毛利輝元
1553.2.4 〜 1625.6.2

毛利輝元(幻庵宗瑞)は、現在の広島県西部にあたる安芸国の武将・大名です。豊臣五大老のひとり。謀聖と言われた毛利元就の孫。幼い頃に父を亡くし、祖父に育てられ、叔父の補佐を受けて毛利当主をつとめます。秀吉の死後に勃発した関ヶ原の戦いでは、徳川家康に対抗する西軍総大将として暗躍しました。享年73。
- 毛利輝元の武将タイプ
- 策士
毛利輝元は何をした人?このページは、毛利輝元のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと毛利輝元が好きになる「存在感がなかったけど関ヶ原でじつは西軍総大将だった」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:毛利輝元 → 幻庵宗瑞
- 幼 名:幸鶴丸
- 官 位:従五位下、右衛門督、右馬頭、従四位下、侍従、参議、従三位、権中納言、贈従二位
- 幕 府:相伴衆、副将軍
- 藩 :長州藩主
- 出身地:安芸国(広島県)
- 領 地:中国地方
- 居 城:吉田郡山城 → 広島城 → 萩城
- 正 室:南の大方(宍戸隆家の娘)
- 子ども:2男 1女 3養
- 跡継ぎ:毛利秀就
- 父と母:毛利隆元 / 尾崎局
- 大 名:毛利氏14代当主
存在感がなかったけど関ヶ原でじつは西軍総大将だった
毛利輝元とは、謀神と呼ばれたズル賢い毛利元就の孫で、石田三成が総大将と思われがちな関ヶ原の戦いで西軍の総大将をつとめた人物です。
死期を悟った豊臣秀吉は、幼い息子と豊臣家の天下を『五大老・五奉行』に託しました。徳川家康を筆頭とする五大老のひとり毛利輝元は、秀吉の没後に家康とその他の大老、奉行の摩擦を予想していました。
案の定、彼の予想は的中し、豊臣家中は親徳川派と反徳川派で対立します。
反徳川派の中心は五奉行のひとり石田三成。三成は毛利輝元を大将として西国の大名に呼びかけ、徳川家康に決戦を挑みます。一方の家康は、東国の大名を集めてこれを迎えうちました。
こうして起こった1600年の関ヶ原の戦いは、親徳川派の東軍が勝利します。
西軍大将であるはずの毛利輝元は何もしないうちに決着しました。というのも、毛利輝元は石田三成にそそのかされて形式的な大将にされただけで、やる気がなかったというのが定説です。
ところが、これは大間違い。
じつは、西軍を主導した黒幕こそ毛利輝元だったのです。
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関ヶ原の戦いの裏で
火種をまきちらす
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関ヶ原の戦いの発端となったのは、慶長5年(1600年)6月に徳川家康が上杉景勝の討伐に向かった会津征伐です。
このとき、西軍は家康が大坂城から離れた隙をねらって行動を開始します。
西軍は7月17日に『内府ちかひの条々』を発して、大名たちに ”打倒家康” をアナウンスしました。
毛利輝元はというと、これよりも早い7月15日に6万の兵を連れて広島を出発しており、7月19日には大坂城に入りました。
つまり、しぶしぶではなくノリノリ。むしろ前ノリ。
自らにも企みがあった毛利輝元は、しれっと大坂城に入ると、あれこれ理由をつけて家康の留守役を追い出しました。秀吉の子・秀頼を手中に収めると、豊臣恩顧の家臣たちに圧力をかけて西軍への加担を呼びかけます。
一連の行動を、手際よく数日のうちに行いました。石田三成との段取りもバッチリだったわけです。
家康と三成が関ヶ原あたりで争っているあいだに、四国・九州に争いの火種をまいて毛利氏の勢力拡大を密かにねらっていた毛利輝元は、つぎつぎと謀略を発動させます。

改易され領地を失っていた大友義統に旧領である豊後国を奪還するようたぶらかし、主家が滅ぼされていた河野氏の遺臣を伊予国で蜂起させ、阿波国では一揆を発動させて蜂須賀正勝の徳島城を占拠します。
たちまち西日本を不穏な空気で覆ってみせました。
一方、石田三成が率いる西軍の陣営は、9月15日に美濃国・関ヶ原で東軍と激突。なんと、半日たらずで三成があっさりと負けてしまいます。
これはまずい。
こうなったからには保身が大事。毛利輝元はすぐに大坂城を家康に明け渡し、あくまでも自分は石田三成にたぶらかされたというアピールをします。
しかし、大坂城に残された数々の書状から、毛利輝元が四国・九州の大名を扇動していたことが発覚してしまい、窮地に立たされます。
こんなこともあろうかと、じつは毛利輝元に内緒で従弟の吉川広家が東軍に内通していました。
広家は、もしもの敗戦に備えて、西軍でありながら東軍をアシストする働きをしており、そのおかげで毛利氏は取り潰しや改易といった最悪の事態を免れました。
関ヶ原の戦後処理では、敗軍となった西軍を発起させた罪で石田三成と小西行長が引っ立てられ、毛利輝元の命令で外交に関与した安国寺恵瓊が処刑されました。
毛利家は大幅に領地を減らされたものの、毛利輝元の子・秀就と当主を交代するペナルティで済まされ、なんとか存続を許されます。
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大坂の陣でも
悪知恵を発揮する
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徳川氏が天下を治めるようになってから10年余が経った1615年、家康が豊臣氏の大坂城を攻めた大坂の陣で、毛利輝元は『佐野道可事件』を起こします。
大坂の陣で毛利輝元は徳川方として参戦する一方、従弟・内藤元盛に密命を与えていました。
内藤元盛に「佐野道可」と名乗らせて大坂城に入れ、兵糧や軍資金を豊臣方に支援するとともに内情の報告を受けていました。
もう一方では、毛利秀元に早くから徳川方に参陣させて、自分は後からゆっくり大坂に向かいます。ギリギリまで様子をみて、徳川と豊臣どちらが優勢か見極めようというのが、毛利輝元のねらいでした。
ところが、毛利輝元が到着するよりも早く大坂城は落城します。
大坂城の佐野道可は捕われ、素性がバレた内藤元盛は徳川氏から追求を受けます。
元盛は毛利氏の関与を否定したまま切腹。この見上げた忠義心に対し、毛利輝元は口封じのために元盛の子らを切腹させてしまいました。
謀略の天才・毛利元就のDNAを色濃く受け継いだ毛利輝元は、しくじりながらも毛利家を残し、江戸時代までつづく長州藩の藩祖となったのでした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1553年、毛利輝元は安芸国の吉田郡山城に毛利隆元の長男として生まれます。父を早くに亡くし、祖父・元就に後見されて毛利当主を継ぎました。祖父の死後は、ふたりの叔父と福原貞俊、口羽通良の『御四人』による補佐を受けて領国の維持に努めます。そんなおり、15代将軍・足利義昭を保護したことで織田信長と対立しました。
豊臣五大老、関ヶ原へ
織田氏との全面抗争が激化するなか、本能寺の変で信長が横死。台頭した豊臣秀吉との緊張状態を経て臣下に加わると、五大老のひとりに任命されました。秀吉の死後、石田三成らと決起し、総大将として徳川家康に対抗しますが、関ヶ原の戦いに敗れて第一線から退きました。
最後と死因
晩年は腹中が詰まる病気にかかり、腰に腫れ物ができるなど病状が悪化。毛利輝元は隠居先である長門国・萩の四本松邸で亡くなりました。1625年6月2日、死因は病気。73歳でした。2代将軍・徳川秀忠はその死を悼み「残念である」と述べました。
領地と居城の移り変わり


最盛期は中国地方9か国と伊予国をあわせて150万石ほどが毛利輝元の領地でした。関ヶ原の敗戦で周防国と長門国の2か国29万石に減封されてしまいます。
毛利輝元の性格と人物像
毛利輝元は「いつのまにか大人になっていた子ども」です。
さまざまな経歴や出自の人材を積極的に用いる能力主義です。家格や出身にとらわれないやわらかい視野を持っています。
柔軟であると同時に奔放すぎるところもあり、周囲に相談なく大事なことを決めてしまうのが玉にきずです。
祖父や叔父たちのサポートを受けて育ちます。危なっかしくて放っておけない雰囲気があるため、周りが気をつけて対応しますが、補佐が必要なくなってからもこれを利用しつづけ、なるべく自分が動かないで済むように上手くさぼっています。
人を動かす才能に長けており、戦場で大きな石が山の上から転がってきた事故にも慌てず「大岩が転がってきたのは天が我らに敵を攻めよと告げたのだ。進めや皆の者」と言ってこれを利用しました。
朝鮮の役で捕虜となった朝鮮の官人から「つつしみ深くゆったりと大らか」と評されています。
出奔した家臣の出戻りを許すなど心が広い人柄で知られる一方、体裁をつくろうための粛清を行う二面性も。
小鼓に夢中になったり、家臣に鳥もちでモズを取ってきてほしいと頼んだり、無邪気な子ども時代を過ごしています。幼くして父を亡くした輝元を、祖父・元就は溺愛しました。
祖父の死後は、叔父である小早川隆景から体罰もいとわない鉄拳教育を受けています。
ふさふさの赤い毛髪が特徴的な『赤糸威胴丸具足』が現存しています。弧を描くように大きく反り返った陣刀も残っており、こちらは秀吉から「異風を好む」と評された趣向の逸品です。愛用の眼鏡も現存します。
能力を表すとこんな感じ

広島を都のように発展させた手腕から毛利輝元の内政能力の高さがうかがえます。他者を扇動する巧みさに祖父ゆずりの謀略も垣間見えます。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する毛利輝元の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
毛利輝元の面白い逸話やエピソード
祖父・毛利元就に死ぬまで後見させてしまう
輝元が11歳のときに父・毛利隆元が41歳で病死してしまいます。輝元はまだ子どもでしたが、名将との呼び声たかい祖父・毛利元就が後見すればなんとかなるだろうと、家督を継がせることにしました。それに、父・隆元が当主だったころも祖父・元就が後見していたのですから。
輝元も15歳になり、70歳を超えていた元就は、そろそろ隠居してゆっくりしたいと話します。輝元はこれをバッサリ拒否。

「爺様は父が40歳になるまで後見してたじゃないですか。私はまだ15歳なのに見捨てるのですか?」と言って元就を困らせます。
結局、元就が75歳で亡くなるまで後見を続けさせました。
略奪愛からややこしいことになる
ある日のこと。毛利家臣・児玉元良の娘・周姫(当時13歳)を偶然みかけた毛利輝元(当時32歳)は、その美しさに一目惚れしてしまいます。
それ以来、輝元が児玉家を訪ねてくるのを快く思わなかった元良が周姫を杉元宣に嫁がせました。
これを知った輝元は家来に命じて周姫を強奪し側室にします。
あんまりだと怒った杉元宣が豊臣秀吉に直訴しようとしたので、輝元の叔父・小早川隆景が元宣を殺してしまいました。
周姫は広島城の二の丸に屋敷を与えられ「二の丸殿」と呼ばれます。ほどなくして二の丸殿は毛利秀就を出産しますが、これがまた問題でした。
正室との間に子がいなかった輝元は、叔父・穂井田元清の次男を養嗣子(家を継ぐ養子)にもらっていました。
この養嗣子・毛利秀元は、秀就が生まれると相続を辞退しました。この代償として秀元を分家とすることにしますが、処遇問題で何年も揉めてしまうのでした。
毛利輝元の有名な戦い
尼子氏の居城である月山富田城(島根県安来市広瀬町)をめぐって、たびたび行われた合戦。第2次合戦では、尼子十旗と呼ばれる支城を落とした毛利軍によって本城を包囲される。山中鹿介が一騎討ちを制するなど奮戦したが、毛利元就の兵糧攻めによって尼子義久は降伏した。
月山富田城の戦いで毛利輝元は勝っています。
第2次合戦で初陣しています。初陣でありながら先陣を願い出て、叔父たちと祖父から猛反対され、しぶしぶ引き下がりました。
月山富田城の奪還を図る尼子再興派を毛利輝元が討伐した合戦。尼子軍の山中鹿介は布部山(島根県安来市広瀬町)付近に空陣屋を作り大軍を装うが、地元の豪族を抱き込んだ吉川元春はこの策に気づき、山頂の本陣を強襲。「尼子と毛利の戦いも今日が最後」と記された激戦。
布部山の戦いで毛利輝元は勝っています。
大岩が転がり落ちる様子をみた輝元は「天のお告げ」と鼓舞して全軍を動かします。この戦いの勝利により、月山富田城を救い、尼子再興派の勢いを削ぐことに成功しています。
織田氏の羽柴秀吉が、備中高松城(岡山県岡山市北区高松)を攻めた合戦。秀吉は蜂須賀正勝に命じて、足守川の水をせきとめる高8m、幅12mの堤防を構築し、清水宗治が篭る高松城を水没させた。しかし、本能寺の変が起こったため、毛利氏と和睦することとなった。
備中高松城の戦いで毛利輝元は引き分けています。
吉川元春と小早川隆景と共に清水宗治の救援に向かいますが、秀吉の調略により海路が使えず、物資の不足に苦しみます。信長の援軍が京を出立すれば絶体絶命というタイミングで、本能寺の変に救われました。
惣無事令に違反して大友領を攻めた島津氏の討伐軍を豊臣秀吉が派兵した。毛利輝元を先導役とした豊臣軍は門司城(福岡県北九州市門司区)に着陣。島津義久が抗戦の姿勢を見せ、秋月種実に迎撃させたことで戦いが始まり、大友領をめぐって雌雄を決することとなる。九州の役とも。
九州征伐で毛利輝元は勝っています。
島津氏討伐の先導役を命じられた輝元は、叔父らとともに九州に渡っています。自ら指揮を執り、小倉城を攻め落としています。
秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。
関ヶ原の戦いで毛利輝元は敗れています。
毛利輝元のターニングポイントになった戦いです。
西軍の総大将として大坂城に入った輝元は結局なにもせず、傍観したまま戦闘が終わりました。
毛利輝元の詳しい年表と出来事
毛利輝元は西暦1553年〜1625年(天文22年〜寛永2年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍した武将です。
1553 | 1 | 毛利隆元の嫡男として安芸国に生まれる。幼名:幸鶴丸 |
1563 | 11 | 父・毛利隆元の死去により家督を相続。祖父・元就が後見する。 |
1565 | 13 | 元服 → 毛利(少輔太郎)輝元 吉川元春、小早川隆景、福原貞俊、口羽通良ら御4人を政務補佐とする。 |
1566 | 14 | ”第2次月山富田城の戦い”初陣。尼子義久との戦に参加。尼子家滅亡 |
1569 | 17 | 尼子勝久と山中鹿介の尼子再興派が出雲国で挙兵。 ”第3次月山富田城の戦い”*尼子再興派が月山富田城に侵攻してくる。天野隆重に退けさせる。 ”原手合戦”*服部左兵衛を尼子再興派の討伐に向かわせる。山中鹿介に撃退される。 尼子再興派を支援する山名祐豊を牽制するため織田信長に支援を要請する。 織田信長の仲介により大友宗麟と和睦。 |
1570 | 18 | ”布部山の戦い”月山富田城を脅かす尼子再興派を鎮圧する。 尼子再興派の新山城、高瀬城で麦薙ぎを行う。 尼子再興派に味方する海賊衆に出雲国と伯耆国の沿岸部を奪われる。織田信長に要請して将軍・足利義昭から停止命令を出してもらう。 *児玉就英に出雲国と伯耆国の沿岸部を奪還させる。 |
1571 | 19 | *叔父・小早川隆景が備前国・児島で浦上宗景と争い敗れる。 祖父・毛利元就が死去。 ”新山城の戦い”*叔父・吉川元春が尼子再興派を撃破。 |
1572 | 20 | 織田信長の仲介により浦上宗景と和睦。 浦上宗景が従属する。 |
1573 | 21 | 将軍・足利義昭の推挙により右馬頭に就任。 織田信長が将軍・足利義昭を山城国から追放する。【室町幕府の滅亡】 織田信長と足利義昭の仲介を試みるが決裂する。 毛利氏に臣従している浦上宗景に織田信長が播磨国・美作国・備前国の統治を認める。 *叔父・吉川元春が山名領・鳥取城を攻め落とす。 山名豊国が従属する。 |
1574 | 22 | 備前国で浦上宗景と宇喜多直家が対立する。宇喜多氏を支援する。 三村元親が毛利氏に叛く。 |
1575 | 23 | *叔父・小早川隆景が三村元親を攻め滅ぼす。 尼子再興派を支援していた山名祐豊と同盟を結ぶ。【芸但同盟】 尼子再興派に因幡国・若桜鬼ヶ城が落とされる。 *叔父・吉川元春が若桜鬼ヶ城を包囲する。 |
1576 | 24 | 足利義昭が頼ってくる。備後国・鞆で保護する。【鞆幕府】 副将軍になる。 足利義昭の要請に応じて織田信長と対立する。 毛利氏、上杉氏、石山本願寺による三者同盟を結ぶ。 ”第1次木津川口の戦い”*織田信長と交戦する石山本願寺を支援。叔父・小早川隆景が織田氏の九鬼水軍を撃破。【第3次信長包囲網】 |
1577 | 25 | *叔父・吉川元春が播磨国に侵攻してきた織田家臣・羽柴(豊臣)秀吉と争う。 |
1578 | 26 | 別所長治が織田氏に叛く。毛利氏につく。 市川元教が毛利氏に叛く。これを誅伐する。 *叔父・吉川元春と小早川隆景が播磨国に侵攻する。 盟友・上杉謙信が死去。三者同盟がほころぶ。 ”第2次上月城の戦い”*叔父・吉川元春と小早川隆景に尼子再興派が篭る上月城を陥落させる。尼子勝久は自害。 織田信長と和睦するよう正親町天皇から勅命が下されるが拒否する。 上洛を宣言するが実行せず。備前国の国衆から不安視される。 ”第2次木津川口の戦い”*村上水軍が織田氏の九鬼水軍に大敗する。 |
1579 | 27 | 杉重良が毛利氏に叛く。 宇喜多直家が毛利氏から離反し織田氏につく。 南条元続が毛利氏から離反し織田氏につく。 |
1580 | 28 | 石山本願寺が織田信長と和睦する。三者同盟が破綻。 播磨国を織田氏が平定。 但馬国を織田氏に奪われる。 ”第1次鳥取城攻め”*織田家臣・羽柴秀吉に鳥取城を包囲される。山名豊国が降伏し鳥取城を奪われる。 山名豊国の家臣を調略し鳥取城を奪還、山名豊国を追放する。 |
1581 | 29 | 鳥取城に吉川経家を配備する。 ”第2次鳥取城攻め”*羽柴秀吉に鳥取城を包囲される。凄惨な兵糧攻めを受けて落城する。 *叔父・吉川元春を鳥取城の救援に向かわせるが間に合わず。 |
1582 | 30 | ”八浜合戦”*穂井田元清に宇喜多領・備前国を攻めさせる。 ”備中高松城の戦い”羽柴秀吉に高松城を包囲される。清水宗治の救援に向かい猿掛城に布陣する。海路を調略されて兵站が機能せず救援がままならない。 織田信長が死亡。【本能寺の変】 羽柴秀吉の申し出により停戦する。 足利義昭が京に帰るために出兵を要請される。これを拒否する。 |
1583 | 31 | 羽柴秀吉と柴田勝家が織田家中で対立。両方から味方につくよう打診されるが静観する。 |
1585 | 33 | 穂井田元清の次男・宮松丸(毛利秀元)を養嗣子にもらう。 羽柴秀吉との国境画定に応じる。毛利氏の所領を安堵される。 ”第2次紀州征伐”*叔父・小早川隆景を援軍として羽柴秀吉のもとに派遣。 ”四国征伐”*叔父・小早川隆景を援軍として羽柴秀長のもとに派遣。 |
1586 | 34 | ”九州征伐”島津氏の討伐戦に参加。先導役を命じられる。小倉城を攻め落とす。 叔父・吉川元春が死去。 |
1587 | 35 | ”根白坂の戦い”豊臣秀長の指揮下で島津義久との戦に参加。 従兄・吉川元長が死去。 |
1588 | 36 | 豊臣秀吉に従属する。 侍従に就任。 参議に就任。 |
1589 | 37 | 安芸国・広島城を築城、居城にする。 |
1590 | 38 | ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に向かう豊臣秀吉に代わって京を警護する。北条家滅亡 豊臣秀吉の天下統一が成る。 |
1592 | 40 | 宇喜多秀家を総大将とした日本軍の6番隊で朝鮮国に侵攻。【文禄の役】 |
1593 | 41 | 朝鮮国から帰国。 |
1594 | 42 | 小早川秀秋に養女・宍戸元秀の娘(古満姫)を嫁がせる。 |
1595 | 43 | 権中納言に就任。 徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景が五大老に任じられる。 |
1597 | 45 | *小早川秀秋を総大将とした日本軍が朝鮮国に侵攻。病気のため養子・秀元を派遣する。【慶長の役】 叔父・小早川隆景が死去。 小早川家臣が毛利氏に帰参する。出奔しようとした鵜飼元辰を誅殺する。 |
1598 | 46 | 権中納言を辞任。 主君・豊臣秀吉が死去。次代・豊臣秀頼に仕える。 豊臣秀吉の遺命により五大老・五奉行による合議制が敷かれる。 五大老に不承の儀あれば五奉行に味方する起請文を出す。 |
1599 | 47 | 五大老上首・前田利家が亡くなる。 加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が石田三成の屋敷を襲撃。徳川家康、毛利輝元、上杉景勝で協議し石田三成を蟄居させる。【石田三成襲撃事件】 徳川家康を兄、毛利輝元を弟とする義兄弟の起請文を交わす。 毛利氏の所領問題に徳川家康が介入する。 |
1600 | 48 | ”会津征伐”*上杉氏の討伐戦に従弟・吉川広家を従軍させる。 石田三成、大谷吉継が反徳川の挙兵。 ”関ヶ原の戦い”徳川家康との戦に西軍総大将として参加。大坂城に入る。九州、四国で反乱を扇動するが関ヶ原に兵を送らず西軍が敗れる。 徳川家康に所領安堵を認められて大坂城を退去する。西軍を指揮した証拠が見つかり減封される。従弟・吉川広家の計らいで改易を免れる。112万石 → 29万石【防長減封】 長男・毛利秀就に家督を譲る。引き続き政治・軍事を主導する。 出家 → 幻庵宗瑞 |
1603 | 51 | 徳川家康から帰国許可がおりる。 |
1604 | 52 | 長門国・萩城を築城、居城にする。 吉見広行(広長)が毛利氏を出奔する。 |
1605 | 53 | 萩城の築城作業の遅延を理由に熊谷元直、天野元信らを粛清する。【五郎太石事件】 |
1614 | 62 | ”大坂冬の陣”豊臣氏の討伐戦に参加。海上の巡察を命じられる。体調不良により長男・秀就を大坂城に向かわせる。従兄弟・内藤元盛に支援物資を持たせて密かに大坂城に入れる。 |
1615 | 63 | ”大坂夏の陣”*豊臣氏の討伐戦に長男・秀就と養子・秀元を派遣するが大坂城落城に間に合わず。豊臣家滅亡 大坂城を逃れた従兄弟・内藤元盛が捕縛され自害する。【佐野道可事件】 内藤元盛の子である内藤元珍と粟屋元豊を自害させる。 |
1616 | 64 | 従弟・吉川広家の長男・広正に娘(竹姫)を嫁がせて家中融和を図る。 |
1617 | 65 | 次男・就隆と養子・秀元の長女(松菊子)を婚約させて家中融和を図る。 吉見広長の帰参を許す。吉見領の吸収を試みるが不和になる。 |
1618 | 66 | 清水元親に命じて吉見広長を自害させ家臣を追放する。 |
1619 | 67 | 病気が悪化して体調を崩す。 徳川秀忠に会うため上洛する。 |
1625 | 73 | 長門国・萩の四本松邸で病死。 |

- 毛利輝元 – Wikipedia
- 【刀剣ワールド】毛利輝元の武将年表
- 関ケ原の戦犯は毛利輝元か?|関ヶ原観光実用マップ
- 清泰院(毛利輝元側室)- Wikipedia
- 【漫画】毛利輝元の生涯~関ヶ原の戦いのポンコツ総大将~【日本史マンガ動画】 – YouTube
- 本郷和人監修『戦国武将の解剖図鑑』エクスナレッジ
- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
- 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社
- 歴史道『関ヶ原合戦 東西70将の決断!』朝日新聞出版