宇喜多秀家
1572.?〜 1655.12.17

宇喜多秀家(成元、家氏、浮田久福)は、現在の岡山県南東部にあたる備前国の武将です。豊臣五大老のひとり。豊臣秀吉の猶子になり、朝鮮の役で日本軍の総大将を務めるなど将来を嘱望されます。西軍の副大将として関ヶ原の戦いに参戦しますが、敗れて流罪になりました。八丈島に流された最初の人物です。享年84歳。
- 宇喜多秀家の武将タイプ
- 参謀
宇喜多秀家は何をした人?このページは、宇喜多秀家のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと宇喜多秀家が好きになる「イケメン若大将は関ヶ原で負けて八丈島に流罪となった」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:宇喜多家氏 → 宇喜多秀家 → 宇喜多成元
- 別 名:羽柴秀家、豊臣秀家、浮田久福
- 幼 名:八郎
- 官 位:従三位、侍従、参議、左近衛権中将、権中納言
- 出身地:備前国(岡山県)
- 領 地:美作国、備前国、備中国
- 居 城:岡山城
- 正 室:豪姫(豊臣秀吉の養女)
- 子ども:5男 3女 1養
- 父と母:宇喜多直家 / 円融院
- 猶 父:豊臣秀吉
イケメン若大将は関ヶ原で負けて八丈島に流罪となった
宇喜多秀家の父・宇喜多直家は謀略で主家を滅ぼした残忍な人物です。魔物のごときその男は、珠のように美しく愛くるしい男子を授かりました。やがて、誰からも愛されるようになるこの子は、ふたりの天下人をも魅了しました。
1579年、父・直家は織田信長の軍門に降ります。このとき、直家の子をみた信長は「宇喜多の子、涼しげである。格別大事にしてやれ」と羽柴(豊臣)秀吉に預けました。秀吉もこの美少年をひと目で気に入り、秀吉から一字与えて宇喜多秀家と名乗らせました。
織田信長が去り、豊臣秀吉が関白になった1585年頃には、宇喜多秀家は重臣として扱われ、1592年の文禄の役では朝鮮に渡る日本軍の総大将、1595年には徳川家康や前田利家らと並び豊臣氏の最高幹部である『五大老』に抜擢されます。
宇喜多秀家は、輝かしい未来を約束されたプリンスだったのです。
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若大将、
豊臣ファミリーになる
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宇喜多秀家があからさまに優遇される経緯は、秀吉の養女を娶ったことにあります。実子がなかった秀吉は前田利家の娘を養女にもらい、たいへん可愛がりました。秀吉は、豪姫というこの娘と結婚させて、宇喜多秀家を猶子(自分の子)としました。
こうして秀吉の家族に加わった宇喜多秀家は、10代の頃からあらゆる合戦で主力部隊を率いる若大将になります。秀吉は、明国を征服したら宇喜多秀家を日本か朝鮮の関白にしようと考えていました。
秀吉の晩年になって世継ぎ(豊臣秀頼)が生まれると、宇喜多秀家は身内としてこれを支えるために、若輩者でありながら五大老に選ばれたのでした。
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流浪の人、
八丈島ながし1号になる
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ところが、1598年に秀吉が没すると雲行きがあやしくなります。五大老筆頭である徳川家康が、野心を隠さなくなってきたのです。
家康は巧みな調略で豊臣家を二分すると、1600年の関ヶ原の戦いで反徳川派を掃討しました。宇喜多秀家は石田三成が挙兵した西軍に加勢し、ここでも主力軍を率いて徳川が率いる東軍と戦いますが、奮戦むなしく敗れます。
宇喜多秀家が率いた主力の崩壊にともなって西軍は潰走。宇喜多秀家も戦場から逃れて落ち延びます。
その後、大坂を目指してさまよい、九州の島津氏を頼って薩摩に渡りますが、1603年に徳川氏に身柄を引き渡され、1606年に長男と次男を連れて八丈島に流されました。
関ヶ原で徳川氏に対抗した西軍決起の発案者という疑惑もあり、西軍主力部隊を率いていたことからも、宇喜多秀家は罪人とされ、史上はじめて八丈島への流刑を言い渡された第1号になります。
月日は流れ、徳川家康もとっくに亡くなった頃、前田利常の家来が八丈島を訪ね、江戸幕府に謝って徳川氏に仕えてはどうかと告げますが、宇喜多秀家は「その気はない」とそっけない返事をして釣りに出かけたといいます。
八丈島で宇喜多秀家は84年の天寿をまっとうします。もはや関ヶ原の戦いに参戦した誰ひとり生きておらず、最後に残ったのは離島にいた宇喜多秀家でした。
生涯を簡単に振り返る
1572年、宇喜多秀家は備前国・岡山城に宇喜多直家の次男として生まれます。何不自由なく育ち、父の死後は豊臣秀吉に目をかけられて猶子になります。秀吉の養女を娶って豊臣家の一門に加わり、文禄の役では日本軍の総大将をつとめます。24歳の若さで徳川家康らと並んで五大老に列しました。
慶長の役にも参戦し、秀吉の病没に伴って帰国。その後の混乱で豊臣家が二分すると、反徳川派を牽引して石田三成の挙兵に助勢します。関ヶ原の戦いに敗れ、島津義弘の庇護をうけて薩摩国に逃れたのち、駿河国・久能山へ幽閉を経て、八丈島に流罪になりました。
最後と死因
八丈島に流されておよそ50年を過ごし、晩年は浮田久福と名乗ります。大賀郷の南原海岸あたりで釣りに興じ、宇喜多秀家は伊豆国・八丈島で亡くなりました。1655年12月17日、死因は不明。84歳でした。
領地と居城

美作国、備前国に備中国の大半を加えた57万石が宇喜多秀家の領地でした。これは、関ヶ原に参戦した西軍の大名で3番目に多い石高でした。
宇喜多秀家の性格と人物像
宇喜多秀家は「放っておけない罪な人」です。
甘やかされて育ったお坊ちゃんなので緊迫感がなく、危機のほうから彼を避けていきます。関ヶ原で敗れて逃げる道中、落武者狩りに遭遇しますが、自ら素性を名乗って助けてもらい、40日間も匿われています。
鷹を100羽も飼っていて、鷹の世話人として300人を雇用し、領民には飼い犬を鷹の餌に差し出させました。贅沢を支えるために重税を課しますが仕方ありません。嫁さんがキリシタンだったので、家臣にもキリスト教に改宗するよう命令したこともあり、ものすごくナチュラルな自己中で悪気がありません。
特定の部下を贔屓して好き嫌いで人事を決めてしまうので、不満が爆発した家臣たちに大きな騒動(宇喜多騒動)を起こされますが、八丈島に流された秀家を気にかけてくれたのは騒動を起こした者たちでした。
正室・豪は、秀家が島流しにされたあとも再婚せず、実家である前田家の財力をふんだんに使って島での生活を支援しつづけています。
気品あふれるイケメンで身長170cm。秀家が大坂城を訪ねると、ひと目みたさに城内の女中さんたちが殺到しました。王子様のような顔立ちの良さが肖像画からもうかがえます。
能力を表すとこんな感じ

他者を惹きつける不思議な魅力が宇喜多秀家を何度も助けています。その他には、これといって特筆するところはありません。
信長の野望シリーズに登場する宇喜多秀家の能力値も参考にしています。
宇喜多秀家の面白い逸話やエピソード
八丈島でもチヤホヤされていた
八丈島に流刑となった宇喜多秀家の暮らしは、つらく厳しい離島でのサバイバル…というわけでもなかったようです。秀家の妻・豪姫は、五大老・前田利家の娘でしたので、実家である前田家は加賀百万石の大大名。ものすごいお金持ちです。
豪姫は、八丈島で暮らす秀家が不自由しないように、前田家から1年おきに白米70俵、お金、薬、剃刀、扇子などの支援物資を送り届けさせました。秀家がひとりで不憫だと思ったのです。
秀家はというと、島に着いた日から只者ではない上流階級オーラを放っていたので、島民たちから一目おかれ、宴に招かれるなど歓迎されます。さびしく過ごしてはいませんでした。
あるとき、幕府への献上品を積んだ福島正則の船が、嵐で八丈島に流れ着きます。すると、身なりの粗末な男が近づいてきて「酒があったら分けてほしい」と慣れ慣れしく頼みます。この男が宇喜多秀家だったため、正則の家来は驚いて酒を分けてあげたといいます。
宇喜多秀家の有名な戦い
四国地方を制していた長宗我部元親を、阿波、讃岐、伊予の三方向から、羽柴秀長を総大将とした大軍が攻めた。讃岐方面から進軍した黒田官兵衛が諸城を攻略して、阿波に侵攻。小早川隆景が伊予を制圧した。四国全体で戦火が上がったが、長宗我部氏の降伏により終戦した。
四国征伐で宇喜多秀家は勝っています。
軍監に黒田官兵衛をともなって讃岐国から攻めました。喜岡城、香西城、牟礼城を攻め落としています。
天下統一に迫る豊臣秀吉が小田原城(神奈川県小田原市)を大軍で包囲した合戦。籠城する北条氏直と、隠居の北条氏政、重臣たちは「小田原評定」と揶揄された結論がでない会議を繰り返した。北条父子を黒田官兵衛が説得し、降伏開城した。小田原攻め、小田原の役とも。
小田原征伐で宇喜多秀家は勝っています。
水軍を率いて長宗我部元親らと下田城を攻め落としています。伊豆半島沿岸の諸城を陥落させ、小田原沖の海上封鎖に加わりました。
漢城に向けて侵攻する明&朝鮮の連合軍と日本軍が、碧蹄館(大韓民国京畿道高陽市)周辺で衝突した合戦。立花宗茂がこれを迎撃し、奮戦。先鋒隊を率いた小早川隆景は、部隊を3つに分けて埋伏させ、機をみて連合軍を囲い討ちにし、明軍前衛を撃破した。
碧蹄館の戦いで宇喜多秀家は勝っています。
8千の兵を率いて小早川隆景に加勢し、明軍の前衛部隊を撃退しました。その後、立花宗茂と執拗な追撃を行い、虎尾まで追いかけて明軍に甚大な被害を与えました
晋州城(大韓民国慶尚南道晋州市)をめぐって二度戦った合戦。第1次の戦いは金時敏の朝鮮軍を攻略できず、日本軍は退いた。総力を結集した第2次攻防戦では、亀甲車で城壁を破壊し、黒田長政が城内に攻め入り、競うように加藤清正らが突入し、朝鮮軍を全滅させた。
晋州城攻防戦で宇喜多秀家は勝っています。
第2次攻防戦で3番隊1万7千を率いて日本軍の総大将を務めています。
関ヶ原の戦いの前哨戦。西軍・宇喜多秀家らが、伏見城(京都府京都市伏見区)を攻めた。守将の鳥居元忠は、20倍の兵を相手に頑強に戦ったが、鈴木重朝に一騎討ちで敗れた。城兵は全滅し、籠城軍の血で染まった床板は、複数の寺で再利用され、血天井として知られる。
伏見城の戦いで宇喜多秀家は勝っています。
徳川打倒を目的として挙兵する石田三成に賛同し、畿内の徳川勢力を討つべく伏見城を攻めました。
秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。
関ヶ原の戦いで宇喜多秀家は敗れています。
宇喜多秀家のターニングポイントになった戦いです。
西軍副大将として主力部隊1万7千の兵を率いて参戦します。東軍先鋒の福島正則と激戦を繰り広げますが、小早川隊の寝返りをうけて劣勢に。秀家は敗走し、戦場から逃亡しました。
宇喜多秀家の詳しい年表と出来事
宇喜多秀家は西暦1572年〜1655年(元亀3年〜明暦元年)まで生存しました。戦国時代後期に活躍した武将です。
1572 | 1 | 宇喜多直家の次男として備前国に生まれる。幼名:八郎 |
1581 | 10 | 父・宇喜多直家の死去により家督を相続。 |
1582 | 11 | ”備中高松城の戦い”初陣。毛利輝元との戦に参加。 織田信長が死亡。【本能寺の変】 羽柴秀吉の配下に加わる。 |
1584 | 13 | ”小牧・長久手の戦い”織田信雄&徳川家康との戦に参加。大坂城を守り雑賀衆を撃退する。 |
1585 | 14 | ”第2次紀州征伐”雑賀衆、根来衆の討伐戦に参加。水攻めに失敗し自軍に被害が出る。 ”四国征伐”羽柴(豊臣)秀長の指揮下で長宗我部氏の討伐戦に参加。黒田官兵衛を軍監とし諸城を陥落させる。 |
1586 | 15 | ”九州征伐”島津氏の討伐戦に参加。 |
1587 | 16 | ”根白坂の戦い”豊臣秀長の指揮下で島津義久との戦に参加。 |
1588 | 17 | 豊臣秀吉の養女・前田利家の娘(豪姫)と結婚。 |
1590 | 19 | ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。長宗我部元親、九鬼嘉隆と水軍を率いて下田城を攻め落とす。北条家滅亡 |
1592 | 21 | 日本軍の総大将として朝鮮国に侵攻。【文禄の役】 |
1593 | 22 | ”碧蹄館の戦い”漢城に向けて侵攻してきた明軍を小早川隆景と迎撃し撃退する。 ”幸州山城の戦い”権慄が篭る幸州山城を攻撃。小西行長、石田三成、黒田長政、毛利輝元らを動員するが敗れる。 ”第2次晋州城攻防戦”朝鮮軍が篭る晋州城を攻め落とす。総攻撃で城兵を殲滅する。 朝鮮国から帰国。 |
1594 | 23 | 権中納言に就任。 |
1595 | 24 | 徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景が五大老に任じられる。 |
1597 | 26 | 小早川秀秋を総大将とした日本軍の左軍8番隊および9番隊で朝鮮国に侵攻。【慶長の役】 ”南原城の戦い”明&朝鮮の連合軍が篭る南原城を総攻撃で陥落させる。南面から攻め入る。 順天倭城を藤堂高虎と築城する。 |
1598 | 27 | 豊臣秀吉に蔚山倭城、順天倭城、梁山倭城を破却して戦線の縮小を上申するが却下される。 主君・豊臣秀吉が死去。次代・豊臣秀頼に仕える。 朝鮮国から帰国。 豊臣秀吉の遺命により五大老・五奉行による合議制が敷かれる。 |
1599 | 28 | 五大老上首・前田利家が亡くなる。 加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が石田三成の屋敷を襲撃。石田三成を救出する。【石田三成襲撃事件】 |
1600 | 29 | 戸川達安、花房正成らが不平を理由に騒動を起こす。徳川家康に仲裁してもらう。【宇喜多騒動】 徳川家康が陸奥国・会津の上杉討伐に向かう。 石田三成と大谷吉継が反徳川の挙兵。 石田三成に味方する西軍の副大将を務める。 ”伏見城の戦い”鳥居元忠が篭る山城国・伏見城を攻め落とす。 伊勢国ならびに美濃国に侵攻する。 ”関ヶ原の戦い”徳川家康との戦に西軍として参加。福島正則と交戦する。西軍が敗れ、戦場から逃れる。 島津義弘を頼って薩摩国に落ち延びる。 |
1603 | 32 | 島津忠恒によって身柄を徳川家康に引き渡され、駿河国・久能山に幽閉。 |
1606 | 35 | 伊豆国・八丈島に流罪。 |
1655 | 84 | 伊豆国・八丈島で死去。 |

- 宇喜多秀家 – Wikipedia
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