徳川四天王の略歴・特徴、どんな活躍をしたのか?功績と役割

徳川四天王の略歴・特徴、どんな活躍をしたのか?功績と役割

徳川四天王とは、三河統治時代から五か国統治時代の徳川家康を、主に軍事面で支えた武功派の家臣たちです。酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人は、徳川家康の版図拡大期に多大な貢献をし、いくつもの危機を共に乗り越えて天下を取らせました。徳川四天王の個性、家康とどう関わったのか並べてみましょう。

徳川四天王の略歴と功績

仏法を守護する『持国天(じこくてん)』『増長天(ぞうちょうてん)』『広目天(こうもくてん)』『多聞天(たもんてん)』が甲冑(かっちゅう)を着けていることから、大将を守る武将を指して四天王と呼びました。

徳川四天王といっても、当時からそのような呼称(こしょう)でパッケージされたグループだったわけではありません。

江戸幕府の開祖となった徳川家康を守護した武将として、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人を後年の人々が『徳川四天王』と(たた)えたのでした。

4人は献身的(けんしんてき)に家康を支えて、三河(みかわ)統治時代から五か国統治時代まで徳川家臣団を牽引(けんいん)しました。

徳川家康と四天王の年表

三河(みかわ)統治時代」とは、桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元が討死したことをきっかけに岡崎城に入った徳川家康が、そのまま大名として独立し、三河国(みかわのくに)平定を目指した時期を指します。

五か国統治時代」とは、今川領の吸収につとめつつ織田信長と共闘(きょうとう)して武田氏と争い、武田家滅亡(めつぼう)(ともな)って武田旧領を獲得(かくとく)
三河国(みかわのくに)遠江国(とおとうみのくに)駿河国(するがのくに)甲斐国(かいのくに)信濃国(しなののくに)の5か国を領有した時期のことです。

徳川家康が独立し、戦国大名として版図を拡大した時期に重用されたのは、軍事スキルに長けた武功派の家臣たち。

際立った武力で貢献(こうけん)し、家康を小大名から大大名に()し上げたのが、徳川四天王でした。

酒井忠次=最古参のリーダー

酒井忠次のイラスト
酒井忠次のハナシを読む

酒井忠次は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。徳川四天王のひとり。徳川家康の父の代から仕える最古参にして筆頭格の忠臣です。数々の合戦で智勇を奮っただけでなく、重要な場面で士気を高めるムードメーカーでもありました。長篠の戦いでは、織田信長に献策して味方を大勝に導いています。享年70。

1527年(大永(だいえい)7年)生まれ。
愛知県岡崎市井田町の出身です。

家康の16歳上、忠勝・康政の21歳上、直政の34歳上。

23歳から62歳で隠居(いんきょ)するまでの39年間、家康に仕えました。

江戸幕府開府前の1596年に病没(びょうぼつ)
荒ぶる忠勝・康政・直政といった猛将(もうしょう)たちをまとめる役でした。

1549年に人質として今川氏に預けられた家康に同行しています。
家康の松平氏と酒井氏の先祖は兄弟で、忠次は家康の祖父母の(むすめ)を妻にしており、徳川家康の縁者(えんじゃ)にあたります。

幼少期、青年期の家康の側近をつとめ、三河(みかわ)統治時代を経て、五か国統治時代の今川領()めで活躍(かつやく)

交渉役(こうしょうやく)としても重宝され、家康の嫡男(ちゃくなん)・信康の謀反(むほん)疑惑(ぎわく)の際は織田信長に弁解する難しい役目を担いました。


長篠の戦いの
隠れた功労者

1575年の長篠(ながしの)の戦いは、織田信長の鉄砲隊(てっぽうたい)活躍(かつやく)した一戦です。
忠次は武田軍に包囲された長篠城(ながしのじょう)を救出する奇襲(きしゅう)プランを提言し、成功させて優勢な状況(じょうきょう)を作り出しました。

織田軍の鉄砲隊(てっぽうたい)が武田騎馬隊(きばたい)粉砕(ふんさい)した設楽原の決戦では、敗走する武田軍の退路に回り()んで全滅(ぜんめつ)させ、信長から絶賛されています。

本多忠勝=直轄軍の司令官

本多忠勝のイラスト
本多忠勝のハナシを読む

本多忠勝は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。徳川四天王のひとり。幼い頃から徳川家康に仕えて行動を共にし、主君のピンチを何度も救います。天下無双の槍使い、単騎での突撃が知られ、戦で傷ひとつ負わなかったという伝説があります。東国一と称され、戦国史上でも最強とされる豪傑です。享年63。

1548年(天文(てんぶん)17年)生まれ。
愛知県額田(ぬかた)郡の出身です。

家康の5歳下、忠次の21歳下、康政と同い年、直政の13歳上。
領地と石高は、上総国(かずさのくに)大多喜(おおたき)10万石 → 伊勢国(いせのくに)桑名藩(くわなはん)10万石。

13歳から63歳で病没(びょうぼつ)するまでの50年間、家康に仕えました。

江戸幕府開府後の1610年に病没(びょうぼつ)
同い年の榊原康政とは武功を競う仲でした。

1560年の桶狭間(おけはざま)の戦い前哨戦(ぜんしょうせん)に家康の指揮下で初陣(ういじん)しています。
代々、安祥(あんじょう)松平氏に仕える譜代(ふだい)家柄(いえがら)で、関東移封(いほう)後に家康の参謀(さんぼう)になる本多正信とは遠縁(とおえん)親戚(しんせき)です。

三河(みかわ)統治時代から五か国統治時代の家康を軍事面で支えました。

6.5mもある名槍(めいそう)蜻蛉切(とんぼきり)』を手足のように()るって無双(むそう)し、57回の合戦でかすり傷ひとつ負いませんでした。

家康の関東移封(いほう)後は上総国(かずさのくに)大多喜城(おおたきじょう)(あた)えられました。


一言坂の戦いで
味方を守る

1572年に偶発的(ぐうはつてき)に起こった一言坂の戦いで徳川方は敗走します。
このとき、武田方の猛将(もうしょう)・馬場信春がしつこく追撃(ついげき)してきましたが、忠勝は殿(しんがり)を務めて一手に引き受けると、これを退(しりぞ)けました。

坂下という不利な地形であったにもかかわらず、忠勝の奮闘(ふんとう)で武田勢を()し返しています。この活躍(かつやく)により、家康の本隊は難を(のが)れました。

榊原康政=右筆も務めた秘書

榊原康政のイラスト
榊原康政のハナシを読む

榊原康政は、現在の愛知県東部にあたる三河国の武将です。徳川四天王のひとり。豪胆で思い切りが良く、遊撃隊を率いて局面を打開するのが得意な猛将です。武勇一辺倒ではなく教養もあり、文字を書かせれば達筆という文武両道の人物です。江戸幕府がひらかれると、上野国・館林藩の初代藩主になりました。享年59。

1548年(天文(てんぶん)17年)生まれ。
愛知県豊田市上郷町の出身です。

家康の5歳下、忠次の21歳下、忠勝と同い年、直政の13歳上。
領地と石高は、上野国(こうずけのくに)・館林10万石。

13歳から59歳で病没(びょうぼつ)するまでの46年間、家康に仕えました。

江戸幕府開府後の1606年に病没(びょうぼつ)
井伊直政に熱い友情を(いだ)いていました。

1560年の桶狭間(おけはざま)の戦いのあと、家康が立ち寄った大樹寺(だいじゅじ)で出会います。康政の ”” の字は、家康からもらったものです。

三河(みかわ)統治時代、五か国統治時代の家康を側近として支えます。本多忠勝と共に旗本衆を率いました。

家康の関東移封(いほう)後は上野国(こうづけのくに)・館林城を(あた)えられ、次代・徳川秀忠を補佐する役を務めます。


小牧・長久手の戦いで
豊臣秀吉を愚弄する

1584年の小牧・長久手(ながくて)の戦いで、康政は豊臣秀吉(あお)る手紙でこう着した戦況(せんきょう)を動かします。

盛大に馬鹿にした内容に秀吉はムキになって(いか)り、康政に10万石の懸賞金(けんしょうきん)をかけました。これに刺激(しげき)されて出撃(しゅつげき)してきた秀吉軍を待ち構え、得意の側面からの攻撃(こうげき)壊滅(かいめつ)させて緒戦(しょせん)の勝利を呼びこんでいます。

井伊直政=遅れてきた英雄

井伊直政のイラスト
井伊直政のハナシを読む

井伊直政は、現在の静岡県にあたる遠江国の武将です。徳川四天王のひとり。武田軍から引き継いだ赤備えで、赤鬼と恐れられた猛将です。徳川家康の腹心として、さまざまな交渉役をこなす秘書官でもありました。東軍を勝利に導いた関ヶ原の戦いでは、槍働きに加えて、敵将の調略と戦後交渉も行いました。享年42。

1561年(永禄(えいろく)4年)生まれ。
静岡県浜松市北区引佐(いなさ)町の出身です。

家康の18歳下、忠次の34歳下、忠勝・康政の13歳下。
領地と石高は、上野国(こうずけのくに)箕輪(みのわ)12万石 → 近江国(おうみのくに)・佐和山(はん)18万石。

15歳から42歳で病没(びょうぼつ)するまでの27年間、家康に仕えました。

江戸幕府開府前年の1602年に病没(びょうぼつ)
榊原康政とは親友でした。

1575年、鷹狩(たかが)りの帰り道だった家康に見初(みそ)められて小姓(こしょう)になります。4人のなかで唯一(ゆいいつ)遠江国(とおとうみのくに)出身で、井伊家は今川氏の家来筋にあたりました。

五か国統治時代から小姓(こしょう)をつとめ、旧武田領をめぐる北条氏との交渉役(こうしょうやく)抜擢(ばってき)されて以来、家康の側近になります。滅亡(めつぼう)した武田家から赤備え部隊と甲州(こうしゅう)流軍学を継承(けいしょう)、徳川軍の中枢(ちゅうすう)統括(とうかつ)する指揮官を担いました。

家康の関東移封(いほう)後は上野国(こうづけのくに)箕輪(みのわ)(あた)えられます。


関ヶ原の戦いで
獅子奮迅の働き

1600年に行われた関ヶ原の戦いは、徳川家康の天下を()けた大一番でした。戦いが勃発(ぼっぱつ)する前から、直政は有力な大名を家康派閥(はばつ)に転じさせる工作を成功させます。

戦いがはじまるとルール無用の()()けで徳川方を優勢にし、小早川秀秋寝返(ねがえ)りを誘発(ゆうはつ)して勝利を確実なものにしました。

戦いの終わりには、退却(たいきゃく)する島津軍を追撃(ついげき)して敵将を討ち取るなど終始存在感を示し、終戦後も敵方の諸将との和睦(わぼく)処遇(しょぐう)を決めるために奔走(ほんそう)

これらの活躍(かつやく)から、”家康が幕府を開くにあたって一番の功労者” と(たた)えられています。

徳川四天王の能力的な特徴を比較


なんでもお任せ
酒井忠次

酒井忠次は奇襲(きしゅう)戦法が得意です。
水瓶(みずがめ)(かく)れた敵を、(かめ)ごと(やり)()(たお)した豪快(ごうかい)なエピソードもあります。

酒井忠次の能力チャート

年長者らしく管理能力もありました。対外的には人当たりの良さを発揮し、交戦中の相手との外交で話をまとめる達人でした。


合戦アスリート
本多忠勝

本多忠勝は異常な強さを(ほこ)怪物(かいぶつ)です。
個の強さでは戦国武将ナンバーワン。負け戦でも忠勝だけは別格でした。(いくさ)になると特別な嗅覚(きゅうかく)が働き、味方の弱点に気づいて未然にカバーリングします。

本多忠勝の能力チャート

強い相手と戦うことが生きがい。武田騎馬隊(きばたい)全滅(ぜんめつ)を聞いて「強いライバルを失くした」と落胆(らくたん)しました。


サイドアタッカー
榊原康政

榊原康政は敵の側面を()攻撃(こうげき)が得意です。
大軍の指揮は忠勝にも勝ると評された統率の腕前(うでまえ)です。よく本を読み、文字を書いていたため字が美しく、家康の代筆をすることも多くありました。

榊原康政の能力チャート

口も達者でしたので、相手が(だれ)であろうと正しい理屈(りくつ)をぶつける強メンタルでした。


引くほどストイック
井伊直政

井伊直政は前へ前へと突進(とっしん)する戦い方を好みました。
退くことをせず『()()かり戦法』のみを信条としています。自他ともに厳しい成果第一の(おに)で、ミスすれば部下でも()り捨てたため『人斬(ひとき)兵部(ひょうぶ)』と呼ばれました。

井伊直政の能力チャート

(さわ)やかなルックスで弁が立ち、対外的なウケが良くて交渉(こうしょう)が上手。他家との調整力に優れていました。

家康の三大危機と徳川四天王

徳川家康の人生で三度あったピンチのとき、徳川四天王たちはどうしていたのか?

出来事とともにまとめました。カッコ内はそれぞれ当時の年齢です。

三河一向一揆では家康に味方して戦った

1563年、徳川家康(21)の強引な三河平定策に(おこ)った一向宗と農民が一揆(いっき)を起こします。

家臣のなかにもこれに同調する者が出て、家中が分裂(ぶんれつ)してしまいました。

家康がはじめて直面した困難で、一揆(いっき)鎮圧(ちんあつ)には家臣の離反(りはん)という痛みを(ともな)いました。

酒井忠次(37)は叔父(おじ)・酒井忠尚と対立。本多忠勝(16)は一向宗から浄土宗(じょうどしゅう)に改宗して家康に味方し、本多正信や本多正重ら同族を敵に回して戦いました。

これが初陣(ういじん)だった榊原康政(16)は、(ばち)が当たるのを(おそ)れて戦意を失っていた味方に「仏罰(ぶつばつ)はぜんぶ(おれ)が受けるから安心して戦え!」と鼓舞(こぶ)して奮闘(ふんとう)しています。

三方ヶ原の戦いでは負け戦でも一矢報いた

1573年、徳川領に侵攻(しんこう)した武田信玄を徳川家康(31)は迎撃(げいげき)します。しかし、家康の策は信玄にすっかり見抜(みぬ)かれており、フルスイングの返り討ちに()ってしまいました。

浜松城に()げ帰るおり、家康は恐怖(きょうふ)のあまり脱糞(だっぷん)してしまいます。

酒井忠次(47)は浜松城に着くと太鼓(たいこ)を鳴らし、味方に城の位置を知らせて退却(たいきゃく)を助けました。これをなにかの策略と警戒(けいかい)した武田勢は、浜松城を()めることをせずに引き上げました。

一方、本多忠勝(26)は山県昌景が率いた武田軍の左翼(さよく)撃破(げきは)、榊原康政(26)とともに武田方に夜襲(やしゅう)仕掛(しか)けて大混乱させています。

伊賀越えでは家康を護衛して窮地から脱した

1582年、織田信長と協力して武田家を(ほろ)ぼした徳川家康(40)は、信長から安土城に招かれて慰労会(いろうかい)に出席します。

慰労会(いろうかい)のあと、側近たち数名で(さかい)見物を楽しんでいると、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれ、家康一行も明智軍に追われることとなりました。

徳川四天王は全員同行しています。酒井忠次(56)、榊原康政(35)、井伊直政(22)らは家康から(はな)れずに護衛をつとめ、本多忠勝(35)も蜻蛉切(とんぼきり)()るって山賊(さんぞく)や明智兵を追払(おいはら)いました。

忠勝は、道案内人をさらってくる、鉄砲(てっぽう)恫喝(どうかつ)して(わた)(ふね)を調達するといった無茶もしています。

徳川四天王が揃い踏みした戦い

じつは、徳川四天王が全員そろって参戦したのは、1584年の小牧・長久手の戦いが唯一です。

小牧・長久手の戦い こまき・ながくてのたたかい 1584.4.23 〜 12.13 △ 羽柴軍10万 vs 織田&徳川軍3万 △

信長の死後、羽柴秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄と信長の盟友・徳川家康が小牧山城(愛知県小牧市、長久手市)で一進一退の局地戦を展開した。秀吉が別部隊で三河の徳川領を突こうとするが、家康に裏をかかれて大敗。秀吉と信雄が和議を結び、痛み分けとなった。

酒井忠次が森長可を早朝の朝駆(あさが)けで奇襲(きしゅう)して敗走させ、緒戦(しょせん)の羽黒の戦いに勝利します。

その後、小牧で対陣(たいじん)した両軍はともに動けずこう着。榊原康政の秀吉を(あお)挑発文(ちょうはつぶん)(おこ)った秀吉陣営(じんえい)が動き出撃(しゅつげき)してきた羽柴(豊臣)秀次を榊原隊が壊滅(かいめつ)させます。

一進一退が続いたのち、長久手(ながくて)の戦いで家康の本隊と井伊直政が秀吉軍の池田恒興と森長可(ながよし)を討ち取りました。

秀吉の本隊3万が動いたのを受けて、本多隊5百が立ちはだかって行軍を(はば)みます。本多忠勝は加藤清正一騎討(いっきう)ちをして退(しりぞ)かせました。

小牧・長久手の戦いを和睦(わぼく)で終わらせた秀吉は、これより後は家康と争わず、1586年に徳川家は豊臣家の配下に加わることになります。

徳川三傑と江戸幕府のはじまり

1588年に酒井忠次が隠居(いんきょ)して徳川四天王ユニットを卒業します。
あとに残った本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人を指して『徳川三傑(さんけつ)』と呼びました。

天下を取った豊臣秀吉の命令により、1590年に徳川家は関東移封(いほう)となります。これに(ともな)って徳川三傑(さんけつ)も関東に移りました。

徳川家臣団からは不満が噴出(ふんしゅつ)しましたが、家康は江戸を新たな本拠地(ほんきょち)と定めて開発をすすめていきます。


家康の天下取り
関ヶ原の戦い

1598年に秀吉が亡くなると、1600年に石田三成を中心とした反徳川派が挙兵し、豊臣家を二分する関ヶ原の戦いが勃発(ぼっぱつ)本多忠勝と井伊直政は軍監(ぐんかん)をつとめて家康の東軍を勝利させました。

榊原康政は家康の三男・秀忠に同行して真田昌幸(こも)る上田城を()めますが、関ヶ原に間に合いません。秀忠を(しか)る家康を康政はあべこべに叱責(しっせき)し、父子の仲を取り持ちました。

関ヶ原の戦いに勝利した家康は、江戸幕府をひらく準備に取り()かります。


天下人・家康、
江戸幕府をひらく

本多忠勝は伊勢国(いせのくに)桑名藩(くわなはん)の初代藩主(はんしゅ)、榊原康政は上野国(こうづけのくに)・館林(はん)の初代藩主(はんしゅ)、井伊直政は近江国(おうみのくに)彦根藩(ひこねはん)の初代藩主(はんしゅ)になります。

しかし、直政はこれまでの過労がたたって幕府開府を待たずに亡くなってしまいました。

江戸幕府と徳川三傑と家康公の場所

1603年、徳川家康は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になり、江戸幕府をひらきます。

康政は幕府がひらかれた3年後に(ぼっ)し、忠勝は開府から7年後に亡くなりました。

徳川家康を頂点まで導いた(かれ)らは、争いがなくなって江戸幕府がひらかれると、役目を終えたようにこの世を去っています。

  • 徳川四天王 – Wikipedia
  • 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社
  • 左文字右京ほか『戦国大名家臣団大全』スタンダーズ
  • 歴史人『徳川家康 天下人への決断』ABCアーク
  • 歴史人・増刊『戦国家臣団大全』ABCアーク
お仕事のご依頼はこちら