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吉川元春

1530.?〜 1586.12.25

 
吉川元春のイラスト
  

吉川元春(毛利元春)は、現在の広島県西部にあたる安芸国の武将です。毛利元就の次男ですが、安芸国人の吉川氏の養子に入り、家督を継ぎます。弟・小早川隆景と毛利両川の一翼を担って、尼子氏との戦いなど、山陰地方の制圧に活躍しました。生涯76戦で負けなし。毛利氏の御四人に列する猛将です。享年57歳。

吉川元春は何をした人?このページは、吉川元春のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと吉川元春が好きになる「生涯無敗、不退転の覚悟の背水の陣で秀吉をびびらせた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:毛利元春 → 吉川元春
  • 幼 名:松寿丸
  • 官 位:従四位下、治部少輔、駿河守
  • 戦 績:76戦 64勝 0敗 12分
  • 出身地:安芸国(広島県)
  • 居 城:小倉山城 → 日野山城
  • 正 室:新庄局(熊谷信直の娘)
  • 子ども:4男 2女
  • 跡継ぎ:吉川元長
  • 父と母:毛利元就 / 妙玖
  • 養 父:吉川興経

生涯無敗、不退転の覚悟の背水の陣で秀吉をびびらせた

晩年をむかえた太閤(たいこう)・豊臣秀吉は「吉川元春とのいくさの話がしたい」と、(なつ)かしむように振り返ったといいます。

秀吉のいう吉川元春とのいくさとは、1581年の馬ノ山の対陣のこと。吉川元春はこの対陣で、不退転(ふたいてん)の覚悟を見せつけた荒ぶる勇ましさで、秀吉が率いた数万の軍勢を尻込みさせました。

不退転(ふたいてん)」とは、何事にも屈せず、決して退(しりぞ)かないこと。謀略を得意とした毛利元就の次男として生まれた吉川元春でしたが、父と似つかわない剛直そのものの性質で、戦場では生涯無敗という闘将でした。


橋をぶっ壊して
自ら退路を断つ

大きな川や海などを背に陣立て、あとに引けない状況に自らを置くことを「背水(はいすい)の陣」といいます。中国の楚漢(そかん)戦争で、(かん)軍が用いたとされる捨身の戦法です。

1581年10月、羽柴(豊臣)秀吉のえげつない兵糧攻めによって、毛利領の鳥取城が陥落しました。城内の者は餓鬼(がき)のごとく()(おとろ)え、人肉を食らう状況だったといい、この兵糧攻めは『鳥取の(かつ)え殺し』と呼ばれる凄惨(せいさん)なものでした。この惨状を聞いて、吉川元春は噴怒(ふんぬ)します。

鳥取城の援軍に向かっていた吉川元春は鳥取城が落とされた日、付近の馬ノ山に到着。秀吉軍もすぐに対応し、6万の軍勢が馬ノ山で対陣しました。

吉川元春の兵は6千ほどしかおらず、兵力差は歴然。将兵たちは「一旦、退きましょう」と告げますが、吉川元春は耳を貸しません。鳥取城を攻めた秀吉の非人道的なやり方が許せなかったのです。

雪が降る橋津川(はしづがわ)に陣を構えた吉川元春は、川に架かる橋を破壊しました。味方の舟もすべて焼き払い、橋津川(はしづがわ)を背にして馬ノ山の上から秀吉軍をにらみます。山の上に土塁と堀を築いて敵を待ち受けました。

不退転(ふたいてん)の覚悟を示した「吉川元春の背水(はいすい)の陣」です。

馬ノ山の対陣の図

10倍の兵を前にしても一歩も引かず、臨戦態勢をとった吉川元春をみた秀吉は、恐ろしさのあまり震えました。馬ノ山の背後では舟が燃える炎があがっており、吉川元春が地獄の入り口に立つ鬼のように見えたのです。

秀吉は、このときのビリビリする緊張感を生涯忘れることはなく、思い返すたびに奮い立たされる記憶を周囲に何度も話しました。その様子は、興奮して目を輝かせていたといいます。

馬ノ山の対陣は、吉川元春の気迫を前にした秀吉が交戦せずに撤退しました。結果的に背水(はいすい)の陣が功を奏したのです。囲碁で思い切った手を打つことを『吉川の橋を引く』と言い、この出来事が語源になっています。

父・毛利元就は「攻戦はすべて元春に任せなさい。そうすればどんな敵でも負けることはない。元春の意見を用いなければ負ける」と話していました。事実、吉川元春が参戦して毛利軍が負けたことはありませんでした。

生涯を簡単に振り返る

1530年、吉川元春は安芸国(あきのくに)吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)に毛利元就の次男として生まれます。母の実家の養子になり、吉川家を継ぎました。弟・小早川隆景と協力して『毛利両川(りょうせん)』の山陰地方を統制し、毛利宗家(そうけ)を支えました。父や兄弟と中国地方を統一したのち、織田家臣・豊臣秀吉と争うようになります。

信長の死後、秀吉が覇権を握るとみた弟・隆景がこれにつくべしと説いて、毛利氏は降ります。この意見に賛成できず、秀吉の家来になりたくないという理由から隠居してしまいました。

最後と死因

秀吉の四国攻めに参陣を求められますが拒否。つづく九州征伐に呼び出され、しぶしぶ加わります。しかし、病気が悪化していた吉川元春は豊前国(ぶぜんのくに)・小倉城の陣中で亡くなりました。1586年12月25日、死因は化膿性炎症に起因するがん。57歳でした。

吉川元春の性格と人物像

吉川元春は「どこまでも強気でイケイケな人」です。

親に相談もなく勝手に結婚してしまうなど、予測不能なところがあり、父から「犬コロのようにかわいいやつ」と可愛がられました。本能的な衝動(しょうどう)に素直で野生的な勘に優れ、戦場での覚悟は凄まじく、退くことは絶対にしません。

不美人といわれる嫁をもらった際は、周囲に「ブスをもらってやった俺に義父も感謝するだろう」なんて強がってみせますが、奥さんとめちゃくちゃ仲良しの愛妻家です。奥さん一筋で、子沢山の家庭を築いています。

尼子氏を討伐する陣中で、およそ2年かけて太平記を書き写しています。原作に忠実な全40巻が記されている貴重な資料として『吉川本太平記(きっかわぼんたいへいき)』は、国指定の重要文化財になっています。

三鍬形(みつくわがた)の前立てが雄々しいカラフルな兜を愛用しており、吉川元春が実際に着用していたものが現存しています。

能力を表すとこんな感じ

吉川元春の能力チャート

無敗の男、吉川元春の魅力は統率力です。戦いにおいて天才的な勘が働くタイプ。ずば抜けた攻撃センスがあり、守りを必要としない度胸も持ち合わせました。

信長の野望シリーズに登場する吉川元春の能力値も参考にしています。

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吉川元春の有名な戦い

吉田郡山城の戦い よしだこおりやまじょうのたたかい 1540.6.? 〜 1541.1.13 ● 尼子軍3万 vs 大内(毛利)軍1万2千 ○

大内氏と交戦する尼子晴久が吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町)を攻めた合戦。郡山合戦ともいわれる。尼子軍と毛利勢が激突した第2次侵攻で、毛利元就は少数の兵を三手に分けて尼子軍を攻撃。大打撃を与えて撃退した。この戦いの後、尼子氏は安芸から撤退した。

吉田郡山城の戦いで吉川元春は勝っています。
まだ元服もしていない11歳の元春は、父の反対を押し切って初陣(ういじん)します。このときから自ら戦場に立つ勇猛なスタイルは確立されました。

厳島の戦い いつくしまのたたかい 1555.10.16 ● 大内(陶)軍2万 vs 毛利軍4千 ○

兵数で劣る毛利元就は、厳島(広島県廿日市市宮島町)に陶晴賢の大軍を誘い出すことに成功。毛利軍は、小早川隆景らの別働隊と同時に、風雨の激しい夜に作戦を開始した。挟撃による奇襲に慌てた陶軍は混乱して舟に向かうが、村上水軍がこれを迎撃。陶晴賢は自害した。

厳島の戦いで吉川元春は勝っています。
吉川元春のターニングポイントになった戦いです。
父、兄とともに陸軍を率いて(すえ)軍を襲撃、敗走する陶晴賢(すえはるかた)を追撃しました。晴賢(はるかた)が自害したあとも抵抗を続ける弘中隆兼・隆助父子をしつこく追い、柵で包囲して討ち取りました。

月山富田城の戦い がっさんとだじょうのたたかい 1565.4.17 〜 1566.11.21 ○ 毛利軍3万 vs 尼子軍1万 ●

尼子氏の居城である月山富田城(島根県安来市広瀬町)をめぐって、たびたび行われた合戦。第2次合戦では、尼子十旗と呼ばれる支城を落とした毛利軍によって包囲される。山中鹿介が一騎討ちを制するなど尼子軍も奮戦したが、毛利元就の兵糧攻めによって陥落した。

月山富田城の戦いで吉川元春は勝っています。
父の指揮下で弟・隆景とともに毛利軍の一翼を担います。月山富田城の西側にある塩谷口で、尼子倫久(ともひさ)と山中鹿之助の軍勢と戦いました。

上月城の戦い こうづきじょうのたたかい 1578.4.18 〜 7.3 ○ 毛利軍3万 vs 尼子再興軍3千 ●

織田軍に降った尼子勝久ら再興派が篭る上月城(兵庫県佐用郡佐用町)を、吉川元春を中心とした毛利軍が攻めた合戦。陣城に空堀や柵で防備を固めた毛利軍は、圧倒的な大軍で包囲、威嚇した。三木城攻めを優先する織田軍からの援軍はなく、孤立した尼子軍は降伏開城した。

上月城の戦いで吉川元春は勝っています。
毛利陣営にいた弟・隆景の策で積極的な戦闘が行われなかった合戦です。損失を出さずに、尼子再興派を降しますが、これを機に織田氏との対立が激化します。

備中高松城の戦い びっちゅうたかまつじょうのたたかい 1582.4.15 〜 6.4 △ 織田軍3万 vs 毛利軍5千 △

織田氏の羽柴秀吉が、備中高松城(岡山県岡山市北区高松)を攻めた合戦。秀吉は蜂須賀正勝に命じて、足守川の水をせきとめる高8m、幅12mの堤防を構築し、清水宗治が篭る高松城を水没させた。しかし、本能寺の変が起こったため、毛利氏と和睦することとなった。

備中高松城の戦いで吉川元春は引き分けています。
高松城の救援に向かいますが、すでに水没していました。秀吉と和睦(わぼく)したあと、信長の死亡を知って追撃を主張するものの、聞き入れられませんでした。

吉川元春の詳しい年表と出来事

吉川元春は西暦1530年〜1586年(享禄3年〜天正14年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。

15301毛利元就の次男として安芸国に生まれる。幼名:松寿丸
154011”吉田郡山城の戦い”初陣。尼子詮久(晴久)との戦に参加。
154314元服 → 毛利(少輔次郎)元春
154718熊谷信直の娘(新庄局)と結婚。
母・妙玖の従兄・吉川興経の養子になる。興経の子・千法師を養子にする。
”神辺合戦”山名理興との戦に参加。
155021父・毛利元就の命令で、義父・熊谷信直が養父・吉川興経と千法師が謀殺する。
養父・興経の死去により吉川氏の家督を相続。
小倉山城に入る。
日野山城を築き、居城を移す。
155526”厳島の戦い”陶晴賢との戦に参加。
155627”忍原崩れ”尼子晴久との戦に参加。
155829”第1次門司城の戦い”弟・小早川隆景と大友領・門司城を攻める。
155930”降露坂の戦い”尼子晴久との戦に参加。
156334兄・毛利隆元が死去。甥・毛利輝元を補佐して軍事を担当する。
156637”第2次月山富田城の戦い”尼子義久との戦に参加。尼子家滅亡
156940”立花合戦”大友宗麟との戦に参加。弟・小早川隆景と立花山城を攻め落とす。
”多々良浜の戦い”大友宗麟との戦に参加。
大内輝弘の大内再興派が周防国で挙兵。大内輝弘を自害せて鎮圧する。【大内輝弘の乱】
157041”布部山の戦い”尼子再興派の鎮圧戦に参加。石見勢を率いて第1陣を戦う。
157142父・毛利元就が死去。次々代・毛利輝元に仕える。
”新山城の戦い”尼子再興派の拠点である新山城を攻略。尼子勝久は逃走。山中鹿介を捕らえるが脱走される。
157344山名領・鳥取城を攻める。山名豊国を降す。
157546尼子再興派に占拠された若桜鬼ヶ城を包囲する。
157748播磨国に侵攻してきた織田家臣・羽柴(豊臣)秀吉と争う。
157849弟・小早川隆景と播磨国に侵攻する。
”第2次上月城の戦い”尼子再興派が篭る上月城を威嚇行動と兵糧攻めで陥落させる。尼子勝久ほか一族は自害。
158152織田家臣・羽柴秀吉に攻められる鳥取城の救援に向かうが間に合わず。
”馬ノ山の対陣”羽柴秀吉と対陣する。背水の陣で退かせる。
158253”備中高松城の戦い”羽柴秀吉に包囲される高松城の救援に向かう。岩崎山に布陣する。
織田信長が死亡。【本能寺の変】
長男・吉川元長に家督を譲り隠居。
158657”九州征伐”豊臣秀吉の要請を受けて島津氏の討伐戦に参加。宮山城を攻略し、小早川隆景と松山城、宇留津城、障子岳城を攻める。
豊前国・小倉城の陣中で病死。
戦国時代で吉川元春が生きた期間の表

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