しまづ よしひさ

島津義久

1533.3.4 〜 1611.3.5

 
島津義久の面白いイラスト
  

島津義久(龍伯、義辰、忠良)は、現在の鹿児島県西部にあたる薩摩国の武将・大名です。島津四兄弟の長男。戦上手な弟たちと従弟を巧みに操り、大友氏や龍造寺氏を破って九州統一に迫りました。豊臣秀吉に降伏、その後は徳川氏の時代を過ごし、考察に優れた時勢を読む対応力で、島津家を守り抜きました。享年79。

島津義久は何をした人?このページは、島津義久のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと島津義久が好きになる「雑なウソでひきこもって家康から九州の領地を守った」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:島津忠良 → 島津義辰 → 島津義久 → 島津龍伯
  • 幼 名:虎寿丸
  • 官 位:従五位下、従四位下、修理大夫、贈従三位
  • 幕 府:薩摩守護、大隈守護、日向守護
  • 出身地:薩摩国(鹿児島県)
  • 領 地:九州地方
  • 居 城:内城 → 富隈城 → 国分城
  • 正 室:花舜夫人(島津忠良の娘)、円信院殿(種子島時堯の娘)
  • 子ども:3女 2養
  • 跡継ぎ:島津忠恒
  • 父と母:島津貴久 / 雪窓夫人
  • 大 名:島津氏16代当主

雑なウソでひきこもって家康から九州の領地を守った

島津四兄弟の長男・島津義久とは、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)する戦国期に島津氏の勢力を大きく拡大し、時代が変わって江戸期になっても島津ブランドを維持(いじ)しつづけた名将です。

祖父・島津忠良は、島津義久のことを「三州(薩摩(さつま)大隈(おおすみ)日向(ひゅうが))の総大将たるの材徳自ら備わる」と評しています。

島津義久と弟たちは、1569年の薩摩国(さつまのくに)平定を皮切りに、1574年に大隈国(おおすみのくに)を平定、1578年に日向国(ひゅうがのくに)を平定し、九州南部の三州を制圧。

その勢いは(すさ)まじく、伊東氏、肝付氏、大友氏、龍造寺氏、阿蘇氏など、つぎつぎと総ナメにして九州統一まであと一歩のところまで(せま)ります。

祖父が見込(みこ)んだとおり、島津義久は三人の弟と従弟(いとこ)(たく)みに動かして九州に大旋風(だいせんぷう)を巻き起こしました。

しかし、1587年に最強の敵が九州に上陸します。豊臣秀吉です。

15万を()える秀吉の九州征伐(せいばつ)軍には歯が立たず、島津四兄弟は敗れてしまいました。

時は流れ、天下を取った秀吉も亡くなると、今度は徳川家康が台頭し、島津氏は再び窮地(きゅうち)に立たされます。

しかし、最強の引きこもりと言われた島津義久が真骨頂(しんこっちょう)を発揮するのはここからでした。


会わなければ問題ない
関ヶ原の追及を回避

1600年の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、豊臣氏に変わって天下の覇権(はけん)(にぎ)ります。この戦いで徳川に敵対した大名家はことごとく(ばっ)せられ、所領を没収(ぼっしゅう)されました。

島津家からは長弟・義弘が関ヶ原に参戦していました。義弘は、徳川と敵対する側に(くみ)しており、これは(ばっ)せられてしまう対象となります。たとえ当主の島津義久がそこに居なかったとしても。

徳川家康は、関ヶ原における島津家の責任を追求してきます。

これを受けて島津義久は「弟がそこに居ただけ。島津家の総意ではない」と話し、関与(かんよ)を否定しました。

確かに、弟の義弘から関ヶ原に援軍(えんぐん)を送ってくれと要請(ようせい)があっても島津義久は断り続けました。

とはいえ、関ヶ原の戦いのおり、九州において小西行長(反徳川派)を助けて加藤清正(親徳川派)と交戦するなど、島津義久もまったく関与(かんよ)していないわけではありませんでした。

こういった事情もふまえて、家康からしつこく追求を受けますが、島津義久は「自分は知らない」の一点張りで、交渉(こうしょう)のテーブルにつこうとしませんでした。

ここからふたりのやりとりは、シュールな平行線をたどります。

関ヶ原の戦いのあと、徳川家康と島津義久のあいだで行われたやりとり

具合が悪いとか、お金がないとか、そっちに向かう道を整備しているとか。

島津義久は2年もの間みえすいた(うそ)をついて薩摩(さつま)にひきこもり、徳川家康に会いませんでした。

結局、さんざん待たされた徳川家康が「いいよもう( ´ー`)」と折れて、島津氏はおとがめなし。所領を没収(ぼっしゅう)されずに済んだのでした。


徳川の船が沈む
薩摩沖の怪

関ヶ原の戦後処理でバタバタしていた1600年のある日、(みん)国と貿易をする徳川家の船が薩摩(さつま)沖で沈没(ちんぼつ)します。

薩摩(さつま)沖……(島津がやったのかもしれない)という、薄気味悪(うすきみわる)さを感じさせる事故が発生しました。

関ヶ原に参戦した島津兵は1,600ほどでしたが、国力からすれば数万は動員できたはず。徳川と一戦かまえるつもりで温存しているのでは……。

家康はすっかり疑心暗鬼(ぎしんあんき)になってしまいます。

それ以来、家康は()れものをさわるように島津義久に気をつかいます。

ようやく対面したときも、九州制覇(せいは)(せま)った手腕(しゅわん)を家康から()められた島津義久は「弟や家臣をつかって勝ったのであって私の手柄(てがら)ではない」と謙遜(けんそん)します。

すかさず家康は「自ら動くことなく勝利をつかむとは源頼朝と並ぶ器だ!まさに大将だ!」と最大級の賛辞で ()れもの 島津義久をヨイショしました。

結局、島津義久を誅伐(ちゅうばつ)することができなかった家康は、島津氏のことが気がかりすぎて「わしが死んだら薩摩(さつま)に向けて埋葬(まいそう)してくれ」と遺言したといいます。

島津義久は、内紛(ないふん)が絶えなかった島津一族をまとめ、四兄弟と従弟(いとこ)たちを従えて強固な集団をつくりあげ、その頂点に君臨しました。

豊臣政権では冷遇(れいぐう)されますが、徳川政権で復権し、幕末まで島津氏の領地となる薩摩(さつま)を江戸幕府から守ったのでした。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1533年、島津義久は薩摩国(さつまのくに)伊作城(いざくじょう)に守護大名である島津貴久の長男として生まれます。島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の一番上です。父から家督(かとく)()ぎ、弟たちと協力して10年ほどで薩摩国(さつまのくに)大隈国(おおすみのくに)日向国(ひゅうがのくに)の三州を制し、鎌倉時代からの所領の奪還(だっかん)に成功します。肥前国(ひぜんのくに)の龍造寺氏を(たお)し、北九州も制圧しました。

九州制覇に迫るが…

大友領を除いて九州統一まであと一歩に(せま)りますが、豊臣秀吉の九州征伐(せいばつ)軍に敗れて降伏(こうふく)しました。島津義久には男子がいなかったので、長弟・義弘の三男・忠恒に(むすめ)(とつ)がせ、義弘と忠恒と『三殿体制(さんでんたいせい)』と呼ばれて島津家を牽引(けんいん)しますが、(むすめ)夫婦の仲が悪く、次第に疎遠(そえん)になってしまいました。

最後と死因

大隈国(おおすみのくに)・国分城を築いて移り住み、島津義久は8年ほどそこで過ごして亡くなりました。1611年3月5日、死因は病気。79歳でした。晩年、義弘と忠恒父子は琉球(りゅうきゅう)出兵を推進しましたが、これに反対していました。

領地と居城の移り変わり

島津義久の領地・勢力図(1572年)
島津義久の領地・勢力図(1586年)

九州の大半、250万石が島津義久の領地でした。1587年に豊臣秀吉によって再編され、薩摩国(さつまのくに)だけが島津義久の領地として残りました。長弟・義弘には日向国(ひゅうがのくに)大隈国(おおすみのくに)(あた)えられました。

島津義久の性格と人物像

島津義久は「落ち着いていて貫禄(かんろく)がある人」です。

表面的な豪華(ごうか)さや派手さよりも、結果さえともなっていれば見栄を張らなくても良いという実利主義・功利主義です。

物静かで(ひか)えめ。面倒見(めんどうみ)が良いしっかりもので、威厳(いげん)があります。血の気が多い弟たちも義久の言うことには従いました。

豊臣秀吉の惣無事令(そうぶじれい)(私戦禁止令)を無視して侵略(しんりゃく)戦争をする、徳川家康の呼び出しをうやむやにするなど、強気な外交にも表れているように、簡単にはイエスともノーともいわない頑固者(がんこもの)です。

鎌倉以来の守護大名というアイデンティティへの自尊心が強く、秀吉の関白(かんぱく)就任も意に(かい)さず「(いや)しい出自の者」として馬鹿にしています。

部屋に歴代の悪人たちの絵を(かざ)っていたといい、それを反面教師として見るたびに自身を(いさ)めていました。先人の失敗から学び、くり返さないことを心がけていました。

戦いの前は、くじで吉凶(きっきょう)(うらな)う意外な一面もあります。

能力を表すとこんな感じ

島津義久の能力チャート

島津義久には、どっしりとした安定感があります。当主の才覚が備わっており、人をまとめる人望や政治的判断に優れています。自身では手をくださず、配下の者を動かす戦略眼と指揮能力も見事です。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する島津義久の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

島津義久の面白い逸話やエピソード

タバコの生産を奨励していた

1543年に鉄砲(てっぽう)とともに日本にタバコが伝来したといわれています。

1606年、島津義久は家臣の服部宗重を煙草奉行(たばこぶぎょう)に任命して、国分郷梅木でタバコの葉を栽培(さいばい)しました。領内で普及(ふきゅう)させていき『国分煙草(こくぶたばこ)』は、島津氏の財源のひとつになります。

葉の色と香りが良く、江戸時代になって全国的に流通されるようになると、明治時代には最高級の銘柄(めいがら)として(あつか)われます。

第1次世界大戦以降は需要(じゅよう)が減りましたが、400年以上経った現在も改良品種が栽培(さいばい)されています。

島津義久の有名な戦い

木崎原の戦い きざきばるのたたかい 1572.6.14 ● 伊東軍3千 vs 島津軍3百 ○

島津氏の加久藤城を伊東祐安が攻めた合戦。島津義弘がわずか300の兵で迎撃。少ない手勢をいくつかに分けて、木崎原(宮崎県えびの市)周辺に配置した義弘は、伊東軍を誘導し、囲み討ちにした。伊東祐安をはじめ、多くを討ち取った。九州の桶狭間といわれている奇襲戦。

木崎原の戦いで島津義久は勝っています。

義久の出陣(しゅつじん)はありませんでしたが、長弟・義弘が寡兵(かへい)で伊東軍に劇的な勝利をしています。

耳川の戦い みみかわのたたかい 1578.11.19 〜 12.10 ● 大友軍4万 vs 島津軍3万 ○

日向国を制圧した島津氏に対して、大友宗麟が進軍。大筒を投入し、耳川ちかくの高城(宮崎県児湯郡木城町)を積極的に攻めた合戦。島津義久は伏兵を配備して迎撃する。島津義弘と、高城から出撃した島津家久が伏兵によって大友軍を一網打尽にした。高城川の戦いとも。

耳川の戦いで島津義久は勝っています。

島津義久のターニングポイントになった戦いです。
弟たちと総出で大友軍を迎撃(げいげき)し『()野伏(のぶ)せ』の戦法で撃破(げきは)しました。義久は根白坂から出撃(しゅつげき)して大友軍を攻撃(こうげき)撤退(てったい)させています。九州最大勢力だった大友氏に勝ったインパクトは大きく、周辺勢力が続々と島津氏に降る流れを生みました。

沖田畷の戦い おきたなわてのたたかい 1584.5.4 ● 龍造寺軍2万5千 vs 有馬&島津軍6千 ○

離反した有馬晴信を龍造寺隆信が攻めた合戦で、島津家久が有馬氏の援軍として参陣。泥田・沼地の沖田畷(長崎県島原市北門町)を決戦の地とした。地形を利用した伏兵戦術で、有馬軍と島津軍が圧勝。大敗を喫した龍造寺氏は、龍造寺隆信ほか多数が討ち死にした。

沖田(なわて)の戦いで島津義久は勝っています。

義久は出陣(しゅつじん)していません。末弟・家久が単独軍で有馬晴信の陣営(じんえい)に加わり、大勝しました。この勝利により、龍造寺氏が降伏(こうふく)、隈部氏、秋月氏も続けて降伏(こうふく)し、島津氏は勢力を大きく拡大しました。

九州征伐 きゅうしゅうせいばつ 1586.10.? ○ 豊臣軍? vs 島津軍? ●

惣無事令に違反して大友領を攻めた島津氏の討伐軍を豊臣秀吉が派兵した。毛利輝元を先導役とした豊臣軍は門司城(福岡県北九州市門司区)に着陣。島津義久が抗戦の姿勢を見せ、秋月種実に迎撃させたことで戦いが始まり、大友領をめぐって雌雄を決することとなる。九州の役とも。

九州征伐(せいばつ)で島津義久は敗れています。

大友氏の豊前国(ぶぜんのくに)まで侵攻(しんこう)したところで、大友宗麟の助けに応じた豊臣秀吉の軍勢との全面対決が勃発(ぼっぱつ)します。毛利勢に豊前国(ぶぜんのくに)筑前国(ちくぜんのくに)を制圧された義久は、大友氏の本国である豊後国(ぶんごのくに)()める方針に転換(てんかん)しました。

戸次川の戦い へつぎがわのたたかい 1587.1.20 ○ 島津軍1万 vs 豊臣軍2万 ●

豊後国に侵攻した島津家久が大友氏の鶴ヶ城を攻める。これを救援するため、仙石秀久を主将とした豊臣軍が戸次川(大分県大分市中戸次)に布陣。秀吉は待機するよう命じたが、仙石隊は攻撃を開始してしまう。島津軍はこれを返り討ちにし、長宗我部信親を討ち取った。

戸次川の戦いで島津義久は勝っています。

義久は出陣(しゅつじん)していません。末弟・家久が単独で豊臣方の先陣(せんじん)と交戦し、迎撃(げいげき)に成功しています。豊臣氏との戦いで勝利したのは、この戦いだけでした。

根白坂の戦い ねじろざかのたたかい 1587.5.24 ○ 豊臣軍15万 vs 島津軍3万5千 ●

九州東部から薩摩国に迫る豊臣秀長に対し、局面を打破したい島津義弘が決戦を挑む。島津勢は根白坂(宮崎県児湯郡木城町)を急襲するが、すでに砦を構築していた豊臣軍が迎撃。苦戦した島津軍は夜襲を仕掛けるが、これを予見していた黒田官兵衛が返り討ちにし、壊滅させた。

根白坂の戦いで島津義久は敗れています。

豊臣軍が九州西側に主力部隊を配していたことで裏をかかれてしまいます。西側の諸勢力が秀吉に寝返(ねがえ)ってしまい、不利な状況(じょうきょう)に。長弟・義弘が豊臣軍の東部隊に決戦に臨みますが敗れ、降伏(こうふく)しました。義久は剃髪(ていはつ)し、島津四兄弟の九州統一の夢は絶たれました。

島津義久の詳しい年表と出来事

島津義久は西暦(せいれき)1533年〜1611年(天文(てんぶん)2年〜慶長(けいちょう)16年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍(かつやく)した武将です。

15331島津貴久の嫡男として薩摩国に生まれる。幼名:虎寿丸
元服 → 島津(又三郎)忠良
改名 → 島津義久
155422”岩剣城の戦い”蒲生氏、祁答院氏、入来院氏、菱刈氏との戦に参加。
155725”西大隅の戦い”蒲生氏が降伏、配下になる。日本で初めて鉄砲が実戦使用された。
156432日向国・飯野城に長弟・義弘を入れる。
156634築城中の三ツ山城を攻めるが、伊東義祐に敗れる。
父・島津貴久の隠居により家督を相続。
156735菱刈氏を撃破。
156836大口城を攻めるが、相良氏&菱刈氏に敗れる。
156937*末弟・家久が相良晴陽を撃破。新納忠元を大口城に入れる。
菱刈氏が降伏、配下になる。
東郷氏が降伏、配下になる。
入来院氏が降伏、配下になる。
薩摩国を平定。
157240”木崎原の戦い”*薩摩国に侵攻してきた伊東氏を長弟・義弘が撃退する。
157442肝付兼亮、伊地知重興が配下になる。
大隈国を平定。
157644伊東氏の高原城を攻略。小林城、須木城、三ツ山城、野首城、岩牟礼城などが降伏開城する。
157745*従弟・忠長に伊東領・櫛間城を攻め落とさせ、飫肥城を包囲する。
伊東家臣・福永祐友を調略する。
伊東領・内山城、紙屋城を調略で降す。
伊東義祐を豊後国へ敗走させる。
157846”石城合戦”*従弟・忠長と以久が伊東領・石城を攻めるが敗れる。
”耳川の戦い”田原親賢が率いる大友軍が日向国に侵攻してくる。迎撃し撃退する。耳川に追撃して多くの兵を溺死させる。
日向国を平定。
158149*島津忠平が龍造寺家晴と高瀬川で対峙する。秋月種実の仲裁で和睦する。
相良義陽が降伏、配下になる。
158250有馬晴信が龍造寺氏から離反。龍造寺氏の千々石城を長弟・義弘と末弟・家久が攻略する。
158452”沖田畷の戦い”*末弟・家久が龍造寺氏の大軍を撃破し、龍造寺隆信を討ち取る。
龍造寺政家が降伏、配下になる。
隈部親永・親泰父子が降伏、配下になる。
秋月種実が配下になる。
肥前国を平定。
日向国・佐土原城に末弟・家久を入れる。
158553”阿蘇合戦”*長弟・義弘が阿蘇惟光を撃破。
肥後国を平定。
豊臣秀吉から九州地方での領土紛争を禁止される。【惣無事令】
※この頃、長弟・島津義弘に家督を譲ったかもしれない。
158654”岩屋城の戦い”*従弟・忠長と伊集院忠棟が大友領・岩屋城を攻略。
”立花山城の戦い”*従弟・忠長と伊集院忠棟が大友領・立花山城を包囲。豊臣氏が九州上陸したため撤退させる。
龍造寺政家が離反する。
大友宗麟に岩屋城と宝満城を奪い返される。
”九州征伐”豊臣秀吉の島津征伐軍を迎え撃つ。
158755*末弟・家久が大友領・鶴ヶ城を攻める。
”戸次川の戦い”*仙石秀久が率いる九州征伐軍が豊後国に侵攻してくる。末弟・家久がこれに勝利する。
*末弟・家久が大友宗麟が篭る丹生島城を攻める。
大友領・筑前国、豊後国に侵攻する。
末弟・家久が豊臣秀長に降伏し、単独講和する。
末弟・島津家久が急死。
”根白坂の戦い”豊臣秀吉の九州征伐軍に連敗。豊前国、豊後国、筑前国、筑後国、肥前国、肥後国の大名・国人衆が豊臣氏に屈する。
豊臣秀吉に降伏、従属する。
豊臣秀吉が九州を平定。
豊臣秀吉から薩摩国を拝領する。長弟・義弘には日向国と大隈国を拝領する。【両殿体制】
出家 → 島津龍伯
158957長弟・義弘の次男・久保に娘(亀寿)を嫁がせる。
159260豊臣氏に対する不服従を問われた次弟・歳久に討伐軍を派兵、自害させる。
159361長弟・義弘の次男・久保が病死したため、娘(亀寿)を義弘の三男・忠恒に嫁がせる。
159462豊臣秀吉の検地をきっかけに島津氏の主要地が長弟・義弘に与えられ、当主の立場が微妙になる。
富隈城に移る。
159967島津氏の次代をめぐって家中が分裂し、甥・忠恒が重臣・伊集院忠棟を惨殺。伊集院忠真が島津氏に叛く。武力衝突し抗争が大きくなる。徳川家康が仲裁に入る。【庄内の乱】
160068伊集院忠真の反乱軍が降伏する。
”関ヶ原の戦い”*長弟・義弘が西軍として参加。援軍要請に応じず。
徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利する。
加藤清正に攻められる小西領・宇土城の救援に向かう。
関ヶ原の戦いで西軍に属した長弟・義弘を蟄居させる。
徳川家康から上洛を命じられるが、病気、金銭不足、道路整備を理由に応じず。
徳川家康の命令で九州の大名によって島津氏討伐軍が結成されるが、交戦には至らず。
明と貿易をする徳川幕府の船2隻が襲撃され、薩摩沖で沈む。
160270徳川家康によって島津氏の所領安堵が認められる。
長弟・義弘の三男・島津忠恒に家督を譲り隠居。義久、義弘が後見になる。【三殿体制】
160472国分城が完成、居城を移す。
161179大隈国・国分城で病死。
戦国時代で島津義久が生きた期間の表
島津義久の顔イラスト
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