鳥居元忠
1539.?〜 1600.9.8

鳥居元忠は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。少年時代から徳川家康に仕え、旗本衆を率いた歴戦の猛者です。戦場で負った怪我により、左足が不自由でしたが、生涯にわたって戦場に立ち続けました。家康からの信頼が厚い忠義の士で、関ヶ原の前哨戦となった伏見城で、壮絶な討死をしました。享年62。
- 鳥居元忠の武将タイプ
- 勇士
鳥居元忠は何をした人?このページは、鳥居元忠のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと鳥居元忠が好きになる「関ヶ原前夜、三河武士の意地を抱いて伏見城に散った」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:鳥居元忠
- 出身地:三河国(愛知県)
- 居 城:岩殿城 → 谷村城 → 矢作城
- 正 室:松平家広の娘
- 子ども:6男 2女
- 跡継ぎ:鳥居忠政
- 父と母:鳥居忠吉 / 不明
- 大 名:徳川家康
関ヶ原前夜、三河武士の意地を抱いて伏見城に散った
『三河武士』とは、徳川家康に仕えた三河出身の勇猛果敢な武士集団で、家康に対する忠誠心が高いことで知られています。
三河武士のなかでも象徴的な存在とされているのが、鳥居元忠です。
なぜ、鳥居元忠が三河武士の象徴かというと、それは彼が命を散らした伏見城の戦いに理由があります。
1600年、かの有名な関ヶ原の戦いが起こる少し前、伏見城では魂を揺さぶられる戦いがあったのです。
この頃、徳川家康は会津の上杉討伐に向かいました。すると、この機に乗じた石田三成が打倒家康の挙兵をします。これは会津の上杉氏と三成で東西から徳川家康を挟みうちにする作戦でした。
石田方は、はじめに伏見城を攻めます。これを緒戦として、関ヶ原の戦いが勃発します。
鳥居元忠が守る京都の伏見城には、石田方の兵4万が押し寄せました。
これを迎える鳥居元忠の兵は1千8百。
万に一つも勝ち目はありません。
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できるだけ
時間を稼ぐのだ
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家康にとって、三成の挙兵は想定内でした。むしろ三成の挙兵を待っていたところもあり、この機会に反徳川派の掃討をねらっていました。
そこで家康は、会津討伐をやめて、すぐに西へと引き返します。

鳥居元忠のミッションは、家康が戻ってくる時間を稼ぐことでした。
伏見城を大軍に包囲された鳥居元忠は、石田方からの降伏勧告をバッサリと拒否。
援軍を申し出た島津義弘の入城もついでに拒否。
内通者が出ることを嫌って、鳥居元忠は手勢だけで迎え討ちます。
4万を相手に頑強に戦って、なんと10日ものあいだ1人も城内に侵入させませんでした。
しかし、城兵に加わっていた甲賀の者から内通者が出てしまい、伏見城の一部から火の手が上がります。そこに敵兵が乱入してしまいます。
もはやこれまでと、自刃をささやく家臣に鳥居元忠は「名誉のためではない!家康様のために時を稼ぐのだ!」と一喝。最後の一兵になるまで戦うことを下知しました。
敵の突入をうけて、伏見城で戦った城兵は全滅。ボロボロに傷ついた鳥居元忠は、雑賀衆の頭領・鈴木重朝と一騎討ちのすえ、討死しました。
鳥居元忠は20倍の大軍を相手に13日間も足止めして、石田勢の動きを遅らせることに成功したのです。
このあと、徳川家康は石田三成と関ヶ原で激突し、勝利します。
それは、鳥居元忠が礎となってつかんだ徳川家康の天下への第一歩でした。
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激戦を伝える
血天井
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石田勢に突破をされた伏見城内は、敵味方が入り乱れる乱戦になりました。そこかしこで斬り合いで行われ、伏見城の床も壁も、あたり一面が血に染まったといいます。
伏見城の戦いで戦死した者たちの血を浴びた壁や床板は、京都・養源院などのお寺で供養として天井板に再利用されたそうです。
足跡が血痕として残る養源院の天井は『血天井』と呼ばれ、当時の激戦の様子を今に伝えています。
伏見城で戦った勇士たちの血痕が残る床板を天井板として使ったのは ”決して誰にも踏まれることがないようにするため” でした。
生涯を簡単に振り返る
生まれと出自
1539年、鳥居元忠は三河国・碧海郡に鳥居忠吉の三男として生まれます。子ども時代に徳川家康の供をして今川家の人質になりました。旗本の隊長を務めて、ほとんどの合戦を家康のそばで戦いました。勇ましい反面、無理をして怪我をしてしまうこともありました。
家康の信頼は揺るがない
武田遺領をめぐって北条氏と争った天正壬午の乱では、家康を挟み撃ちにしようとする北条氏忠の動きを察知して窮地を救う活躍をしました。真田昌幸が守る上田城の戦いでは苦戦しましたが、家康からの信頼は揺るぎませんでした。
最後と死因
豊臣秀吉の死後、天下取りに動いた家康は上杉景勝の会津征伐に向かいます。留守になる山城国・伏見城の守備を任され、打倒家康の挙兵をした石田三成の大軍を迎撃。鳥居元忠は伏見城に突入してきた鈴木重朝に討たれました。1600年9月8日、死因は討死。62歳でした。見事な戦いぶりに敵兵も感服したといいます。
領地と居城

下総国・矢作4万石が鳥居元忠の領地でした。常陸国の佐竹氏や東北の大名に対する守備の入り口を任されていました。
鳥居元忠の性格と人物像
鳥居元忠は「何枚剥いても忠義心が薄れない人」です。
どれほどの敵に囲まれても、逃げることはできるが、討死するまで戦うのが武士の志であり忠節であると語っていたといい、信念に違わぬ生き様を刻んでいます。
忠節に報いるために家康が感状(再就職する場合に有利)を与えようとしても ”他に仕える気がないからいらない” といって断っています。
豊臣秀吉が官位を与えようとしても自分には勿体ないとし、断固として受けませんでした。
戦場で受けた傷がもとで左足が不自由でしたが、それをものともしない働きぶりで、まさしく死ぬまで戦いに身を投じています。
伏見城で着用していた『鉄錆地椎実形兜』は、鈴木重朝が持ち帰り、その後に元忠の子・忠政に返還されて現存しています。
元忠の忠義心を讃えるため、屋敷があった東京都の麻布十番あたりに「鳥居坂」という地名が残されています。
主君の仇討ちで知られる『忠臣蔵』の大石内蔵助は鳥居元忠の子孫にあたります。
能力を表すとこんな感じ

鳥居元忠は揺るぎない忠義心で誰からも信頼されます。主君を思う気持ちで困難な状況にも臆せずに立ち向かいました。
能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する鳥居元忠の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。
鳥居元忠の面白い逸話やエピソード
家康と2人だけで交わした別れの盃
会津の上杉討伐に向かう前の晩のこと。徳川家康は伏見城で鳥居元忠と主従ふたりだけの晩酌をしました。ふたりは家康が11歳で元忠が13歳の頃からの主従でした。
これが別れになることを二人とも理解していました。
2千たらずの兵で伏見城の留守を頼むこと、その間におそらく挙兵する石田三成に抗しきれないであろうことを申し訳なく感じていた家康に、元忠は静かにこう言いました。
「上杉を討つには兵が必要でしょう。その後で天下を治めるには、より多くの家臣が必要です。ですから、1人でも多くここから連れていってください」
家康は小さくうなずき、およそ50年仕えた元忠に感謝の言葉を伝えました。
いろんなことがあったと話し込むうちに夜が更け、元忠は自室に戻ります。
戦傷で不自由になった左足を引きずりながら、薄明かりの向こうに消えていく元忠を見て、家康は声を殺して泣きました。
これがふたりの今生の別れとなりました。
鳥居元忠の有名な戦い
高天神城への補給路を確保するために重要な拠点、諏訪原城(静岡県島田市金谷)を徳川家康が制圧した合戦。長篠の戦いに敗れた武田勝頼は、戦力が揃わず諏訪原城に援軍を遅れなかった。徳川軍は補給路を断って包囲する。1か月のち、城兵は田中城へ逃亡した。
諏訪原城の戦いで鳥居元忠は勝っています。
斥候部隊を率いて敵状視察に行ったおり、左足に銃弾を受けて負傷します。それがもとで歩行障害が残ってしまいました。
旧武田領をめぐり、黒駒(山梨県笛吹市御坂町)周辺で徳川氏と北条氏が衝突した合戦。徳川家康の本隊を挟み撃ちにしようと、北条氏忠が背後を脅かす。この策に気づいた鳥居元忠が、わずかな兵でこれを迎撃。あわてた北条軍の退路を遮断して壊滅的な被害を与えた。
黒駒合戦で鳥居元忠は勝っています。
5倍もの兵力差を覆しただけでなく、多くの将兵を討ち取りました。この結果を受けて北条軍の士気はガタ落ちし、徳川氏が甲斐国を掌握する大きな原動力になりました。元忠に対する家康の信頼も一層ゆるぎないものになりました。
徳川軍によって2回行われた真田征伐の合戦。真田昌幸が設計・築城した上田城(長野県上田市二の丸)で大打撃を与え、敗走させたところを真田信幸の別働隊が追撃。数で劣る真田軍が、鳥居元忠が率いた徳川軍に圧勝した。関ヶ原の戦いおりには、徳川秀忠を翻弄している。
上田合戦で鳥居元忠は敗れています。
真田討伐に向かった第1次合戦で敵の策略にハマり、大惨敗を喫してしまいました。
関ヶ原の戦いの前哨戦。西軍・宇喜多秀家らが、伏見城(京都府京都市伏見区)を攻めた。守将の鳥居元忠は、20倍の兵を相手に頑強に戦ったが、鈴木重朝に一騎討ちで敗れた。城兵は全滅し、籠城軍の血で染まった床板は、複数の寺で再利用され、血天井として知られる。
伏見城の戦いで鳥居元忠は敗れています。
鳥居元忠のターニングポイントになった戦いです。
関ヶ原の戦いの前哨戦となった戦いで、敗戦は必至でした。家康に時間を与えるために命を賭して忠義を通した散りざまは、三河武士の鑑と称されました。
鳥居元忠の詳しい年表と出来事
鳥居元忠は西暦1539年〜1600年(天文8年〜慶長5年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1539 | 1 | 鳥居忠吉の三男として三河国に生まれる。 |
1551 | 13 | 今川氏の人質となっていた竹千代(徳川家康)に仕える。 |
1555 | 17 | 元服 → 鳥居元忠 |
1558 | 20 | ”寺部城の戦い”初陣。鈴木重辰との戦に参加。 ”石ヶ瀬川の戦い”水野信元との戦に参加。 |
1560 | 22 | ”桶狭間の戦い”織田信長との戦に参加。 主君・松平元康(竹千代=徳川家康)が今川氏から独立。 |
1566 | 28 | 旗本先手役に抜擢される。 |
1570 | 32 | ”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。 |
1572 | 34 | 父・鳥居忠吉の死去により家督を相続。 ”三方ヶ原の戦い”武田信玄との戦に参加。 |
1575 | 37 | ”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。石川数正と馬防柵の設置を担当する。 ”諏訪原城の戦い”武田勝頼との戦に参加。斥候として敵陣に侵入。左足に銃弾を受けて負傷。 |
1581 | 43 | ”第2次高天神城の戦い”武田勝頼との戦に参加。 |
1582 | 44 | ”若御子対陣”空白地となった旧・武田領への侵攻に参加。【天正壬午の乱】 ”黒駒合戦”北条氏忠の別働隊1万を2千の兵で撃退し、家康本隊の背後を守る。 徳川家康から甲斐国・都留を拝領する。 甲斐国・岩殿城、谷村城を居城にする。 |
1585 | 47 | ”第1次上田合戦”大久保忠世、平岩親吉と真田討伐に向かうが敗れる。 |
1590 | 52 | ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。岩槻城を攻める。北条家滅亡 徳川家康から下総国・矢作を拝領する。 下総国・矢作城を居城にする。 |
1599 | 61 | 矢作84か村の検地を行う。 |
1600 | 62 | 山城国・伏見城に入り、守将を任じられる。 徳川家康が上杉氏の討伐に向かう。 石田三成、大谷吉継が反徳川の挙兵。 島津義弘と小早川秀秋の伏見城への入城を拒否する。 ”伏見城の戦い”石田派の兵に山城国・伏見城を攻められる。鈴木重朝との一騎打ちで討死。 |
