こばやかわ ひであき

小早川秀秋

1582.?〜 1602.12.1

 
小早川秀秋の面白いイラスト
  

小早川秀秋(秀詮、豊臣秀俊、木下秀俊)は、現在の滋賀県にあたる近江国の武将です。豊臣秀吉の正室・北政所の甥という縁で養子に迎えられ、幼少から高位の者として扱われます。秀吉に世継ぎが生まれると小早川隆景に養子に出されました。関ヶ原の戦いで西軍と東軍に揺れ、歴史に残る裏切りをしました。享年21。

小早川秀秋は何をした人?このページは、小早川秀秋のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと小早川秀秋が好きになる「愚物とされた裏切り者が関ヶ原で世紀の寝返りをした」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:木下秀俊 → 豊臣秀俊 → 小早川秀秋 → 小早川秀詮
  • 幼 名:辰之助
  • 官 位:従三位、左衛門督、参議、権中納言
  • 出身地:近江国(滋賀県)
  • 領 地:筑前国、筑後国
  • 居 城:亀山城 → 名島城 → 岡山城
  • 正 室:古満姫(毛利輝元の養女)
  • 父と母:木下家定 / 雲照院
  • 猶 父:豊臣秀吉小早川隆景
  • 大 名:豊臣秀吉豊臣秀頼徳川家康

愚物とされた裏切り者が関ヶ原で世紀の寝返りをした

関ヶ原の戦いで、西軍から東軍に寝返(ねがえ)った天下の裏切り者として知られる小早川秀秋は ”愚物(ぐぶつ)” と呼ばれた人物でした。

愚物(ぐぶつ)」とは、馬鹿者や(おろ)(もの)といった意味で(ののし)る言葉。頭が悪くて思慮(しりょ)が足りない、未熟である様子を指して(さげす)むワードです。

天下人・豊臣秀吉の妻の兄の子として生まれた小早川秀秋は、子どもがいない秀吉にとって貴重な(おい)っ子でした。

秀吉の子として豊臣家に(むか)えられた(かれ)は、いずれ天下を()ぐ者と考えられ、スーパーイージーモードで人生をスタートさせました。

ところが、秀吉に実子(じっし)が生まれると要らない子あつかいされてしまい、状況(じょうきょう)が一変します。

叔父(おじ)である秀吉からも邪魔(じゃま)にされ、酒(びた)りになった小早川秀秋の生活は()れ、やがて人々に愚物(ぐぶつ)と呼ばれるようになりました。

この愚物(ぐぶつ)が、天下分け目の大一番で勝敗を決めるジョーカーになるのでした。


関ヶ原で
ミラクル寝返ル

1600年の関ヶ原の戦いは、1598年に豊臣秀吉が(ぼっ)した2年後に勃発(ぼっぱつ)した豊臣家の内紛(ないふん)でした。秀吉亡き後、天下を自分のものにしようと(たくら)む徳川家康と、それを(はば)まんとする石田三成が対立。

日本を東西に二分する大きな争いとなりました。

戦力構成はこうです。
東軍=徳川家康とその派閥(はばつ)
西軍=石田三成と家康以外の大老たち。

関ヶ原の戦い当日のお昼まで、小早川秀秋は西軍に属していました。

9月15日の午前8時ごろにはじまった関ヶ原の戦いは、一進一退の攻防(こうぼう)が続きました。1万5千の兵を率いて松尾山(まつおやま)にのぼった小早川秀秋は、しばらくのあいだ静観します。

というのも、小早川秀秋は事前に徳川家康との密約で、東軍に転じることになっていました。

そのため、東西両軍の中間ともいえる「おまえ、どっちやねん」な場所、松尾山(まつおやま)(じん)取ったのでした。

関ヶ原の戦いの小早川秀秋とその周辺の図

この動きは西軍内で不審(ふしん)に思われ、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保を見張りとして配備されてしまいます。

午前11時。脇坂ら4隊が気になって小早川秀秋は動けません。眼下では西軍がやや優勢です。

そろそろ東軍につかないとマズイ。

動かないまま正午になってしまい、小早川秀秋の(じん)鉄砲(てっぽう)が撃ち()まれました。

しびれを切らした東軍の藤堂高虎から「早く寝返(ねがえ)」の催促(さいそく)問鉄砲(といでっぽう)』といわれる威嚇射撃(いかくしゃげき)が行われたのです。

これはいかん。家康さんも(おこ)っているに違いない。

せっつかれた小早川秀秋は「どうにでもなれ」と山を()け降ります。

すると、どういうわけか脇坂らの隊も小早川秀秋の動きにつられて、味方である大谷吉継の部隊に()()んでいきました。

西軍は大混乱。

なんとなく予想していた小早川秀秋だけでなく、見張りにつけておいた連中まで一斉(いっせい)寝返(ねがえ)ったのですから西軍が(おどろ)くのも当然です。

これまで(ねば)り強く戦っていた大谷吉継も、およそ2万の集団に飲みこまれて壊滅(かいめつ)。小早川秀秋ら即席(そくせき)寝返(ねがえ)りユニットは、そのまま西軍主力部隊に(おそ)()かりました。

タイミングがわからずモタモタしていた小早川秀秋でしたが、予想外のアクシデントもあって結果的にサプライズを起こすことに成功し、西軍は総崩(そうくず)れになります。

石田三成は、たまらず()げ出しました。

こうして関ヶ原の戦いは、開戦からわずか6時間で東軍・徳川家康が勝利しました。


豊臣家を
弱らせてしまった

さて、小早川秀秋の活躍(かつやく)で東軍が勝利し、豊臣家の内輪揉(うちわも)めも無事に解決。なかよく豊臣の天下を盛り上げていきましょう、とはなりません。

家康は西軍派の大名から領地を取り上げただけでなく、このどさくさに豊臣氏の直轄領(ちょっかつりょう)まで小さくしてしまいます。

みるみる()せた豊臣氏は、大坂城のまわりを領有するだけの大名に成り下がります。

家康を勝たせたために自分の家系である豊臣氏の衰退(すいたい)をまねいたことも、小早川秀秋が愚物(ぐぶつ)と言われる所以(ゆえん)です。


誰も引きたがらない
ジョーカーくん

豊臣秀吉の猶子(ゆうし)(実の子として(むか)えられた子)なのに、なぜ小早川を名乗ったのか?それは、1593年に秀吉の嫡男(ちゃくなん)・秀頼が生まれたことがきっかけでした。

猶子(ゆうし)の存在が邪魔(じゃま)になった秀吉は、1594年にこれを毛利輝元の養子に出そうとします。

すでに愚物(ぐぶつ)(うわさ)されていたこの子が入ったら毛利の家が終わると懸念(けねん)した小早川隆景(毛利元就の三男)が、これを(さえぎ)るように自己犠牲(ぎせい)のつもりで養子に引き取りました。

さながらババ()きのように敬遠されたかわいそうなこの子は、1595年に小早川の家督(かとく)()いで小早川秀秋となります。

そして、養父・隆景の予想どおり、酒におぼれて体をこわし、早死(はやじ)にしてしまった小早川秀秋の代で小早川家は断絶してしまうのでした。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1582年、小早川秀秋は近江国(おうみのくに)長浜(ながはま)に木下家定の五男として生まれます。父が豊臣秀吉の正室・ 北政所(きたのまんどころ)の兄だった(えん)で、秀吉夫妻の猶子(ゆうし)になりました。幼いころから朝廷(ちょうてい)の高位を(あた)えられ「金吾殿(きんごどの)」ともてはやされます。豊臣氏を()ぐ立場でしたが、秀吉に秀頼が誕生したことで不要にされました。

小早川家の養子に出される

毛利氏の分家にあたる小早川隆景の世継(よつ)ぎとして養子に出されます。ほどなくして、慶長(けいちょう)(えき)朝鮮(ちょうせん)に出兵する日本軍の総大将になりますが、軽率な行動を叱責(しっせき)されて帰国しました。秀吉の没後(ぼつご)、石田三成と徳川家康の対立から関ヶ原の戦いが勃発(ぼっぱつ)。三成の西軍に(くみ)しますが、東軍に寝返(ねがえ)り、徳川氏の勝利に貢献(こうけん)しました。

最後と死因

関ヶ原から2年後、小早川秀秋は鷹狩(たかが)りに出かけて具合が悪くなり、それから3日後に亡くなりました。1602年12月1日、死因は不明。21歳でした。アルコールの多量摂取(せっしゅ)に起因する内臓疾患(しっかん)肝硬変(かんこうへん))と考えられています。大谷吉継の(たた)りや毒殺といった説もあります。

領地と居城

小早川秀秋の領地・勢力図(1600年)

美作国(みまさかのくに)備前国(びぜんのくに)備中国(びっちゅうのくに)あわせて57万石が小早川秀秋の領地でした。関ヶ原の功績により、西軍・宇喜多秀家の領地をそのままもらいうけました。

小早川秀秋の性格と人物像

小早川秀秋は「やけを起こしたこども」です。

ある日とつぜん、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)かと思われた未来が見えなくなってしまった不安感や絶望感は察するに余りあります。

しかしながら、酒におぼれ、常楽会(じょうらくえ)(仏教の法要)の場で乱暴をはたらくといった愚行(ぐこう)が行き過ぎてしまい、悪い評判だけが一人歩きしています。

関ヶ原の戦い以降は旧臣たちの(あつか)いも(ひど)いもので、秀秋の奇行(きこう)をたしなめた家臣を上意討ちにしています。日に日に乱行(らんぎょう)がひどくなる様子に愛想をつかせた家臣も多く離反(りはん)したものも少なくありません。

幼いときから大人と同様の接待を受けていたため、12歳でアルコール中毒になっています。

限度を()えた浪費家で贅沢(ぜいたく)がやめられず、叔母(おば)北政所(きたのまんどころ)に500両(6千万円)の借金をしていたほか、客人にも金を借りるありさまでした。

重度のアルコール依存(いそん)で、大酒による黄疸(おうだん)がありました。重症化(じゅうしょうか)した肝硬変(かんこうへん)(ともな)肝性脳症(かんせいのうしょう)発症(はっしょう)していた疑いがあり、判断力や思考力に支障をきたしていたために乱行(らんぎょう)奇行(きこう)、関ヶ原の戦いでの初動の(おく)れが指摘(してき)されています。

子どもの(ころ)蹴鞠(けまり)(まい)などの素養に優れていました。貧しい人を見かけると(ほどこ)しをしてあげる心の優しい少年でもありました。

陣羽織(じんばおり)の大きさから察するに身長は180cm前後。実際に着用していた『猩々緋羅紗地違鎌模様陣羽織(しょうじょうひらしゃじちがいがまもようじんばおり)』が現存しており、背中いっぱいに(えが)かれた「(ちが)(かま)紋様(もんよう)」も健在。後ろに(かざ)りがある『三鍬形後立小星兜(みつくわがたうしろだてこぼしかぶと)』も残っています。

能力を表すとこんな感じ

小早川秀秋の能力チャート

身分の高さを除けばこれといって小早川秀秋の強みはありません。岡山城下の近代化や再開発など、積極的に改革を行った一面もありました。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する小早川秀秋の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

小早川秀秋の面白い逸話やエピソード

大谷吉継に呪い殺されたのか

関ヶ原の戦いで小早川秀秋に壊滅(かいめつ)させられた大谷吉継は「人面獣心(じんめんじゅうしん)なり、3年のあいだに(たたり)りをなさん!」(超訳:人の顔をした(けだもの)め、(のろ)ってやる!)と(さけ)んで自害したといいいます。

3年以内に(のろ)い殺すといって怨念(おんねん)となった吉継が(のろ)いはじめてから2年後、小早川秀秋は発狂(はっきょう)して死に至ったといわれています。

むろん、大谷吉継でなくとも他人を(のろ)い殺すことなどできません。とはいえ、21歳という若さで早逝(そうせい)した小早川秀秋の死には、さまざまな憶測(おくそく)が飛び交いました。

関ヶ原で敗れて(とら)われた石田三成大津城(おおつじょう)の城外に(さら)されたおり、秀秋は対面した三成から「裏切り者」と(そし)られます。

三成が処刑(しょけい)されたことを受けて、この言葉が重くのしかかり、酒の量が増えた秀秋は不摂生(ふせっせい)がたたって寿命(じゅみょう)を縮めたといいます。

しかし、呪詛(じゅそ)(たた)りが信じられていた時代のこと。秀秋の裏切り行為(こうい)が、あたかも(ばち)があたった死であると考えられました。

このほかにも、”殺生禁止の川で魚をとったから落馬した” といった(うわさ)もあり、いずれにしても早すぎる死は、悪行を(たた)られたと解釈(かいしゃく)されたようです。

じつは寝返ったわけではない

慶長(けいちょう)(えき)で、現地から報告する役目の石田三成が「秀秋は総大将なのに軽率に敵陣(てきじん)()りこみ、()げる敵を後ろから(おそ)って追首(おいくび)ばかり取った」と秀吉にチクります。

この報告をうけた豊臣秀吉から、秀秋はこっぴどく(しか)られてしまいます。

このことを(うら)みに思っていた小早川秀秋は、関ヶ原では徳川家康の東軍につこうとしました。ところが信用してもらえません。

気がついたときには、まわりが西軍だらけになっていたため、その場をごまかしました。

しかし、気持ちはつねに東軍にあり、西軍の情報を家康に報告。
関ヶ原の決戦当日は西軍の陣容(じんよう)を見下ろせる松尾山(まつおやま)(じん)をとりました。これは、西軍の(だれ)の指示でもなく秀秋が勝手にとった行動でした。

このように小早川秀秋は途中で気が変わったのではなく、はじめから東軍として松尾山(まつおやま)に居たとする説もあります。

小早川秀秋の有名な戦い

伏見城の戦い ふしみじょうのたたかい 1600.8.26 〜 9.8 ○ 西軍4万 vs 東軍1千8百 ●

関ヶ原の戦いの前哨戦。西軍・宇喜多秀家らが、伏見城(京都府京都市伏見区)を攻めた。守将の鳥居元忠は、20倍の兵を相手に頑強に戦ったが、鈴木重朝に一騎討ちで敗れた。城兵は全滅し、籠城軍の血で染まった床板は、複数の寺で再利用され、血天井として知られる。

伏見城(ふしみじょう)の戦いで小早川秀秋は勝っています。

この少し前、秀秋は伏見城(ふしみじょう)(こも)る鳥居元忠に味方しようとしますが、拒否(きょひ)されてしまいます。しかたなく西軍として伏見城(ふしみじょう)()める西軍に加わりました。

関ヶ原の戦い せきがはらのたたかい 1600.10.21 ● 西軍8万2千 vs 東軍8万9千 ○

秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。

関ヶ原の戦いで小早川秀秋は勝っています。

小早川秀秋のターニングポイントになった戦いです。
小早川隊の寝返(ねがえ)りが勝利を決定づけたものの、秀秋は ”天下の裏切り者” という汚名(おめい)を残すことになります。

小早川秀秋の詳しい年表と出来事

小早川秀秋は西暦(せいれき)1582年〜1602年(天正(てんしょう)10年〜慶長(けいちょう)7年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍(かつやく)した武将です。

15821木下家定の五男として近江国に生まれる。幼名:辰之助
15854叔父・羽柴(豊臣)秀吉の猶子になる。
15898元服 → 豊臣秀俊
豊臣秀吉から丹波国・亀山を拝領する。
159110権中納言に就任。
159312猶父・秀吉に庶子・拾(秀頼)が生まれる。
159413小早川隆景の養嗣子になる。
毛利輝元の養女・宍戸元秀の娘(古満姫)と結婚。
159514関白・豊臣秀次に謀反の疑いがかかる。一族として罰せられ丹波国・亀山を改易される。【秀次切腹事件】
養父・小早川隆景の隠居により家督を相続。
筑前国・名島城を居城にする。
159716日本軍の総大将として朝鮮国に侵攻。【慶長の役】
養父・小早川隆景が死去。
毛利氏に帰参する家臣が相次ぐ。
改名 → 小早川秀秋
豊臣秀吉の命令により朝鮮国から帰国。九州勢を現地に残す。
豊臣秀吉の命令により越前国・北ノ庄に減転封される。
159817主君・豊臣秀吉が死去。次代・豊臣秀頼に仕える。
豊臣秀吉の遺命により筑前国を復領される。
160019石田三成と大谷吉継が反徳川の挙兵。
山城国・伏見城に向かう。城番・鳥居元忠に入城を拒否される。
”伏見城の戦い”宇喜多秀家の指揮下で伏見城攻めに参加。
伊勢国に侵攻する。
”関ヶ原の戦い”徳川家康との戦に西軍として参加。東軍に寝返り大谷吉継を討つ。
東軍の勝利後、近江国・佐和山城を攻める。
徳川家康から美作国、備前国、備中国の一部を拝領する。
備前国・岡山城を居城にする。
改名 → 小早川秀詮
160221死去。
戦国時代で小早川秀秋が生きた期間の表
小早川秀秋の顔イラスト
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