したため撤退する。
*大内輝弘の大内再興派が周防国で挙兵。次男・吉川元春が鎮圧する。【大内輝弘の乱】
”原手合戦”*服部左兵衛らが尼子再興派に敗れる。
尼子再興派が月山富田城に侵攻してくる。
織田信長の仲介により大友宗麟と和睦。筑前国から撤退する。
157074”布部山の戦い”*孫・輝元を総大将に尼子再興派の鎮圧に向かわせる。
157175安芸国・吉田郡山城で病死。
戦国時代で毛利元就が生きた期間の表

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