酒井忠次
1527.?〜 1596.12.17

酒井忠次は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。徳川四天王のひとり。徳川家康の父の代から仕える最古参にして筆頭格の忠臣です。数々の合戦で智勇を奮っただけでなく、重要な場面で士気を高めるムードメーカーでもありました。長篠の戦いでは、織田信長に献策して味方を大勝に導いています。享年70歳。
- 酒井忠次の人物タイプ
- 猛将
このページでは、酒井忠次が何をしたどんな人なのか、ハイライトやエピソードを紹介しています。きっと酒井忠次のことが好きになります。
- 名 前:酒井忠次 → 酒井一智
- 幼 名:小平次
- 官 位:左衛門督
- 出身地:三河国(愛知県)
- 居 城:福谷城 → 吉田城
- 正 室:松平清康の娘(碓井姫)
- 子ども:5男 4女 1養
- 跡継ぎ:酒井家次
- 父と母:酒井忠親 / 不明
家康のピンチを太鼓で鼓舞し、奇襲で信長を唸らせた
徳川家康の松平氏と酒井氏の祖は兄弟。家康の祖父母の娘を妻とした酒井忠次は、徳川第一の家臣にして最古参の忠臣です。松平氏から徳川氏へ、家康と共に中興の祖であり、本多忠勝ら徳川四天王をまとめるベテランです。
頼れる中高年、酒井忠次はさまざまな場面で機転を利かせます。
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信長をキレさせた?
作戦に物申す
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1575年、武田勝頼との長篠の戦いの軍議で、織田信長は設楽原で武田軍を迎撃する指示をします。これに、酒井忠次は長篠城を包囲する武田勢を先に倒すべきと提案します。信長は「んな回りくどいことやってられっかゴルァ!」とブチギレ、その場は解散となりました。
ところが、酒井忠次が去ろうとすると、信長は小さな声で伝えます。
「さっきの作戦いいね、やってみて」
敵のスパイを警戒して、あえて強い口調で却下したのだと言いました。した。
別動隊3千を連れた酒井忠次は、武田軍の鳶巣山砦を奇襲。長篠城を包囲する武田兵を蹴散らしました。
設楽原では、信長が鉄砲隊で武田騎馬隊を迎撃、壊滅させます。敗走する武田軍の退路を酒井忠次が封鎖して、ほぼ全滅させました。この働きに信長は「忠次は背中に目がついている」とリスペクトし、歴史的な長篠の戦いの大勝利を喜びました。
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こっちだドン
酒井の太鼓
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長篠の戦いから遡ること2年。1573年の三方ヶ原の戦いで、徳川家康は武田信玄にボロ負けし、必死で浜松城まで逃げました。ひと足さきに浜松城に着いた酒井忠次は、櫓にのぼって太鼓を打ち鳴らします。
浜松城の門を開け放ち、暗闇をかがり火で照らして「ドーンドーン」と太鼓の音で誘導します。この大胆な行動に、追ってきた武田軍は罠だと思い、気味が悪くなって引き上げていきました。家康も、酒井の太鼓で命びろいしました。
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究極の選択で
徳川家を救う
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1579年のある日、徳川家康の嫡男・松平信康にタケダと通じている疑惑が浮上します。リークしたのは信康の妻で信長の娘・徳姫でした。当然、信長は激怒します。家康に命じられて、酒井忠次は弁解役として信長のもとに向かいました。
信長に真偽を問われた酒井忠次は「イエス」と返答。証拠不十分のまま信康の謀反を認めました。この潔さに信長はそれ以上追求しませんでしたが、信康は切腹となりました。徳川家が潰されかねない、究極の選択でした。
晩年、息子の給料が安いので、可愛がってほしいと家康に頼みます。すると家康は「お前でも自分の子は可愛いんだね…」とチクリ。言葉もなく、酒井忠次はしずかに余生を送ったといいます。主家のためだったとはいえ、信康問題は家康と酒井忠次のあいだにシコリを残してしまいました。
酒井忠次の生涯をふりかえる
酒井忠次は、1527年に三河国・井田城に武士の次男として生まれます。祖先が徳川家康と同じ家柄でした。松平広忠の代から仕えていた酒井忠次は、広忠の子・家康に同行して今川家に出仕しました。今川義元が没した翌年の1561年に徳川家康の独立をはじめからサポートし、三河一向一揆などの困難を一緒に乗り越えました。
今川氏や武田氏との戦いで奮戦したほか、織田信長や北条氏直との外交に従事し、数々の難局で酒井忠次の知恵が活かされました。晩年は眼病に悩まされ、1596年に病気により山城国・桜井屋敷で亡くなりました。70歳でした。
若手も中堅もまとめあげる人間力で、対外的な徳川の顔も務めた酒井忠次は、息子に家督を譲ったあとも徳川家のことをずっと気にかけていました。徳川家の繁栄と維持を第一に考えていました。
酒井忠次の性格と人物像
酒井忠次は「仕事ができる宴会部長」です。宴会の席で余興を披露するプロおじさんで、みんなを楽しませます。寄り添うサービス精神から湧き出る良い人オーラで、昨日の敵も今日の友に変えてしまう、敏腕営業マンです。
熟年の貫禄があり、織田信長や豊臣秀吉といった天下人も、忠次と会うときは緊張しましたが、忠次のほうは平然としていました。荒ぶる個性の徳川四天王を束ねるスゴみがあり、井伊直政に嫉妬する榊原康政を「うるせえ!」の一喝で黙らせます。
武器を握れば豪傑。甕通槍という愛用の槍で、水瓶に隠れた敵を瓶ごと突き倒したことがあります。
赤備えの具足に金ピカ鹿角の『朱塗黒糸威二枚胴具足』のほか、いくつかの甲冑が現存しています。『酒井の太鼓』として伝わる太鼓も残っています。
酒井忠次の能力を考えてみる

歴戦の猛者である酒井忠次は、合戦で強さを発揮します。確かな実績があり一目置かれる存在であるため、周囲からの人望も集めました。
酒井忠次のエピソードや逸話
すべらない宴会芸「海老すくい」で爆笑をさらう
武田軍との決戦に臨む長篠の戦い前夜、三方ヶ原で大敗を喫した武田騎馬隊の強さを知る徳川兵は、恐怖に震えていました。重苦しい空気のなか、徳川家康が「忠次、あれお願い」と、なにやらリクエストします。
「ははっ!では、参りますよ〜」
ささっと布を頭にかぶり、忠次は滑稽な腰つきで奇妙な踊りはじめました。

皆が拍子をつけると、忠次は手をかき、腰をふりふり踊ります。酒井忠次のすべらない宴会芸『海老すくい』です。一同、笑いのツボに入り、たちまち大爆笑の渦となりました。
先ほどまで不安な表情を浮かべていた徳川兵は、どの顔にも笑顔が広がり、長篠の戦いで大勝利を掴みました。
もはや名物となっていた忠次の海老すくいは、昨日の敵である北条氏政と同盟を結ぶ席でも、北条氏の前で披露して大爆笑をさそいました。
酒井忠次の有名な戦い
尾張に侵攻してきた今川義元を桶狭間(愛知県名古屋市緑区桶狭間)で織田信長が討ち取った合戦。10倍近い圧倒的な兵力差があり、局面的に織田勢が不利だったが、今川の本陣を強襲し、義元の首級をあげる快挙となった。戦国史上もっとも有名なジャイアントキリング。
桶狭間の戦いで酒井忠次は敗れています。
大将の義元が討たれた敗戦ですが、今川軍の先陣として、徳川家康とともに織田領の丸根砦を攻め落としています。
上宮寺や勝鬘寺(ともに愛知県岡崎市)などの寺社を拠点とした本願寺門徒と松平家康の争い。今川氏から独立して三河の支配を強める松平氏が、上宮寺から無理に兵糧を奪ったことを発端とする一向一揆。本多正信らが一揆に加担し、松平家中で家康に反する内紛が起きた。
三河一向一揆で酒井忠次は勝っています。
多くの徳川家臣たちが敵対する事態にまで発展してしまった内紛で、忠次も同族の酒井忠尚と敵対して戦いました。この戦いで忠義を示した武将たちが、この後の徳川家を支えていきます。
西上作戦で遠江に侵攻した武田信玄と織田徳川の連合軍が三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)で激突した合戦。徳川の本拠地・浜松城をスルーして進軍した信玄の策略にかかった徳川家康が、城から出て野戦をしかけた。山県昌景の猛攻を受けて徳川軍は壊滅、敗走した。
三方ヶ原の戦いで酒井忠次は敗れています。
大敗した徳川勢は、浜松城まで逃げました。すぐそこまで山県昌景と内藤昌豊の軍勢が迫ってきますが、門が開け放たれた浜松城から聞こえる、酒井忠次の太鼓の音を聞いて警戒し、引き上げていきました。
長篠城(愛知県新城市)をめぐって、織田徳川連合軍と武田勝頼が争った。この合戦で織田信長は、武田騎馬隊を馬防柵によって封じ、滝川一益が率いた3,000挺からなる鉄砲隊で、絶えず銃弾を浴びせる近代戦術を使った。山県昌景が戦死した武田軍の被害は1万人とも。
長篠の戦いで酒井忠次は勝っています。
酒井忠次のターニングポイントになった戦いです。
設楽原での決戦を前に、鳶巣山砦の奇襲を行い長篠城を救出、河窪信実や高坂昌澄を討ち取る戦果を挙げます。これにより、長篠の戦いでの織田&徳川連合軍の歴史的勝利につながりました。
酒井忠次の詳しい年表・出来事
酒井忠次は西暦1527年〜1596年(大永7年〜慶長元年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1527 | 1 | 酒井忠親の次男として三河国に生まれる。幼名:小平次 |
1549 | 23 | 人質として今川氏に向かう竹千代(徳川家康)に同行する。 |
1556 | 30 | 柴田勝家に今川領・福谷城を攻められる。城外に出撃して撃退する。 |
1560 | 34 | ”桶狭間の戦い”織田信長との戦に参加。松平元康(徳川家康)の指揮下で丸根砦を落とす。 |
1561 | 35 | 今川領・牛久保城攻めに参加。 主君・松平元康(徳川家康)が今川氏から独立。 |
1563 | 37 | ”三河一向一揆”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。酒井忠尚ら同族と敵対する。 |
1564 | 38 | ”馬頭原合戦”一向宗門徒の鎮圧戦に参加。 |
1565 | 39 | 今川領・吉田城攻めに参加。先陣で小原鎮実を撃破、撤退させて吉田城を無血開城させる。 吉田城に入る。 三河国東部の国人衆を統制を任じられる。 |
1568 | 42 | 武田氏と今川領を分割する密約の交渉役を務める。 今川領・遠江国攻めに参加。 |
1569 | 43 | 今川領・遠江国攻めに参加。今川氏真が篭る掛川城に自ら人質として入り開城降伏させる。今川家滅亡 |
1570 | 44 | ”姉川の戦い”浅井氏&朝倉氏との戦に参加。先陣で朝倉軍と交戦する。 |
1573 | 47 | ”三方ヶ原の戦い”武田信玄との戦に参加。右翼で出撃して小山田信茂をやぶる。浜松城で太鼓を打ち鳴らし武田軍の追撃を退散させる。 |
1575 | 49 | ”長篠の戦い”武田勝頼との戦に参加。作戦の指揮を執る織田信長に鳶巣山砦の奇襲を献策。成功させて長篠城を窮地から救う。河窪信実らを討ち取る。 ”諏訪原城の戦い”武田勝頼との戦に参加。 |
1579 | 53 | 徳川家康の嫡男・松平信康に謀反の疑惑がかかる。織田信長から詰問を受け、弁解の使者として安土城に出向くが疑いを晴らせず。 松平信康が切腹。 |
1582 | 56 | ”甲州征伐”武田勝頼との戦に参加。武田家滅亡 堺に滞在中、本能寺の変が起こる。明智光秀の軍勢に追われる徳川家康を護衛して三河国に帰る。【伊賀越え】 ”若御子対陣”空白地となった旧・武田領への侵攻に参加。諏訪頼忠を調略できず信濃国ルートの確保に失敗。【天正壬午の乱】 |
1584 | 58 | ”小牧・長久手の戦い”羽柴(豊臣)秀吉との戦に参加。羽黒の戦いで森可成を奇襲、敗走させる。 |
1588 | 62 | 長男・酒井家次に家督を譲って隠居。 入道 → 酒井一智 |
1596 | 70 | 山城国・桜井屋敷で病死。 |

- 酒井忠次 – Wikipedia
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