小早川隆景
1533.?〜 1597.7.26

小早川隆景は、現在の広島県西部にあたる安芸国の武将です。豊臣五大老のひとり。毛利元就の三男として生まれ、山陽地方の小早川氏の養子になります。戦国最強といわれる毛利水軍を率いて、次兄・吉川元春と毛利両川の一翼を担いました。時勢を読む能力に優れ、豊臣秀吉に従って毛利家を存続させました。享年65歳。
- 小早川隆景の武将タイプ
- 参謀
小早川隆景は何をした人?このページは、小早川隆景のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと小早川隆景が好きになる「父ゆずりの頭脳と確かな先見性で毛利の家を守り抜いた」ハナシをお楽しみください。
- 名 前:小早川隆景
- 幼 名:徳寿丸
- 官 位:中務大輔、左衛門佐、従五位下、侍従、従四位下、正四位下、従三位、参議、権中納言、中納言
- 出身地:安芸国(広島県)
- 領 地:筑前国、筑後国
- 居 城:高山城 → 新高山城 → 三原城、湯築城 → 名島城 → 三原城
- 正 室:問田大方(小早川正平の娘)
- 子ども:2養
- 跡継ぎ:小早川秀秋
- 父と母:毛利元就 / 妙玖
- 養 父:小早川興景
父ゆずりの頭脳と確かな先見性で毛利の家を守り抜いた
中国地方の覇者・毛利元就には10人の男子がいましたが、父の聡明な頭脳を受け継いだのは三男・徳寿丸といわれています。安芸国の支配を強めようとする父の策で、山陽地方の国人・小早川家の養子に入った徳寿丸は、小早川隆景と名乗りました。
長男・隆元の毛利宗家を、次男・吉川元春と三男・小早川隆景がサポートする体制を『毛利両川』といい、兄弟は三位一体で毛利家を盛り立てました。
1563年に兄・隆元が亡くなり、1571年に父・元就が亡くなると、18歳の甥・輝元が毛利宗家を継ぎます。小早川隆景はこれを後見して、実質的な毛利家のトップを務めました。
”すべては毛利家のために” 小早川隆景は絶妙なバランスで実家を守りました。
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秀吉の天下統一を
全力で手伝う
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1582年に織田信長が本能寺の変で討たれると、小早川隆景は羽柴(豊臣)秀吉の天下を予感していました。1583年に織田氏に代わって秀吉が台頭すると、毛利家中の反対を説いて秀吉に従います。小早川水軍を率いて、秀吉の四国攻めと九州攻めに積極的に参加して武功を挙げました。
1590年の小田原征伐で、秀吉は難攻不落の要塞・小田原城を大軍で包囲します。籠城する北条氏政・氏直父子を降せば豊臣秀吉の天下統一が達成される一戦でしたが、長引く包囲戦で味方がダレてしまいます。なんと、秀吉は「家に帰る」言い出しました。
これはいけない。小早川隆景は「今、殿下が帰ったら兵が怠けます。それより宴会をしましょう。皆のやる気が増します」と提案します。
「戦場で宴会とはおもろい!やろ!」と秀吉もやる気を取り戻し、家臣たちの女房も集めて小田原城の目の前で大宴会をしました。この奇策で北条方は戦意喪失し、開城降伏につながりました。
「敵の戦意を削ぐために秀吉は戦場で宴会をした」という有名な話は、小早川隆景の策によるものでした。
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なんて弱そう
広島城の妙
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大坂と九州をつなぐ中継地点となる広島に城を築くよう、毛利輝元が秀吉に命じられます。これに小早川隆景は、要害に恵まれた山ではなく、平たい低地に築城することを輝元に進言します。輝元は言われたとおり低地に広島城を築きました。
出来上がった広島城を見て、秀吉は「なんだこの楽勝な城はw」と笑いました。馬鹿にされた輝元は悔しがりましたが、小早川隆景は「これでいい」と満足そうでした。
要害の良い城では秀吉に警戒心を抱かせてしまうので、わざと弱そうな城にして毛利家に危害が及ばないようにしたのでした。
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愚物を
引き受ける
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毛利宗家当主の輝元に男の子がいないことに目をつけた豊臣秀吉が、自分の甥を毛利家の養子に入れようとしました。この秀吉の甥というのが、12歳でアル中の酒びたりという困った子。権力者の甥でありながら愚物と陰口を叩かれるスーパー問題児だったのです。
こんな問題児が毛利家を継いだら大変。
小早川隆景はとっさに機転をきかせて「私にも子がいません。私の後継ぎにください」と秀吉に懇願しました。最初はしぶっていた秀吉も、小早川隆景が熱心に頼むので、小早川の養子にすることにしました。
かくして、スーパー問題児くんは1594年に小早川隆景の養嗣子(家を継ぐ養子)となり、小早川秀秋と名乗りました。そしてこの小早川秀秋はこれよりのち、1600年の関ヶ原の戦いで日本史に残る有名な寝返り劇で汚名を残します。
この秀秋がもしも毛利家を継いでいたら…。毛利宗家の存亡を脅かしかねない養子縁組でしたが、小早川隆景の捨て身の縁談で、毛利家のピンチは回避されました。
生涯を簡単に振り返る
1533年、小早川隆景は安芸国の吉田郡山城に毛利元就の三男として生まれます。竹原小早川家の養子に入り、沼田小早川家から嫁をもらって両家を統合します。厳島の戦いをはじめ、父の中国地方制覇に貢献し、父と長兄が没すると、当主になった甥・輝元を支えます。豊臣秀吉の台頭に順応して毛利家の存続を図りました。
秀吉の四国・九州征伐で活躍し、小田原征伐にも水軍を率いて参陣。秀吉の天下統一に協力します。朝鮮に渡った文禄の役から帰国後、秀吉の甥・秀秋を養子に迎え、豊臣五大老に任じられました。
最後と死因
小早川秀秋に家督を譲った2年後、小早川隆景は備後国・三原城で亡くなりました。1597年7月26日、死因は脳卒中。65歳でした。死の間際、同じく病に臥せていた弟・穂井田元清と「どっちが先に逝くかね」と話していたそうです。1か月ほど早く逝きました。
領地と居城

豊臣秀吉によって転封された筑前国33万石が小早川隆景の領地でした。お隣りの豊前国は黒田官兵衛の領地であり、これを見張る役でした。
小早川隆景の性格と人物像
小早川隆景は「大切な物のために自己犠牲も辞さない人」です。
思慮深くて物静か。穏やかな人柄ですが、強い芯を持っています。根本には配慮と気づかいの精神があり、他者と良好な関係を築くことに心を砕きます。
父の臨終に際して「争いは欲から起こる。義を守れば兄弟は仲良くできます」と話し、毛利家の行く末を安心させたといいます。義理堅く誠実な人柄をよく知るルイス=フロイスは、隆景が統治したころの伊予国には騒乱も叛乱もなかったと称賛しました。
合戦ではいつも陣頭で指揮を執っており、生傷が絶えませんでした。甥・輝元の教育に関しては厳しく、当主の心得を教えるために体罰も行っています。
黒田官兵衛と仲良しですが、油断ならない人物であることも知っていました。安国寺恵瓊のことも信用しておらず、ひとの内面を正確に見抜いていました。豊臣秀吉から「まっとうな政治をする者」と心底信頼されており、隆景が亡くなると ”日本の蓋がなくなった” と惜しまれています。
子どもの頃から頭が良く、大内義隆の人質から戻ると「あの当主では大内氏は長くない」と父・毛利元就に伝えたといいます。
端正な顔立ちをしたイケメン。生真面目で冗談は好みません。女性を寄せ付けず、奥さんに対してもよそよそしく、正装して賓客をもてなすように接しました。側室もとらず子どももいません。
能力を表すとこんな感じ

抜群の先見性が小早川隆景のすごいところです。政治的な圧力にも柔軟に対応して、毛利の家を守り抜くファインプレーを連発しています。
信長の野望シリーズに登場する小早川隆景の能力値も参考にしています。
小早川隆景の面白い逸話やエピソード
愛媛県に残るトンカカさんのリズム
小早川隆景が豊臣秀吉に命じられて向かった四国征伐で、伊予国を攻めたときの話です。小早川軍3万は、東予地方の金子元宅を攻めました。元宅の兵はわずか2千ほどでしたが、屈することなく決死の覚悟で戦って全員が討ち死にしたといいます。
小早川隆景は無数の亡骸に合掌し、鎧の上に法衣をかぶせると、凄絶な戦いぶりを讃えて舞を踊って弔いました。
トン、トン、トン・カッカ、トン・カッカ、トン、トン。
隆景の舞に合わせて、まわりにいた将兵が鳴らしたリズムがこのように聞こえたことから『トンカカさん』と呼ばれ、愛媛県西条市に伝わる郷土芸能になりました。
小早川隆景の有名な戦い
備後国南部の要害である神辺城(広島県福山市神辺町)をめぐって、長期にわたって争われた合戦。大内義隆から離反した城主・山名理興を討伐するために、毛利元就ら大内軍が攻めた。大門湾周辺を小早川隆景が占拠すると、神辺城は孤立し、総攻撃によって落城した。
神辺合戦で小早川隆景は勝っています。
手城島城、明智山城を陥落させた小早川水軍に帯同して単独で坪生要害を攻め落とすなど、見事な初陣を飾りました。
兵数で劣る毛利元就は、厳島(広島県廿日市市宮島町)に陶晴賢の大軍を誘い出すことに成功。毛利軍は、小早川隆景らの別働隊と同時に、風雨の激しい夜に作戦を開始した。挟撃による奇襲に慌てた陶軍は混乱して舟に向かうが、村上水軍がこれを迎撃。陶晴賢は自害した。
厳島の戦いで小早川隆景は勝っています。
小早川隆景のターニングポイントになった戦いです。
水軍を率いて海上から陶軍を攻撃しました。父たちが陸戦で陶軍を退散させると、村上水軍と連携しながら海上を封鎖して退路を断ち、勝利に大きく貢献しました。
尼子氏の居城である月山富田城(島根県安来市広瀬町)をめぐって、たびたび行われた合戦。第2次合戦では、尼子十旗と呼ばれる支城を落とした毛利軍によって包囲される。山中鹿介が一騎討ちを制するなど尼子軍も奮戦したが、毛利元就の兵糧攻めによって陥落した。
月山富田城の戦いで小早川隆景は勝っています。
父の指揮下で次兄・元春とともに毛利軍の一翼を担います。月山富田城の北側にある菅谷口を攻めて尼子秀久と戦いました。
四国地方を制していた長宗我部元親を、阿波、讃岐、伊予の三方向から、羽柴秀長を総大将とした大軍が攻めた。讃岐方面から進軍した黒田官兵衛が諸城を攻略して、阿波に侵攻。小早川隆景が伊予を制圧した。四国全体で戦火が上がったが、長宗我部氏の降伏により終戦した。
四国征伐で小早川隆景は勝っています。
今治浦から上陸して、金子城、高峠城、高尾城をつぎつぎと陥落させました。長宗我部方の金子元宅を討ち取り、伊予国の制圧を完了させています。
惣無事令に違反して大友領を攻めた島津氏の討伐軍を豊臣秀吉が派兵した。豊臣秀長を総大将とした15万の大軍を相手に、島津義弘が奮戦するが、敗れて後退。根白坂(宮崎県児湯郡木城町)で決戦となった。豊臣軍の黒田官兵衛が島津軍の夜襲を見抜いて返り討ちにした。
根白坂の戦いで小早川隆景は勝っています。
黒田官兵衛と呼応して島津勢を挟撃し、島津忠隣、猿渡信光らを討ち取って全滅させました。
漢城に向けて侵攻する明&朝鮮の連合軍と日本軍が、碧蹄館(大韓民国京畿道高陽市)周辺で衝突した合戦。立花宗茂がこれを迎撃し、奮戦。先鋒隊を率いた小早川隆景は、部隊を3つに分けて埋伏させ、機をみて連合軍を囲い討ちにし、明軍前衛を撃破した。
碧蹄館の戦いで小早川隆景は勝っています。
狭くて険しい地形を利用して、伏兵を使った三方包囲策で連合軍を撃破しました。隆景の策で日本軍は優勢になり、本隊の到着を待たずに勝利しました。
小早川隆景の詳しい年表と出来事
小早川隆景は西暦1533年〜1597年(天文2年〜慶長2年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍した武将です。
1533 | 1 | 毛利元就の三男として安芸国に生まれる。幼名:徳寿丸 |
1544 | 12 | 跡継ぎがいなかった竹原小早川氏の養子になり家督を相続。 |
1547 | 15 | 元服 → 小早川(又四郎)隆景 ”神辺合戦”山名理興との戦に参加。坪生要害を単独で攻略する。 |
1550 | 18 | 父・毛利元就が沼田小早川氏の当主・小早川繁平を拘禁したのち隠居・出家させる。繁平派を粛清。 小早川正平の娘で繁平の妹(問田大方)と結婚。沼田と竹原の2つの小早川氏を統合する。 高山城に入る。 |
1552 | 20 | 新高山城を築き、居城を移す。 |
1554 | 22 | 呉水軍と能美水軍を討伐し能美島を占拠。 |
1555 | 23 | ”厳島の戦い”陶晴賢との戦に参加。村上水軍とともに大内水軍を撃破、海上を封鎖する。 |
1557 | 25 | 大内義長との戦に参加。【防長経略】大内家滅亡 |
1558 | 26 | ”第1次門司城の戦い”次兄・吉川元春と大友領・門司城を攻める。水軍で奇襲し門司城を攻略する。 |
1559 | 27 | ”第2次門司城の戦い”大友氏が門司城に攻めてくる。長兄・隆元と防衛する。 |
1561 | 29 | ”第4次門司城の戦い”大友宗麟との戦に参加。門司城に入り防戦の指揮を執る。 |
1563 | 31 | 長兄・毛利隆元が死去。甥・毛利輝元を補佐して政務と外交を担当する。 |
1566 | 34 | ”第2次月山富田城の戦い”尼子義久との戦に参加。尼子家滅亡 |
1567 | 35 | 父・元就から伊予国へ援軍を命じられる。 |
1568 | 36 | 河野氏&村上氏を支援して一条氏&宇都宮氏を退ける。宇都宮豊綱を降して大洲城を攻略。 来島村上水軍を支配下に置く。 |
1569 | 37 | ”立花合戦”大友宗麟との戦に参加。次兄・吉川元春と立花山城を攻め落とす。 ”多々良浜の戦い”大友宗麟との戦に参加。 |
1570 | 38 | ”布部山の戦い”尼子再興派の鎮圧戦に参加。備後勢を率いて第1陣を戦う。 |
1571 | 39 | 備前国・児島周辺で浦上宗景、村上武吉と争う。本太城を攻略するが児島制圧に失敗。 父・毛利元就が死去。次々代・毛利輝元に仕える。 |
1575 | 43 | 三村元親が毛利氏に叛く。討伐に向かい攻め滅ぼす。 織田氏と共謀した豊後国の大友宗麟が毛利領に侵攻してくる。これを撃退する。 |
1576 | 44 | ”第1次木津川口の戦い”石山本願寺に加勢して織田氏の九鬼水軍を撃破。【第3次信長包囲網】 |
1578 | 46 | 次兄・吉川元春と播磨国に侵攻する。 |
1579 | 47 | ”辛川崩れ”織田氏に転じた宇喜多氏と争うが大敗する。 ”加茂崩れ”虎倉城を攻めるが、伊賀久隆に大敗する。 |
1580 | 48 | 三木城が織田氏に落とされる。 備前国の宇喜多直家、伯耆国の南条元続が織田氏に服従し豊後国の大友宗麟らが呼応して毛利領を脅かす。 |
1582 | 50 | ”備中高松城の戦い”羽柴秀吉に包囲される高松城の救援に向かう。日差山に布陣する。 織田信長が死亡。【本能寺の変】 三原城に居城を移す。 |
1583 | 51 | 養子・小早川元総(秀包)を人質として羽柴氏に預ける。 |
1585 | 53 | ”第2次紀州征伐”羽柴秀吉の指揮下で雑賀衆、根来衆の討伐戦に参加。 ”四国征伐”羽柴(豊臣)秀長の指揮下で長宗我部氏の討伐戦に参加。伊予国から四国に上陸して700の首級をあげる。丸山城を攻めて黒川広隆を降す。金子城、高峠城、高尾城を攻略。金子元宅を討ち取る。 羽柴秀吉から伊予国を拝領する。 湯築城に入る。 |
1587 | 55 | ”九州征伐”豊臣秀長の指揮下で島津氏の討伐戦に参加。吉川元春と日向国から侵攻。松山城、宇留津城、障子岳城を攻める。 ”根白坂の戦い”豊臣秀長の指揮下で島津義久との戦に参加。黒田官兵衛とともに島津軍を挟撃して島津忠隣と猿渡信光を討ち取って壊滅させる。 豊臣秀吉から筑前国、筑後国を拝領する。 名島城に居城を移す。 |
1588 | 56 | 侍従に就任。 |
1590 | 58 | ”小田原征伐”北条氏の討伐戦に参加。徳川家康の岡崎城を預かる。小田原城の海上包囲に加わる。 豊臣秀吉が小田原城を開城降伏させる。北条家滅亡 豊臣秀吉の天下統一が成る。 |
1592 | 60 | 宇喜多秀家を総大将とした日本軍の6番隊主将を担い立花宗茂らを率いて朝鮮国に侵攻。【文禄の役】 全羅道の制圧にあたる。 ”第1次錦山の戦い”高敬命が錦山拠点に侵攻してくる。これを迎撃して高敬命を討ち取る。 ”熊峠の戦い”朝鮮軍を撃破。鄭湛を討ち取る。 ”牛脊峴の戦い”朝鮮軍の金沔と交戦するが伏兵に敗れる。 ”第2次錦山の戦い”趙憲と霊圭が錦山拠点に侵攻してくる。これを迎撃して趙憲、霊圭を討ち取る。 朝鮮軍の夜襲に遭うが迎撃して大勝する。 |
1593 | 61 | ”碧蹄館の戦い”漢城に向けて侵攻してきた明軍を宇喜多秀家と迎撃し撃退する。 ”第2次晋州城攻防戦”宇喜多秀家の指揮下で朝鮮軍が篭る晋州城を攻める。 朝鮮国から帰国。 |
1594 | 62 | 豊臣秀吉の甥・豊臣秀俊(小早川秀秋)を養嗣子に迎える。 |
1595 | 63 | 徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景が五大老に任じられる。 養嗣子・小早川秀秋に家督を譲り隠居。 三原城に居城を移す。 権中納言に就任。 |
1597 | 65 | 備後国・三原城で病死。 |

- 小早川隆景 – Wikipedia
- 小早川隆景とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】|歴史上の人物.com
- 小早川隆景…あの軍師官兵衛に『本当の賢者』と言わしめた男 – YouTube
- 本郷和人監修『戦国武将の解剖図鑑』エクスナレッジ
- 矢部健太郎監修『超ビジュアル!戦国武将大事典』西東社
- 小和田哲男監修『ビジュアル 戦国1000人』世界文化社
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