しまづ よしひろ

島津義弘

1535.8.21 〜 1619.8.30

 
島津義弘の面白いイラスト
  

島津義弘(惟新斎、義珍、忠平)は、現在の鹿児島県西部にあたる薩摩国の武将・大名です。島津四兄弟の次男。兄弟で九州統一を目指しました。関ヶ原の戦いでみせた決死の敵中突破など、戦国史でも随一の猛将として知られています。文禄・慶長の役では、敵将を討ち取る活躍で、東アジアでも恐れられました。享年85。

島津義弘は何をした人?このページは、島津義弘のハイライトになった出来事をなるべく正しく、独特の表現で紹介しています。きっと島津義弘が好きになる「関ヶ原で魅せた退き口や鬼石曼子など最強の名を馳せた」ハナシをお楽しみください。

  • 名 前:島津忠平 → 島津義珍 → 島津義弘 → 島津惟新斎
  • あだ名:鬼島津、鬼石曼子
  • 官 位:兵庫頭、従五位下、侍従、従四位下、参議、贈正三位
  • 戦 績:49戦 36勝 7敗 6分
  • 出身地:薩摩国(鹿児島県)
  • 領 地:薩摩国、大隈国
  • 居 城:飯野城 → 松尾城
  • 正 室:北郷忠孝の娘、亀徳(相良晴広の娘)、実窓夫人(園田実明の娘)
  • 子ども:5男 2女
  • 跡継ぎ:島津忠恒
  • 父と母:島津貴久 / 雪窓夫人
  • 大 名:島津義久 → 島津氏17代当主

関ヶ原で魅せた退き口や鬼石曼子など最強の名を馳せた

島津四兄弟の次男・島津義弘は、長男・義久と同列で当主として(あつか)われ、豊臣期の島津氏を牽引(けんいん)した闘将(とうしょう)です。戦国史のなかでも、仰天(ぎょうてん)する合戦エピソードが数多く知られています。

祖父・島津忠良は、島津義弘のことを「雄武英略(ゆうぶえいりゃく)をもってほかに傑出(けっしゅつ)」と評しています。祖父が期待したとおり、四兄弟のなかでも特に大きな戦果と伝説を残したのが島津義弘でした。

強烈(きょうれつ)な武勇伝を残した島津義弘は鹿児島で最も愛されている武将であり、神さまのような存在として(あが)められています。

島津義弘の武勇伝のなかでも有名なのが、関ヶ原の戦いでの出来事です。

敵陣(てきじん)のど真ん中を突破(とっぱ)した大胆(だいたん)退却劇(たいきゃくげき)島津の退()き口』が語り()がれています。


意地でも帰る!
敵中突破

1600年の関ヶ原の戦いで、島津義弘は石田三成が率いた西軍に(くみ)していました。

決戦の前夜に行われた軍議の席で島津義弘は東軍(徳川派)への夜襲(やしゅう)献策(けんさく)しました。しかし、石田三成から「そんなの田舎者のすること」と却下(きゃっか)されてしまいます。

翌朝、両軍は戦闘(せんとう)を開始します。

昨夜のことがあり、島津兵は三成の指揮下で戦う気になれず、島津義弘は(じん)を出ずに静観していました。

すると、開戦からわずか6時間後、もともと足並みが(そろ)わなかったこともあって、西軍はあっさり敗れてしまいます。西軍は瓦解(がかい)し、石田三成は戦場から逃亡(とうぼう)しました。

わずか1千6百しか兵を連れていなかった島津義弘は、気が付けば数万の敵兵のなかに置き去りになっていました。

じつは、関ヶ原の戦いに至るまでの島津義弘は不本意の連続でした。

たまたま在京していたことで騒動(そうどう)に巻きこまれ、手勢では足りないと薩摩(さつま)にいる兄・義久に援軍(えんぐん)(たの)むも断られ、徳川に味方しようと伏見城(ふしみじょう)の助太刀を申し出たら入城を拒否(きょひ)され……。

そして今は徳川の大軍に囲まれている。

いっそ数百メートル先の徳川本陣(ほんじん)突撃(とつげき)して討ち死にしてやろうかとしましたが、(おい)・豊久に(さと)されて、死ぬためではなく生きるための突撃(とつげき)をしようということになり、敵中突破(とっぱ)に向かいます。

【島津の退き口】関ヶ原の戦いで島津義弘が敵中突破したルート

疾走(しっそう)を開始した島津隊は福島正則を蹴散(けち)らして、本多忠勝と井伊直政を突破(とっぱ)徳川家康の眼前をビューッとかすめるように()き進みました。

この鬼気迫(ききせま)る様子に徳川家康も「あっぱれ!シマヅ!かっこいい!」と興奮して立ち上がり、思わず熱狂(ねっきょう)しました。

敵中を突破(とっぱ)したものの、徳川軍の猛将(もうしょう)赤鬼(あかおに)の異名をもつ井伊直政が執拗(しつよう)なプレスをかけてきます。(おい)・豊久がこれを引きつけ、島津隊は二手にわかれました。

豊久が『捨て(がまり)』という後方に残った部隊が全滅(ぜんめつ)するまで敵をくい止める戦法で、島津義弘の退却(たいきゃく)を助け、なんとか薩摩(さつま)に帰ることができました。

島津兵で生還(せいかん)できたのは、80人ほどだったといいます。(おい)・豊久も討ち死にしてしまいました。

このとき島津義弘66歳。
老齢(ろうれい)にして、前代未聞の敵中突破(とっぱ)が伝説になりました。


大陸を震撼させた
鬼石曼子

これより少し(さかのぼ)って、1598年の慶長(けいちょう)(えき)でのこと。

朝鮮(ちょうせん)に渡った島津義弘は、泗川(しせん)の戦いで特大のインパクトを放っています。

日本軍の泗川倭城(しせんわじょう)に、(みん)朝鮮(ちょうせん)の連合軍が()し寄せました。一説では、その数なんと20万。
これを(むか)()つ島津義弘は7千という無理ゲーでした。

島津義弘は限られた戦力をいくつかに分ける伏兵(ふくへい)戦術で大軍に対抗(たいこう)します。

長期戦になると寡兵(かへい)(少数部隊)では不利なので、敵の食料庫(しょくりょうこ)を焼き討ちにし、短期決戦に持ちこみました。

あわてた連合軍が泗川倭城(しせんわじょう)に大挙してくると、()せておいた鉄砲隊(てっぽうたい)一斉射撃(いっせいしゃげき)をお見舞(みま)いし、混乱した敵軍の後方にある火薬庫に火を放って大爆発(だいばくはつ)させました。

パニックを起こして散り散りになる連合軍に、島津義弘は城から出撃(しゅつげき)して追い討ちをかけ、3万余の敵を討ち取りました。

島津兵の損害は、たったの2人だったそうです。

(みん)国や朝鮮(ちょうせん)国でも泗川(しせん)の戦いでの様子を『(おに)島津』や『鬼石曼子(グイシーマンズ)』と伝えており、海を()えた大陸でも島津義弘の武名が(とどろ)きました。

祖父の読みどおり、まさに傑出(けっしゅつ)した統率力で伝説的な戦いぶりを見せた島津義弘です。

生涯を簡単に振り返る

生まれと出自

1535年、島津義弘は薩摩国(さつまのくに)伊作城(いざくじょう)に守護大名である島津貴久の次男として生まれます。島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の二番目です。家臣・伊集院忠朗の一宇治城で育ちました。木崎原(きざきばる)の戦いや耳川の戦いで活躍(かつやく)し、兄弟と協力して九州地方を席巻します。九州統一に(せま)りますが、豊臣秀吉に敗れて降伏(こうふく)しました。

島津氏の当主として

秀吉から島津家当主として(あつか)われ、朝鮮(ちょうせん)(えき)にも参加しました。秀吉の没後(ぼつご)、西軍に(くみ)した関ヶ原の戦い以降は、責任を問われて桜島に蟄居(ちっきょ)します。三男・忠恒に家督(かとく)(ゆず)り、兄・義久との『三殿体制(さんでんたいせい)』で領内統治をしました。

最後と死因

晩年は青年の育成に尽力(じんりょく)します。年上の男児が年少の男児を鍛錬(たんれん)する『郷中教育ごちゅうきょういく』を江戸時代に伝えて、島津義弘は大隅国(おおすみのくに)・加治木館で亡くなりました。1619年8月30日、死因は老衰(ろうすい)。85歳でした。この縦割り教育システムから、西郷隆盛や大久保利通が輩出(はいしゅつ)されています。

領地と居城

島津義弘の領地・勢力図(1587年)

日向国(ひゅうがのくに)大隈国(おおすみのくに)を合わせた30万石ほどが島津義弘の領地でした。これは豊臣家氏に降伏(こうふく)した後で秀吉から(あた)えられた領地で、兄・義久には薩摩国(さつまのくに)(あた)えられました。兄弟を分断させるための秀吉の策略でした。

島津義弘の性格と人物像

島津義弘は「強くて人望があるやさしい人」です。

下っ()の兵たちといっしょになって囲炉裏(いろり)で暖まり、大将なのに夜間の見回りローテーションにも加わりました。上下(へだ)てなく気を配っていた義弘の陣営(じんえい)だけが、朝鮮(ちょうせん)出兵で凍死者(とうししゃ)を出しませんでした。

やさしく人情味がある人物として知られています。

家臣に子どもが産まれると屋敷(やしき)に招いて祝い、()きあげて言葉をかけてあげたといいます。

部下との関係は良好で、義弘が亡くなったときには殉死(じゅんし)禁止令に違反(いはん)して13人が後を追いました。

優しい人情家ですが、5本もの矢を受けながら奮戦するなど、いくさとなれば勇猛果敢(ゆうもうかかん)です。

伊東祐信との一騎討(いっきう)ちで、タイミングよく愛馬がかがんで救われたことがあります。このときの馬を『膝突栗毛(ひざつきくりげ)』と名付けて大切にし、大事な合戦には必ずつれていきました。

老いて(おとろ)えた最晩年、食事もままならないところに家臣が(とき)の声(えいえいおー)をあげると、シャキッと背筋をのばしてモリモリご飯を食べたといいます。

千利休や古田織部といった一流の茶人から指導を受けています。茶の湯のほか、医術や学問にも通じた文化人でもありました。

家庭を大事にするマイホームパパで、陣中(じんちゅう)から(おく)さんに何通もの手紙を送った愛妻家です。もちろん側室はいません。

能力を表すとこんな感じ

島津義弘の能力チャート

ズバ()けた統率力で戦況(せんきょう)(くつがえ)せるのが島津義弘の強みです。兵たちの団結力に支えられた部分も大きく、一兵卒にまで日頃(ひごろ)から声をかけていた人柄(ひとがら)や人望が強固な組織を生みました。

能力チャートは『信長の野望』シリーズに登場する島津義弘の能力値を参考にしています。東大教授が戦国武将の能力を数値化した『戦国武将の解剖図鑑』もおすすめです。

島津義弘の面白い逸話やエピソード

猫のための神社とヤス猫の由来

(ねこ)の眼は明るいと細くなり、暗いと丸くなります。この性質を利用すれば、慣れない土地で(ねこ)が時計の役割をしてくれるだろうと考えた義弘は、朝鮮(ちょうせん)出兵に7匹の(ねこ)を連れていきました。

7年ものあいだ過酷(かこく)環境(かんきょう)で戦い続けた義弘と島津軍、そして(ねこ)

(ひき)いた(ねこ)も朝鮮から帰国するころにはヤスミケの2(ひき)だけになっていました。

義弘は一緒(いっしょ)に帰国した(ねこ)のヤスとミケを(まつ)り、現地で亡くなった猫たちを(とむら)うための神社を建てました。

仙巌園(せんがんえん)にあるこの神社は、現在も(ねこ)好きの人々から『猫神神社(ねこがみじんじゃ)』と親しまれています。

義弘と共に朝鮮(ちょうせん)(わた)っていた次男・久保は病にかかってしまい、21歳の若さで亡くなりました。朝鮮(ちょうせん)で久保が ”ヤス” と呼んでかわいがっていた(ねこ)が茶色いトラ模様であったことから、鹿児島県では茶トラ(ねこ)を『ヤス(ねこ)』と呼ぶようになりました。

さらってきた職人が薩摩焼をつくる

薩摩焼(さつまやき)は鹿児島県でつくられる陶磁器(とうじき)で、種類が多いことが特徴(とくちょう)です。
細かく分けると、竪野(たての)系、龍門司(たつもんじ)系、苗代川(なえしろがわ)系、西餅田(にしもちだ)系、平佐(ひらさ)系、種子島(たねがしま)系があり、それぞれに個性があります。

これは、朴平意や金海といった朝鮮人陶工(ちょうせんじんとうこう)たちが、スタイルの異なるさまざまな陶磁器(とうじき)の製作を行い、次第に流派が分かれたことに由来しています。

文禄(ぶんろく)慶長(けいちょう)(えき)は『焼き物戦争』と呼ばれている側面があり、陶器(とうき)に夢中だった豊臣秀吉の命令で、朝鮮(ちょうせん)から陶器(とうき)づくりの職人が日本に大勢連れてこられました。

薩摩(さつま)にも80人の朝鮮人陶工(ちょうせんじんとうこう)を島津義弘が連れ帰り、そのときの職人たちの技術が『薩摩焼(さつまやき)』に伝わっています。

島津義弘の有名な戦い

木崎原の戦い きざきばるのたたかい 1572.6.14 ● 伊東軍3千 vs 島津軍3百 ○

島津氏の加久藤城を伊東祐安が攻めた合戦。島津義弘がわずか300の兵で迎撃。少ない手勢をいくつかに分けて、木崎原(宮崎県えびの市)周辺に配置した義弘は、伊東軍を誘導し、囲み討ちにした。伊東祐安をはじめ、多くを討ち取った。九州の桶狭間といわれている奇襲戦。

木崎原(きざきばる)の戦いで島津義弘は勝っています。

島津義弘のターニングポイントになった戦いです。
寡兵(かへい)で勝利する義弘のスタイルが確立された合戦で、()野伏(のぶ)せで伊東氏を退けました。自らも伊東祐信を一騎討(いっきう)ちで討ち取っています。両軍の被害(ひがい)は大変なもので、義弘は六地蔵(とう)を建てて(とむら)いました。

耳川の戦い みみかわのたたかい 1578.11.19 〜 12.10 ● 大友軍4万 vs 島津軍3万 ○

日向国を制圧した島津氏に対して、大友宗麟が進軍。大筒を投入し、耳川ちかくの高城(宮崎県児湯郡木城町)を積極的に攻めた合戦。島津義久は伏兵を配備して迎撃する。島津義弘と、高城から出撃した島津家久が伏兵によって大友軍を一網打尽にした。高城川の戦いとも。

耳川の戦いで島津義弘は勝っています。

義弘らの追撃(ついげき)で混乱した大友軍は、耳川に流されて溺死(できし)したものも続出しました。耳川での勝利は、大友氏の戦力を大きくダウンさせ、島津氏の北九州進出の足掛(あしが)かりとなりました。

九州征伐 きゅうしゅうせいばつ 1586.10.? ○ 豊臣軍? vs 島津軍? ●

惣無事令に違反して大友領を攻めた島津氏の討伐軍を豊臣秀吉が派兵した。毛利輝元を先導役とした豊臣軍は門司城(福岡県北九州市門司区)に着陣。島津義久が抗戦の姿勢を見せ、秋月種実に迎撃させたことで戦いが始まり、大友領をめぐって雌雄を決することとなる。九州の役とも。

九州征伐(せいばつ)で島津義弘は敗れています。

義弘は肥後国(ひごのくに)阿蘇(あそ)から九州山地を()えて大友氏の本領である豊後国(ぶんごのくに)()め入ります。牟礼城(むれじょう)を落として岡城を()めますが、激しい抵抗(ていこう)に苦戦し、撤退(てったい)しました。

根白坂の戦い ねじろざかのたたかい 1587.5.24 ○ 豊臣軍15万 vs 島津軍3万5千 ●

九州東部から薩摩国に迫る豊臣秀長に対し、局面を打破したい島津義弘が決戦を挑む。島津勢は根白坂(宮崎県児湯郡木城町)を急襲するが、すでに砦を構築していた豊臣軍が迎撃。苦戦した島津軍は夜襲を仕掛けるが、これを予見していた黒田官兵衛が返り討ちにし、壊滅させた。

根白坂の戦いで島津義弘は敗れています。

義弘は抜刀(ばっとう)して敵陣(てきじん)()りこむ気迫(きはく)を見せますが、奮戦も(むな)しく豊臣氏の大軍に敗れました。根白坂の敗戦後、島津氏は豊臣秀吉に服従します。

泗川の戦い しせんのたたかい 1598.10.30 ● 明&朝鮮軍4〜20万 vs 日本軍7千 ○

董一元が率いる明&朝鮮の連合軍に攻められた泗川倭城(大韓民国慶尚南道泗川市)を、島津義弘が寡兵で防衛した合戦。引きつけてからの一斉射撃と、敵軍の火薬庫を大爆発させる工作で、3万人以上の被害を与えた。明国の記録では、この戦いで8万人が戦死したとある。

泗川(しせん)の戦いで島津義弘は勝っています。

泗川倭城(しせんわじょう)は、釜山(ぷさん)と日本軍の最左翼(さいさよく)にある順天倭城(わじょう)、南海倭城(わじょう)をつなぐ中間にある重要拠点(きょてん)でした。ここを防衛しただけでなく、(みん)朝鮮(ちょうせん)軍に信じられないほどの大打撃(だいだげき)(あた)え、異国でも畏怖(いふ)されるようになりました。

露梁海戦 ろりょうかいせん 1598.12.16 ○ 明&朝鮮軍5百隻 vs 日本軍5百隻 ●

露梁津(大韓民国慶尚道露梁津)海域から、小西行長の撤退を島津義弘らが援護した大規模な開戦。立花宗茂など、日本軍は奮闘し、小西隊の退却に成功。明軍副将・鄧子龍、朝鮮軍総督・李舜臣ら多くの将官が戦死したものの、戦果としては連合軍が勝利した。

露梁(ろりょう)海戦で島津義弘は敗れています。

日本軍は敗れましたが、小西行長を戦闘(せんとう)海域から()がすという義弘のミッションは成功させています。

関ヶ原の戦い せきがはらのたたかい 1600.10.21 ● 西軍8万2千 vs 東軍8万9千 ○

秀吉の死後、徳川家康が権力を増すなか、石田三成が反徳川の挙兵。家康が率いる東軍と三成が率いた西軍が、関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で雌雄を決した。井伊直政が撃ちかけた鉄砲によって開戦。西軍・小早川秀秋が東軍に寝返り、わずか6時間で東軍が勝利した。

関ヶ原の戦いで島津義弘は敗れています。

本領を発揮したのは西軍が敗れたあとでした。井伊直政や本多忠勝といった徳川軍の猛将(もうしょう)を相手に壮絶(そうぜつ)撤退戦(てったいせん)で武名を知らしめました。

島津義弘の詳しい年表と出来事

島津義弘は西暦(せいれき)1535年〜1619年(天文(てんぶん)4年〜元和(げんな)5年)まで生存しました。戦国時代中期から後期に活躍(かつやく)した武将です。

15351島津貴久の次男として薩摩国に生まれる。
154612元服 → 島津(又四郎)忠平
改名 → 島津義珍 → 島津義弘
155420”岩剣城の戦い”蒲生氏、祁答院氏、入来院氏、菱刈氏との戦に参加。
155723”西大隅の戦い”蒲生氏との戦に参加。日本で初めて鉄砲が実戦使用された。
156430日向国・飯野城に入る。
156632築城中の三ツ山城を攻めるが、伊東義祐に敗れる。
父・島津貴久が隠居。次代・島津義久を支える。
157238”木崎原の戦い”薩摩国に侵攻してきた伊東氏と寡兵で破る。一騎討ちで伊東祐信を討ち取り、伊東義祐を退ける。
157642嫡男・鶴寿丸が亡くなる。
157743伊東義祐との戦に参加。
157844”耳川の戦い”大友宗麟との戦に参加。迎撃し撃退する。耳川に追撃して多くの兵を溺死させる。
158248龍造寺氏から離反した有馬晴信を末弟・家久とともに援護し、千々石城を攻略する。
158551”阿蘇合戦”阿蘇惟光を撃破。
肥後国を平定。
※この頃、兄・島津義久から家督を相続したかもしれない。
158652”岩屋城の戦い”*従弟・忠長と伊集院忠棟が大友領・岩屋城を攻略。
”立花山城の戦い”*従弟・忠長と伊集院忠棟が大友領・立花山城を包囲。豊臣氏が九州上陸したため撤退させる。
龍造寺政家が離反する。
大友宗麟に岩屋城と宝満城を奪い返される。
”九州征伐”豊臣秀吉の島津征伐軍を迎え撃つ。
158753*末弟・家久が大友領・鶴ヶ城を攻める。
”戸次川の戦い”*仙石秀久が率いる九州征伐軍が豊後国に侵攻してくる。末弟・家久がこれに勝利する。
*末弟・家久が大友宗麟が篭る丹生島城を攻める。
大友領・筑前国、豊後国に侵攻する。
末弟・家久が豊臣秀長に降伏し、単独講和する。
末弟・島津家久が急死。
”根白坂の戦い”豊臣氏の九州征伐軍に敗れる。
豊臣秀吉に降伏、従属する。
豊臣秀吉が九州を平定。
豊臣秀吉から日向国と大隈国を拝領する。兄・義久には薩摩国を拝領する。【両殿体制】
豊臣秀吉から島津氏の当主として扱われるようになる。
158955兄・義久の娘(亀寿)を次男・久保の嫁にもらう。
159258”梅北一揆”*島津家臣・梅北国兼が肥後国で一揆を扇動する。
宇喜多秀家を総大将とした日本軍の4番隊として朝鮮国に侵攻。梅北一揆の影響を受けて大幅な遅参をする。【文禄の役】
江原道に向かい春川を制圧する。
”春川の戦い”元豪、朴渾が春川城に侵攻してくる。甥・豊久が出撃して撃破。朴渾を討ち取る。
”金北の戦い”朝鮮軍を撃破。次男・久保が元豪を討ち取る。
豊臣氏に対する不服従を問われた長弟・歳久が自害。
159359朝鮮国から帰国。
次男・島津久保が病死したため、兄・義久の娘(亀寿)を三男・忠恒の嫁にもらう。
159460豊臣秀吉の検地をきっかけに島津氏の主要地を拝領する。
日向国・松尾城を居城にする。
159763小早川秀秋を総大将とした日本軍の5番隊で朝鮮国に侵攻。【慶長の役】
”漆川梁海戦”朝鮮軍との戦に参加。小西行長と陸上部隊を率いて水軍を援護する。
”南原城の戦い”明&朝鮮の連合軍が篭る南原城を総攻撃で陥落させる。北面から攻め入る。
159864”泗川の戦い”董一元が率いる明&朝鮮の連合軍20万を7千の兵で撃退する。
主君・豊臣秀吉が死去。
帰国命令が出る。泗川の倭城から軍を撤収。
”露梁海戦”明&朝鮮の連合軍に包囲さらた小西行長を救出する。立花親成(宗茂)らと水軍を率いて明水軍の副将・鄧子龍、朝鮮水軍の主将・李舜臣ほか複数の将官を戦死させる。
朝鮮国から帰国。
159965島津氏の次代をめぐって家中が分裂し、三男・忠恒が重臣・伊集院忠棟を惨殺。伊集院忠真が島津氏に叛く。武力衝突し抗争が大きくなる。徳川家康が仲裁に入る。【庄内の乱】
160066伊集院忠真の反乱軍が降伏する。
石田三成と大谷吉継が反徳川の挙兵。
山城国・伏見城に向かう。城番・鳥居元忠に入城を拒否される。
”関ヶ原の戦い”徳川家康との戦に西軍として参加。敗戦後、敵陣で孤立し敵中を突破して退却。【島津の退き口】
立花親成の助勢を得て九州に着く。
西軍に加担したことで兄・義久から桜島に蟄居を命じられる。
160268隠居、大隅国・加治木館を居城にする。
三男・島津忠恒が家督を相続。義久、義弘が後見になる。【三殿体制】
161985大隈国・加治木館で死去。
戦国時代で島津義弘が生きた期間の表
島津義弘の顔イラスト
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